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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編5(近・現代2) (本県スキーの父・油川貞策)

本県スキーの父・油川貞策 明治四十四年(一九一一)一月、新潟県高田師団で、オーストリアのレルヒ少佐が,から三週間の講習会に参加し、レルヒ少佐からスキー技術を学んだ第八師団の四人の将校の中に、大鰐町出身の油川貞策,大正十四年(一九二五)一月十四日に開催された、大鰐での初めての全国大会「第三回全日本スキー大会」に油川,当時、第三一連隊の中隊長だった油川は、「本日の演習は大鰐町あじゃら山方面」と号令をかけ、毎日のように演習,写真307 油川貞策 / 本県スキーの父・油川貞策
通史編2(近世1) (外浜の掌握と開発)

天正十三年(一五八五)、大浦為信は油川城(あぶらかわじょう)(現青森市)を攻撃し、外浜地域の掌握に着手,油川は、交通の大動脈である奥大道の終点であり、また、夷島(えぞがしま)への窓口となるような湊町でもあり,富裕商人たちが集住していたともいう(工藤弘樹「北の中世港湾都市油川とその時代」、『市史研究あおもり』三,寛永元年(一六二四)に青森が成立するまでの外浜支配は、油川を基点としてなされたようである。  ,、油川とともに城番が設置されており、大浦氏の外浜支配において重要な地であったようである。
通史編3(近世2) (円明寺)

円明寺 円明寺(えんみょうじ)は、明応八年(一四九九)、念西房宗慶が油川(現青森市)に創建した。,宗慶は源三位頼政の子孫で下間右近佐宗時といい、本願寺九世実如について出家し、辺境への布教に赴き、油川に,九世頼英は天正十三年(一五八五)、為信が油川城主奥瀬善九郎を攻撃する時に城下に火を放って味方し、落城に
通史編5(近・現代2) (弘前スキー倶楽部誕生と歴史)

スキー倶楽部発会式並創立総会は、既報の如く昨日午前九時より蔵主町公会堂に於て開催されたるが、出席者は、油川大尉,、工藤彌市、古山勝太郎、土田與惣市、岡田勇造、阿保省三、外崎日出城、其他会員三十余名にして、油川大尉開会,を報告したる後、三浦一三氏及び佐々木順威の祝詞演説あり、右を以て発会式を終了、直ちに創立総会に移り、油川大尉
通史編2(近世1) (陸上交通網の整備)

さかいのみょうじんどう)~大間越~深浦~鰺ヶ沢~十腰内(とこしない)~弘前~藤崎~浪岡~新城(しんじょう)~油川,①は当時の参勤交代路である西浜街道(鰺ヶ沢街道)と、羽州街道の弘前~油川間と、奥州街道の油川~狩場沢間,大道小道帳では磯辺道として鰺ヶ沢~十三~竜飛(たっぴ)~三厩(みんまや)~蓬田~油川が一本の道として扱,われているが、道程帳では鰺ヶ沢~小泊間と油川~竜飛間が浜道として二本に分けられて記載されている。,鰺ヶ沢~小泊間は十三街道、油川~蓬田~三厩間は蝦夷地へ渡る奥州街道の延長部(松前街道)として考えられるので
通史編2(近世1) (一里塚)

一里塚 「正保国絵図」の中で、一里塚の印が記載されている街道は、大道筋の西浜街道・羽州街道・奥州街道(油川,~狩場沢)と、松前街道(油川~三厩)、乳井通り、下之切通り、十三街道のみである。,羽州街道の場合は「大手町境御門より碇関峠御境迄(まで)道程絵図」と「東御門町境より新城村通油川村御札所,たとえば「東御門町境より新城村通油川村御札所迄道路絵図」では、弘前城下を出てから二つ目の一里(一里塚)
通史編1(古代・中世) (一六世紀の湊)

油川城跡では、浪岡城跡で出土したもの(写真171)と同類の棹秤(さおばかり)の錘(おもり)など、城館ながら,そのなかでも、拠点的湊と推定されるのが大浜(おおはま)(現在の青森市油川(あぶらかわ)周辺)である。,現在の海岸から一・五キロメートル内陸に位置する油川城の表採資料は、一六世紀を代表する陶磁器が多く、なかでも,寛永三年(一六二六)の青森派立(開港)に当たって、油川(大浜)の住人側は既存の権益が侵されることに対する
通史編1(古代・中世) (文献史料から見た戦国動乱の激化)

