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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編1(自然・原始)
(三 津軽地方災害年表凡例)
三
津軽地方
災害年表凡例 この年表は、
津軽地方
に発生した災害と気象(地象・水象を含む)現象について、 / 三
津軽地方
災害年表凡例
通史編1(古代・中世)
(地方色を顕す古代の津軽地方)
地方色を顕す古代の
津軽地方
文献史上では空白あるいは謎とされている
津軽地方
の一〇世紀後半から一一世紀,をみてもわかるように、土師器坏が極端に減少し、把手付土器や蒸籠形甑(せいろうがたこしき)が普及するなど
津軽地方
,一二世紀中葉から後半の遺跡の大半は
津軽地方
に集中し、弘前市境関館遺跡・浪岡城内館跡・青森市内真部(うちまっぺ,一二世紀後半以降、広域流通システムに組み込まれていった
津軽地方
は、次第に中世的様相を帯びてくることになる / 地方色を顕す古代の
津軽地方
通史編1(自然・原始)
(四 津軽地方災害年表(古代~近世))
四
津軽地方
災害年表(古代~近世) [
津軽地方
災害年表(古代~近世)] / 四
津軽地方
災害年表(古代~近世)
通史編1(古代・中世)
(津軽地方の古代信仰)
津軽地方
の古代信仰
津軽地方
では、青森市細越遺跡の九世紀末~一〇世紀前半期とされる水路跡から斎串(いぐし,図24
津軽地方
の木製形代類 土馬は東北地方では類例が極めて少ないが、黒石市甲里見(こうさとみ,図25
津軽地方
の祭祀遺物 土鈴については、東北地方では陸奥国を中心に分布していて、出羽国にはほとんどみられず,中心とするものと農民層の信仰との二者にかなり明瞭に分かれるようになっていたとされているが、平安時代の
津軽地方
/
津軽地方
の古代信仰
通史編1(自然・原始)
(五 津軽地方災害年表(近・現代))
五
津軽地方
災害年表(近・現代) [
津軽地方
災害年表(近・現代)] / 五
津軽地方
災害年表(近・現代)
通史編1(古代・中世)
(七・八世紀代の津軽地方)
七・八世紀代の
津軽地方
八世紀代の奈良時代に併行する時期には、尾上町李平下安原(すもだいしもやすはら,
津軽地方
におけるこの時期の集落の展開は散在的ではあるが、東の太平洋側と同様、集落の形成と呼応して群集墳 / 七・八世紀代の
津軽地方
資料編1(考古編)
(〈2〉津軽地方で生産された須恵器)
〈2〉
津軽地方
で生産された須恵器 須恵器は、登窯によって1000℃以上の高温でしかも還元状態で焼かれた,(1967)に発見され、当時、古代律令体制と密接な関係を持つとされた須恵器生産が、律令体制外とされる
津軽地方
/ 〈2〉
津軽地方
で生産された須恵器
資料編1(考古編)
(〈1〉津軽地方の土師器と擦文土器)
〈1〉
津軽地方
の土師器と擦文土器 古代の当該地域の土師器と擦文土器の内容は、時代性と深くかかわり、地域性 / 〈1〉
津軽地方
の土師器と擦文土器
資料編1(考古編)
((10)工具)
図93
津軽地方
の古代の刀・山刀(1) 図94
津軽地方
の古代の刀・山刀(2) 図,95
津軽地方
の古代の武具 図96
津軽地方
の古代の武具(鉄鏃)(1) 図97
津軽地方
,の古代の武具(鉄鏃)(2) 図98
津軽地方
の古代の刀子(1) 図99
津軽地方
の,古代の刀子(2) 図100
津軽地方
の奈良・平安時代の砥石 図101
津軽地方
の古代,の鉄製斧 図102
津軽地方
の古代の鉄製工具(ヤリガンナ・ノミ)
資料編1(考古編)
(-中世Ⅰ期(12世紀代)-)
-中世Ⅰ期(12世紀代)- 12世紀前半代の様相は若干不明な点が多いが、12世紀中~後葉では
津軽地方
,中崎館遺跡・内真部遺跡・蓬田大館遺跡・浪岡城内館跡・独狐遺跡・十三湊遺跡等であり、そのほとんどは
津軽地方
,図50 12世紀の土師器(かわらけ) 図51
津軽地方
の擦文土器(1) 図52
津軽地方
,の擦文土器(2) 図53
