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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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資料編2(近世編1)
(第六節 領知朱印と家譜家系)
領知朱印と家譜家系 一 領知朱印 二 家譜家系(「近衛家寄託文書」陽明文庫蔵) 三 近衛基凞と
津軽信政
通史編3(近世2)
(稲荷宮)
神仏分離によって白狐寺は廃寺となり、社名を変えた(篠村正雄「
津軽信政
の稲荷信仰」『市史ひろさき』八)。
通史編3(近世2)
((一)治安機構と共同体規制)
(一)治安機構と共同体規制 四代藩主
津軽信政
(のぶまさ)の治政下、元禄八年(一六九五)の大飢饉を契機
通史編3(近世2)
(白狐寺)
、白狐寺は廃寺となり、胸肩宮(むなかたぐう)(現市内品川町)の神職山辺稲尾が祠掌となった(篠村正雄「
津軽信政
通史編3(近世2)
((三)日常生活)
彼は天和二年五月二十一日に四代藩主
津軽信政
に従って江戸から帰国した。
資料編2(近世編1)
([口絵])
延宝三年十二月二十一日の津軽家初見記事(右) 宝永五年の雑事日記表紙(左) 年未詳八月十一日 系図につき
津軽信政
書状,津軽信吉〔信義〕黒印知行充行状神左馬丞宛 (本文史料五五五号) 寛文元年11月10日
津軽信政
知行目録竹内長右衛門宛
通史編3(近世2)
(会合・来客の場合)
そのほかに宝永三年(一七〇六)十二月(前掲『
津軽信政
公事績』「国日記」正徳元年(一七一一)八月二十六日条
通史編2(近世1)
(津軽家の自己認識確立への試み)
津軽信政
の弟である可足権僧正(かそくごんのそうじょう)が津軽家に伝わる「御家古代ノ事実ヲ略記」した「可足権僧正筆記,また
津軽信政
の自筆による「津軽家譜草案」(弘図古)の系図では、始祖を金沢家光(かなざわいえみつ)とし、,また、疑義が挟まれた場合、近衛家にも波及する問題となる可能性があった(後述する近衛家に
津軽信政
が差し出
通史編2(近世1)
(高照神社の造営と「名君」信政像の創出)
高照神社の造営と「名君」信政像の創出 生前、
津軽信政
は、幕府の神道方であった吉川惟足(よしかわこれたり,図97.
津軽信政
の墓 五代藩主津軽信重(のぶしげ)は翌正徳元年(一七一一)から同二年にかけて信政,一般に
津軽信政
は、藩の「中興の英主」と見なされ、「名君」として語られることが多い。
通史編3(近世2)
(平日の食事)
記録に、飲食は質素なものを用い、黒米(玄米)に鏡汁(具を入れない味噌汁)だけで済ました(菊池元衛編『
津軽信政
公事績
通史編3(近世2)
(稲荷宮)
柳原中屋敷へ避難したところから、これを信仰し、津梁院(現東京都)境内に和徳稲荷宮を勧請したらしい(篠村正雄「
津軽信政
通史編3(近世2)
(浄土宗)
白狐寺は藩主の意志で創建されたので、藩内では特に問題にならなかった(篠村正雄「
津軽信政
の稲荷信仰について
通史編2(近世1)
(近世中期の三人の藩主)
近世中期の三人の藩主 宝永七年(一七一〇)十月十八日、
津軽信政
は弘前城中で死去し、同年十二月十九日、
通史編3(近世2)
(時期・日数・通路)
江戸~弘前間の往復に必要とした日数について二、三例を挙げると、 ○四代藩主
津軽信政
(つがるのぶまさ
通史編2(近世1)
(信政の襲封と黒石分知)
図86.
