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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編1(古代・中世) (津軽安藤氏)

津軽安藤氏 こうした境界の地の支配者を代表するものが、津軽安藤氏である。,人々が大半であったが、そうしたなかで津軽安藤氏は、例外的に津軽生え抜きの武士から地頭代官に抜擢された一族,津軽安藤氏の存在は、かつて「青森県中世史上の惑星」と評されるなど(その後裔安東愛季は、京都妙心寺の僧から,めた新たなる史料の発掘を押し進めて、従来の研究の限界を打ち破り、津軽安藤氏を中世国家論のなかの一つの核,それに伴う「もう一つの日本」=「ひのもと」、すなわち北方世界の歴史の再評価といった研究動向のなかで、津軽安藤氏研究 / 津軽安藤氏
通史編1(古代・中世) (津軽曽我氏の滅亡)

津軽曽我氏の滅亡 観応元年(正平五年、一三五〇)十一月、足利尊氏との確執から弟直義(ただよし)が南朝,しかし南部氏自体はその勢力を保ち、詳細は不明であるが曽我氏をはじめとした津軽方面の豪族を滅ぼして、津軽地方,にまでその支配を拡大していき、やがて津軽地方をも制覇することとなった。  ,曽我氏が南部氏の前に屈することとなった具体的な経過は、それを伝える古文書がまったく残されていないため不明,ただ本来、津軽曽我氏に伝来しているはずの所領や軍忠関係をはじめとしたさまざまな古文書が、現在は遠野南部家文書 / 津軽曽我氏の滅亡
通史編2(近世1) (津軽氏の鷹保護)

津軽氏の鷹保護 鷹巣の保護については、豊臣政権は既に天正十四(一五八六)・十五年に、いわゆる九州平定,さて天正十九年(一五九一)十二月十日と推定される豊臣秀吉朱印状(資料近世1No.四二)は、津軽為信の領地,このように豊臣政権が津軽地方の鷹保護を為信に厳命したのは、津軽地方がただ単純に鷹の産地だという理由からなのではない,したがって津軽の「御鷹」は、同領内で手厚く保護され、その上で献上道中を組んで日本海沿岸の大名領を経由して,九州と同様、奥羽日の本仕置によって、豊臣政権による奥羽地方の支配統制の確立と、津軽地方における名鷹の独占 / 津軽氏の鷹保護
通史編1(古代・中世) (下総葛西氏と津軽葛西氏)

下総葛西氏と津軽葛西氏 葛西氏は、武蔵国豊島郡を本拠とした豊島氏の一族である。,その子孫が、のちに津軽地方にも広く分布することとなった。,弘前藩家臣中にも葛西家がいくつかあるが、津軽の葛西氏についての確実な最古の史料は、永正二・三年(一五〇,木庭袋氏は『前代歴譜』『新羅之記録』『津軽一統志』などにも散見し、津軽には広く根を下ろしていたらしい。,その津軽入り当初の拠点は大光寺城あたりといわれているが、時期も含めて史料的には確認できない。 / 下総葛西氏と津軽葛西氏
通史編2(近世1) (関ヶ原の戦いと津軽氏)

関ヶ原の戦いと津軽氏 この慶長五・六年の動乱に際して、津軽氏はどのような動きをとったのだろうか。,さきに述べた慶長五年七月段階の最上氏支援の動員体制にも、慶長六年の上杉景勝国替に際しての動員にも津軽氏,)に描かれた幟(のぼり)の図柄から、津軽氏が関ヶ原へ参陣したという見方がある。,関ヶ原の合戦当時卍印の幟(のぼり)・旗差物を用いた大名は、堀・蜂須賀両氏のほかに津軽氏のみであり(堀氏,に属して大崎義隆、大谷吉隆の一手として由利五人衆といった、伊達氏と津軽氏を除いた大部分の奥羽大名が牧使城 / 関ヶ原の戦いと津軽氏
通史編1(古代・中世) (津軽曽我氏の出自)

津軽曽我氏の出自 平賀郡を中心に活躍した津軽の中世武士としてよく知られているのが曽我氏である。,この津軽の曽我氏が、治承四年(一一八〇)の源頼朝挙兵による石橋山(いしばしやま)合戦に際して、頼朝に敵対,元禄十一年(一六九八)の自序をもつ『奥羽永慶軍記』に、この曽我氏を駿河国有度(うど)の領主伊原左衛門尉,の末裔とするのは誤りで、れっきとした平姓曽我氏の一族である。  ,すでに述べた和田合戦においては、当初去就に迷った曽我氏も、結局は北条氏の味方をしており、あるいはそれを / 津軽曽我氏の出自
通史編2(近世1) (浅利騒動と津軽氏)

