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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編2(近世1) (黒石津軽家の大名昇格)

黒石津軽家の大名昇格 文化六年(一八〇九)四月、本家が一〇万石になって三ヵ月後、幕臣で四〇〇〇石の黒石津軽家,は、本家弘前津軽家の強力な運動によって、一万石に高直しされ、大名に昇格した。,文化五年(一八〇八)、弘前津軽家は北方永久警衛を命ぜられ、一〇万石に昇格したが、知行四〇〇〇石で幕府寄合,を勤めている分家の黒石津軽家も、由緒深い家柄である。 / 黒石津軽家の大名昇格
通史編2(近世1) (津軽家の自己認識確立への試み)

津軽家の自己認識確立への試み 津軽家がどのように興り、またどのようにして津軽を統一していったのか、さらに,津軽家は、南部氏の庶流であるにもかかわらず、近衛家と縁戚関係にあると称した。,この飯田が所蔵していた文書には、津軽家にかかわるものは一点もない。,これに対して近衛家の当主で前関白近衛信尋は、津軽家の系図が近衛前久の筆によること、そして津軽家の祖大浦政信,この結果、津軽家は自家の先祖を近衛家とする根拠を得、幕府も津軽家が提出した系図を認めたので、津軽家は系図上 / 津軽家の自己認識確立への試み
通史編3(近世2) (弘前藩津軽家所蔵の美術工芸品)

弘前藩津軽家所蔵の美術工芸品 弘前藩津軽家が所蔵した美術工芸品については比較的記録が残っていて、その,弘前城二の丸北の丸御宝蔵御道具帳(以下「御道具帳」と略称)」(三八五件)、天保十三年(一八四二)完成の「津軽家所蔵書画文房什物目録,(以下「什物目録」と略称)」(三二八件)は、どちらも弘前藩および津軽家所蔵の書画骨董や什器などに関する,その後は大正以後二度の津軽家蔵品売立目録や津軽家の記録などで行方が追える。,宝永年間に光琳が津軽家に出入りしてこの屏風を制作したという伝承があるが、その真偽は依然不明である。 / 弘前藩津軽家所蔵の美術工芸品
通史編2(近世1) (津軽家宛ての領知宛行状と領知高の変動)

東京都品川区の国立国文学研究資料館史料館(国立史料館)所蔵の津軽家文書には、幕府から津軽家に対して下付,表7 津軽家宛領知朱印状・領知判物一覧 資料編 史料No.,表8 津軽家宛領知目録記載内容一覧 資料編 史料No.,黒石津軽家とその分家は、本家である弘前津軽家に発給された領知宛行状にその領知高が明記されている。,石、黒石津軽家の分家である一学信純(いちがくのぶずみ)家分一〇〇〇石とも本家である弘前津軽家の信政宛ての / 津軽家宛ての領知宛行状と領知高の変動
通史編2(近世1) (一四 津軽家御定書(おさだめがき))

一四 津軽家御定書(おさだめがき) 寛文四年(一六六四)から延宝三年(一六七五)に至る、藩政確立整備時代,『史料館叢書3 津軽家御定書』として一九八一年刊行。 / 一四 津軽家御定書(おさだめがき)
通史編2(近世1) (公家との関係)

ここでは、津軽家と公家社会との接触について触れることにしたい。  ,しはいもんじょ)から多くの津軽家関係記事が見いだされたことで明らかになった。  ,「時慶卿記」から津軽家に関する記述が消えるのは慶長十一年(一六〇六)以降である。,津軽家と公家との関係で想起されるのが五摂家の筆頭とされる近衛(このえ)家との関係である(津軽家と近衛家,これは、津軽家が自家の系図を京都の近衛家へ行列を組んで運搬し、当主より証判を獲得するもので、津軽家にとってはたいへん
資料編2(近世編1) ([付図])

[付図] 一、弘前古御絵図・慶安二年頃(弘前市立図書館蔵「津軽家文書」)   二、藤崎村絵図・天和四年,(弘前市立図書館蔵「津軽家文書」)   三、岩館村絵図・天和四年(平賀町個人蔵)   四、青森御町絵図,・寛文初期(弘前市立図書館蔵「津軽家文書」)   五、奥州十三之図・慶安元年(市立函館図書館蔵)
通史編2(近世1) (信寿の高増運動)