津軽地方
の擦文土器(3) 図54
津軽地方
の擦文土器(4,) 図55
津軽地方
の擦文土器(5) 図56 本州の擦文土器分布図
通史編3(近世2)
(中村善時)
中村善時 田舎館組堂野前村新派(しんはだち)の豪農中村善時(なかむらよしとき)は
津軽地方
の気候や風土,を観察し、
津軽地方
の農書『耕作噺』を安永五年(一七七六)に著している。,農業全書』を参考としつつも、一般論でくくることのできない「其所々の風土」を充分に勘案することを促し、
津軽地方
資料編1(考古編)
((1)東北地方南部以南との交易・交流)
律令国家の化外の地と称された
津軽地方
も例外ではなく、8世紀においては隣接する出羽国の影響を強く受けている,この時期、律令支配地から、
津軽地方
に搬入された文物には、各種須恵器・鉄製品・ガラス玉などがある。,図120 東北地方南部以南から
津軽地方
に搬入された土師器・須恵器 また、この時期は、
津軽地方
においては,10世紀においては、他地域からの文物は基本的に9世紀代と同様であるが、須恵器生産と鉄生産が
津軽地方
でも,しかも、この地方で生産された須恵器は
津軽地方
のみならず、北緯40度以北の各地に搬出されている。
通史編1(自然・原始)
(一 青森県の気象)
中央を縦走する八甲田山系は、西側に
津軽地方
、東側に三八・上北地方及び下北地方に地域分けをしている。,例えば、冬期は西よりの季節風の影響を受ける
津軽地方
は、降雪が多い日本海側天候を示し、太平洋側の三八地方等,ところが、八甲田山系によってせき止められるヤマセは、
津軽地方
への吹き込みが弱くなり、冷害になっても受ける
通史編1(自然・原始)
(冬)
津軽地方
で、一日二〇センチメートル以上といった大雪の日や吹雪の日が最も多いのは、一月から二月にかけての,このため、雪雲の発生や発達がしにくくなって、
津軽地方
の降雪日や降水量が少なくなってくる。 ,めにかけて、日本の南岸沿いに北上する低気圧に吹き込む東よりの風で、冬期のシベリア寒気による状態と違った大雪が
津軽地方
通史編1(古代・中世)
(ふたつの広域火山灰)
ここでは平安時代に相当する時代の
津軽地方
を考古学的に検証してゆくことにしたい。 ,ところで、この時代の
津軽地方
には、遺跡の絶対年代を想定できるふたつの火山灰が認められ、巨視的にみるとこれらの,今後、これらの火山灰の降下年代に変更が生じる可能性を考慮しても、
津軽地方
ではおおむね一〇世紀前半を目安
通史編1(古代・中世)
(津軽曽我氏の滅亡)
しかし南部氏自体はその勢力を保ち、詳細は不明であるが曽我氏をはじめとした津軽方面の豪族を滅ぼして、
津軽地方
,にまでその支配を拡大していき、やがて
津軽地方
をも制覇することとなった。
資料編1(古代・中世編)
(四 板碑の様式と石質)
四 板碑の様式と石質
津軽地方
の板碑は、関東地方の板碑と違って自然石を利用しており、緑泥片岩を使用した,またその特徴は、
津軽地方
の内陸部と海岸部、時代の違いなどにより差が見られる。 ,なお、板碑の高さは、弘前市中別所の弘安十年(一二八七)八月の板碑が二・六メートルあり、
津軽地方
最高である
通史編2(近世1)
(津軽氏の鷹保護)
このように豊臣政権が
津軽地方
の鷹保護を為信に厳命したのは、
津軽地方
がただ単純に鷹の産地だという理由からなのではない,秀吉をはじめとして同政権内の有力者に珍重された
津軽地方
における鷹は、日向鷹と同様、格別の位置づけを与えられたのである,九州と同様、奥羽日の本仕置によって、豊臣政権による奥羽地方の支配統制の確立と、
津軽地方
における名鷹の独占
通史編2(近世1)
(太閤蔵入地の設定)
豪商組屋源四郎が津軽の蔵米二四〇〇石の販売を請け負っているが、この秋田領での割合を当てはめてみると、
津軽地方
,
津軽地方
に太閤蔵入地が設定された場合、さきにみたように津軽氏の領知高が三万石であることから、その石高は,したがって、組屋が請け負った津軽の蔵米から推測される
津軽地方
の蔵入地の石高とほぼ一致する。 ,の三万石と合わせて四万五〇〇〇石が