津軽信政
画像 信英は、分知を受ける領地について津軽信隆(のぶたか)ら宗家重臣に選定を委
通史編2(近世1)
(一 明暦検地の意義)
明暦検地は、明暦二年二月に幕府が四代藩主
津軽信政
の跡目相続を認め、その後見として叔父で旗本の西丸書院番津軽信英
資料編2(近世編1)
(【解説】)
【解説】 本章は、津軽領における「産業と海運の発達」として、おおむね第四代藩主
津軽信政
の時期から藩政後期,漆木も寛永七年(一六三〇)、各村に五万本の移植が進められて以来、順次領内各地へ植林が奨励され、四代藩主
津軽信政
通史編5(近・現代2)
(山鹿学の影響)
津軽大学)と鶴の夫喜多村源八(津軽監物)は信政に仕え、重臣となっており、延宝八年(一六八〇)九月、素行は
津軽信政
通史編5(近・現代2)
(津軽塗)
津軽塗 弘前市の名産として有名な津軽塗は、四代藩主
津軽信政
が奨励して以来、代々の藩主によって名産の育成
通史編3(近世2)
(山林の火災)
次いで翌年三月には野火をつけることはもちろん、火打道具を持って山へ入ることが禁止された(菊池元衛編『
津軽信政
公事績
通史編2(近世1)
(黒石津軽家の大名昇格)
黒石津軽氏は、明暦二年(一六五六)二月、四代藩主
津軽信政
の叔父である信英(のぶふさ)が、五〇〇〇石をもって
通史編3(近世2)
(津軽における漆工芸の起点)
津軽信政
は、江戸をはじめ他藩の漆工技術の高さを知り、その技術移入と漆産業育成の必要から大野山六郎左衛門
通史編3(近世2)
(喜多村校尉政方)
喜多村校尉政方
津軽信政
が山鹿素行に師事し、素行の弟子を多く召し抱えたことから、素行の学問・思想が藩内
通史編2(近世1)
(津軽家宛ての領知宛行状と領知高の変動)
年月日 差出 宛所 種別 事由 石高合計 内分 記載 872 寛文4年(1664)4月5日 徳川家綱
津軽信政
,朱印状 継目 安堵 47,000石 あり 874 貞享元年(1684)9月21日 徳川綱吉
津軽信政
,発給者 宛 所 発給年月日 内 容 内分分知記載 八七三 徳川家綱
津軽信政
寛文四年(一六六四, 五〇〇 (信純) 勢多郡之内 五〇〇 計 一、〇〇〇 八七五 徳川綱吉
津軽信政
通史編2(近世1)
(文教政策の展開)
一七一二)、評定所において家中を対象とする毎月六度の講釈の開始が命じられた(『記類』上、羽賀与七郎「
津軽信政
通史編3(近世2)
(火災)
出火があった場合、早速その場へ駆け集まり打ち消すこと、とみえている(「御定法古格」弘図古、菊池元衛編『
津軽信政
公事績
通史編2(近世1)
(綱吉政権下における大名課役)
図50.天和三年就日光御修復被仰渡覚帳 目録を見る 精細画像で見る 翌年、藩主
津軽信政
は、国元,
津軽信政
はこの時期、御馳走人を四度務めている。
通史編3(近世2)
(信政)
これを祀る土地は繁栄するということから、信政は領内の産業振興の神として祀ったものであろう(篠村正雄「
津軽信政
通史編3(近世2)
(高岡霊社の宝蔵・弘前城の金蔵へ侵入)
真言宗久渡寺(くどじ)(現市内坂元)の役人の今庄太郎は、安政三年(一八五六)十一月九日に、第四代藩主
津軽信政
通史編2(近世1)
(乳井貢と先行思想)
四代藩主
津軽信政
(一六四六~一七一〇)は十五歳の折り素行に入門し、以後素行が病没するまで師事し、弟の政朝
資料編2(近世編1)
(はじめに)
では、右に述べた事情により紙幅の制約から網羅主義を採用できず、政治動向では、初期藩体制の成立、四代藩主