それを裏付けるものが、国文学研究資料館史料館蔵津軽家文書の中に残されている。,確実な史料は存在しないが、津軽家は近衛家を通じて天英院に高増願い出の意向を伝え、尽力を願ったと思われる,結果として、彼女は津軽家の高増を実現させるようにという「御内意」を示している。,図113.高増に関する信寿の内存を記した書付  しかし幕府は津軽家の高増願を認めなかった。,津軽家の願意を認めれば、今後津軽家と同様の理由で諸藩の願い出が出されることが予想され、一々それに対処しきれないこと
通史編2(近世1) (掲載図版・写真の典拠・所蔵一覧)

弘前市 藤先寺蔵 口絵8 中津軽郡岩木町 高照神社蔵 口絵9 御国中道程之図 国文学研究資料館史料館蔵津軽家文書,9 二戸市教育委員会蔵 10 豊臣秀吉朱印状 津軽右京亮宛 6月20日付 国文学研究資料館史料館蔵津軽家文書,49 朝鮮使日光社参に付鞍置馬用立御奉書 弘前市立図書館蔵津軽家文書 50 弘前市立図書館蔵八木橋文庫,53 領知目録 天保10年 国文学研究資料館史料館蔵津軽家文書 54 京都市 財団法人陽明文庫蔵 55,166 国文学研究資料館史料館蔵津軽家文書 167 国文学研究資料館史料館蔵津軽家文書 168 撮影
通史編2(近世1) (「津軽一統志」以降の修史事業)

徧覧日記」に附された「本藩濫觴実記(ほんぱんらんしょうじっき)」(以下「実記」と略記)は、為信以前の津軽家,の系譜・古記を集めて編んだものだが、それに掲載された津軽家の系譜は表題を「安倍系図」とし、先祖が藤原秀栄,津軽家にとっては、先祖が蝦夷の血を引く朝敵であるということなど承認したくない由緒であった。,しかし、津軽家が奥州藤原氏に連なることを主張すれば、奥州藤原氏と安倍氏との血縁関係が存在する以上、安日,に行き着くことは当然で、結局津軽家は、最後まで平泉藤原氏を遠祖とする系図を幕府に提出することはなかった
資料編2(近世編1) (二 近衛家との政治的関係)

二 近衛家との政治的関係 近衛家寄託文書(陽明文庫蔵) (一)津軽家よりの合力金等の拝借関係 (,二)津軽家との縁組関係 (三)系図改め関係 (四)その他
通史編3(近世2) (掲載図版・写真の典拠・所蔵一覧)

口絵1 弘前市立図書館蔵津軽家文書 口絵2 弘前市立博物館蔵 口絵3 弘前市立図書館蔵津軽家文書 口絵,司法警察事典』225頁 1980年 柏書房刊 11 国日記 文化10年11月26日条 弘前市立図書館蔵津軽家文書, 岩波書店刊 18 弘前都図 弘前市立博物館蔵 19 国日記 延享2年5月13日条 弘前市立図書館蔵津軽家文書,109 国文学研究資料館史料館蔵津軽家文書 110 作成 111 笹間良彦『資料日本歴史図録』283,141 弘前古御絵図 弘前市立図書館蔵津軽家文書 142 江戸大絵図集成 1976年 人文社地図センター
通史編3(近世2) (幕末期近衛家との関係)

近衛家は五摂家筆頭で、津軽家の先祖藤原政信が近衛尚通(ひさみち)の猶子(ゆうし)(養子)となったのを契機,藩政前期の対公家関係は通史編2(第二章第一節)に詳しいので、ここでは藩政後期から幕末期にかけての近衛家と津軽家,弘化四年(一八四七)十月、幕府は各大名家から系図の提出を求めたが、その際、津軽家では先祖の藤原政信の出自,めて回答し、後日近衛家にも届け出ていたが、嘉永二年(一八四九)閏四月には近衛家より今後の系図改めでは津軽家,、津軽家は系図改めや典礼儀式、藩主が他出する時に用いる用度品、たとえば金紋先挟箱(きんもんさきはさみばこ
通史編2(近世1) (江戸時代初期の大名課役)

