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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編1(古代・中世) (渡嶋の所在)

しかしその前提には、当時の「津軽」を現在の津軽半島一帯にまで広げて考える理解があり、この点についてはさらに,というのは、中世になっても、津軽三郡ないし津軽四郡と称されて「津軽」の名を冠せられた地域は、津軽鼻和郡(津軽半島南部,津軽半島海辺部は、中世になって国郡制が本州の北端にまで及んだ段階でも、「郡」の名がつかない、外浜(そとのはま,津軽半島海辺部・北部は、津軽のうちではなく、むしろ津軽の先に広がる渡嶋のうちと考える余地は十分にあるわけである,このことを先に触れた津軽半島の海辺部に「津軽」に含まれない地域があったこととあわせて考えれば、この津軽半島海辺部
通史編1(古代・中世) (県下の諸郡)

津軽田舎郡は黒石市・南津軽郡尾上町・田舎館村付近、津軽山辺郡は黒石市・南津軽郡浪岡町付近、津軽鼻和郡は津軽半島南部,からその南方の岩木川左岸にかけての地域、西浜は津軽半島北部の日本海側外浜は津軽半島北部の陸奥湾岸沿いにあたる
通史編1(自然・原始) (津軽山地)

津軽山地 津軽半島は北が津軽海峡、西が日本海、東が陸奥湾と三方が海に面し、南西方には岩木火山が位置している,図2 津軽半島の地形分類図(青森県,1970より部分掲載)  津軽山地は、東北地方の中央部を南北
通史編1(古代・中世) (特殊な行政区画)

特殊な行政区画 なお津軽半島部は、陸奥湾側が外浜(そとのはま)、日本海側が西浜(にしのはま)というように,また津軽半島地域の場合には、日本の東の境界と目されていた特殊な地域であったことも関係していよう。
通史編1(古代・中世) (境界の地外浜)

すでに触れたように、津軽三郡も外浜・西浜も、いずれも北条得宗領であったが、津軽半島の海岸部が、郡ではなく,津軽半島の日本海側は、西浜という呼称であるが、外と西という奇妙な対句も、こうした語源によって生じたものと
通史編2(近世1) (津軽領内のアイヌ民族)

正保国絵図」の下図を貞享二年(一六八五)三月に写した「陸奥国津軽郡中絵図」(青森県立郷土館蔵)のうち、津軽半島,津軽半島では、今別(いまべつ)村(現東津軽郡今別町)と、野田(のだ)村(現青森市)から小泊(こどまり),一六六九)時点の津軽領内のアイヌの家族について記した「御領分犾之覚」(寛文九年十一月六日付)によると、津軽半島,「陸奥国津軽郡中絵図」津軽半島の犾村 表17 津軽領内のアイヌ 村  名 軒数(軒) うた村
通史編3(近世2) (商社の活動内容)

中心は津軽半島の三厩(みんまや)(現東津軽郡三厩村)・今別(いまべつ)(同今別町)産の昆布であり、同地,三厩は津軽半島の先端に位置し、松前と十三(じゅうさん)・鰺ヶ沢(あじがさわ)・深浦(ふかうら)等の西海岸諸港,また、十三湖は岩木川舟運(しゅううん)の海の玄関口であり、津軽半島の新田地帯と密接につながっていたが、,この開削に要した労働力は延べ一〇万人といわれ(『津軽承昭公伝』)、西海岸と青森および津軽半島内陸部の連結
資料編1(考古編) (35.大釈迦層Ⅷ)(だいしゃかそう))

模式地は、浪岡町大釈迦トンネル付近、津軽半島周縁及び弘前盆地東縁に広く分布する。
通史編1(自然・原始) (位置と地勢)

すると、中央を縦走する中央山地(平均標高一〇〇〇メートルを超える)、西部山地(平均標高五〇〇メートル)、津軽半島山地,陸奥湾に入る川に、青森市内を北流する堤川、津軽半島東部の新城(しんじょう)川、蟹田(かにた)川などがある
通史編1(自然・原始) (津軽付近に震源のある地震(内陸地震))

弘前から黒石を中心に青森・津軽半島にかけても被害が発生した。
通史編2(近世1) (検地の性格と目的)

寛文年間以降、津軽半島北部や岩木川下流域、そして、下ノ切地域を可耕地に変えるために、藩主導のもとに大規模
通史編1(古代・中世) (後方羊蹄の所在地)

こうして津軽半島北部の蝦夷までが大和政権と朝貢関係を結ぶにいたって、「北征」に一応の目途(めど)をつけた
通史編1(古代・中世) (鬼王・安日)

外浜とは、津軽半島の陸奥湾側(東側)の地域であり、中世において、日本国の東の境界と認識され、まさに鬼の
通史編2(近世1) (町年寄の由緒)

いだ三代目の松井助左衛門のときに、十三湊の再開発に着手し、そのほかにも、小泊・飯詰・金木・浪岡など、津軽半島
通史編1(古代・中世) (文献史料から見た戦国動乱の激化)

そのことによって津軽半島中央部を掌握し、天正十三年(一五八五)三月に、中世における奥大道(おくだいどう,この油川城がある油川を基点として津軽半島の突端に位置する三厩(みんまや)まで、仕置役による外ヶ浜支配がなされるという
通史編1(古代・中世) (有間浜の所在)

