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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編2(近世1)
(相馬大作事件)
世間では、文政四年(一八二一)四月の、下斗米秀之進による藩主
津軽寧親
狙撃(そげき)未遂事件のことを、相馬大作,それに対して、弘前藩の藩主
津軽寧親
は従四位下侍従に叙任されていた。,南部吉次郎は、この騒ぎのさなかの文政四年(一八二一)十二月、従四位下になり、大膳大夫に任ぜられ、位では
津軽寧親
通史編2(近世1)
(二度の高直り)
二度の高直り 文化二年(一八〇五)五月、九代藩主
津軽寧親
(やすちか)は、領知高四万六〇〇〇石が七万石,入って、幕府は盛岡・津軽弘前の両藩に東西蝦夷地の恒久的警備を命じ、南部利敬(としたか)は二〇万石に、
津軽寧親
通史編2(近世1)
([口絵])
信政公葬送図絵巻 口絵9 碇ヶ関秋田境の図 口絵10 平内南部境の図 口絵11
津軽寧親
坐像
通史編2(近世1)
(在宅制度廃止後の廃田・新田開発)
すなわち、『記類』下によると、前年の十月三日に九代藩主
津軽寧親
は家老喜多村監物らを伴って木造新田を巡見
通史編2(近世1)
(江戸市場への傾斜)
しかし、同年は
津軽寧親
の藩主襲職に伴う経費が他に八二〇〇両もあり、翌寛政四年には幕府から命じられた神田橋普請
通史編2(近世1)
(黒石津軽家の大名昇格)
黒石立藩に関する、
津軽寧親
(やすちか)から幕府へ寄せられた上申は、次のようなものであった。
通史編3(近世2)
(南溜池の武芸鍛錬)
五年後の文化八年には、九代藩主
津軽寧親
が直々に南溜池の「大矢場」へ出かけて、家臣の弓術訓練を検閲した。
通史編3(近世2)
(出発)
出発 文化四年(一八〇七)五月の「御発駕御規式」(弘図津)によって、九代藩主
津軽寧親
(やすちか)が弘前城,しかし、実際には一万石級の大名で一五〇~三〇〇人であったから、弘前の右の七四一人(九代藩主
津軽寧親
の参勤
通史編3(近世2)
(景勝の地としての南溜池)
藩主もこのようなすばらしい景観を愛(め)でたらしく、たとえば文化十三年(一八一六)には、九代藩主
津軽寧親
通史編2(近世1)
(漆以外の国産品)
精細画像で見る ほかの産業で十九世紀に盛んになったのは製陶で、伊万里焼の技術を学んだ大沢焼、藩主
津軽寧親
通史編3(近世2)
((三)主要人物)
同十一年、九代藩主
津軽寧親
(やすちか)の御使者番格和紀伝学頭扱となり、門人養成に尽力し、石山雅朝(いしやままさとも
通史編3(近世2)
((三)主要人物)
寛政十一年(一七九九)九代藩主
津軽寧親
(つがるやすちか)の時に中小姓に召し出され、一〇代信順(のぶゆき
通史編5(近・現代2)
(錦風流尺八(きんぷうりゅうしゃくはち))
弘前藩の九代藩主
津軽寧親
(つがるやすちか)は、諸芸に優れた知識人であり尺八も堪能(たんのう)であった。
通史編2(近世1)
(領内海防と台場の構築)
この年の八月、藩主
津軽寧親
は青森に赴いたが、その際、用人山鹿高美、郡奉行野呂助左衛門、兵学学頭岡本平馬
通史編3(近世2)
(居開帳)
寛政三年(一七九一)、九代藩主
津軽寧親
は襲封後の野駆(のがけ)の途中、久渡寺に立ち寄った時に開帳が行われた
資料編3(近世編2)
(【解説】)
の反目と家格上昇志向を巧みに利用しながら蝦夷地警備の強化を図っていたが、ここに文政三年(一八二〇)の
津軽寧親
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