浅利騒動と津軽氏 文禄三年、秋田方は比内の浅利領へ兵を進め、物成の差し押さえを行い、さらに岩脇村(いわわきむら,また八月二十二日付書状では、比内浅利氏より檜山の実季へ戦闘をしかけたが、津軽方より浅利氏を支援することになり,、そのため浅利氏は津軽為信を後ろ盾にしている。,図36.津軽氏の浅利氏擁護を示す南部信直書状案  この文禄四年の戦闘において頼平が頼みとしたのは,、浅利勝頼の謀殺後、頼平が身を寄せていた津軽為信であった。 / 浅利騒動と津軽氏
通史編1(古代・中世) (鎌倉幕府滅亡と津軽曽我氏)

鎌倉幕府滅亡と津軽曽我氏 元弘三年(一三三三)閏二月の後醍醐天皇の隠岐脱出に始まり、同年五月の足利尊氏,こうした鎌倉幕府末期の一連の戦乱から、続く南北朝の動乱に至るまで、この津軽の地でも、そうした中央の政情激変,の一端を担う戦乱が続くことになり、津軽曽我氏をはじめとする津軽在住の武士たちも、いやおうなくその渦中に,図41 南北朝期における津軽の楯  津軽曽我氏の嫡流である光頼(光称(こうしょう))・光高(のちの,後醍醐方では、同年九月には津軽四郡の検注を工藤貞景(さだかげ)に命じ(史料六二九)、津軽地方の支配固めに / 鎌倉幕府滅亡と津軽曽我氏
通史編1(古代・中世) (津軽氏の系譜と唐糸御前)

津軽氏の系譜と唐糸御前 また津軽氏の系譜に関する史料である『可足権僧正筆記之写』や『前代歴譜』(写真,109)などには、先に触れた「唐糸草子」の所伝が取り込まれ、それが強引に北条時頼とつなげられて、平泉藤原氏の / 津軽氏の系譜と唐糸御前
通史編3(近世2) (津軽永孚)

津軽永孚 津軽永孚(一七七三~一八二八)は家老津軽多膳の子で、幼年より漢学を山崎図書(蘭洲)に従って,、学問所建設に情熱を傾け、建築の時には江戸表において寧親に建言し、数千万巻の書籍を求めしめた(「棟方氏抄録,津軽永孚、山崎図書以下の学校御用懸は昌平坂学問所や熊本藩校時習館(じしゅうかん)を範とし、図面や資料を / 津軽永孚
通史編1(古代・中世) (津軽曽我氏の所領・鼻和郡)

津軽曽我氏の所領・鼻和郡 文和四年(一三五五)の「あへのうちめうあ(安倍氏妙阿か)譲状」(史料七一三,)によって、津軽鼻和郡「はゝきの村」(比定地不詳)を譲られた「ゆわたてとの」(史料七一七にみえる「岩楯殿,」と同一人物か)は、その呼称から岩楯曽我氏である可能性が指摘されている。,その推測によれば、曽我氏の所領がこのころ鼻和郡にもあったことになる。 / 津軽曽我氏の所領・鼻和郡
通史編1(古代・中世) (津軽平賀郡への入部)

津軽平賀郡への入部 曽我氏が津軽における拠点としたのが、中世の津軽三(四)郡の内の津軽平賀郡である。,岩木川上流を中心とした津軽平野の一部を形成する肥沃な水田地帯は、津軽地方でも早くから開けた場所であったと,また秋田の比内から津軽に入る奥大道のルート上にあり、津軽平野の咽喉(のど)を押さえる交通の要衝でもあった,本節二でみたように、奥州合戦ののちに、津軽に入った御家人宇佐美(大見)平次実政が、その拠点を津軽平賀郡,相模国足柄上郡曽我郷(荘)を本領とする御家人曽我氏の一族は、北条氏と被官関係を結ぶことによって初めて津軽方面 / 津軽平賀郡への入部
通史編2(近世1) (三戸南部氏の津軽進出と大浦築城)

