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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) (津軽と「津軽塗」)

津軽と「津軽塗」 津軽地方で塗られた漆工品は、いま産地名を冠して「津軽塗」と総称されている。,など津軽弘前藩の史料では「御国塗」と呼ばれたほか京都の「近衛家雑事日記」元文五年(一七四〇)五月九日条,、文化元年(一八〇四)十一月十四日条には、「弘前塗」と書かれ、「弘前塗」とか「津軽塗」とは、単に漆器の,その一方津軽においては、「朱塗」、「黒塗」、「春慶塗」、「蒔絵」、「唐塗」、「霜降塗(しもふりぬり)」,この中に津軽塗の項があり、このころから津軽においても、津軽で塗られた漆器類を単に「津軽塗」と呼ぶようになった / 津軽と「津軽塗」
通史編5(近・現代2) (津軽塗)

津軽塗 弘前市の名産として有名な津軽塗は、四代藩主津軽信政が奨励して以来、代々の藩主によって名産の育成,当時はまだ「津軽塗」という名称ではなく、「韓塗」と呼んでいた。,そして、明治十四年二月、弘前漆器授産会社が第二回内国勧業博覧会に津軽漆器を出品する際に「津軽塗」という,津軽塗は明治中期になると、高級品はもとより、一般大衆向けの製品も現れてくる。,、津軽塗漆器工業の発展が阻害されるのである。 / 津軽塗
通史編1(自然・原始) (津軽山地)

津軽山地 津軽半島は北が津軽海峡、西が日本海、東が陸奥湾と三方が海に面し、南西方には岩木火山が位置している,半島脊梁(せきりょう)部にはほぼ南北に縦走する津軽山地(中山(なかやま)山脈ともいう)があって、西側に,津軽平野、東側には青森平野が位置している(図2)。,図2 津軽半島の地形分類図(青森県,1970より部分掲載)  津軽山地は、東北地方の中央部を南北 / 津軽山地
通史編1(自然・原始) (津軽平野)

津軽平野 東方の津軽山地と、西方の岩木火山および屏風山との間には、きわめて低平な津軽平野が東西五~一六 / 津軽平野
通史編5(近・現代2) (津軽神楽)

津軽神楽 神職だけで演じる神楽であり、藩でも重んじ、人々も尊重してきた。  ,表64 津軽神楽の演目 曲名 現行 神楽輯録 御遺鑑 奥富士物 語御神式 1 神入舞 ○ ○ ○ ×,津軽神楽は、正徳四年七月二十一日に行われた高照神社の大祭に奉納されたのが初演である。,それが成立した年月、経緯、継承の歴史、伝承演目など、現代に至る変遷は津軽神楽保存会による小冊子『津軽神楽 / 津軽神楽
通史編1(古代・中世) (津軽安藤氏)

津軽安藤氏 こうした境界の地の支配者を代表するものが、津軽安藤氏である。,北条得宗領の最重要拠点の一つであった津軽地方の地頭代官は、これまで見てきたような有力御家人の一族と目される,人々が大半であったが、そうしたなかで津軽安藤氏は、例外的に津軽生え抜きの武士から地頭代官に抜擢された一族,津軽安藤氏の存在は、かつて「青森県中世史上の惑星」と評されるなど(その後裔安東愛季は、京都妙心寺の僧から,に残るその痕跡や、安藤氏の周辺をも含めた新たなる史料の発掘を押し進めて、従来の研究の限界を打ち破り、津軽安藤氏 / 津軽安藤氏
通史編5(近・現代2) (津軽藩踏水会)

津軽藩踏水会 弘前市のスポーツ団体に、津軽十万石の古式泳法の伝統を伝える「津軽藩踏水会」がある。,津軽藩時代の泳法は武芸であったため明治以降絶え、その内容・流派は不明であった。,特に一二代藩主津軽承昭(つぐあきら)はしばしば水練を見学、脱衣場や西洋型のボートまで作らせた。,津軽承昭は、熊本藩主細川斉護(なりもり)四男で、津軽一一代藩主順承(ゆきつぐ)の婿養子だった。,津軽藩踏水会の会旗は津軽家の定紋の牡丹(ぼたん)である。 写真315 津軽藩踏水会 / 津軽藩踏水会
通史編2(近世1) (七 津軽一統志)