津軽家がこの編成に組み込まれていないことから、幕府は津軽家を軍編成から除外していたと考えてよい。,この上洛の折、津軽家は近江国大津町年寄矢島藤五郎から銀子五〇貫を借用している。,したがって、津軽家が担った普請役もこのような基礎工事が主体といってよい。,津軽家が最初に鞍馬役を課されたのは、寛永十三年(一六三六)、通信使の日光社参の際である。,預人・キリシタンの管理は、初期の津軽家にとって特徴的な役負担の一つであった。
通史編3(近世2) (信義)

『和歌山県高野山遍照尊院旧弘前藩主津軽家墓所石塔修復調査報告』(一九八八年 遍照尊院刊)によると、墓石一八基,図243.高野山遍照尊院の津軽家墓所
通史編2(近世1) (相馬大作事件)

相馬大作事件 このような津軽家の官位昇叙(しょうじょ)に伴う家格の上昇に不満を募らせたのが、盛岡藩の,津軽家に対する積年の鬱憤(うっぷん)が彼の死を早めたという。,津軽家では、一時的に南部家より官位が高くなり、寧親のあとに藩主となった津軽信順(のぶゆき)は、田安斉匡,津軽家では、轅は寧親のときに近衛家から贈られたものであることや、四位になれば束帯のときには轅を用いて差,えていたと答えたが、文化八年(一八一一)に寧親が轅の使用方を幕府に伺いを立てて不許可になった先例もあり、津軽家
通史編5(近・現代2) (承祜公のミイラ)

報恩寺はもともと天台宗で、津軽家の菩提寺として由緒ある寺であったが、一二代藩主を継ぐべくして夭折した承祜,俗に承祜公のミイラと称せられ、長く長勝寺に安置されていたが、平成七年に至って、津軽家の希望により火葬に
資料編2(近世編1) (―例言―)

また、弘前市立図書館津軽家文書の「弘前藩庁日記」については、国元の日記を「国日記」、江戸藩邸のものを「,また、同館所蔵史料のうち「津軽編覧日記」は八木橋文庫本を、「御用格」は津軽家文書を、「封内事実秘苑」は,弘図古=弘前市立図書館津軽古図書保存会文庫 弘図津=弘前市立図書館津軽家文書 弘図岩=弘前市立図書館岩見文庫,弘前市立図書館八木橋文庫 弘図郷=弘前市立図書館一般郷土資料 国史津=国立国文学研究資料館史料館津軽家文書
資料編3(近世編2) (-例言-)

また、弘前市立図書館蔵津軽家文書の「弘前藩庁日記」については、国元の日記を「国日記」、江戸藩邸のものを,また、同館所蔵史料のうち「津軽徧覧日記」・「弘前藩記事」は八木橋文庫本を、「御用格」は津軽家文書を、「,弘図古=弘前市立図書館津軽古書保存会文庫/弘図津=弘前市立図書館津軽家文書/弘図岩=弘前市立図書館岩見文庫,弘図八=弘前市立図書館八木橋文庫/弘図郷=弘前市立図書館一般郷土資料/国史津=国立国文学研究資料館史料館津軽家文書
通史編3(近世2) (一一代順承の治世)

ただ、順承は幕府老中松平信明の三男から黒石藩主になったため、津軽家の血統を引いていなかった。,弘化二年(一八四五)、津軽家では四十六歳になる順承にまだ男子がなかったことから、養子を誰に決定するかで,すでに前年、万一の事を考えて幕府には仮養子として津軽家一門の津軽直記順朝(ゆきとも)の長男武之助を届け,(ただひろ)はそれに応じて、信順に津軽家の血を引く武之助を世継ぎとすれば先祖への孝養になるとの口上書を,しかし、津軽家が近衛忠熈に宛てた書状によると、七月上旬に承祜は風邪をひいて熱を出し、食事がとれない内に
通史編3(近世2) (草創期三代)