津軽地方
の石高として決められたのであった。,そして、
津軽地方
に太閤蔵入地が設定された時期は、秋田実季が秋田郡内の太閤蔵入地の代官に任命されたのと同
資料編1(考古編)
((4)12世紀代)
浪岡城内館跡、市浦村十三湊遺跡、弘前市中崎館遺跡、蓬田村蓬田大館遺跡などの16遺跡で、そのほとんどが
津軽地方
,しかし、都市域を離れると「かわらけ」の出土する遺跡は極めて限定されるにもかかわらず、
津軽地方
には前述のような,12世紀の
津軽地方
を中心とする地域は、遺跡の数、あるいは出土遺物の中での、「かわらけ」や中国製陶磁器・
通史編1(古代・中世)
(津軽惣地頭宇佐美実政)
津軽惣地頭宇佐美実政 こうして平泉藤原氏の滅亡後の体制整備が進むなか、本州の最北辺にして海運上の要衝でもある
津軽地方
,の鼻和・平賀・田舎三郡(
津軽地方
の中世の郡制については、次項で詳述する)には、奥州合戦で北陸道の将として
通史編1(自然・原始)
(冷害の歴史)
ここでは、藩政時代に
津軽地方
で発生した気象災害のうち、凶饉記録について抽出してみると、藩政時代の約二五,
津軽地方
でも平均的に六年に一回の割合で凶作年になっていることになる。,
津軽地方
の近世における凶作群の代表年に、寛永十七年(一六四〇)、元禄八年(一六九五)、寛延二年(一七四九,
津軽地方
のおもなる冷害発生年を大きくみると、約三〇年や四〇~五〇年の間隔変動があった(表20)。
通史編1(古代・中世)
(本州の擦文文化の実態)
この事例は、平安時代における
津軽地方
の馬産の問題とともに、土師器・擦文のいずれにも属さない文化を担った,なお、終末期に位置付けられる横走沈線文土器の分布は、
津軽地方
から北海道西南部にほぼ限定されており、この,北海道地方と
津軽地方
の交流関係は、九世紀後半から一〇世紀後半の操業とされる五所川原須恵器窯跡群から供給,していること、さらに鉄は、本州側からの最も重要な交昜品のひとつであったが、一〇世紀中葉から一一世紀に
津軽地方
通史編1(自然・原始)
(夏)
しかし、
津軽地方
の中南部は、ヤマセの影響が弱く、朝晩曇っていても日中は時々晴れて気温が少し上がる。,
津軽地方
で観測した一時間降水量の最大は、山地一三〇ミリ、平地七〇ミリくらいで、このような短時間で降る強,一般に、
津軽地方
では盛夏も残暑も短い。
通史編1(古代・中世)
(農民の生活)
戦国時代の
津軽地方
における農民の生活を知る手がかりを得るものとして『永禄日記』がある。,一つは永禄二年(一五五九)の年に地震や大雨、干ばつにより
津軽地方
の天候が不順となり飢饉となったというものである,
津軽地方
においても農民の暮らしは過酷であったことから、そのようなことも行われていたのではないかと想像されている
通史編1(古代・中世)
(東北地方北部の群集墳)
写真3 丹後平墳墓群 これに対し、
津軽地方
では尾上町原(はら)墳墓群(写真4)が知られている。,原墳墓群遺構配置図 図4 原墳墓群の構造 図5 原墳墓群出土の遺物 図6
津軽地方
出土,
津軽地方
では、群集墳に埋葬されているものと同類の勾玉が田舎館村境森や平賀町大光寺新城遺跡で、銅釧(どうくしろ,)(銅製の腕輪)が金木町で出土しており、
津軽地方
でも拠点的に太平洋側に匹敵する群集墳が存在したと推定される,えられ、東北地方南部の古墳時代後期土器に対比されるものとしては最古の良好な例として知られるのに対し、
津軽地方
通史編4(近・現代1)
(弘前地方米穀商組合の活動)
弘前地方米穀商組合の活動
津軽地方
は米の移出地であり、北海道、特に函館を中心とする地域に移出されていた,この組合は弘前市と中津軽郡を区域とし、それまで存在した
津軽地方
米穀商組合から分離することを目指すものである,役員となった五人は、いずれも
津軽地方
米穀商組合の役員や同組合の議員の経験者であった。 ,この点につき、弘前地方米穀商同業組合では、
津軽地方
米穀商組合よりも厳しい規準が設けられた。,一等米について見れば、
津軽地方
