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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編1(古代・中世) (津軽(郡)中名字の世界)

津軽(郡)中名字の世界 一方、『津軽一統志』に付された、地元の地誌として著名な「津軽(郡)中名字(なあざ,写真102 東京国立博物館本『津軽一統志』附巻  しかし外三郡の郡名については、同時代史料である,中世の古文書類に一切登場せず、津軽地方は「津軽四郡」ないし「津軽三郡」(山辺郡を除く)と総称されるのが,また京役を、京都の権門貴族などの荘園領主への負担とする俗説もあるが、津軽が権門の荘園であったとの明証はまったくない,こうしたことから、著名な「津軽(郡)中名字」は、中世の津軽の状況を正確に伝えているとは考え難い。 / 津軽(郡)中名字の世界
通史編1(古代・中世) (「津軽(郡)中名字」と浪岡北畠氏)

「津軽(郡)中名字」と浪岡北畠氏 津軽平野の地名や集落の歴史を探るときに、必ずといっていいほど引用される,文献に、浪岡北畠氏が天文十五年(一五四六)に編んだとされる「津軽(郡)中名字(つがる(ぐん)ちゅうなあざ,写真186 「津軽(郡)中名字」  一方で、現在伝わっている形の「津軽(郡)中名字」には、近世に,このため、典拠の怪しい奥法・江流末・馬之郡三郡の存在は疑問視せざるを得ず、「津軽(郡)中名字」のみに依拠,(郡)中名字」の原型を作成したとされる戦国期の浪岡北畠氏について述べておきたい。   / 「津軽(郡)中名字」と浪岡北畠氏
通史編2(近世1) (三戸南部氏の津軽進出と大浦築城)

三戸南部氏の津軽進出と大浦築城 戦国時代の初期、三戸南部氏は、当主信時(のぶとき)あるいはその子政康,信時は、四男の達子弾正光康(たっこだんじょうみつやす)を外浜堤ヶ浦(現青森市堤町付近)に配置し「津軽郡代,三戸南部氏が、本貫地糠部郡だけではなく津軽地方をも領国内に収めようと一族を配置し、積極的に進出を行っていたのである,天文十五年(一五四六)に浪岡御所北畠(なみおかごしょきたばたけ)氏が作成したといわれる「津軽郡中名字(,三戸南部家が内部で動揺していた元亀二年(一五七一)五月、為信は三戸南部氏に反旗を翻し、石川城を奇襲して津軽郡代南部高信 / 三戸南部氏の津軽進出と大浦築城
通史編1(古代・中世) (中世の農民)

戦国時代の当市域の村落名を知る資料に「津軽(郡)中名字(つがる(ぐん)ちゅうなあざ)」がある。,この「津軽(郡)中名字」とは天文五年(一五三六)に、波岡北畠氏が記録したとされる津軽の地名集で、村名の,これによると、津軽地域を平賀(ひらか)郡・田舎(いなか)郡・鼻和(はなわ)郡・奥法(おきのり)郡・馬(,なお「津軽(郡)中名字」に記されている地名のうち、日照田(ひてりた)・河合(かわい)・角縣(かとけ)・,表7「津軽(郡)中名字」にみられる当市域の地名一覧表 郡 郡中名字地名 現地名 平賀郡 大仏鼻 石川
通史編2(近世1) (本村と新田)

津軽野村は天文十五年(一五四六)に成立したという『津軽郡中名字(つがるぐんちゅうなあざ)』(資料古代・,また、『津軽郡中名字』にも「船水」として地名がみえ、古い村であった可能性が高い。,折笠(おりかさ)村も『津軽郡中名字』に「縫笠(ヲリカサ)」として地名がみえている。,『津軽郡中名字』にも「尻引(シリヒキ)」と「三世寺」の地名がみえてる。,篠森(ささもり)村は『津軽郡中名字』に「篠森」として地名がみえており、為信の津軽統一時に協力した垣上(
通史編1(古代・中世) (有間浜の所在)

有間浜の所在 比羅夫は齶田平定後、さらに進んで、津軽蝦夷の拠点の一つである有間浜(ありまのはま)にまで,ただ有間浜については、話の展開などから考えて、齶田浦からある程度北上した、おそらく西津軽郡深浦(ふかうら,)町か鯵ヶ沢(あじがさわ)町あたりの津軽半島西海岸のうちに比定するのが自然であろう。,』付巻「津軽(郡)中名字(なあざ)」(史料九一五)の伝える中世の北津軽の郡名とされる江流末(えるま)郡,の音に近いことから、岩木川河口の北津軽郡市浦村の十三湊付近とみる説も有力ではあるが、「津軽(郡)中名字
通史編2(近世1) (本村と新田)