三戸南部氏の津軽進出と大浦築城 戦国時代の初期、三戸南部氏は、当主信時(のぶとき)あるいはその子政康,(ぐんだい)」とするとともに、延徳三年(一四九一)に南部久慈(くじ)氏の一族南部光信(みつのぶ)を津軽西浜種里,三戸南部氏が、本貫地糠部郡だけではなく津軽地方をも領国内に収めようと一族を配置し、積極的に進出を行っていたのである,天文十五年(一五四六)に浪岡御所北畠(なみおかごしょきたばたけ)氏が作成したといわれる「津軽郡中名字(,そしてこの天文十五年以後、三戸南部氏は、鹿角(かづの)・比内(ひない)に通じる津軽南部の要衝石川城に三戸南部当主安信 / 三戸南部氏の津軽進出と大浦築城
通史編1(古代・中世) (安藤愛季の津軽侵略)

安藤愛季の津軽侵略 安藤愛季(写真199)は、天文八年(一五三九)に出羽国檜山城主下国舜季(しものくにきよすえ,愛季の家臣であるにもかかわらず、「津軽之南部」を名乗って上洛させたのは、山科家と浪岡北畠氏との関係から,愛季が為信による浪岡北畠氏の攻略後、津軽に侵攻したのは、愛季と浪岡北畠氏との間にこのような関係があったからである,翌年にも愛季は津軽に出陣するが、ついに浪岡城の回復は成功できなかった。  ,愛季の津軽侵攻後、天正十年(一五八二)、三戸南部家継承を実現した信直は、弟政信を浪岡城に入部させて津軽郡代 / 安藤愛季の津軽侵略
通史編1(古代・中世) (「津軽(郡)中名字」と浪岡北畠氏)

「津軽(郡)中名字」と浪岡北畠氏 津軽平野の地名や集落の歴史を探るときに、必ずといっていいほど引用される,文献に、浪岡北畠氏が天文十五年(一五四六)に編んだとされる「津軽(郡)中名字(つがる(ぐん)ちゅうなあざ,の西側、中津軽郡、西津軽郡、北津軽郡の一部を南部盛信、現南津軽郡の南側と、弘前市域の東・南側部分、中津軽郡相馬村,の一部を南部政行、南津軽郡の北側、北津軽郡、東津軽郡を北畠具永がそれぞれ支配していたということになる。,、「津軽(郡)中名字」の原型を作成したとされる戦国期の浪岡北畠氏について述べておきたい。   / 「津軽(郡)中名字」と浪岡北畠氏
資料編1(古代・中世編) ((3) 津軽氏の政庁としての堀越城)

(3) 津軽氏の政庁としての堀越城 『永禄日記』は、天正十五年(一五八七)、「正月より堀越御城所々築直,大浦の地は戦略的要地ではあるが、津軽平野の西に偏り、津軽全域を支配する本拠としては不十分だったからである,これに対し堀越は、津軽の西根と東根の接点にあり、かつての南部高信の本拠石川城にも近く、津軽の政治的中心,つまり、堀越城下に集められたのは、大浦にあった寺院と町、それに津軽氏の家臣団であった。,正しければ、堀越城では家臣団の集住が進められただけで、領内の寺社・商工業者の城下集住は未達成であり、津軽氏 / (3) 津軽氏の政庁としての堀越城
通史編2(近世1) (黒石津軽家の大名昇格)

黒石津軽家の大名昇格 文化六年(一八〇九)四月、本家が一〇万石になって三ヵ月後、幕臣で四〇〇〇石の黒石津軽家,黒石津軽氏は、明暦二年(一六五六)二月、四代藩主津軽信政の叔父である信英(のぶふさ)が、五〇〇〇石をもって,を勤めている分家の黒石津軽家も、由緒深い家柄である。,文化六年四月、幕府から通達があり、寧親の望みは達成されて、黒石津軽氏の一万石の大名栄進と、柳の間詰め(,こうして、津軽黒石藩は、廃藩に至るまで存続した。 / 黒石津軽家の大名昇格
通史編1(古代・中世) (津軽独立に向けて)

津軽独立に向けて 天正十一年(一五八三)、安藤愛季は由利郡に侵攻してきた庄内の大宝寺氏を出羽郡由利郡,為信は、大宝寺氏の由利郡侵攻に際して秋田への出陣を求められていたようで(史料一〇四一)、さらには、浅利勝頼,は、愛季との戦いのあと、いったんはその勢力を後退させたものの、天正十一年以降再びその勢力を伸張させ、津軽地方,は「津軽独立」に向けて動き出すことになる。,したがって「津軽独立」は豊臣政権とのかかわりのなかでその実現を目指すことになったのである。 / 津軽独立に向けて
通史編2(近世1) (「津軽一統志」の編纂)

