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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編1(自然・原始) (津軽地域の気温と特徴)

津軽地域の気温と特徴 地上気温は、生活環境に適応して、地表付近の高さによる温度傾度の小さくなる地上一,津軽地域の平均的な日較差は、平均値で一〇℃前後、毎日値では〇~二〇℃と振幅が大きく変化している。,津軽地域の青森・深浦・弘前および太平洋側の八戸・むつのアメダス観測点相互の月別気温の比較から、同じ津軽地域内,または津軽地域と東部地域(太平洋側)との気温特性をまとめると次のようになる(表15)。,しかし年変化に大差はなく、その意味では気候値や気候変動などに、統計年数の長い青森地点の資料が津軽地域の / 津軽地域の気温と特徴
通史編5(近・現代2) (一 津軽地域の中核都市弘前の財政)

一 津軽地域の中核都市弘前の財政 藩政期より弘前は城下町であり、近代になっても津軽地域の中核都市と位置,昭和三十年(一九五五)三月一日、弘前市と中津軽郡一一ヵ村の合併が成立すると、弘前市は津軽地域の中核都市,から福士市政そして金澤市政へと引き継がれていくが、行財政運営は市だけでなく、常に国家財政に働きかけた、津軽地域全体 / 一 津軽地域の中核都市弘前の財政
通史編2(近世1) (津軽地域の確保と蝦夷荒)

津軽地域の確保と蝦夷荒 「津軽徧覧日記」一(弘図八)の「古城・古館之覚」にみえるように、戦国末期、村市 / 津軽地域の確保と蝦夷荒
通史編5(近・現代2) (新弘前市総合開発計画(昭和五十九年計画)の策定)

津軽地域の開発については、従前各部門ごとの個別の事業計画によって進捗が図られてきたが、昭和五十六年七月,、青森県が津軽地域開発基本構想を策定して総合的な開発の施策体系を構築した。,弘前市の総合開発計画における基本方向とそれに基づく諸施策の展開は、津軽地域開発基本構想の一つの進展であり,そのほかに、津軽地域を包む開発計画には、新津軽地域広域市町村圏計画、津軽地方生活圏定住基盤総合整備計画,、津軽モデル定住圏計画があり、津軽地域における定住圏構想を示しているが圏域内市町村との連携を保ちながら
通史編1(自然・原始) (ヤマセと冷害)

この季節、日照は稲作を中心とした農作物に大事であるが、六月・七月の日照率が津軽地域では平年の八〇%どまりになっているのに,気温は津軽地域でも平年より月平均気温で二~三℃低いが、日照不足による障害が抑えられるため、冷害を受けながらも,このように冷害年の稲作でみるように、同じ低温障害期間にあっても、津軽地域は日照時間に恵まれ地帯別作況指数
通史編4(近・現代1) (養蚕業の奨励)

明治期を通して、青森県内の主要農産物は米が中心で、津軽地域ではりんごが急速に伸張したが、養蚕業は全国的,そもそも津軽地域においては藩政時代から養蚕が奨励されていた。,しかし、津軽地域において、養蚕業の発展は制約されていた。
通史編1(自然・原始) (月別平年気温の都市別比較)

そこで、津軽地域における気候値特性を、月別平年気温で周辺都市などとの比較でみてみる。  ,北海道は九℃以下と低温であるが、津軽地域でも九℃台の低温域がある。,このように津軽地域の農作業期間は、東京周辺の地域気候から七月・八月の盛夏期を除いた天候に相当し、暖候期間,津軽地域と同じ雪国である新潟は、若干低緯度であるほか対馬暖流の影響もあって比較的温和で、青森と東京とのほぼ,北海道は津軽地域と同じ北日本圏に区分されることもあるが、年平均気温は札幌八℃。
通史編1(古代・中世) (かわらけと陶磁器)

中崎館遺跡出土のかわらけ  この「かわらけ」が一二世紀後半から一三世紀前半にかけて、弘前および津軽地域,鎌倉市内の遺跡群から出土するかわらけにおおむね対応しており、平泉や鎌倉における政治的影響力や文化的な面が津軽地域,出土するかわらけの類似性は、単純に似ているというだけでなく、儀礼的に使用する器であることを加味すると、津軽地域,一二世紀後半から一三世紀前半にかけての遺物が出土している遺跡を示すと青森県内でも津軽地域の内陸部で卓越,図31 12世紀後半から13世紀前半の遺跡分布図  ところが、一三世紀後半以降は津軽地域のみならず
通史編1(自然・原始) (大雪と豪雪)