七 津軽一統志 津軽為信の津軽統一を中心として編さんした官撰史書。,同年十月に家老津軽校尉(こうい)の名で領内に資料収集の協力を求める触れが出され、同十六年五月に完成した,津軽家始祖の光信(みつのぶ)の事績に始まり、為信の独立、四代信政までの歴代藩主の事績、寛文蝦夷蜂起事件 / 七 津軽一統志
通史編1(古代・中世) (津軽への注目)

津軽への注目 そうしたなかにあって、ここでもやはり津軽の動向が、乱の行方を決定づけるものとして注視されていた,『日本三代実録』には、「津軽が賊に同ずれば、大兵といえども制し難い」「津軽の夷俘はその党種多く、幾千人,実際には津軽の蝦夷たちは分裂していたらしく、ある者は賊に味方して乱を拡大するのに大きな力となった。,しかし逆に津軽蝦夷のなかにも三〇〇〇人の渡嶋の蝦夷とともに出羽国の官軍に味方する者があり、その勢力が「,中央政府に抵抗しようとはしない、政治的に未熟な蝦夷集団を討つ、征夷戦の常道であったが、今回も官軍に協力した津軽 / 津軽への注目
通史編3(近世2) (津軽永孚)

津軽永孚 津軽永孚(一七七三~一八二八)は家老津軽多膳の子で、幼年より漢学を山崎図書(蘭洲)に従って,津軽永孚、山崎図書以下の学校御用懸は昌平坂学問所や熊本藩校時習館(じしゅうかん)を範とし、図面や資料を / 津軽永孚
通史編5(近・現代2) (津軽三味線)

津軽三味線 三味線は貧しい人々には、入手するのが困難であり、民謡に伴奏として用いるものも少なかったと,貧困、門付けなどの生活境遇から津軽三味線の特異性をその人々に引き寄せて語られることが多い。,ボサマといわれた者の何人かが、津軽三味線を洗練させ、様式が確立され、継承される過程で一定の役割を演じたと,山田千里(やまだちさと)(昭和六-平成一六 一九三一-二〇〇四)、長谷川祐二(はせがわゆうじ)などが「津軽三味線協議会,吉田兄弟もジュニア部門での入賞者である(なお、津軽三味線全国大会は金木町でも行われている)。 / 津軽三味線
通史編1(古代・中世) (一 十三湊と津軽)

一 十三湊と津軽 津軽地域と他地域との交易を考えるとき、物資の窓口として十三湊(とさみなと)は特筆すべき,津軽平野部を流れる岩木川(いわきがわ)をはじめ平川(ひらかわ)・浅瀬石川(あせいしがわ)・十川(とがわ,はすべて十三湖(じゅうさんこ)に流れ込み、これらの河川を利用した水運を想定するとき、十三の地はまさに津軽 / 一 十三湊と津軽
通史編1(自然・原始) (四 津軽の四季)

四 津軽の四季 図65は、青森市における気温・日照時間・降水量の変化や季節変化の様子を示したものである,この図を参考にしながら、津軽地方の四季の気象変化と災害からみた特徴をたどってみることにする。 / 四 津軽の四季
通史編4(近・現代1) (中津軽郡会)

中津軽郡会 明治二十四年四月一日から青森県に郡制が施(し)かれた。郡制により郡会が発足した。,中津軽郡は定員一六人で、弘前市域関係は次のとおりである。,      清水村 三浦大吉 新和村 小山内小三郎     藤代村 不詳 石川村 成田多佐久(南津軽郡,和徳村  福士音太郎(憲政)  堀越村 工藤長左衛門(憲政) 清水村  今八太郎(中立) 南津軽郡石川村 / 中津軽郡会
資料編3(近世編2) (三 工芸・津軽塗)

