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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) (津梁院)

津梁院 常福寺本祐は、藩の所有する上野の菜園に隠居所を建て、信枚の法号により津梁院(天台宗、現東京都台東区,を常福寺から改葬した(篠村正雄「浅草常福寺口上書と御屋舗江常福寺御由緒略覚」『市史ひろさき』三、同「津梁院境内廟所図,これより江戸における菩提寺は津梁院になり、藩主・正室は一〇代信順の正室を除いてここに葬られた。,図207.津梁院 図208.津梁院にある信枚墓所 / 津梁院
通史編3(近世2) (報恩寺)

天海に帰依して天台宗に改宗した信枚は、寛永八年(一六三一)に江戸で死去すると常福寺に葬られ、後に津梁院,しかし、「津軽一統志」は直ちに津梁院へ葬ったとし、「津軽徧覧日記」(同前No.五〇七)は、火葬にして遺骨,は津梁院と長勝寺へ埋葬したとする。  ,信政は、父信義が明暦元年(一六五五)江戸で死去すると津梁院に葬った。
通史編3(近世2) ((一)藩主家の菩提寺)

革秀寺津軽為信霊屋  信枚は天海僧正に帰依し、江戸では天台宗常福寺を菩提寺として埋葬されたが、後に創建される津梁院,三代藩主信義は江戸で死去すると津梁院に埋葬されたが、国元では、四代藩主信政が新しく天台宗報恩寺を創建して,この様子をみて、報恩寺亮運は長勝寺呂山と論争し、遂に津梁院へ訴え、本寺寛永寺の権威により改葬することになった
通史編3(近世2) (常福寺)

信枚が江戸で死去すると、本祐が導師となって常福寺へ葬られたが、後に信政の時に津梁院へ改葬された。
通史編3(近世2) (信枚)

この年、信枚は天海に帰依し、天台円頓戒(えんとんかい)の血脈を授けられ、天海の一字を得て津梁院殿寛海(
通史編3(近世2) (薬王院)

報恩寺信枚が天海に帰依したことから、藩主家は江戸の菩提寺を天台宗津梁院・常福寺としてきた。,このため、六代信著が遺言で長勝寺に埋葬されると、両寺が対立し、報恩寺が津梁院を通じて寛永寺に訴え、その
通史編3(近世2) (稲荷宮)

一六五七)の江戸大火の時、和徳稲荷と名のる老人の道案内で柳原中屋敷へ避難したところから、これを信仰し、津梁院
通史編3(近世2) (協力機関および協力者一覧(機関・個人順、五十音順))

市立函館博物館五稜郭分館 白石市総務部振興課 真教寺(青森県弘前市) 新寺町稲荷神社(青森県弘前市) 津梁院
通史編3(近世2) (信政)

信政はすぐに国元の和徳稲荷宮へ代参を遣わし、津梁院境内に和徳稲荷を祀らせた。
通史編2(近世1) (飢饉への対応)

ほかに津梁院の仲介で閑院宮から九〇〇〇両、伊奈半左衛門から三〇〇〇両の援助があったという(『天明卯辰日記
通史編3(近世2) (災害と生活)

この大火により、津梁院(しんりょういん)(藩主家の菩提寺)へ近火見舞のため物頭格(ものがしらかく)の藤岡三左衛門
通史編3(近世2) (出開帳)

寛延元年(一七四八)、善光寺如来開帳のことが、寛永寺門主から江戸の津軽家の菩提寺津梁院(しんりょういん
通史編3(近世2) (掲載図版・写真の典拠・所蔵一覧)

204 弘前市 革秀寺 205 弘前市 長勝寺 206 東京都台東区 常福寺 207 東京都台東区 津梁院
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