「津軽一統志」の編纂 享保十二年(一七二七)、五代藩主津軽信寿は、家老津軽(喜多村(きたむら))政方,また、史書の編纂の意図・方針として、為信以前の津軽の歴史についても対象とし、それを受けて為信の津軽平定,その構成は、津軽の風土、産貢から書き出し、津軽家による草創・征功を記した後に、士臣の忠否・伝記や伝承を,この書は津軽氏の事績を記すことに主眼があり、同じ事件にいくつかの説がある場合、まず本来の事象と考えられるものを,を明らかにし、補強しようとしたものといえよう(長谷川成一「津軽氏」『地方別日本の名族 一 東北編I』一九八九年 / 「津軽一統志」の編纂
通史編1(古代・中世) (延久蝦夷合戦と津軽)

延久蝦夷合戦と津軽 この乳井から大鰐にかけての南津軽地方は、中世前期において津軽全体の政治的・文化的中心,をなしていたと推測されており、福王寺以外にも、後白河上皇の創建と伝えられ「津軽国分寺」の伝承(史料五二二,延久合戦後の僧侶の移住、再興(事実上の創建)、住民を指揮しての開発といった伝説をもち、さらに平泉藤原氏時代,写真75 高伯寺跡(大鰐町)  とはいえ、延久合戦後の津軽・比内・鹿角・糠部など、北緯四〇度以北,南の「奥六郡」から津軽平野へ通じる「回廊」地帯であったともいえる鹿角盆地や南津軽の平川河谷地帯には、深 / 延久蝦夷合戦と津軽
通史編1(古代・中世) (津軽曽我氏の所領・岩楯村)

津軽曽我氏の所領・岩楯村 津軽曽我氏の津軽地方における所領は、文書で確認できるもののすべてが津軽平賀郡 / 津軽曽我氏の所領・岩楯村
通史編1(古代・中世) (津軽惣地頭宇佐美実政)

津軽惣地頭宇佐美実政 こうして平泉藤原氏の滅亡後の体制整備が進むなか、本州の最北辺にして海運上の要衝,でもある津軽地方の鼻和・平賀・田舎三郡(津軽地方の中世の郡制については、次項で詳述する)には、奥州合戦,宇佐美氏は、伊豆国田方(たがた)郡宇佐見を苗字の地とする御家人である。  ,なおこの実政については、平賀郡大光寺あたりにあって、「津軽奉行」の任にあったともいわれているが、この説 / 津軽惣地頭宇佐美実政
通史編1(古代・中世) (津軽奪還を目指して)

津軽奪還を目指して 安藤盛季(もりすえ)の甥にあたる潮潟重季(うしおがたしげすえ)の嫡子政季(師季),が替わった可能性も指摘されている)氏を擁立して、その存在に依拠する形で津軽・下北・夷島(蝦夷島)各所の,一方、十三湊を追われ蝦夷地に逃れた安藤盛季(もりすえ)の子息康季(やすすえ)は、そののち津軽に戻ったが,さらに文明二年(一四七〇)には、安東政季(師季)が津軽に侵攻し、かつて安藤氏の根拠地の一つであった藤崎館,を攻撃したが(史料八四七)、これが津軽への下国安東氏の最後の侵攻であった。 / 津軽奪還を目指して
通史編2(近世1) (津軽地域の確保と蝦夷荒)

津軽地域の確保と蝦夷荒 「津軽徧覧日記」一(弘図八)の「古城・古館之覚」にみえるように、戦国末期、村市,津軽家の譜代家臣の出身地は、岩木川西岸、そして岩木山と岩木川とに囲まれた地域、すなわち鼻和郡の南側に色濃,同氏の勢力は、一つには津軽平野の中央部に扶植(ふしょく)させることに力点が置かれ、その過程でアイヌとの,図3.戦国末期津軽地方の城館分布  また、現西津軽郡の海岸一帯に当たる西浜地域では、中村(現鰺ヶ,そして、アイヌとの戦いは、これを通じて西浜の地帯を確保したことに端的に表れているように、大浦(津軽)氏 / 津軽地域の確保と蝦夷荒
通史編1(古代・中世) (二 津軽の修験道と神社)