三 工芸・津軽塗 (一)塗物の生産と技術 (二)進物・献上品としての津軽塗 (三)塗師 / 三 工芸・津軽塗
通史編1(古代・中世) (渡嶋津軽津司)

渡嶋津軽津司 以上見てきたように、太平洋側でも日本海側でも、徐々に律令国家の力は北へ北へと浸透していったわけであるが,県下の地名がみえるものとしては、『続日本紀』養老四年(七二〇)正月丙子条の、「渡嶋津軽津司従七位上諸君鞍男,写真40『続日本紀』養老4年正月条 8世紀において「津軽」の文字がみえる数少ない史料。  ,またそもそも「渡嶋津軽津司」の訓(よ)みも諸説ある。,津軽地方に置かれていた可能性は薄いものと思われる。 / 渡嶋津軽津司
通史編3(近世2) (津軽国学社中)

津軽国学社中 幕末期の弘前では、神官層とはまた別に、比較的富裕な町人層を中心に平田派国学の積極的な受容,この津軽国学社中と称してもよいような知的サークルの中で、中心的役割を果たしたのが鶴舎有節(一八〇八~一八七一,鶴舎(本名武田乙吉)は鶴屋宇兵衛の次男で、幼年より富豪伊香八太郎の家に奉公し、毎夜、津軽俳壇の重鎮であった,草坡は津軽における「古道学」唱道の嚆矢であったという(「三谷句仏筆記」『伝類』)。 / 津軽国学社中
通史編2(近世1) (津軽氏の鷹保護)

津軽氏の鷹保護 鷹巣の保護については、豊臣政権は既に天正十四(一五八六)・十五年に、いわゆる九州平定,さて天正十九年(一五九一)十二月十日と推定される豊臣秀吉朱印状(資料近世1No.四二)は、津軽為信の領地,このように豊臣政権が津軽地方の鷹保護を為信に厳命したのは、津軽地方がただ単純に鷹の産地だという理由からなのではない,したがって津軽の「御鷹」は、同領内で手厚く保護され、その上で献上道中を組んで日本海沿岸の大名領を経由して,九州と同様、奥羽日の本仕置によって、豊臣政権による奥羽地方の支配統制の確立と、津軽地方における名鷹の独占 / 津軽氏の鷹保護
通史編1(古代・中世) (津軽の唐糸伝説)

津軽の唐糸伝説 東北全体に視野を広げると、右の二つの類話と見なされる廻国伝説が広く存在することが知られている,よく似た類話は『津軽一統志』首巻にもみえる(史料一一三七・写真106)。,写真105 毘沙門天立像 写真106 『津軽一統志』唐糸前 五代執権北条時頼の寵愛の妃,やがて、名を最明寺道崇と名を改めて諸国修行の旅に出た時頼が、津軽にもやってきたとの噂を唐糸は耳にする。,また唐糸ゆかりの寺が実際に津軽の地にあったことは、やはり室町時代初期の古文書「そへ置文」(史料七三四) / 津軽の唐糸伝説
通史編1(古代・中世) (津軽曽我氏の滅亡)

津軽曽我氏の滅亡 観応元年(正平五年、一三五〇)十一月、足利尊氏との確執から弟直義(ただよし)が南朝,しかし南部氏自体はその勢力を保ち、詳細は不明であるが曽我氏をはじめとした津軽方面の豪族を滅ぼして、津軽地方,にまでその支配を拡大していき、やがて津軽地方をも制覇することとなった。  ,ただ本来、津軽曽我氏に伝来しているはずの所領や軍忠関係をはじめとしたさまざまな古文書が、現在は遠野南部家文書 / 津軽曽我氏の滅亡
通史編2(近世1) (津軽領の知行制)

津軽領の知行制 いわゆる「地方(じかた)知行制」とは主として中・上層藩士に個別の知行地が設定され、年貢,しかし、津軽領の場合、藩が藩士への俸禄の支給を一括して管理する「蔵米制」への移行が進み、貞享二年(一六八五,たとえば一五〇〇石を給された大身の家老、津軽百助(ももすけ)の場合、宝暦十年(一七六〇)の段階では知行地,は実に九七ヵ村にわたり、津軽領の穀倉地帯である現在の南津軽郡域をはじめ、新田地方、外浜とほぼ藩全域に分散 / 津軽領の知行制
通史編2(近世1) (一二 津軽歴代記類)