における奥大道(おくだいどう)の終点であり、なおかつ蝦夷島への出入り口で物資の重要な集散地であった外ヶ浜油川,為信によって攻撃された時の油川城の城主は奥瀬膳九郎(おくせぜんくろう)と伝えられている。,油川城は大きな曲輪がひとつ大きく作られ、それに付属するように小さな曲輪が二つ設けられるという構造を示している,この油川城がある油川を基点として津軽半島の突端に位置する三厩(みんまや)まで、仕置役による外ヶ浜支配がなされるという
通史編3(近世2) (法源寺)

法源寺 法源寺(ほうげんじ)は、文明十三年(一四八一)、敬了が油川(現青森市)に創建した。
通史編2(近世1) (民兵の登場)

藩では海岸を持つ油川両組(油川・後潟組)・浦町両組(浦町・横内組)・金木両組(金木組・金木新田)・広須両組,油川両組では二二〇人が二組に分けられる編成になっていた。
通史編3(近世2) (野本道玄)

道玄は水の良否をよく選別し、油川(現青森市)の水は京都宇治川の水より七分目軽い日本一の名水と評した(『,茶庭にも才を発揮し、青森油川の浄満寺、弘前の梅林寺、本行寺、貞昌寺、報恩寺の庭を造っており、三の丸庭園
資料編3(近世編2) (●円明寺 本堂 新寺町--県重宝)

●円明寺 本堂 新寺町--県重宝 明応八年(一四九九)に現在の青森市油川に創立されて、その後弘前へ移
通史編2(近世1) (青森町の成立と青森開港)

弘前藩は、中世以来の有力な湊町の油川(あぶらかわ)を都市建設の中核に設定せず、わざわざ善知鳥(うとう),また慶安二年(一六四九)の「津軽領分大道小道磯辺路并船路之帳」(資料近世1No.一〇四九)には、「油川,前述のように、青森に隣接する中世以来の有力な湊であった大浜=油川の存在が大きく、青森への商船集中を藩が,命じたとしても直ちに油川から青森へと転換するわけにはいかなかった。,、油川の経済的な地位は、この時期に至ってもなお衰えていなかった。  
通史編2(近世1) (負担の増大による民衆の困窮)

松前・蝦夷地への往来は原則として三厩(みんまや)(現東津軽郡三厩村)からであり、通行筋に当たる油川(あぶらかわ,油川・後潟両組の村々は、近年の蝦夷地警備にかかわって人馬を徴発されることが多い。,特に通り筋の油川(現青森市)から三厩までの村々は、そのために農作業もままならない状態であり、田畑も荒れ,そこで、油川村から増川村(現東津軽郡三厩村)までの年貢を、東蝦夷地が上知されている期間中だけでも一割減免
通史編1(古代・中世) (一 中世寺院の建立)

写真221 金光上人坐像  更に浄土宗に次ぐのが浄土真宗の寺院で、油川(あぶらかわ)(青森(あおもり,油川に明応八年(一四九九)、念西坊宗時によって建立された円明寺は、蓮如の命に基づきながらも、「夷浄願寺,その点、同じく油川に建立された法源寺も同列であり、蓮如の直弟子敬了が「夷浄願寺」で「仏教之真如を熟得」,この一五世紀の末葉の油川は、「日ノ本将軍」安藤氏の従前の拠点十三湊に代わって、奥大道の終着点であると同時,前の円明寺と法願寺のよる油川が当時の港湾都市であったと同様に、専徳寺と真教寺のたたずむ大浦(おおうら)
通史編3(近世2) (藩政前期為信)

また、同十三年外浜油川城攻撃に当たっては油川(あぶらかわ)の浄土真宗円明寺(えんみょうじ)の念西坊頼英
通史編2(近世1) (異国船打払令の発令と津軽弘前藩)