米穀商組合が、玄米一升中、籾二〇粒以上混入せざるものであったが、新組合は
通史編1(自然・原始)
(四 津軽の四季)
この図を参考にしながら、
津軽地方
の四季の気象変化と災害からみた特徴をたどってみることにする。
資料編1(考古編)
(資料編1「考古編」掲載図・表・写真一覧)
の擦文土器(1) 図52
津軽地方
の擦文土器(2) 図53
津軽地方
の擦文土器(3) 図54
津軽地方
,の古代の刀・山刀(1) 図94
津軽地方
の古代の刀・山刀(2) 図95
津軽地方
の古代の武具 図,96
津軽地方
の古代の武具(鉄鏃)(1) 図97
津軽地方
の古代の武具(鉄鏃)(2) 図98
津軽地方
,の古代の刀子(1) 図99
津軽地方
の古代の刀子(2) 図100
津軽地方
の奈良・平安時代の砥石,図101
津軽地方
の古代の鉄製斧 図102
津軽地方
の古代の鉄製工具(ヤリガンナ・ノミ) 図103
資料編1(考古編)
((2)9世紀~10世紀後半)
集落の増加が著しく、しかも県域全体では
津軽地方
にその傾向が顕著に認められる。,さらに、10世紀初頭においては、官営的色彩の濃い須恵器生産が
津軽地方
においても開始され(津軽五所川原窯
資料編1(考古編)
((7)機織り)
さらに、奈良・平安時代になると、
津軽地方
においても紡錘車や苧引金が普通に出土するようになる。,
津軽地方
の各集落跡で出土している苧引金は、9世紀中葉以後11世紀までのもので、厚さ0.2cm、長さ7~
資料編1(考古編)
(-農具-)
鋤先・鍬先は、
津軽地方
では中崎館(弘前市)・荼毘館(同)・独狐(同)をはじめとして約20遺跡で出土している,鉄製鎌も鋤・鍬同様に、
津軽地方
を中心として50点近く出土している。
資料編1(古代・中世編)
(第三節 宝篋印塔)
津軽地方
の宝篋印塔の調査は、青森県立郷土館が行い、その成果は『青森県中世金石造文化財』となって発表された,
津軽地方
の宝篋印塔は、五輪塔の分布地にほぼ共存するといってよい。
資料編1(古代・中世編)
(一 板碑の概要)
一枚の板碑が史料として貴重であると同時に、現存する板碑を総合的に考察すると、中世史料の少ない
津軽地方
におけるさまざまな,本節では弘前市内の板碑だけでなく、
津軽地方
に分布する板碑も掲載することとした。
資料編1(考古編)
(刊行のことば)
以来、津軽弘前藩の城下町・
津軽地方
の中核都市として、麗峰岩木山を仰ぎ、清流岩木川とともに三百八十余年の,この巻は「考古編、古代・中世編」ということで、その学問的性質から、必ずしも「弘前」市域に限らず、
津軽地方
全域
通史編4(近・現代1)
(織物の商況)
ラハ、漸次多額ノ輸出ヲ見ルニ至ラン、又在府町竹内蚕業所ニ於テ織出シタル地織木綿ハ、明治十九年ヨリ当管内
津軽地方
,景況ナリ (同前) 織物の生産や購入のあり方は、地域の農工分離の進展度を示すが、県外と並んで、
津軽地方
各地
通史編1(古代・中世)
(五所川原窯跡群の操業)
時期に呼応するかのように、五所川原須恵器窯跡群が操業を開始し、それまでの搬入品の須恵器に取って代って
津軽地方
,ばごろと考えられているが、一般集落への須恵器の供給が行われるようになったこの時期、五所川原産須恵器は、
津軽地方
資料編1(古代・中世編)
(〈凡例〉)
〈凡例〉 (1)
津軽地方
の板碑を内陸部と海岸線に分けて列挙した。,(14) 中世史料の少ない
津軽地方
にあって、板碑に刻まれた文字は貴重な財産である。,弘前市に限定せず確認できた
津軽地方
の板碑すべてを記載した。
通史編1(古代・中世)
(古墳文化と続縄文文化の交流)
津軽地方
では江別式土器を出土する遺跡は約一〇遺跡あまりで、弘前市では石川長者森遺跡(図8)、小友遺跡が,図8
津軽地方
の続縄文土器および併存する弥生土器 江別式に後続する北大式土器は、現在のところ
津軽地方
通史編2(近世1)
(二四 耕作噺(こうさくばなし))
二四 耕作噺(こうさくばなし) 安永五年(一七七六)、豪農中村喜時が
津軽地方
の田畑耕作に関する事実を