一二 津軽歴代記類 明治政府が興した修史事業により、藤田貞元・兼松成言・樋口建良・下沢保躬(しもさわやすみ,)等が領内から収集した資料を明治十年(一八七七)にまとめた「津軽旧記類」のうち、藩主を主としたものを「,津軽歴代記類」という。 / 一二 津軽歴代記類
通史編1(古代・中世) (津軽平賀郡への入部)

津軽平賀郡への入部 曽我氏が津軽における拠点としたのが、中世の津軽三(四)郡の内の津軽平賀郡である。,岩木川上流を中心とした津軽平野の一部を形成する肥沃な水田地帯は、津軽地方でも早くから開けた場所であったと,また秋田の比内から津軽に入る奥大道のルート上にあり、津軽平野の咽喉(のど)を押さえる交通の要衝でもあった,本節二でみたように、奥州合戦ののちに、津軽に入った御家人宇佐美(大見)平次実政が、その拠点を津軽平賀郡,これが曽我氏が津軽に地頭代職を得た最初なのか、あるいはそれ以前からすでに得ていたのかについては定かでない / 津軽平賀郡への入部
通史編5(近・現代2) (津軽の精神風土を追究)

津軽の精神風土を追究 長部日出雄(昭和九- 一九三四- 弘前市)は郷土を見詰めながら、津軽の精神風土,四十八年(一九七三)「津軽世去れ節」「津軽じょんから節」で直木賞受賞(資料近・現代2No.六七五)。,これらの受賞作品の舞台は、すべて津軽である。だから、長部日出雄は津軽の文学の集大成者と言える。  ,この映画は直木賞受賞作の「津軽じょんから節」をもとに、新たに書き下ろした作品だが、津軽三味線や津軽の美,これほど津軽の風土、棟方志功や太宰治をはじめとする津軽の文学者を、つまり、小説やエッセイ、そして映画で / 津軽の精神風土を追究
通史編2(近世1) (津軽信枚の越後転封)

一方、六月八日付けの憲忠宛て義宣の書状は、福島正則の津軽への国替と、津軽信枚への国替通知がないことを伝,それによれば、津軽を請け取り、福島正則に渡し、百姓等にも津軽は福島正則の領地に遣わされたので、そのことをよく,津軽はあまりに遠いということで中止になり、酒井忠勝・牧野忠成両人の領地近所に、「津軽之高四万五千石」を,津軽弘前藩の国替がなくなったため、秋田藩が領内で津軽家の越後国替に使用させるために準備した馬と舟は、帰京,・舟を島田直時へ使用させる指示,福島正則の津軽転封中止を知る 福島正則の津軽転封中止 2 福島正則 / 津軽信枚の越後転封
通史編1(自然・原始) (津軽平野深部の地質)

津軽平野深部の地質 津軽平野南部の深度四〇〇メートルから一〇〇〇メートルに分布する地質は、掘さく深度,① 津軽平野南部地域の深部地質は、津軽平野中央断層(仮称)を境に東西で異なった岩相層序からなる。,② 津軽平野中央断層の東側の地質系統は、温泉水を含む地下水系を強く反映したものである。,③ 津軽平野中央断層の東側は、平賀町から黒石市の丘陵・山地に分布する新第三系中新統の板留層と温湯層相当層,④ 津軽平野中央断層の西側は、おもに弘前市南部の山地に分布する新第三系中新統の大和沢層・松木平層・大秋層相当層 / 津軽平野深部の地質
通史編2(近世1) (黒石津軽家の大名昇格)