大雪と豪雪 津軽地域は雪国である。,が遅いことなどもあり、局地性が強く年により降雪分布も変わり、同じ地点の降雪・積雪量の変動幅も大きく、津軽地域,また津軽地域の積雪は、暖候期の農業用水や工業用水、生活用水としての貴重な水資源の自然貯蔵として注目されている,津軽地域の雪は、主として西よりの季節風の吹き出しによる寒気にかかわるものである。,津軽地域の降雪は、高層観測がある近くの秋田上空約五〇〇〇メートルの気温から、次のように見当がつけられる
通史編1(自然・原始) (気候境界と地域特性)

この気候境界は、暖候期は冷害の原因である「ヤマセ」の障壁になって、津軽地域への影響を弱め、寒候期における,季節風時には、日本海側(津軽地域)の降雪・積雪に対し太平洋側(三八・上北・下北地域)の冬晴れといった異,重要な気候境界ともなっている八甲田山系で区分される気候区は「日本海側気候-津軽地域」と「太平洋側気候-
通史編1(古代・中世) (中崎館の鉄製品)

ところが北日本・津軽地域の遺跡では、たとえば中崎館のように、農具(鎌・鋤先)やカラムシの繊維製作に使った,津軽地域では、碇ヶ関村古館(ふるだて)遺跡に類例があり、岩手県平泉町柳之御所跡の堀跡から出土したものは,近年までは、福島県あたりまでしか鋳型の出土が認められなかったことから、津軽地域の鉄鍋もすべて搬入品とみられていたが
通史編1(古代・中世) (陶磁器と地域社会)

陶磁器と地域社会 津軽地域では、陶磁器の使用に関して興味ある事例が存在する。,図48 陶磁器アセンブレッジの地域相 (小野正敏原図)  津軽地域は「北国相」のなかに入り、煮炊
通史編1(自然・原始) (真夏日・夏日・真冬日からみた地域特性)

弘前、碇ヶ関にみられるように、弘前・南津軽地域は高温日が多いことがわかる。  ,弘前・南津軽地域の夏の暑さは、内陸・盆地性の高温で日較差が大きい。,特に、弘前、中・南津軽地域は六〇日を越える。,津軽地域の真冬日出現の日数は、海岸で三〇日、内陸で三五日前後である。
通史編1(自然・原始) (県内の月別降水量)

津軽地域全体の年間降水量分布をみると、八甲田山地から十和田カルデラ帯にかけてが一八〇〇ミリ以上で県内最多域,弘前・中津軽地域は一一〇〇ミリ台と少なく、黒石は約九〇〇ミリで極小域の中心になる。,津軽地域平均では、一四〇〇ミリである。,比較的少ない地域は、弘前・中津軽地域で三〇〇ミリ、黒石が二〇〇ミリの最小となっている。
通史編1(古代・中世) (一 十三湊と津軽)

一 十三湊と津軽 津軽地域と他地域との交易を考えるとき、物資の窓口として十三湊(とさみなと)は特筆すべき
通史編1(自然・原始) (積雪)

西海岸で四〇~七〇センチメートル、弘前、中・南津軽地域で八〇~九〇センチメートルとやや多い。,最深積雪が平地で二〇〇センチメートルを超えるのは多雪地でもまれで、津軽地域では約一〇〇年の再現期間になる,平均の根雪初終期間をみると、津軽地域の平地平均は、初日が十二月上旬末から中旬、終日は三月下旬で約一〇〇,最深積雪の多少の幅は、津軽地域を平均して、平年の最深積雪に比べ、多雪年で二倍前後、少雪年は三分の一から,そのうち、津軽地域で発生した融雪・洪水による災害例がある。
通史編1(古代・中世) (大浦氏の城下町建設の流れ)

大浦氏の城下町建設の流れ 大浦氏が津軽地域を掌握するきっかけは、西海岸の掌握と西浜の南方にある安東氏,そして大浦盛信の子である為信が大浦城を拠点として津軽地域の領土拡張に向けて動き出していく。  
通史編1(古代・中世) (第三節 南北交易と「境界地域」津軽)

