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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編2(近世1)
(七 津軽一統志)
七
津軽一統志
津軽為信の津軽統一を中心として編さんした官撰史書。 / 七
津軽一統志
通史編2(近世1)
(「津軽一統志」の編纂)
「
津軽一統志
」の編纂 享保十二年(一七二七)、五代藩主津軽信寿は、家老津軽(喜多村(きたむら))政方,これが「
津軽一統志
」(以下「一統志」と略記)である。,図116.
津軽一統志
目録を見る 精細画像で見る 「一統志」は一〇巻からなり、別に首巻 / 「
津軽一統志
」の編纂
通史編2(近世1)
(「津軽一統志」の編纂まで)
「
津軽一統志
」の編纂まで 「
津軽一統志
」を編纂する以前に、津軽弘前藩が自藩の歴史を編纂することに対して / 「
津軽一統志
」の編纂まで
通史編2(近世1)
(「津軽一統志」以降の修史事業)
「
津軽一統志
」以降の修史事業 「一統志」編纂の後に、津軽弘前藩では、藩士木立守貞の編纂による「津軽徧覧日記 / 「
津軽一統志
」以降の修史事業
通史編2(近世1)
(近世における史書の編纂)
における史書の編纂 津軽弘前藩が編んだ官撰史書として、現在我々が知っているのは、享保年間に編纂された「
津軽一統志
,ここでは、それらの内で最もよく知られている「
津軽一統志
」をはじめとする官撰史書の編纂の経緯・過程、そして
通史編1(古代・中世)
(津軽(郡)中名字の世界)
津軽(郡)中名字の世界 一方、『
津軽一統志
』に付された、地元の地誌として著名な「津軽(郡)中名字(なあざ,写真102 東京国立博物館本『
津軽一統志
』附巻 しかし外三郡の郡名については、同時代史料である
通史編1(古代・中世)
(一 古代における北奥の宗教世界)
こうした古代の東国仏教史を彩る天台宗の圧倒的な宗勢ぶりを、より具体的に『
津軽一統志
』にみることにしよう,まず、はじめに、古代はもとより中世期の特質を逆に浮き彫りにするために『
津軽一統志
』首巻の「神社 仏閣」,写真138 『
津軽一統志
』国上寺 また一方の深沙(じんじゃ)大権現=天台宗を伝える項では、,以上、『
津軽一統志
』により古代~中世の北奥津軽の寺社建立を眺めてきたが、約百の神社と寺院とが、混然一体,『
津軽一統志
』が「古跡」として「十三湊 当城北小泊崎並其中間者山也。
資料編1(古代・中世編)
(二 乳井茶臼館の歴史)
しかし、『
津軽一統志
』や『封内事実秘苑』によると、戦国時代にこの地を領していたのは、乳井福王寺の別当で,されたことから、子の乳井大隅建清は大浦為信の麾下に属し、以後、大浦勢の有力メンバーとして行動する(『
津軽一統志
,『
津軽一統志
』『封内事実秘苑』『永禄日記』など近世の記録は、いずれも、このとき「秋田の比山勢」が侵入して
通史編2(近世1)
(領内アイヌと寛文蝦夷蜂起)
アイヌの所有船数を調査すること、飛脚の往来は「犾人」、すなわち領内アイヌの人々を用いることがあった(「
津軽一統志
,さらに浦河付近で現地のアイヌと衝突した際には、随行した犾のうち三人が連れ去られ(「
津軽一統志
」巻十上)
通史編3(近世2)
(大石明神)
「
津軽一統志
」は、本地垂迹説により十一面観音を祀り、別当を百沢寺、神職を長見筑後、正徳五年(一七一五)
通史編3(近世2)
(藩政前期為信)
(あぶらかわ)の浄土真宗円明寺(えんみょうじ)の念西坊頼英(ねんざいぼうらいえい)を味方につけた(「
津軽一統志
,領主の命に別当が従わないのは反乱に結びつくとして、それまでの天台宗を真言宗に変えてその勢力を抑えた(「
津軽一統志
,敵味方を問わず、これまでの戦いで戦死した者の名前を記し、一三〇人余の僧侶に供養させた(「
津軽一統志
」)
通史編1(古代・中世)
(掲載図版・写真の典拠・所蔵一覧)
日前陸奥守源頼俊申文 宮内庁書陵部蔵 写真72 集古十種 弘前市立図書館蔵 写真73 撮影 写真74
津軽一統志
首巻, 弘前市立図書館蔵 写真75 撮影 写真76 岩手県西磐井郡平泉町 中尊寺蔵 写真77
津軽一統志
首巻, 東京国立博物館蔵 写真103 撮影 写真104 撮影 写真105 弘前市 万蔵寺蔵 写真106
津軽一統志
首巻,写真139 同上 写真140 同上 写真141 南津軽郡大鰐町役場企画観光課写真提供 写真142