黒石津軽家の大名昇格 文化六年(一八〇九)四月、本家が一〇万石になって三ヵ月後、幕臣で四〇〇〇石の黒石津軽家,は、本家弘前津軽家の強力な運動によって、一万石に高直しされ、大名に昇格した。,黒石津軽氏は、明暦二年(一六五六)二月、四代藩主津軽信政の叔父である信英(のぶふさ)が、五〇〇〇石をもって,を勤めている分家の黒石津軽家も、由緒深い家柄である。,こうして、津軽黒石藩は、廃藩に至るまで存続した。 / 黒石津軽家の大名昇格
通史編2(近世1) (関ヶ原の戦いと津軽氏)

関ヶ原の戦いと津軽氏 この慶長五・六年の動乱に際して、津軽氏はどのような動きをとったのだろうか。,津軽家の官撰史書である「津軽一統志」からこの動乱時の動向を拾ってみれば、為信出陣、尾崎喜蔵・板垣兵部・,)に描かれた幟(のぼり)の図柄から、津軽氏が関ヶ原へ参陣したという見方がある。,この屏風絵は、津軽家が所蔵していたことから通称「津軽屏風」と称される(以後、「津軽屏風」と略記)。,図45.津軽屏風に描かれた卍幟 図46.諸将旌旗図屏風にみえる津軽家(左)と蜂須賀家(右)の / 関ヶ原の戦いと津軽氏
通史編1(自然・原始) (津軽平野中央断層)

津軽平野中央断層 津軽平野中央断層(仮称)は、温泉掘さく深度と泉質組成分布から推定されるもので、弘前市新里,本断層の北延長部には一七六六年(明和三年)に発生した津軽地震(明和の大地震、マグニチュード七以上)の震源域 / 津軽平野中央断層
通史編2(近世1) (津軽領内のアイヌ民族)

津軽領内のアイヌ民族 津軽弘前藩が江戸幕府の命令によって提出した「正保国絵図」の下図を貞享二年(一六八五,)三月に写した「陸奥国津軽郡中絵図」(青森県立郷土館蔵)のうち、津軽半島・夏泊半島には、「犾村(えぞむら,津軽半島では、今別(いまべつ)村(現東津軽郡今別町)と、野田(のだ)村(現青森市)から小泊(こどまり),村(現北津軽郡小泊村)に至る津軽海峡に面した地域に、また夏泊半島では、田沢(たざわ)村から茂浦村(いずれも,「陸奥国津軽郡中絵図」津軽半島の犾村 表17 津軽領内のアイヌ 村  名 軒数(軒) うた村 / 津軽領内のアイヌ民族
通史編2(近世1) (「津軽一統志」の編纂)

「津軽一統志」の編纂 享保十二年(一七二七)、五代藩主津軽信寿は、家老津軽(喜多村(きたむら))政方,また、史書の編纂の意図・方針として、為信以前の津軽の歴史についても対象とし、それを受けて為信の津軽平定,これが「津軽一統志」(以下「一統志」と略記)である。,その構成は、津軽の風土、産貢から書き出し、津軽家による草創・征功を記した後に、士臣の忠否・伝記や伝承を,首巻に地誌を置き、陸奥国、岩木山、津軽地方の名所旧跡について記し、以下、巻一から巻九までに津軽家始祖の / 「津軽一統志」の編纂
通史編1(古代・中世) (安藤愛季の津軽侵略)

安藤愛季の津軽侵略 安藤愛季(写真199)は、天文八年(一五三九)に出羽国檜山城主下国舜季(しものくにきよすえ,これより以前の永禄十三年(一五六九)三月十五日、「津軽之南部弥左衛門」が上洛して山科言継を訪問しているが,愛季の家臣であるにもかかわらず、「津軽之南部」を名乗って上洛させたのは、山科家と浪岡北畠氏との関係から,翌年にも愛季は津軽に出陣するが、ついに浪岡城の回復は成功できなかった。  ,愛季の津軽侵攻後、天正十年(一五八二)、三戸南部家継承を実現した信直は、弟政信を浪岡城に入部させて津軽郡代 / 安藤愛季の津軽侵略
通史編1(古代・中世) (津軽(郡)中名字の世界)