この背景には、津軽地域および夷島の各種物資が相当量南に向かって流通し始め、その見返りとして陶磁器や銭貨,庭訓往来』 目録を見る 精細画像で見る  交易や文化交流という視点から、考古学的に理解され始めた津軽地域
通史編1(自然・原始) (地下水系)

図44 温泉の水素イオン濃度分布(pH)(5万分の1津軽地域広域市町村圏図〈国土地理院承認番号 平元,
通史編5(近・現代2) (昭和恐慌と相次ぐ災害)

全国的なデフレ不況は農産物価格の下落をもたらし、農業中心の津軽地域経済に打撃を与えた。
通史編5(近・現代2) (福士市政の財政)

四期にわたる福士市政は藤森市政から引き継がれた都市開発や生活環境整備に重点が置かれ、市政の後半は津軽地域開発,写真158 追手門広場    (二)津軽広域圏の開発  弘前市の財政における施策が常に津軽地域全体,福士市長は弘前市と津軽地域全体との位置づけを五十九年の第一回定例市議会において次のように述べている。,弘前市は津軽の一つの核として、しかもその中心となって津軽地域全体の発展の中に伸びていかなければならないと,①岩木山ろく開発  岩木山ろく開発は、五十八年度に県が策定した津軽地域開発基本構想の主要プロジェクト
通史編5(近・現代2) (米穀の統制と自作農創設)

でも清水村はりんごの発展を担ってきた地域であるとともに、しばしば農村調査の対象地域となり、わが国及び津軽地域,稲作の収入のみでは払ひきれない小作料を労賃収入から或は苹果収入から支払」つているとする戦時体制突入前の津軽地域
通史編2(近世1) (太閤蔵入地の設定)

次に、津軽地域になぜ一万五〇〇〇石の太閤蔵入地が設定されたのかということについてみてみることにしよう。,後にみるように(本節三参照)、天正十九年(一五九一)十二月、秀吉は、津軽氏に対して津軽地域での巣鷹(すだか,鷹の保護が命じられたのは、単に津軽地域が松前と並んで鷹の産地であったからというのではなく、「御鷹」、すなわち,津軽地域の蔵入地からの蔵米は、鷹運搬のための費用とすることを認められたものであったのであろう。  
通史編1(自然・原始) (熱帯海洋気候イベント)

津軽地域は北海道南西部とともに亜熱帯に位置していた(小笠原、一九九四)。
通史編1(古代・中世) (一六世紀の湊)

特に一六世紀段階の陶磁器については、中国製品・日本製品を問わず、津軽地域で最も多く出土しており、中世段階,場所は現在の青森市後潟(うしろがた)付近と考えられることから、一六世紀中ごろには外浜を中心に、蝦夷地と津軽地域
通史編1(古代・中世) (舶載と国産)

ただし、津軽地域が平野部を中心に分布し、多量の出土を示すのに対し、北海道・下北地域は海岸部や河川の河口,とくに一六世紀になると津軽地域に搬入される陶磁器の量は、地域の拠点的城館である浪岡城・大光寺城・石川城
通史編4(近・現代1) (不況からの脱却)

陸軍第八師団が所在して消費需要が旺盛であったこと、周辺農村も凶作の影響から脱却したこと、また、青森県内の津軽地域
通史編1(古代・中世) (陸の道・海の道)

それは、能登半島に成立した「珠洲(すず)」という陶器が一二世紀後半ころから津軽地域まで搬入され、一部は
通史編1(古代・中世) (四耳壺の出土)

津軽地域へ搬入された四耳壺をみると、白磁四耳壺は浪岡城跡内館、瀬戸四耳壺は市浦村・伝山王坊遺跡、珠洲四耳壺,図33 津軽地域出土の四耳壺と経容器 1 白磁四耳壺(浪岡城内館) 2 瀬戸四耳壺(伝山王坊) 3 
通史編5(近・現代2) (昭和初期の恐慌と冷害凶作)

大正末からこの時期にかけて米作経営は赤字を続け、その中で小作料率はおよそ三割台の高率であったために、津軽地域,、特に中南津軽地域では、同じ小作でも換金園芸作物であるりんご小作に有利性を見出し傾斜していった。
通史編5(近・現代2) (米市場開放と平成の大凶作)