また高札を大間越から野内までの八浦、その外に金井ヶ沢・小泊・平舘・油川に立てることとし、作事奉行に命じて,立て札を作らせ、設置については八浦がそれぞれの町奉行、金井ヶ沢・小泊・平舘・油川については郡奉行が責任
通史編3(近世2) (屋根の材料)

幕末の天保期に入ると、天保元年(一八三〇)六月六日に油川(あぶらかわ)村(現青森市)の大火で六〇軒が全焼
通史編3(近世2) (慈雲院)

寛保三年(一七四三)には、油川村(現青森市)に布教の拠点として大円寺から満海庵を譲り受けた。
通史編2(近世1) (参勤交代路と街道の状況)

弘前~油川間では大釈迦(だいしゃか)から新城(しんじょう)間の津軽坂山中が二間で、三間のところもあるという,これに対して、弘前~油川間では、貞享四年(一六八七)の「道付」(国史津)に、藤崎の北、飯詰(いいづめ)
通史編5(近・現代2) ((五)野球)

長尾四球に出て、続く油川尽きぬ恨(うらみ)は二塁に残れども、氏が勇ましき戦死の偉功は葛西の生還によりて
通史編4(近・現代1) (通信関係)

には市外通話の範囲も広がり、大館(二〇銭)、小坂(二〇銭)、浅虫(二五銭)、久栗坂(二〇銭)、野内、油川等
通史編1(古代・中世) (津軽独立に向けて)

写真200 南部信直  さらに、天正十三年(一五八五)三月には外浜油川城を攻略し、それに続いて高田
通史編2(近世1) (旅行者のみた領内海防)

海砲台は大間越・金井沢(金井ヶ沢)・小泊・竜飛・三厩・平舘・大浜(油川)・青森・野内の九ヵ所にあると述,翌日青森をたち、油川村へと赴く途中、市街の外「北之出鼻」にあった台場を見分している。,村垣はこの日油川・奥内(おくない)・蟹田を通り平舘に宿泊、翌二十二日、平舘を出立して同所の陣屋と台場の
通史編2(近世1) (穀物の流通統制)

油川・藤崎・板柳・木造・深浦は二ヵ所、青森は三ヵ所置かれた。(「国日記」天保八年十二月十七日条)。,特に、「油川より上磯通野内より浅虫」は稗田も廃田が多く、売れるような米もない状態で、購入できなくても、
資料編1(考古編) (4.15世紀の様相)

伝山王坊跡・檀林寺跡・二ツ沼遺跡、小泊村弁天島遺跡、今別町大開城跡、中里町中里城跡、青森市尻八館遺跡・油川城跡
通史編3(近世2) (子供を池に投げ殺害)

いいづめ)・板屋野木〈板柳〉・木造(きづくり)・浅虫・黒石・金木(かなぎ)・五所川原(ごしょがわら)・油川
通史編2(近世1) (海防報告書にみる天保期の海防体制)

2 内真部浦番所 2 奥内村 1 油川浦番所,袰月鷹野崎台場 4 平舘浦番所 5 蟹 田 10 蟹田台場 1 3 油川浦番所,浅虫・黒石領田沢村(現同郡平内町)、浦番所が金井ヶ沢・小泊・平舘・内真部(うちまっぺ)(現青森市)・油川
通史編2(近世1) (災害の続発とその影響)

特に外浜の浦町・横内・油川の三組と新田地帯の被害が大きかった。,津軽半島,西海岸,外浜 死者48,流失・損壊78軒、田畑2100町歩損耗  7月16日 火災 油川,30余軒焼失 寛保3(1743)  4月14日 火災 油川 30軒焼失 延享元(1744)
通史編5(近・現代2) (第五十九銀行の復活)

経営陣刷新への取り組みであるが、休業間もない十一月三十日、樺太の泰北銀行に勤務した経験を持っている、油川町
通史編3(近世2) (江戸時代後期の建築)

円明寺(えんみょうじ)の本堂は、明応八年(一四九九)に油川(あぶらかわ)に創建されたものが弘前へ移されたといわれ
通史編3(近世2) (人家の火災)

文政6年3月29日条 銜煙管の禁止 文政6年2月26日 油川村明誓寺・代官役所・在家24軒焼失。  
資料編1(考古編) (〈1〉津軽地方の土師器と擦文土器)