二 津軽の修験道と神社 一般に修験道とは、宗教現象的には原始的な山岳信仰に真言密教的な信仰が合体した,因(ちな)みにいえば、南部領に本山派が多く、津軽領に当山派が多いのは、地域的な特性を考える上で興味深い,古代の坂上田村麻呂に開基伝承を持つ津軽地域の神社の多くは、その当初、天台系密教(台密)を基調とし、鎌倉時代,とすれば、津軽地域における中世の修験道世界とは、まさしく、鎌倉幕府の「禅密主義」の宗教政策の延長上に花開,その岩木山神社に修験の世界にも君臨していた安藤氏の一族の阿部氏が祠官したことは、津軽地域における神社造営 / 二 津軽の修験道と神社
通史編2(近世1) (津軽家の自己認識確立への試み)

津軽家の自己認識確立への試み 津軽家がどのように興り、またどのようにして津軽を統一していったのか、さらに,津軽為信という実在した人物の業績さえ、津軽側の史料と南部側の史料の食い違いという実例からもわかるように,津軽家は、南部氏の庶流であるにもかかわらず、近衛家と縁戚関係にあると称した。,しかし、十七世紀では、藩主自身が源氏から藤原氏への転換を自家の系図に記すとともに、南部家からの津軽伐(,この結果、津軽家は自家の先祖を近衛家とする根拠を得、幕府も津軽家が提出した系図を認めたので、津軽家は系図上 / 津軽家の自己認識確立への試み
通史編5(近・現代2) (用の美と津軽民芸)

用の美と津軽民芸 民芸運動で昭和四十五年県文化賞を受賞した相馬貞三(そうまていぞう)は、昭和二年に柳宗悦,豪農の相馬家は館野越北畠氏出身の祖母が嫁入りに『資治通鑑』二九四巻を持ってきた。,ひしざし)、凧絵(たこえ)、アケビ蔓(づる)や根曲がり竹細工、伊達(だて)げら、ネプタ絵、玩具など、津軽,の庶民が生んだ「用の美」を再評価し、作り手の育成と津軽ガラス器の誕生に協力、『みちのく民芸』を発行して,イギリスの陶芸家バーナード・リーチとの親交で、津軽の民芸品は欧米にも紹介された。 / 用の美と津軽民芸
通史編2(近世1) (「津軽一統志」以降の修史事業)

「津軽一統志」以降の修史事業 「一統志」編纂の後に、津軽弘前藩では、藩士木立守貞の編纂による「津軽徧覧日記,図117.津軽徧覧日記と封内事実秘苑 (津軽徧覧日記) 目録を見る 精細画像で見る (封内事実秘苑,津軽家にとっては、先祖が蝦夷の血を引く朝敵であるということなど承認したくない由緒であった。,しかし、津軽家が奥州藤原氏に連なることを主張すれば、奥州藤原氏と安倍氏との血縁関係が存在する以上、安日,に行き着くことは当然で、結局津軽家は、最後まで平泉藤原氏を遠祖とする系図を幕府に提出することはなかった / 「津軽一統志」以降の修史事業
通史編1(古代・中世) (津軽曽我氏の所領・名取郡)

津軽曽我氏の所領・名取郡 光弘は宝治元年(一二四七)七月、宝治合戦の勲功の賞として陸奥国名取郡土師塚 / 津軽曽我氏の所領・名取郡
通史編4(近・現代1) (津軽産業会の活動)

津軽産業会の活動 明治期の弘前市産業界をリードした津軽産業会の成立期以来の活動について、同会の理事として,活動した成田果が沿革誌をまとめているので、これによってその内容を振り返っておきたい(成田果『津軽産業会沿革,化育社が津軽産業会として活動するまでの経緯は既に見た(本書第一章第三節)。,なお、明治三十二年(一八九九)時点での津軽産業会の定款と役員は次のとおりである。    ,『津軽産業会報』は翌年一月に次のように論じている。 / 津軽産業会の活動
通史編1(古代・中世) (四 中世津軽の宗教世界の特色)

四 中世津軽の宗教世界の特色 中世津軽の宗教界の特色の第一は、冒頭で触れたように、寺社群が一ヶ所に集中,するのではなく、古代の宗教世界を継承する形で、「大鰐(おおわに)・宿川原(しゅくがわら)」の宗教ゾーンと「津軽山王坊,における古代律令国家や鎌倉幕府の国家権力の行使と表裏一体の形で推し進められた寺社の建立が、まずもって中世津軽,既述の安藤氏の津軽山王坊や修験的先達をはじめ、北畠氏の京徳寺、武田氏の宗徳寺、津軽氏の藤先寺、大浦氏の,このように、中世津軽の宗教世界は、建立主体を基準にすれば、「国家権力」「在地領主」「中央教団」の三類型 / 四 中世津軽の宗教世界の特色
通史編2(近世1) (津軽家宛ての領知宛行状と領知高の変動)