津軽一統志
附巻, 弘前市立図書館蔵 写真143 神奈川県鎌倉市 鶴岡八幡宮蔵 写真144
津軽一統志
首巻 弘前市立図書館蔵
通史編3(近世2)
(普光寺)
「
津軽一統志
」には、宝永五年(一七〇八)に「住吉大明神社地」を定めたとあるが、この住吉宮は普光寺の北隣
通史編3(近世2)
(正伝寺)
曹洞諸寺院縁起志」、正徳元年(一七一一)の「寺社領分限帳」は、「松伝寺」とし、享保十六年(一七三一)の「
津軽一統志
通史編3(近世2)
(十一面観音堂)
「
津軽一統志
」は、別当を百沢寺、神職を長見勘ノ太夫、元禄四年(一六九一)の再興とする。
資料編1(古代・中世編)
((2) 戦国時代の堀越城)
この話は、『
津軽一統志
』『封内事実秘苑』にもあるが、「歴譜」とは若干異なって、為信は父守信の戦死後、しばらく,南部平定作戦に際して、重要な前進基地となっており、戦いの際は為信自らが堀越城に入って全軍を指揮したという(『
津軽一統志
通史編3(近世2)
(百沢寺)
信枚は、山門を建立して十一面観音と五百羅漢を安置した(「
津軽一統志
」)。
通史編3(近世2)
(国上寺)
円智が開基となって阿闍羅(あじゃら)山に創建した(「
津軽一統志
」)。
通史編1(古代・中世)
(乳井福王寺の伝承)
ここにみえる「白河天皇の勅願で承暦二年に福王寺が建立」されたという伝承は、『
津軽一統志
』などにも記されており,写真74『
津軽一統志
』福王寺 さらに興味深いのは、その福王寺の山号が「嘉承山」とされていることである
通史編1(古代・中世)
(津軽の唐糸伝説)
よく似た類話は『
津軽一統志
』首巻にもみえる(史料一一三七・写真106)。,写真105 毘沙門天立像 写真106 『
津軽一統志
』唐糸前 五代執権北条時頼の寵愛の妃
通史編2(近世1)
(寛文十年の情報収集)
しかし、「
津軽一統志
」には、石狩へ赴き地形を実測し、あわせて川の深さをも調査したと考えられる数通の報告書,図95.
津軽一統志
所収の蝦夷地の図 目録を見る 精細画像で見る
通史編3(近世2)
(為信)
)と名のる岩木大権現の使者が現れたことから、旗の紋に卍字、馬印に錫杖を用いて領内を統一したという(「
津軽一統志
,一五七〇)、最上義光(もがみよしあき)への対面の途中羽黒山へ参詣し、同山の延命院を津軽寺と称させた(「
津軽一統志
通史編1(古代・中世)
(青森県内の田村麻呂伝説)
また観音に限らず『
津軽一統志
』首巻や『新撰陸奥国誌』などによれば、田村麻呂建立縁起をもつものは枚挙にいとまがない,たとえば『
津軽一統志
』首巻では岩木山三所大権現を延暦十五年創建とし、猿賀神社(深沙大権現)については、
通史編2(近世1)
(情報収集活動)
(「
津軽一統志
」巻十上、「雑書」、「光重年譜」、「大泉紀年」)。 ,加勢出兵を予定して、松前藩の本陣が置かれたクンヌイまでの道筋見分と情報収集のため松前に派遣されている(「
津軽一統志
通史編3(近世2)
(報恩寺)
しかし、「
津軽一統志
」は直ちに津梁院へ葬ったとし、「津軽徧覧日記」(同前No.五〇七)は、火葬にして遺骨
資料編2(近世編1)
(【解説】)
なお編年体を構成する基幹部分の一つの記録・編纂物については、藩政時代に津軽家で編纂した官撰史書「
津軽一統志
,「
津軽一統志
」は周知の通り、十七世紀の前期に成立した最初の官撰史書であり、本章では従来ほとんど当地において,(きだちかき)」)は、当藩の藩士木立守貞(もりさだ)が寛政五年(一七九三)に藩命で編纂した史書で、「
津軽一統志
,づけられており、これも従来ほとんど翻刻されたことがなかったので、新たな史料を紹介する意味も含め、かつ文書史料や「
津軽一統志
,したがって文書・記録によらず、編纂物で綱文の内容を構成する場合は、基本的に最も古い成立の「
津軽一統志
」
資料編1(古代・中世編)
((2)戦国時代の「石川城(石川大仏ケ鼻城)」)
(2)戦国時代の「石川城(石川大仏ケ鼻城)」 「前代歴譜」『
津軽一統志
』『館越日記(『永禄日記』一本,一気に陥落させ、南部高信を自害させて、独立への第一歩を踏み出した(『永禄日記』『封内事実秘苑』『
津軽一統志
,石川城への敗走途中、討ち死にした(『封内事実秘苑』『
津軽一統志
』、石川城で自殺したともいう)。
通史編3(近世2)
(橋雲寺)
為信が京都の愛宕山より勝軍地蔵を浅瀬石村(現黒石市)に勧請して橋雲寺を別当とし、領内の守護神とした(「
津軽一統志
通史編1(古代・中世)