『津軽郡中名字』には「圓(マリノ)澤」とすでに地名がみえているが、「津軽知行高之帳」には村名はみえず、,『津軽郡中名字』にも「吹浦(フカウラ) 近代深浦ト書ク」とみえており、深浦が古くから湊として存在していたことを,『津軽郡中名字』にも「柏木町」はみえており、古くからの村であった可能性が高いので、この時新たに派立されたものとは,「松神」は現西津軽郡岩崎村松神であり、「大間越」は現西津軽郡岩崎村大間越である。,元和八年(一六二二)には、信枚が十三(とさ)(現北津軽郡市浦村十三)を巡検し、亀ヶ岡(かめがおか)(現西津軽郡木造町亀
資料編1(古代・中世編) (二 大浦城の歴史)

後に「津軽氏」を名乗る大浦氏の歴史はここに始まる。,この間、大浦氏は「大浦屋形」と称され、津軽の大名の一人として勢力を振るったが(「津軽郡中名字」)、その,地位はあくまでも〝南部氏の目下の同盟者〟にとどまり、天文二年(一五三三)、津軽平定作戦の上、「津軽郡代,)初めには、豊臣統一政権から事実上津軽の支配を承認されるに至る(「津軽家文書」)。  ,この過程において、大浦城は為信の津軽統一作戦の本拠地となり、その後も、文禄三年(一五九四)まで津軽氏の
資料編1(古代・中世編) (五 東目屋地区の中世城館の特徴)

だが、今回の調査を通して浮かび上がったのは、大浦氏が本拠とした大浦城との関係であり、さらに、この地が津軽平野,館主は誰だったのか等々、現時点では具体的にしがたいが、『封内事実秘苑』の文禄四年(一五九五)の条は、津軽為信,にも、「公御威勢盛ニ相成、目屋澤・国吉・相馬・五所・湯口・獨狐・宮館等、諸方の小館不残御家臣ニ相成、御郡中一円平均,中世後期、東目屋盆地の入口一帯が「目屋ノ澤」と呼ばれていたらしいことから(「津軽郡中名字」)、この「目屋澤館,」こそ問題の坂本館であった可能性があり、そこから、為信の津軽統一戦の過程での重臣兼平中書(本貫は岩木町兼平
通史編1(古代・中世) (三戸南部氏による領国支配の強化)

)(写真189)が、軍勢を率いて、日本海側の種里(たねさと)(西津軽郡鰺ヶ沢町種里)に移住したことにはじまる,また文亀(ぶんき)二年(一五〇二)には光信が大浦(おおうら)(中津軽郡岩木町)に築城し、嫡男盛信(もりのぶ,写真189 南部(大浦)光信倚像  津軽氏の系譜である『前代歴譜』に光信が九戸郡下久慈から南部氏,に対する復讐を遂げようと種里に入ったとある記事や(史料八六〇)、「津軽(郡)中名字」に南部盛信を久慈備州,写真192 『聞老遺事』津軽の弓矢  反乱鎮圧後、南部高信は津軽郡代となり、要衝石川の地(市内石川
資料編1(古代・中世編) ([十六世紀])

●天文十五年(一五四六)、浪岡御所北畠氏、「津軽郡中名字」を編纂するという。,●元亀三年(一五七二)、南部側史料、この年、南部高信が津軽三郡を平定すると伝う(天文二年の事件を誤り伝,●天正二年(一五七四)三月、津軽斎藤氏、系譜を作成する。,●天正十年(一五八二)七月五日、大宝寺義氏、由利郡の領主戸蒔中務少輔にあてて、津軽勢(大浦為信)と呼応,●天正十年(一五八二)、三戸城主南部信直、弟政信を波岡城に入部させ、津軽郡代にするという。
資料編1(古代・中世編) (第一章 綱文・史料一覧)

津軽の蝦夷等を説明。,に津軽田舎郡黒石郷と鼻和郡目谷郷を、南部雅楽助に田舎郡冬井・日野間郷と外浜野尻郷を安堵。,… 前代歴譜津軽古今雑記類纂・津軽郡中名字・館越日記 222 ●応安七年(一三七四・明洪武七)、明洪武帝,… 新羅之記録・松前家記・八戸湊文書 289 ●天文十五年(一五四六)、浪岡御所北畠氏、「津軽郡中名字,……………………… 津軽郡中名字 290 ●天文十六年(一五四七)十二月九日、石山本願寺証如上人の斎相伴衆
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