しかし、平成五年(一九九三)の作況指数は青森県二八、津軽地域においても四五とまれに見る低い数字であった,それに伴って、津軽地域においても「食味」重視の傾向の中で、量から質への転換を余儀なくされ、市場評価の低
通史編1(古代・中世) (三 考古学からみた中世的世界)

とくに津軽地域においては、原始・古代はもちろんのこと中世という時代においてさえ考古学的な遺構や遺物の発見
通史編1(自然・原始) (台風来襲)

津軽地域でのリンゴの落果被害は悲惨なものであった。  
通史編1(自然・原始) (夏)

しかし、弘前、中・南津軽地域では影響が弱く、日照時間は比較的長い。
通史編1(古代・中世) (衣の道具)

苧引金は麻やカラムシを柔らかくしてその繊維を取るための道具であり、古代一〇世紀ごろから津軽地域の遺跡を
通史編5(近・現代2) (農村社会の変貌と減反政策)

昭和四十六年に成立した「農村地域工業導入促進法」は、工業の地方分散化を促進したことから、津軽地域にも多,その結果、第一に、地域経済に占める農業の地位は、津軽地域・弘前市は全国的には高いとはいえ、地域経済の中
通史編4(近・現代1) (織物の商況)

津軽地域の購買力の上昇が知られる。
通史編1(古代・中世) (建物の変化)

津軽地域に限ってみても、一二世紀から一三世紀にかけては、八尺から七尺を主体とする間尺で平面形が庇を有する
通史編1(古代・中世) (二 津軽の修験道と神社)

古代の坂上田村麻呂に開基伝承を持つ津軽地域の神社の多くは、その当初、天台系密教(台密)を基調とし、鎌倉時代,とすれば、津軽地域における中世の修験道世界とは、まさしく、鎌倉幕府の「禅密主義」の宗教政策の延長上に花開,その岩木山神社に修験の世界にも君臨していた安藤氏の一族の阿部氏が祠官したことは、津軽地域における神社造営,中世における津軽地域の寺社の世界を根底で支えてきた受け皿は、宗派以前の、ごく自然的な山岳の霊威にひかれ
通史編5(近・現代2) (幹線道路建設)

この結果、津軽地域は首都圏と直接結ばれ、高速交通体系に組み込まれることになった。  ,③津軽地域を縦断する幹線道路として国道三三九号、また県土を横断する幹線道路として三九四号の整備促進を図
通史編1(自然・原始) (日照時間からみた地域特性)

日照時間と日照率について、青森(日本海側として)と八戸(太平洋側として)との比較の中で、津軽地域における
通史編1(古代・中世) (北日本の地域差)

とくに、津軽地域の城館のなかでも平野部と海岸部では出土陶磁器に違いはないものの、農耕具や狩猟具といった
通史編5(近・現代2) (津軽の基幹作物-米とりんご)

津軽の基幹作物-米とりんご 青森県農業、特に津軽地域の基幹作物は米とりんごである。
通史編1(自然・原始) (水文地質学)

一方、津軽地域における多くの温泉貯蔵形態は、古くは石油鉱床に伴う石油かん水的性質を示す、地層に閉じこめられた
資料編1(考古編) (はじめに)

この間、津軽地域においては、特に石油探査や金属資源探査を目的とした地質調査が次々と実施され、地質構造が
通史編4(近・現代1) (地主・小作関係)

また、津軽地域からの移住者も多く、中でも「津軽農場」は、旧弘前藩主津軽家が北海道開拓を志した小作制農場
通史編1(古代・中世) (埋納銭の出現)

この現象は津軽地域においても例外ではなく、一一世紀から一二世紀の古代集落からもわずかながら銭貨の出土が,多くみられることは大きな特徴であり、各種の産業の発展によって経済的行為の媒介である銭貨が必要となり、津軽地域
通史編1(古代・中世) (土器の煮炊から鉄鍋へ)

津軽地域も例外ではない。
通史編5(近・現代2) (弘高通信教育部の誕生)

戦後という時代の要請でもあった、教育の機会均等という方針に沿って、津軽地域の勤労学徒の教育に果たした役割
通史編1(自然・原始) (掘さくの深度)

図41 温泉掘さく深度分布(5万分の1津軽地域広域市町村圏図<国土地理院承認番号 平元,東複第8号>を
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