(下総葛西氏と津軽葛西氏)
木庭袋氏は『前代歴譜』『新羅之記録』『
津軽一統志
』などにも散見し、津軽には広く根を下ろしていたらしい。
資料編1(古代・中世編)
((1)立地と遺構の現状)
『
津軽一統志
』「関家文書」は、館主を関惣右衛門としているが、彼が「十二人屋形城衆」の中の「城代」とされることから
通史編3(近世2)
(稲荷宮)
稲荷宮 稲荷宮(現和徳稲荷神社)は、「
津軽一統志
」によれば、創建を不詳とし、元和年間(一六一五~二三
通史編3(近世2)
(住吉宮)
住吉宮 住吉宮は、「
津軽一統志
」に延宝五年(一六七七)に富田(とみた)村(現市内)に「住吉大明神社地
通史編3(近世2)
(神宮寺)
祈願所としたが、翌年、領内統一の妨げになるとして別当延命院を追放、真言宗最勝院に別当を兼帯させた(「
津軽一統志
通史編3(近世2)
(誓願寺)
誓願寺 誓願寺(せいがんじ)の創建を「
津軽一統志
」は慶長元年(一五九六)とするが、「山崎専称寺並末寺由緒記
通史編1(古代・中世)
(奥大道と文物の流通)
前項で触れたように、高伯寺は『
津軽一統志
』に、後白河院が六六国に建立した国分寺の一つであるとされており,写真78『
津軽一統志
』高伯寺 写真79 大日如来座像 また七時雨峠(ななしぐれとうげ
通史編1(古代・中世)
(枝城・端城の城跡)
一方『
津軽一統志
』『津軽名臣伝』『盛岡由緒書』には、津軽為信代の家老職を務め、独立統一のため戦陣の総師
通史編3(近世2)
(最勝院)
天文元年(一五三二)、弘信僧都が堀越村に創建し、為信が神宮寺別当を兼帯させ寺領五〇〇石を寄進した(「
津軽一統志
資料編1(古代・中世編)
(五 乳井地区の城館群と宗教的領域)
『
津軽一統志
』によると、乳井福王寺は、承暦二年(一〇七八)、白河天皇が「東夷調伏」のため毘沙門天を安置,そして、天正七年(一五七九)、津軽に侵攻した檜山勢が乳井地区を占領し、この地を基地として駐屯したのも、『
津軽一統志
通史編1(古代・中世)
(支城の城館跡)
写真211 国吉館跡遠景 国吉館跡について、『
津軽一統志
』「関家文書」では、館主を関惣右衛門(
通史編1(古代・中世)
(福村城跡)
『本藩通観録』や『津軽歴代記類』などの史料によると、築城年代は天正二年(一五七四)と記されており、『
津軽一統志
通史編3(近世2)
(下居宮)
大己貴命(おおなむちのみこと)を薬師如来として松代の鳥海山永平寺景光院に配置し、岩木三所大権現とした(「
津軽一統志
通史編2(近世1)
(津軽領内のアイヌ民族)
した「御領分犾之覚」(寛文九年十一月六日付)によると、津軽半島の各所に「犾家数〆四拾二軒」があった(「
津軽一統志
,9 びくちよま村 2 藤崎村 1 かまの沢村 3 宇鉄村 2 たつひ村 1 合 計 42 注) 「
津軽一統志
通史編1(古代・中世)
(有間浜の所在)
写真33 鯵ヶ沢町・日和山 写真34 深浦町・吾妻浜 有間の音(おん)が、『
津軽一統志
資料編2(近世編1)
(【解説】)
については、弘前市立図書館所蔵の津軽家文書、八木橋文庫、旧八木橋氏所蔵史料、岩見文庫などの所収文書、
津軽一統志
,幕府から出兵を下命された同藩の関係史料を掲げ、山田文書、
津軽一統志
、弘前藩庁日記等を主に掲載した。
通史編3(近世2)
(南溜池の成立)
南溜池の成立 「
津軽一統志
」によれば、南溜池は千葉喜右衛門を奉行として慶長十九年(一六一四)六月朔日
通史編1(古代・中世)
(女性たちの戦場)
また『
津軽一統志
』の巻五「村上南部勢追討竝岸野武勇之事」の記事と、『津軽徧覧日記』には村上理右衛門という
資料編1(古代・中世編)
(一 東目屋地区の中世城館と領主の歴史)
また『
津軽一統志
』巻七も、「古城垣上」として「桜庭太郎左衛門初名兵助信正、(中略)国吉関惣右衛門、弟黒土近江
通史編2(近世1)
(一里塚)
「
津軽一統志
」には慶長九年(一六〇四)に幕府の命令で山本新五左衛門と榎本清右衛門が下向し、東奥の駅路に
通史編2(近世1)
(堀越城の限界性)
「
津軽一統志
」(資料近世1No.八二)は、この時の状況を次のように記している。
通史編1(古代・中世)
(東目屋地域に見られる城館跡)
また『
津軽一統志
』第七によると、東目屋地区には少なくとも桜庭(さくらば)・国吉・黒土(くろつち)・中畑
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