〃 30 油川遺跡  〃 西田沢字浜田  〃 〃 10C後~11C 31 大平D地点遺跡 東通村尻屋字大平
通史編3(近世2) (織)

上磯(かみいそ)(現青森市油川から東津軽郡三厩(みんまや)村に至る陸奥湾沿いの地域)と下磯(しもいそ)
通史編1(古代・中世) (「津軽(郡)中名字」と浪岡北畠氏)

かんぶん)六年(一六六六)の年記をもつ熊野山十二所権現宮(くまのさんじゅうにしょごんげんぐう)(現青森市油川所在,この地は、鎌倉時代から戦国期にかけて夷島への渡海口として栄えた大浜(青森市油川)に隣接している。
資料編1(考古編) (第1節 中世・近世遺跡の概観)

12,15 陶磁器 30ほか 10 尻八館跡 青森市 14,15 陶磁器・銭貨・他 23ほか 11 油川城跡
資料編1(古代・中世編) (第二節 五輪塔)

きちない)・北中野など津軽平野東部の道筋に多く残り、その先は、鶴ヶ坂、大豆坂(まめさか)を越えて青森市油川
通史編2(近世1) (隠津出・抜け米の取り締まり)

青森の場合、安方町・新町(しんまち)・大野口・堤口・油川、弘前の場合、小栗山・取上(とりあげ)・堅田(
通史編1(古代・中世) (二 北奥宗教界を彩る中世的寺社)

円明寺 浄土真宗 東本願寺 明応八 (一四九九) 念西坊 油川 (青森市) 新寺町 念西坊の俗名,法源寺 浄土真宗 真教寺 文明十三 (一四八一) 敬了 油川 (青森市) 新寺町 天正十年(一五八二
通史編4(近・現代1) (弘前地方米穀商組合の活動)

なお、明治十九年に設置された米商組合は津軽五郡を区域とし、輸出米の改良を目的として、青森、鰺ヶ沢、油川
通史編2(近世1) (飢饉に至るまでの経緯)

九月十六日の郡奉行の作柄の調査では飯詰・金木・俵元(たわらもと)新田・広須(ひろす)・木造新田・油川・
通史編2(近世1) (土着対象地と在宅分布)

#160; 0  広須 0  0  木造 0  0  油川
通史編3(近世2) (松前方面の攻防と青森)

したがって、弘前藩では、旧幕府軍艦隊の襲撃を恐れ、油川へ陣を置くとともに北方の警備強化を各湊へ通達した
通史編4(近・現代1) (第三一連隊の壮挙とその後)

友安旅団長と福嶋大尉  最初三十一聯隊雪中行軍隊の行軍予定は、青森より油川を経て梵珠岳を横断し、夫れより
通史編2(近世1) (城破(わ)り)

このうち、為信の代に征伐の対象となったのが、大光寺・浪岡・浅瀬石(あせいし)・田舎館(いなかだて)・油川
通史編3(近世2) (出開帳)

油川村(現青森市)明誓寺と正覚寺が、嘉永六年(一八五三)、九条家の役人笹将監僧正を宿泊させ、持参の宝物
通史編2(近世1) (異国船の領内来航)

たまたま三厩勤番に赴く途中の隊が油川にあり、袰月に急行した。
通史編1(古代・中世) (堀越城と城下町)

羽州街道」と呼ばれるもので、県内では碇ヶ関-堀越-弘前-藤崎-浪岡-新城(しんじょう)から奥州街道の油川
資料編1(考古編) (〈注一覧…第4章〉)

浪岡町教育委員会 『昭和56年度浪岡城跡発掘調査報告書 浪岡城跡Ⅴ』 1983年 36) 中村和彦 「青森市油川城跡,・高橋潤 『唐牛城(1)』(大鰐町文化財調査報告書第2集) 1986年 *28 中村和彦 「青森市油川城跡
通史編3(近世2) (松前徳広の領内落去)

図68.松前城  松前藩一行が油川(あぶらかわ)・浪岡・藤崎などを通り、ようやく弘前の薬王院(やくおういん
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