機関トップ
資料グループ
テキスト一覧
年表一覧
キーワード一覧
弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
トップページ
詳細検索
詳細検索
目録
テキスト
年表
キーワード
その他(トップページ等)
検索条件を追加
目録
テキスト
年表
キーワード一覧
その他(トップページ等)
AND
OR
NOT
年号変換
閉じる
検索結果
: 8件
辞書ファセット
○○○
△△△
10件
20件
50件
100件
(並べ替え)
テキストタイトル(昇順)
テキストタイトル(降順)
ページタイトル(昇順)
ページタイトル(降順)
掲載ページ(昇順)
掲載ページ(降順)
/ 1ページ
通史編2(近世1)
(正保の信義排斥事件)
一味連判をしたものは、
津軽信隆
(のぶたか)・津軽権之丞・杉山八兵衛・大道寺宇左衛門・富岡武兵衛・大野甚右衛門,ところが、このうち北村と
津軽信隆
が仲間を裏切り、信義にこの企てを告げたため、島村父子は暇を出され中村(,また、信義の弟である
津軽信隆
はこの年十二月に五〇〇石の加増を受けているが(同前No.六九五)、加増理由,
津軽信隆
はこの年二月十三日さらに三〇〇石の加増を受けており(同前No.七〇五)、二年連続しての大幅な加増
通史編2(近世1)
(信政の襲封と黒石分知)
図86.津軽信政画像 信英は、分知を受ける領地について
津軽信隆
(のぶたか)ら宗家重臣に選定を委
通史編3(近世2)
(藩士の信仰)
万治元年(一六五八)、家老
津軽信隆
が死ぬと、家来二人が殉職した。
通史編2(近世1)
(津軽信英による後見政治と法令の整備)
後見政治の期間、家老として特に重きをなしたのは、信英と同じく前藩主信義の弟である
津軽信隆
と、神保清成(
通史編2(近世1)
(知行宛行状の発給)
さて、寛永十七年(一六四〇)十一月二日には
津軽信隆
へ高五〇〇石の知行宛行状が発給された(同前No.六二,正保四年(一六四七)十二月に入ると、
津軽信隆
は掛落林(からばやし)村(現板柳町掛落林)一村の内で高五〇〇,二月十三日には
津軽信隆
にまた加増があり、二七ヵ村で高三〇〇石が加増された(同前No.七〇五)。
通史編2(近世1)
(「出頭人」の台頭)
さらに、延宝八年(一六八〇)一月十一日、信政の実弟で、叔父
津軽信隆
の養子となった津軽政朝が家老になった
通史編2(近世1)
(支配機構の整備)
頭の四人はいずれも藩主信政の親族に当たる人々であり(政朝は
津軽信隆
の養子で信政の同母弟、為久と為節は信政
資料編2(近世編1)
(編年史料 (天正十七年~明暦二年))
●寛永十四年(一六三七)、この年、津軽信吉の弟
津軽信隆
の屋敷、城の南門の付近に建築を許され、信隆、盛岡采女,●寛永十七年(一六四〇)十一月二日、津軽信義、
津軽信隆
へ黒印状を下し、知行五百石を充行う。,●正保四年(一六四七)十二月、この月、津軽信義、一門の
津軽信隆
へ掛落林村に加増し、五百石の知行宛行状を,●慶安元年(一六四八)二月十三日、津軽信義、一門
津軽信隆
へ知行目録を下付し、三百石を加増する。
/ 1ページ