津軽氏の領知高の変遷をたどると、豊臣政権下では津軽家に対する領知高を明記した秀吉朱印状が現在に至るまで,各史料と、豊臣政権下で北奥羽の大名に課された役である秋田杉板の作事板搬出割り当ての状況から検討すると、津軽氏,と出羽仙北で三万一六〇〇石を領していた小野寺氏の割り当て量が各年度ほぼ合致していることなどから、三万石程度,図52.寛文4年の領知目録  そして、慶長十六年の禁裏造営の際、津軽氏の普請役賦課の役高は約四万石,このように「津軽之高四万五千石」は、当時の政治動向の中で定数として機能しており、津軽氏の本領(飛地を除 / 津軽家宛ての領知宛行状と領知高の変動
通史編1(古代・中世) (津軽曽我氏の所領・平賀郷)

津軽曽我氏の所領・平賀郷 次に平賀郷(平賀町・大鰐町付近)について見てみよう。,の時の例に任せての知行を、北条義時から安堵されているので(史料五五三)、岩楯と同じく広忠の時から曽我氏が / 津軽曽我氏の所領・平賀郷
通史編1(古代・中世) (第三節 南北交易と「境界地域」津軽)

第三節 南北交易と「境界地域」津軽 中世後期の遺跡からは、前期までの遺跡に比して数倍から数十倍の遺物量,この背景には、津軽地域および夷島の各種物資が相当量南に向かって流通し始め、その見返りとして陶磁器や銭貨,津軽を中心とする北奥や夷島へ「京」から入った物としては前述した陶磁器のほか、鉄製品(鍋・釜・大工道具など,また安藤氏が室町将軍足利義量(あしかがよしかず)に献上したなかには、「馬、鳥羽、銭貨、海虎(らっこ)皮,庭訓往来』 目録を見る 精細画像で見る  交易や文化交流という視点から、考古学的に理解され始めた津軽地域 / 第三節 南北交易と「境界地域」津軽
通史編2(近世1) (津軽信英による後見政治と法令の整備)

津軽信英による後見政治と法令の整備 幕府が津軽信英を信政の後見としたのは、藩主が幼少で自ら政務を執ることが,後見政治の期間、家老として特に重きをなしたのは、信英と同じく前藩主信義の弟である津軽信隆と、神保清成(,両名は信義時代からの家老で、明暦三年八月五日付で幕府大目付北条氏長宛てに信政家督相続に際しての家老起請文,のため今のところ明らかにできない(福井敏隆「支配機構の一考察―寛文・延宝期を中心として―」長谷川成一編『津軽藩,資料近世1No.七七三)を、また翌二年には藩士に対して十七ヵ条からなる「家訓条々」(国立史料館編・発行『津軽家御定書 / 津軽信英による後見政治と法令の整備
通史編5(近・現代2) (四 戦後から市制百周年までの津軽選出国会議員)

四 戦後から市制百周年までの津軽選出国会議員 戦後第一回目の衆議院議員選挙は、昭和二十一年(一九四六,衆議院議員選挙は、青森市・八戸市を含む青森一区(定員四)と、弘前市および東津軽郡を除く西・南・北・中津軽郡,左に、戦後の昭和二十一年から市制百周年記念の年である昭和六十三年までの四二年間の、弘前市など津軽地域から,実施年月日・種別  得票  所属政党  氏名  出身地  備考 昭和二十一年四月十日第二二回(戦後第一回 / 四 戦後から市制百周年までの津軽選出国会議員
通史編1(古代・中世) (尊氏側につく)

尊氏側につく 顕家の恩賞が南部氏に厚く、安藤氏に薄かった節(ふし)があり、そうした不満もあったのか、,あるいは建武二年から顕著になる、南部師行による津軽支配の進展が関係するのか、同年十月の尊氏離反の後、安藤氏嫡流,この年三月には、顕家が津軽山辺郡政所に対して、「津軽中のことについて尋沙汰があるので、南部師行を下向させるから,南部氏は顕家の権威を背景に、津軽地方にも着々とその影響力を浸透させていった。,おそらく安藤氏はこうした事態の推移に反発したのであろうが、これは南部氏が陸奥国司の配慮によって津軽に大 / 尊氏側につく
通史編1(古代・中世) (安藤氏の所領)