津軽(郡)中名字の世界 一方、『津軽一統志』に付された、地元の地誌として著名な「津軽(郡)中名字(なあざ,写真102 東京国立博物館本『津軽一統志』附巻  しかし外三郡の郡名については、同時代史料である,中世の古文書類に一切登場せず、津軽地方は「津軽四郡」ないし「津軽三郡」(山辺郡を除く)と総称されるのが,また京役を、京都の権門貴族などの荘園領主への負担とする俗説もあるが、津軽が権門の荘園であったとの明証はまったくない,こうしたことから、著名な「津軽(郡)中名字」は、中世の津軽の状況を正確に伝えているとは考え難い。 / 津軽(郡)中名字の世界
通史編1(古代・中世) (津軽独立に向けて)

津軽独立に向けて 天正十一年(一五八三)、安藤愛季は由利郡に侵攻してきた庄内の大宝寺氏を出羽郡由利郡,は、愛季との戦いのあと、いったんはその勢力を後退させたものの、天正十一年以降再びその勢力を伸張させ、津軽地方,は「津軽独立」に向けて動き出すことになる。,したがって「津軽独立」は豊臣政権とのかかわりのなかでその実現を目指すことになったのである。 / 津軽独立に向けて
通史編1(古代・中世) (津軽曽我氏の出自)

津軽曽我氏の出自 平賀郡を中心に活躍した津軽の中世武士としてよく知られているのが曽我氏である。,この津軽の曽我氏が、治承四年(一一八〇)の源頼朝挙兵による石橋山(いしばしやま)合戦に際して、頼朝に敵対 / 津軽曽我氏の出自
通史編1(自然・原始) (津軽地域の気温と特徴)

津軽地域の気温と特徴 地上気温は、生活環境に適応して、地表付近の高さによる温度傾度の小さくなる地上一,津軽地域の平均的な日較差は、平均値で一〇℃前後、毎日値では〇~二〇℃と振幅が大きく変化している。,津軽地域の青森・深浦・弘前および太平洋側の八戸・むつのアメダス観測点相互の月別気温の比較から、同じ津軽地域内,または津軽地域と東部地域(太平洋側)との気温特性をまとめると次のようになる(表15)。,この気温差に八甲田山地や津軽半島山地による衝立(ついたて)効果が現われている。 / 津軽地域の気温と特徴
通史編1(古代・中世) (延久蝦夷合戦と津軽)

延久蝦夷合戦と津軽 この乳井から大鰐にかけての南津軽地方は、中世前期において津軽全体の政治的・文化的中心,をなしていたと推測されており、福王寺以外にも、後白河上皇の創建と伝えられ「津軽国分寺」の伝承(史料五二二,写真75 高伯寺跡(大鰐町)  とはいえ、延久合戦後の津軽・比内・鹿角・糠部など、北緯四〇度以北,南の「奥六郡」から津軽平野へ通じる「回廊」地帯であったともいえる鹿角盆地や南津軽の平川河谷地帯には、深 / 延久蝦夷合戦と津軽
通史編1(古代・中世) (「津軽」の地の独自性)

「津軽」の地の独自性 先にも触れたが、斉明天皇五年(六五九)の遣唐使の記録である『伊吉連博徳書』によれば,最遠方の都加留=津軽が、なお抵抗をやめない麁蝦夷たちのさらに北方に存在して、区別されているところが面白,津軽の名は、早くから中央の大和の人々に親しまれていたのである。  ,こうした津軽の特殊性は、のちのちまで生き続けていた。,津軽は古代を通じて、蝦夷のなかでもさらに特別な世界であった。 / 「津軽」の地の独自性
通史編5(近・現代2) (用の美と津軽民芸)

用の美と津軽民芸 民芸運動で昭和四十五年県文化賞を受賞した相馬貞三(そうまていぞう)は、昭和二年に柳宗悦,ひしざし)、凧絵(たこえ)、アケビ蔓(づる)や根曲がり竹細工、伊達(だて)げら、ネプタ絵、玩具など、津軽,の庶民が生んだ「用の美」を再評価し、作り手の育成と津軽ガラス器の誕生に協力、『みちのく民芸』を発行して,イギリスの陶芸家バーナード・リーチとの親交で、津軽の民芸品は欧米にも紹介された。 / 用の美と津軽民芸
通史編2(近世1) (浅利騒動と津軽氏)

