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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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資料編2(近世編1) (編年史料 (天正十七年~明暦二年))

●正保四年(一六四七)五月十五日、津軽信義、江戸より帰国する。,後、津軽信義排斥の家中騒動起こる。,●承応二年(一六五三)三月二十一日、津軽信義の証人交代あり。,●承応三年(一六五四)三月二十四日、津軽信義の証人交代あり。,●明暦元年(一六五五)正月二日、津軽信義、幕府へ目見を願う。
通史編2(近世1) (信政の襲封と黒石分知)

信政の襲封と黒石分知 明暦元年(一六五五)十一月二十五日に津軽信義が江戸で死去した(資料近世1No.
通史編2(近世1) (正保の信義排斥事件)

図76.津軽百助(信隆)宛津軽信義知行加増黒印状  なお、慶安元年(一六四八)閏正月十七日に弘前城中
通史編3(近世2) ((一)概要)

和歌については、津軽における歌道振興がみられたのは三代藩主津軽信義(つがるのぶよし)の時代である。
資料編2(近世編1) ([口絵])

陸奥国津軽郡之絵図①(青森県立郷土館) 正保二年十二月二十八日、三代藩主津軽信義が江戸幕府へ提出したものの
資料編2(近世編1) (【解説】)

すなわち三代藩主津軽信義までの藩政を扱うことにしたのであって、その理由は、次の二点である。  ,第一は、藩政全体の動向から見た場合、四代信政の時期は藩政確立期として位置づけられ、三代藩主津軽信義に至
通史編3(近世2) ((三)主要人物)

正保三年(一六四六)医家として召し出され、三代藩主津軽信義(のぶよし)に仕えた。
通史編3(近世2) ((三)主要人物)

父は青沼藤兵衛盛長(とうべえもりなが)で、三代藩主津軽信義(つがるのぶよし)の時、慶安二年(一六四九)
通史編2(近世1) (「津軽一統志」の編纂まで)

その内容は藩祖為信の誕生から津軽信義の入部までを記し、また「東日流記後録」には、岩木山や津軽家の先祖に
通史編2(近世1) (津軽家の自己認識確立への試み)

筆によること、そして津軽家の祖大浦政信が近衛尚通(ひさみち)の猶子(ゆうし)であることを認める書状を津軽信義
通史編2(近世1) (信義の襲封)

図73.津軽信義画像  信義の正室は、松平因幡(いなば)守康元の三男康久の三女富宇(ふう)で、二代藩主信枚
通史編2(近世1) (公家との関係)

津軽家の「宗家」とされ、系図の上においても、「寛永諸家系図伝」編纂の際、幕府から系図の提出を求められた津軽信義
通史編2(近世1) (掲載図版・写真の典拠・所蔵一覧)

弘前市 長勝寺蔵 74 南津軽郡浪岡町 浪岡八幡宮蔵 75 鉄砲之定 元和9年 弘前市立博物館蔵 76 津軽信義知行加増黒印状
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