幕府から津軽家にお預けとなったそうした人々が、津軽弘前藩の濫觴(らんしょう)期の文運に少なからず影響を,信枚の代には、左大臣藤原定煕(さだひろ)の次男で、宮中での艶聞(えんぶん)事件で罪を得て津軽家にお預けとなった,死後は津軽家の菩提寺長勝寺に手厚く埋葬された。 図158.柳川調興の墓
通史編2(近世1) (弘前藩の副藩主)

明暦二年(一六五六)、津軽弘前藩主四代信政の襲封(しゅうほう)に伴い、その後見役として発足した黒石津軽家,弘前津軽・黒石津軽両家の藩主系図をみて明らかなように、弘前津軽家から黒石津軽家へは、信政の五男が黒石四代寿世
資料編2(近世編1) (【解説】)

掲載史料については、弘前市立図書館所蔵の津軽家文書、八木橋文庫、旧八木橋氏所蔵史料、岩見文庫などの所収文書,に記録を開始する弘前藩庁日記(国日記)、同(江戸日記)などの日記類、国立国文学研究資料館史料館所蔵の津軽家文書,しかし天和二年三月、津軽家は、越後騒動で改易された松平光長(まつだいらみつなが)の領地であった越後高田,第六節では、「領知朱印と家譜家系」と題して、幕府から津軽家へ下付した領知朱印状と領知判物(はんもつ)(,現在、幕府から下付された領知朱印状や判物で原文書が残っているのは津軽家だけであり、全国的に見てもきわめて
通史編2(近世1) ([口絵])

近衛家と津軽家の,近世初頭からの関係の深さを示すものといえよう。  ,川原岱村古風之図 口絵17 岩木山之図 近衛忠熈讃 三上仙年筆 口絵18 近衛忠熈筆 津軽家系図添状
通史編2(近世1) (関ヶ原の戦いと津軽氏)

津軽家の官撰史書である「津軽一統志」からこの動乱時の動向を拾ってみれば、為信出陣、尾崎喜蔵・板垣兵部・,現在確実な文書によって、この動乱の時期の津軽家の動向が確認できるのは、慶長五年八月十九日付の徳川秀忠が,この屏風絵は、津軽家が所蔵していたことから通称「津軽屏風」と称される(以後、「津軽屏風」と略記)。,図45.津軽屏風に描かれた卍幟 図46.諸将旌旗図屏風にみえる津軽家(左)と蜂須賀家(右)の,加増についても後世に編まれた編纂物にのみ記載されていることであり、実際のところ、いつどのような理由で津軽家
通史編2(近世1) (綱吉政権下における大名課役)

この時期津軽家に課せられた課役の割合は、約二年に一度と頻繁である。  ,津軽家に課せられた役高は三万石であり、領知高より一万六〇〇〇石分減高されている(以下、この工事については,七月二十九日から普請が開始され、津軽家が担当したのは、奥社宝塔の取り替えに人足が立ち会うことや、地形下,津軽家における寛文蝦夷蜂起直後の事例(資料近世1No.八三七)や、天和期のこの事例なども、それに相当すると,多少の差はあるが、いずれも津軽家クラスの大名がその任に当たってもなんら不都合はないと考えられる。  
通史編2(近世1) (一七 可足権僧正筆記(かそくごんのそうじょうひっき))

かそくごんのそうじょうひっき) 四代藩主信政の弟である可足権僧正(慶安二年〈一六四九〉~宝永六年〈一七〇九〉)が、津軽家
通史編2(近世1) (一五 御定法古格(ごじょうほうこかく))

内容は領内の社会生活の各般に及び、「津軽家御定書」と並ぶ貴重な史料といえる。弘前市立図書館蔵。
通史編2(近世1) (一三 津軽藩旧記伝類(きゅうきでんるい))

一三 津軽藩旧記伝類(きゅうきでんるい) 「津軽旧記類」の続編として、津軽家一門や藩主の夫人、著名な
通史編2(近世1) (高照神社の造営と「名君」信政像の創出)