津軽三(四)郡には得宗領の地頭代として、曽我・工藤などの諸氏が入部した。  ,の譲渡がみえることから、安藤氏の支配領域は津軽・南部両地方にわたり、津軽地方では鼻和郡内諸郷・西浜(現在,の当市域および西津軽郡から北津軽郡にかけての一帯)、また南部地方では下北半島一帯が含まれていた可能性が,具体的にそれらの地名を考えてみると、津軽鼻和郡内の「絹家島」と「片野辺郷」については現地比定が困難であるが,ただし右掲の二点の安藤嫡流家に関する譲状に、津軽半島の陸奥湾側である外浜の名がみられないことから、外浜 / 安藤氏の所領
通史編1(古代・中世) (三戸南部氏による領国支配の強化)

南部氏の津軽への勢力拡大の動きについては、同時代史料が少ないために、これまで後代の史料に基づいて検討されており,一応それらの史料に基づけば、津軽支配の強化は、延徳三年(一四九一)に、南部氏の一族である南部光信(なんぶみつのぶ,光信・盛信親子が戦国時代末期に津軽地方を席巻し、近世大名へと発展する大浦-津軽氏の祖とされているのはいうまでもない,写真189 南部(大浦)光信倚像  津軽氏の系譜である『前代歴譜』に光信が九戸郡下久慈から南部氏,一方、『津軽一統志』付巻に所載の「津軽屋形様先祖次第」(写真190)には、津軽家の先祖は初代が金沢右京亮 / 三戸南部氏による領国支配の強化
通史編1(古代・中世) (得宗領・安藤氏との関わり)

得宗領・安藤氏との関わり 「空船(舩)」=「うつぼ舟」のモチーフは津軽地方の所伝ではみられないので、,されたものらしいが、土崎湊といい、外浜といい、藤崎湊といい、能代湊といい、いずれも唐糸伝説を伝える寺院が津軽安藤氏,・秋田安東氏の拠点とかかわっていることが注目される。,津軽にも「清藤家由緒書断簡」(尾上町)などのように、唐糸の漂着先を十三湊とするものがある。  ,密接にかかわる時衆集団、ないしは修験の集団、またはさまざまな芸能集団が、まず津軽に唐糸の名を伝え、それが / 得宗領・安藤氏との関わり
通史編1(古代・中世) (大浦氏の城下町建設の流れ)

大浦氏の城下町建設の流れ 大浦氏が津軽地域を掌握するきっかけは、西海岸の掌握と西浜の南方にある安東氏,その後、文亀二年(一五〇二)三戸南部安信(やすのぶ)は、弟の高信(たかのぶ)を津軽郡代とし、平賀郡石川城,そして大浦盛信の子である為信が大浦城を拠点として津軽地域の領土拡張に向けて動き出していく。  ,為信は天正十八年(一五九〇)から文禄三年(一五九四)の五年間、近世大名津軽氏の領国支配の本拠として大浦城,をはじめ商・工業者の集住に対する取り組み、さらには宗教施設や寺院などの配置を明らかにしていくことにより、津軽氏 / 大浦氏の城下町建設の流れ
通史編1(古代・中世) (海の民・山の民としての安藤氏)

海の民・山の民としての安藤氏 この安藤氏といえば、従来は津軽を中心に、東は下北、西は男鹿半島、北は渡島,しかし近年の研究によって、山の民・海の民としての安藤氏の、広範囲にわたる活躍の場が明らかにされている。,安藤氏が山の民であったことは、のちに触れる鎌倉末期の「安藤の乱」(津軽大乱)鎮圧のことを「津軽山賊誅伐事,史料五三二)にみえる、阿津賀志山合戦に際して活躍した「山案内者」安藤次や三沢安藤四郎についても、やはり津軽安藤氏一族,安藤氏の始祖伝承中にみえる安日はまた、山の民マタギの祖先でもある(史料一一五七)。 / 海の民・山の民としての安藤氏
通史編1(古代・中世) (安藤氏の特殊な氏族結合)

安藤氏の特殊な氏族結合 ところで右の「三沢安藤四郎」という名乗りは、苗字らしいものが知られない安藤氏一族,安藤氏の族的結合は、他の豪族とは異なり、かなり特殊なものであったのかもしれない。  ,しかしもちろん、安藤氏は一方で確実に男系的な氏族制的結合をも有しており、これらがどのように関係するのかはもう,こうした海の民・山の民としての在り方こそ、津軽安藤氏の元の姿であった。,津軽においては安藤氏は、藤崎や十三湊に代表されるように、重要な水上交通の拠点を支配していた。 / 安藤氏の特殊な氏族結合
通史編1(古代・中世) (南北朝の動乱と曽我氏)