通史編1(自然・原始)
(凡例)
第五節……………鎌田耕太郎 第六節…二部濱男 第二章 第一節~第四節…村越潔 年表
津軽地方
,の気象特性と災害・
津軽地方
災害年表…二部濱男 考古学史年表…村越潔
資料編1(考古編)
((2)北方文化との交易・交流)
しかし、サハリンやオホーツク文化とは様相を異にしており、この文化圏の文物が北海道道央部に散見するが、
津軽地方
,
津軽地方
を中心として、県内には45遺跡ほどの擦文土器の出土遺跡が見られ、しかも、この実態は単に擦文土器
資料編1(考古編)
((4)漆器・木器生産)
律令制度が崩壊した10世紀後半には、
津軽地方
を中心に食膳具生産に大きな変革が起きている。,を中心に12遺跡で発見されている(なお、この時期の木器の出土例は、全国的にも
津軽地方
が注目される)。,一方、10世紀後半以後の
津軽地方
で生産された漆器は、近年行われた塗膜分析と定性分析結果から、炭粉渋下地法,この現象は
津軽地方
のみならず、北陸地方を含む東日本全体に及ぶことが予想されている。 ,この手法は現在のところ、
津軽地方
のものしか知られていない。
資料編3(近世編2)
(●橋雲寺 愛宕堂 岩木町大字植田字山下)
向拝の虹梁や象鼻や手挟などの彫刻も優れたもので、
津軽地方
の近世三間堂として貴重な遺構である。
通史編2(近世1)
(一六 葛西秘録(かさいひろく)・御定法編年録)
「本藩濫觴実記」の記述が信憑性を欠く面があるとして、諸書を探索し、少しでも準拠するものを書き留め、
津軽地方
資料編1(古代・中世編)
(はじめに)
はじめに
津軽地方
の古代史・中世史は、史料が少なく、地域の歴史を解明することが極めて困難である。,ただし、板碑に関しては総合的に考察する必要から、
津軽地方
で確認できたものすべてを、表に記載して紹介することにした
通史編1(古代・中世)
(擦文文化圏との交易)
とする陸奥湾沿岸の約三十遺跡での製塩土器の出土や、北海道余市(よいち)町大川遺跡などにおける米の出土は、
津軽地方
,全国的にみてもこの時期の木製品の出土例が多い
津軽地方
では、大鰐町大平遺跡・同町砂沢平遺跡・黒石市高館遺跡
資料編1(古代・中世編)
(六 板碑の調査・研究史)
六 板碑の調査・研究史
津軽地方
の板碑の調査が始められたのは、江戸時代も中期になってからのことである,十八世紀末から十九世紀初頭にかけて、
津軽地方
全域を歩いて本草学や民俗学などの調査研究に当たった菅江真澄,菅江真澄が
津軽地方
の板碑に関心を持ち始めたのは、寛政八年(一七九六)ころからであり、五年後の享和元年(,特に、磯村朝次郎が秋田県鹿角地方の板碑を発見したことは、
津軽地方
の板碑を考える上で重要なことだった。,全国的な視野から
津軽地方
の板碑をとらえる研究には、『板碑の総合研究』(坂詰秀一編)があるが、これとは別
資料編1(古代・中世編)
(二 青森県の板碑分布)
十五世紀から十六世紀にかけての
津軽地方
では、他の地域と異なり板碑の造立は停止状態になっていたと推定される,青森県内の板碑は、
津軽地方
に圧倒的に多く見られる。,
津軽地方
の板碑は、碑面の特色や造立の年代から大きく二つの地域に分けて考えることができる。,板碑は、
津軽地方
内陸部のうちでも平川・岩木川流域に多く、浅瀬石川流域以北の常盤村・黒石市北部・浪岡町からは
通史編1(古代・中世)
(環壕集落の構造と年代)
環壕集落の構造と年代 九世紀代に発達をみる
津軽地方
を中心とする東北地方北部の農耕文化は、一〇世紀代には,土塁などの施設で集落全体を囲む構造のものと、二つのタイプがあり、前者は上北地方に特徴的にみられ、後者は
津軽地方
,年代的には、上北地方では一〇世紀中葉から一一世紀中葉、
津軽地方
では一〇世紀後半から一一世紀後半に位置づけられる,
津軽地方
では形態的にみて、もっとも類例の多い第一番目のタイプは、中里城跡や弘前市荼毘館遺跡、小友遺跡、
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