信政は、春日四神(津軽家がその流れをくむとされた藤原氏の氏神たち)を祀る小社のあった高岡(現中津軽郡岩木町百沢,その評価基準に当てはめれば、津軽家、そして信政の性格や行跡は、綱吉の目指す「仁政」とはかけ離れたものととらえられたようである,すなわち、津軽家は、「家風俗不宜」とされ、遠国であることと、家老が「悪人」のため、浪人の再就職先として,信章一家は藩境を越えて秋田領に脱出したものの、結局佐竹家から津軽家に引き渡され、一家全員が城内二の丸東北隅,当時、津軽家に限らず、他の諸藩にも「名君」と呼ばれた人物が輩出している。
通史編2(近世1) (正徳から天明にかけての大名課役)

正徳から天明にかけての大名課役 この時期の津軽家の大名課役は、皇族や公家衆の饗応役、普請役、江戸における,河川関係の修築における手伝普請は元禄時代末に行われたのが最初だが、津軽家の場合は、明和三年(一七六六),10年(1837・39)刊「殿居嚢」,人数は「教令類纂」所収の正徳3年(1713)の規定による  津軽家,当該時期において津軽家の神田橋門番勤役は九回に及んでいる。,また火消役は、本所火消役が七回、猿江材木蔵火之番が一回、浅草御蔵火之番を一回務めており、この時期、津軽家
通史編2(近世1) (越後加増説)

これに対して、国文学研究資料館史料館所蔵の津軽家文書の中に、正徳元年(一七一一)に五代藩主信寿(のぶひさ,それには「元和年間に十五万石の高で信州へ所領替えをするという将軍の内意があった」という文言があり、津軽家
通史編2(近世1) (信政の襲封と黒石分知)

これに伴い信英が幕府から支給されていた蔵米三〇〇俵は返上を命じられ、また津軽家からの蔵米一〇〇〇石支給,また、『寛政重修諸家譜』に弘前津軽家が分知後も「なを四万七千石の軍役をつとむ」とあることから、幕府が「
通史編2(近世1) (二度の高直り)

それにしたがい、家臣団の呼称は、「津軽家中」から「弘前家中」へと変更したという(同前No.九六)。,藩祖為信を除いて、二代信枚以来、代々、従五位下の官位が続いた津軽家にとって、二〇〇年ぶりの昇進であった,例えば津軽家の蝦夷地出兵費は、年間に一万両から一万五〇〇〇両。
通史編2(近世1) (「津軽一統志」の編纂まで)

ところが、明暦三年(一六五七)、いわゆる「明暦大火」によって津軽家の神田小川町上屋敷も罹災(りさい)し,「歴代覚書」は、津軽家の歴史を記した最も古い編纂物であり、別名「高屋家記」または「東日流(つがる)記」,その内容は藩祖為信の誕生から津軽信義の入部までを記し、また「東日流記後録」には、岩木山や津軽家の先祖に,この古文書には、宝永三年(一七〇六)十二月の信政の奥書が記され、判物・朱印状・御内書・老中奉書など、津軽家
通史編2(近世1) (「津軽一統志」の編纂)

その序文をみると、編纂の目的は、津軽家の先君たちの事績が忘れられることを防ぐことにあるという。,その構成は、津軽の風土、産貢から書き出し、津軽家による草創・征功を記した後に、士臣の忠否・伝記や伝承を,首巻に地誌を置き、陸奥国、岩木山、津軽地方の名所旧跡について記し、以下、巻一から巻九までに津軽家始祖の,藩政の展開と国家意識の形成―津軽藩における異民族支配と『北狄の押へ』論―」)  「一統志」の編纂は、津軽家
通史編2(近世1) (「分領」と津軽弘前藩)