南北朝の動乱と曽我氏 建武三年(延元元年、一三三六)正月、足利尊氏の御教書(みぎょうしょ)を受けた安藤家季,が合戦奉行となると、津軽曽我氏嫡流の貞光(さだみつ)もそれにしたがって、手始めに藤崎城・平内城を攻め、,このころの遠野南部家文書など曽我氏関係の文書には、「将軍家御教書に応じて」という文面がしばしばみえる(,破って、尊氏はいったん九州に走り、津軽の武士たちも再び動揺したようである。,しかし貞光は一貫して尊氏を支持して、津軽方面で戦い続けた。 / 南北朝の動乱と曽我氏
通史編1(古代・中世) (安藤氏の没落)

安藤氏の没落 その後の両者の衝突は永享四年(一四三二)にみられ、安藤氏と南部氏との戦いの結果、安藤氏,攻められ松前に逃れ、盛季の子康季(やすすえ)が文安二年(一四四五)に夷島より津軽へ戻るが引根(ひきね),その後、康季の子義季は享徳二年(一四五三)に津軽鼻和郡大浦郷根倉(ねくら)館に立て籠ったが、南部氏に攻,いわば、南部氏の傀儡(かいらい)的な存在であったのだが、南部氏にとっては、北方海域に割拠していた安藤氏,南部氏は自らの支援で安藤氏の擁立をしてまでも、安藤氏権力を吸収したかったのである。 / 安藤氏の没落
通史編1(古代・中世) (湊安藤氏の誕生)

写真163 秋田家系図  鎌倉期以来、蝦夷沙汰への支配機構は津軽と秋田との二つに拠点が置かれていた,しかしながら、秋田城介の一党が南朝方に加担したことにより、責任を問われて改替され、それへの抵抗として津軽側,の下国安藤氏に鎮圧を命じた。,ところが、秋田湊を通じての蝦夷沙汰機構をただちに津軽に一本化はできず、それを継承するものとして湊家を新,しかし、今度は今川氏と九州の覇権を競っていた大内氏が今川氏以上に恣意的な外交を展開した。 / 湊安藤氏の誕生
通史編1(古代・中世) (工藤氏の活躍)

工藤氏の活躍 そうしたなかで、工藤貞行の後醍醐方としての活躍は目覚ましい。,これらは女加伊寿(南部信政妻)を通じてのちに南部氏に伝領された。,なお鼻和郡・外浜の所領は、安藤の乱に際して津軽で安藤季長を捕らえたという工藤貞祐(祐貞)からの没収地であった / 工藤氏の活躍
通史編1(古代・中世) (工藤氏の出自)

工藤氏の出自 ただ糠部側は、比較的史料が希薄である。,津軽・糠部の両方に足跡を残した工藤一族についても、残念ながらその出自(しゅつじ)ははっきりしない。,また近年では、工藤氏が下野の小山、相模の三浦氏などと同様に五位の地方軍事貴族(藤原南家流)の後裔であることも / 工藤氏の出自
資料編1(古代・中世編) (二 大浦城の歴史)

後に「津軽氏」を名乗る大浦氏の歴史はここに始まる。,この間、大浦氏は「大浦屋形」と称され、津軽の大名の一人として勢力を振るったが(「津軽郡中名字」)、その,地位はあくまでも〝南部氏の目下の同盟者〟にとどまり、天文二年(一五三三)、津軽平定作戦の上、「津軽郡代,この過程において、大浦城は為信の津軽統一作戦の本拠地となり、その後も、文禄三年(一五九四)まで津軽氏の,したがって、大浦城はこの時期に近世大名津軽氏の本拠として大幅な改造を施されたと思われ、現在見る遺構は基本的
通史編2(近世1) (太閤蔵入地の設定)

津軽地方に太閤蔵入地が設定された場合、さきにみたように津軽氏の領知高が三万石であることから、その石高は,陸奥国に設定されたという太閤蔵入地は、津軽地方に設定されたこの約一万五〇〇〇石に相当するものであり、津軽氏,その後、政権が徳川氏に移った後、津軽地方に設定された太閤蔵入地は、自動的に津軽氏の領地として編入されたのである,そして、その支配形態も、秋田氏と同じように、太閤蔵入地・津軽氏知行地の双方が各村に含まれ、代官として津軽氏,後にみるように(本節三参照)、天正十九年(一五九一)十二月、秀吉は、津軽氏に対して津軽地域での巣鷹(すだか
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