浅利騒動と津軽氏 文禄三年、秋田方は比内の浅利領へ兵を進め、物成の差し押さえを行い、さらに岩脇村(いわわきむら,また八月二十二日付書状では、比内浅利氏より檜山の実季へ戦闘をしかけたが、津軽方より浅利氏を支援することになり,、そのため浅利氏は津軽為信を後ろ盾にしている。,図36.津軽氏の浅利氏擁護を示す南部信直書状案  この文禄四年の戦闘において頼平が頼みとしたのは,、浅利勝頼の謀殺後、頼平が身を寄せていた津軽為信であった。 / 浅利騒動と津軽氏
通史編1(古代・中世) (下総葛西氏と津軽葛西氏)

下総葛西氏と津軽葛西氏 葛西氏は、武蔵国豊島郡を本拠とした豊島氏の一族である。,その子孫が、のちに津軽地方にも広く分布することとなった。,弘前藩家臣中にも葛西家がいくつかあるが、津軽の葛西氏についての確実な最古の史料は、永正二・三年(一五〇,木庭袋氏は『前代歴譜』『新羅之記録』『津軽一統志』などにも散見し、津軽には広く根を下ろしていたらしい。,その津軽入り当初の拠点は大光寺城あたりといわれているが、時期も含めて史料的には確認できない。 / 下総葛西氏と津軽葛西氏
通史編2(近世1) (「分領」と津軽弘前藩)

「分領」と津軽弘前藩 安政六年九月二十七日、津軽弘前藩主津軽承烈(つぐてる)(後の承昭(つぐあきら),、一八三四~一九一六)の名代として江戸城に登城した津軽黒石藩主津軽承叙(つぐみち)に対して、幕府は蝦夷地,津軽弘前藩と盛岡藩に対しては、警衛の持ち場は従来どおりとし、さらに陣屋のある場所において、それ相応の「,同じ日に、盛岡藩主南部利剛(としひさ)の名代盛岡新田藩主南部信誉(のぶのり)にも津軽家と同内容の達しがあり,達しのいうところを理解しかねた津軽家では、達しが出された翌日、津軽家の「御用頼」である幕府奥右筆(おくゆうひつ / 「分領」と津軽弘前藩
通史編1(古代・中世) (津軽惣地頭宇佐美実政)

津軽惣地頭宇佐美実政 こうして平泉藤原氏の滅亡後の体制整備が進むなか、本州の最北辺にして海運上の要衝,でもある津軽地方の鼻和・平賀・田舎三郡(津軽地方の中世の郡制については、次項で詳述する)には、奥州合戦,なおこの実政については、平賀郡大光寺あたりにあって、「津軽奉行」の任にあったともいわれているが、この説 / 津軽惣地頭宇佐美実政
通史編1(古代・中世) (鎌倉幕府滅亡と津軽曽我氏)

鎌倉幕府滅亡と津軽曽我氏 元弘三年(一三三三)閏二月の後醍醐天皇の隠岐脱出に始まり、同年五月の足利尊氏,こうした鎌倉幕府末期の一連の戦乱から、続く南北朝の動乱に至るまで、この津軽の地でも、そうした中央の政情激変,の一端を担う戦乱が続くことになり、津軽曽我氏をはじめとする津軽在住の武士たちも、いやおうなくその渦中に,図41 南北朝期における津軽の楯  津軽曽我氏の嫡流である光頼(光称(こうしょう))・光高(のちの,後醍醐方では、同年九月には津軽四郡の検注を工藤貞景(さだかげ)に命じ(史料六二九)、津軽地方の支配固めに / 鎌倉幕府滅亡と津軽曽我氏
通史編4(近・現代1) (津軽産業会の活動)