同じ日に、盛岡藩主南部利剛(としひさ)の名代盛岡新田藩主南部信誉(のぶのり)にも津軽家と同内容の達しがあり,達しのいうところを理解しかねた津軽家では、達しが出された翌日、津軽家の「御用頼」である幕府奥右筆(おくゆうひつ,それにより、津軽家は、陣屋附きの「地所」として、従来警備してきた蝦夷地西海岸のスッツ領からセタナイ(現北海道瀬棚郡瀬棚町,2126両1分 盛岡南部家  67両2分  14両3分永50文  82両1分永50文 弘前津軽家
資料編3(近世編2) (●長勝寺 西茂森一丁目)

御影堂は、その南に連なって配された「津軽家霊屋」と一体となり、藩の先祖たちを祀るためのものとして重要であったのである,図4 長勝寺総門平面図 (六)津軽家霊屋--重要文化財   ①環月台 為信室霊屋 寛永五年(一六二八,図5 津軽家御霊屋明鏡台門平面図 津軽家御霊屋
通史編2(近世1) (乳井貢と先行思想)

図137.志学幼弁 巻七 目録を見る 精細画像で見る  もともと津軽家と素行の関係には密接なものがあった,また素行の長女亀の娘婿、岡八郎左衛門は延宝七年(一六七九)津軽家の家臣となり、天和元年(一六八一)家老,となって津軽大学と称して国政を預かり、代々その子孫は津軽家に仕え、津軽山鹿家の本家となった。
資料編2(近世編1) (はじめに)

第一章の編年体資料には、西本願寺原蔵の西洞院時慶卿記(にしのとういんときよしきょうき)紙背文書に見える津軽家,の文書類等を初めて掲げて参考に供し、第二章では、全国的にも極めて珍しい、徳川将軍家から津軽家へ発給された,第三章では、京都府陽明(ようめい)文庫で採訪した、津軽家と近衛家との関係を伺う上で貴重な文書史料を、ついで
通史編2(近世1) (二 近衛家雑事日記(このえけざつじにっき))

近衛家に出自(しゅつじ)を求める津軽家が同家に対して行った交渉を考察するうえで、非常に貴重な史料。
通史編3(近世2) (藩主の位牌を盗む)

現市内西茂森一丁目)隠居、海中(かいちゅう)の弟子である義道(ぎどう)は、天保十四年(一八四三)五月に津軽家
通史編3(近世2) (常福寺)

常福寺は津軽家から享保十五年(一七三〇)に一〇〇石の寄進があったが、明治四年(一八七一)に三五石になっているところをみると
通史編2(近世1) (七 津軽一統志)

津軽家始祖の光信(みつのぶ)の事績に始まり、為信の独立、四代信政までの歴代藩主の事績、寛文蝦夷蜂起事件
資料編3(近世編2) (●猿賀神社 本殿 尾上町大字猿賀字石林--県重宝)

この神社の創立については、古代にまで遡る伝承も伝えられており、中世を通して信仰され、近世においても、津軽家
通史編2(近世1) (一 時慶卿記(ときよしきょうき))

一 時慶卿記(ときよしきょうき) 津軽家と親交のあった参議(さんぎ)、西洞院(にしのとういん)時慶の
通史編2(近世1) (近世における史書の編纂)

津軽一統志」をはじめとする官撰史書の編纂の経緯・過程、そして、これらの史書の編纂を通じて形成されていく津軽家
通史編3(近世2) (信枚)

信枚は、それまでの津軽家が菩提寺としてきた曹洞宗から天台宗に改宗した。
通史編2(近世1) (舟橋騒動)

にして、藩主信義を当事者として巻き込んだ場合には、主従間の紛争と認定されて「武家諸法度」の規定により津軽家,一六三五)三月晦日に、江戸にいた細川忠興(ただおき)から子の肥後熊本藩主細川忠利に宛てた書状によれば、津軽家,津軽家の場合も似た展開になる可能性があったといえる。  ,四男で越前大野(現福井県大野市)藩主利房の正室が信義の娘万姫であるのは、この事件を契機として、土井家と津軽家
通史編2(近世1) (野本道玄の招聘)

彼の茶道の流派については津軽家の御家流とするかどうかを問わず伝授し、津軽家への仕官が決まれば水戸徳川家,津軽政実は津軽家に仕える以前、長照の養父浅野長治の近習として仕えており、そのことから両者がつながっていた
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