津軽信政
通史編3(近世2)
(江戸勤番と生活)
(現東京都千代田区)にあったが、下野那須家烏山藩の御家騒動に連座して、貞享四年(一六八七)、四代藩主
津軽信政
,藩主(四代
津軽信政
)が午前七時に江戸城へ参り、正午に帰る。
通史編3(近世2)
(消防制度)
足軽頭・諸手(しょて)足軽頭の三役が申し合わせて、一組が定(じょう)火消を勤めることになっていた(前掲『
津軽信政
公事績
通史編3(近世2)
((三)主要人物)
仙台に潜伏した後に、四代藩主
津軽信政
に召し抱えられ、当田半兵衛と改名した。
通史編2(近世1)
(弘前藩庁日記の開始)
弘前藩庁日記の開始 寛文元年(一六六一)六月三日、
津軽信政
の弘前初入部の記事をもって「弘前藩庁日記」
通史編2(近世1)
(「津軽一統志」の編纂まで)
信枚に次いで歴史編纂に意欲を燃やしたのが四代藩主
津軽信政
である。
通史編2(近世1)
(野本道玄の招聘)
野本道玄の招聘
津軽信政
が藩主だった時代には、数多くの諸方面の人材が招聘(しょうへい)され、津軽領の
通史編2(近世1)
(寛文蝦夷蜂起と津軽弘前藩)
利房は
津軽信政
の義兄に当たる人物である。,幕府は
津軽信政
に対し、軍役遂行の代償として翌年の江戸への参勤を免じるとともに(資料近世1No.八三七)
資料編2(近世編1)
(【解説】)
具体的には、藩政確立期として第四代藩主
津軽信政
の藩主就任の明暦二年から、おおむね第七代藩主津軽信寧(のぶやす
通史編3(近世2)
(勤務の状況)
勤務の状況 四代藩主
津軽信政
(のぶまさ)の時代、貞享五年(一六八八)の「諸式要集」の中にある「御在国中御定法
資料編3(近世編2)
(二 思想)
四代藩主の
津軽信政
をこの「聖人」に比定し、この代で本藩において文物制度が備わったと見るのである(「妙公
通史編2(近世1)
(関ヶ原の戦いと津軽氏)
ただ、寛文四年(一六六四)、四代藩主
津軽信政
に対して発給された領知朱印状・領知目録には上野国勢多郡内に
通史編3(近世2)
(出開帳)
四代藩主
津軽信政
が寄進の阿弥陀仏・十一面観音・薬師如来(享和三年〈一八〇三〉の「寺社領分限帳」)が、本地仏
通史編2(近世1)
(糧米確保)
津軽信政
は、九月二十三日に、老中戸田山城守(忠昌)・柳沢出羽守(保明)に領内の凶作の様子を報告している
通史編3(近世2)
(三 八幡宮の祭礼と山車の運行)
天和二年(一六八二)、四代藩主
津軽信政
の時より、八幡宮の神輿および各町内の山車(だし)、続いて武具を備
通史編3(近世2)
(居開帳)
対する開帳では、元禄七年(一六九四)、岩木山三所大権現の下居宮(おりいのみや)の遷宮があり、四代藩主
津軽信政
資料編2(近世編1)
(【解説】)
編年体史料の最終条は、明暦二年二月二日、江戸幕府が四代藩主
津軽信政
(つがるのぶまさ)の跡目相続を認め、
通史編2(近世1)
(信政晩年の藩政)
そして、宝永七年十月十八日、
津軽信政
は弘前城中で死去する。
通史編2(近世1)
(越後高田領検地の実施)
この検地は、
津軽信政
の他に、信濃(しなの)国松代(まつしろ)(現長野県長野市松代町)藩主真田幸道(さなだゆきみち
資料編2(近世編1)
(新編 弘前市史 資料編2(近世編1) 目次)
家譜家系 ……………………………………………………………………………… 五四一 三 近衛基凞と
津軽信政
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