えて、齶田浦からある程度北上した、おそらく西津軽郡深浦(ふかうら)町か鯵ヶ沢(あじがさわ)町あたりの津軽半島西海岸
資料編1(考古編) ((3)弥生時代の土壙墓)

現在までに発見されている当該遺構の代表的なものは、津軽半島の突端に近い東津軽郡三厩村宇鉄字下平に所在する
通史編1(古代・中世) (古墳文化と続縄文文化の交流)

続縄文土器の分布は、津軽半島から日本海沿岸地域にかけては希薄で、分布はやや東に片寄るものの、ほぼ全域に
通史編1(自然・原始) (平安時代の降下火山灰)

十和田湖の御倉半島突端に誕生した溶岩ドーム(御倉山)の噴火活動によるもので、十和田湖を中心に厚く堆積し、津軽半島
通史編1(自然・原始) (日本海沿岸海域に震源のある地震)

一四六七人の溺死者、家屋・倉庫の破壊七九一棟、船舶破損一五二一隻などの被害が発生し、本県でも津波被害が津軽半島周辺
通史編3(近世2) (繭)

また一疋作りでも在来の国繭は質の点て対象ではなく、きんこ(絹子)繭に限られていたが、津軽半島の陸奥湾に
通史編1(自然・原始) (太平洋戦争終結後)

早稲田大学では、桜井清彦が津軽半島をフィールドとして、市浦村相内の鰊崎(にしんざき)・岩井(いわい)・,昭和三十年(一九五五)を迎え、清水潤三を中心とする慶応大学の一行は、津軽半島突端に近い三厩村宇鉄(三月,この年、東京大学東洋文化研究所は、江上波夫・関野雄に早稲田大学の桜井清彦も加わり、津軽半島の十三湖北岸
通史編1(自然・原始) (津軽地域の気温と特徴)

この気温差に八甲田山地や津軽半島山地による衝立(ついたて)効果が現われている。
通史編1(自然・原始) (月別平年気温の都市別比較)

津軽半島陸奥湾側の蟹田から北部で九℃くらいである。
通史編1(自然・原始) (江戸時代~明治十七年(一八八四))

(しもきた)半島の佐井(さい)村にある矢根森(やのねもり)八幡(八幡堂)、むつ市女館(おんなだて)、津軽半島
通史編1(古代・中世) (安藤氏の所領)

ただし右掲の二点の安藤嫡流家に関する譲状に、津軽半島の陸奥湾側である外浜の名がみられないことから、外浜
通史編2(近世1) (災害の続発とその影響)

破船・難船多数  7月21日 水害 堤川 堤川出水  9月23日 風害 外浜・津軽半島西海岸,死者33,家屋損壊176,破船167 寛保2(1742)  7月 2日 水害 津軽半島
通史編1(自然・原始) (県内の月別降水量)

津軽半島北部に局地的ながら一五〇〇ミリの多雨域がある。
通史編3(近世2) (織座)

紺屋(こうや)と称し、藍染を主とする染物職人の町)の北側にあり、西浜街道(西浜は津軽半島の西側日本海に
資料編1(考古編) (〈2〉津軽地方で生産された須恵器)

築窯された場所は、弘前市の北方約30kmの津軽半島の中央部を南北に走る中山山脈の南端、梵珠山(標高468m
通史編2(近世1) (十三小廻しの成立と町の盛衰)

これは、十三町と津軽半島の北側との交通・運輸の活性化を目指したものであり、十三の町・湊の双方を振興させようとしたものであろう
通史編1(古代・中世) (中世の境界認識)

外浜は、周知のように津軽半島の陸奥湾岸部を指す。
通史編3(近世2) (青森商社と帰田法)

加えて、津軽半島の新田地帯(現西北津軽郡一帯)や古くからの穀倉地帯であった弘前周辺の村々からの物産は、
通史編1(自然・原始) (第一節~第三節 引用・参考文献)

における地形発達史、地理学評論 第四九巻第一一号、七一四~七三四頁 辻誠一郎・遠藤邦彦(一九七八) 津軽半島西海岸
資料編1(考古編) ((2)石器)

津軽半島突端に近い三厩村中ノ平遺跡で出土した黒曜石製の石槍は北海道産であり、必要不可欠のものは他の地域
通史編5(近・現代2) (藤森市政の財政)

その後指定に向けた運動が展開され、五十年三月、総面積二万六〇〇〇ヘクタール余り、津軽半島北端部から日本海
通史編1(自然・原始) (昭和時代)

さきに喜田貞吉の「亀ヶ岡文化は江戸時代説」を紹介したが、喜田は大正十四年(一九二五)七月に津軽半島の三厩
通史編1(自然・原始) (発掘調査の成果)

このほか大平野(おおだいの)・大館森山(おおだてもりやま)など製鉄に関する遺跡は多く(131)、津軽半島
資料編1(考古編) (-文献リスト-)

.48,No.3,P.108-111 ◇54 氏家良博・神宮宏(1992) 有機相からみた古環境-津軽半島新第三系
資料編1(考古編) (〈注及び参考文献一覧…第3章〉)

「擦文式土器の形態分類と編年についての一試論」(物質文化15) 1970年 *86 北林八洲晴 「津軽半島
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