津軽産業会の活動 明治期の弘前市産業界をリードした津軽産業会の成立期以来の活動について、同会の理事として,活動した成田果が沿革誌をまとめているので、これによってその内容を振り返っておきたい(成田果『津軽産業会沿革,化育社が津軽産業会として活動するまでの経緯は既に見た(本書第一章第三節)。,なお、明治三十二年(一八九九)時点での津軽産業会の定款と役員は次のとおりである。    ,『津軽産業会報』は翌年一月に次のように論じている。 / 津軽産業会の活動
通史編2(近世1) (「津軽一統志」の編纂まで)

「津軽一統志」の編纂まで 「津軽一統志」を編纂する以前に、津軽弘前藩が自藩の歴史を編纂することに対して,二代藩主津軽信枚(のぶひら)は古記の収集・筆写に力を入れていたといわれるが、焼失した文書類もこれらの作業,信枚に次いで歴史編纂に意欲を燃やしたのが四代藩主津軽信政である。,その内容は藩祖為信の誕生から津軽信義の入部までを記し、また「東日流記後録」には、岩木山や津軽家の先祖に,これらの出来事から、信政の史料収集の意図は、第一に中世津軽地方の歴史、第二に為信による津軽統一の軌跡を / 「津軽一統志」の編纂まで
通史編5(近・現代2) (一 津軽のナショナリズム)

一 津軽のナショナリズム 津軽之頌(しょう)           相馬貞三  西つ方  秀でたる,我等為すべく立ちあがりぬ  見よ、朝の日上れば  この山越え  夕日射刺せば  この山燃ゆ  津軽 / 一 津軽のナショナリズム
通史編1(古代・中世) (二 津軽の修験道と神社)

二 津軽の修験道と神社 一般に修験道とは、宗教現象的には原始的な山岳信仰に真言密教的な信仰が合体した,因(ちな)みにいえば、南部領に本山派が多く、津軽領に当山派が多いのは、地域的な特性を考える上で興味深い,古代の坂上田村麻呂に開基伝承を持つ津軽地域の神社の多くは、その当初、天台系密教(台密)を基調とし、鎌倉時代,とすれば、津軽地域における中世の修験道世界とは、まさしく、鎌倉幕府の「禅密主義」の宗教政策の延長上に花開,羽黒修験をベースに始まった津軽の当山派に連なる熊野修験の世界は、「蝦夷管領」から「日ノ本将軍」に名を替 / 二 津軽の修験道と神社
通史編2(近世1) (津軽家の自己認識確立への試み)

津軽家の自己認識確立への試み 津軽家がどのように興り、またどのようにして津軽を統一していったのか、さらに,津軽為信という実在した人物の業績さえ、津軽側の史料と南部側の史料の食い違いという実例からもわかるように,津軽信政の弟である可足権僧正(かそくごんのそうじょう)が津軽家に伝わる「御家古代ノ事実ヲ略記」した「可足権僧正筆記,また津軽信政の自筆による「津軽家譜草案」(弘図古)の系図では、始祖を金沢家光(かなざわいえみつ)とし、,この結果、津軽家は自家の先祖を近衛家とする根拠を得、幕府も津軽家が提出した系図を認めたので、津軽家は系図上 / 津軽家の自己認識確立への試み
通史編2(近世1) (津軽地域の確保と蝦夷荒)

津軽地域の確保と蝦夷荒 「津軽徧覧日記」一(弘図八)の「古城・古館之覚」にみえるように、戦国末期、村市,津軽家の譜代家臣の出身地は、岩木川西岸、そして岩木山と岩木川とに囲まれた地域、すなわち鼻和郡の南側に色濃,同氏の勢力は、一つには津軽平野の中央部に扶植(ふしょく)させることに力点が置かれ、その過程でアイヌとの,図3.戦国末期津軽地方の城館分布  また、現西津軽郡の海岸一帯に当たる西浜地域では、中村(現鰺ヶ,そして、アイヌとの戦いは、これを通じて西浜の地帯を確保したことに端的に表れているように、大浦(津軽)氏 / 津軽地域の確保と蝦夷荒
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