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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) (廃藩置県後の処理)

(だいじょう)渡辺清が青森県権令菱田重禧(ごんれいひしだしげよし)と相談し、明治四年十二月に旧藩知事津軽承昭,しがたしとして、進退伺いを提出したうえで自分たちの家禄からも負担を願い出たが、これは承昭に止められた(『津軽承昭公伝
通史編5(近・現代2) (津軽藩踏水会)

特に一二代藩主津軽承昭(つぐあきら)はしばしば水練を見学、脱衣場や西洋型のボートまで作らせた。,津軽承昭は、熊本藩主細川斉護(なりもり)四男で、津軽一一代藩主順承(ゆきつぐ)の婿養子だった。
通史編3(近世2) (弘前藩の対応)

一方、国元では一月二十四日、家中御目見以上惣与力までを登城させ、一連の報を受けた藩主津軽承昭が諭告を出,して現状を説明し、藩内の意志統一を図った(『津軽承昭公伝』一九七六年 歴史図書館社復刊)。,図45.馬上の津軽承昭  しかし、この中では、藩は幕府側にも朝廷側にもつくことを明示してはいなかった
通史編4(近・現代1) (旧藩主逝去と小学校)

旧藩主逝去と小学校 旧弘前藩主伯爵津軽承昭が死去したのは大正五年(一九一六)七月十九日、行年七十六歳,写真180 津軽承昭公葬儀(大正5年)
通史編3(近世2) (新政府からの借財と藩札の発行)

(ますじろう)にも話を申し入れ、大村も弘前藩の苦しい立場に理解を示したが、それを主張するためには藩主津軽承昭,例に漏れず、藩札の発行額は加速度的に増加して、ピーク時では実に三〇万五五〇〇両にまでのぼっていた(『津軽承昭公伝,まもなく東京から帰った同署飯田巽(たつみ)が中央情勢を説き、我々は切腹して責任をとればいいが、藩知事津軽承昭,増刷の件は実行されず、銅板も廃棄されて、摩耗(まもう)した札の交換と多少の予備札の印刷で終了した(『津軽承昭公伝
通史編4(近・現代1) (廃藩置県)

廃藩置県 明治四年(一八七一)七月十四日、弘前藩知事津軽承昭(つぐあきら)は全国二六一藩知事らと参朝,写真1 津軽承昭 (明治初年)  詔書は「曩(さき)ニ諸藩版籍奉還ノ議ヲ聴納シ 新(あらた)ニ
通史編4(近・現代1) (東奥義塾開学)

国や県からの補助を受けなかった東奥義塾の開学を可能にしたのは、旧藩主津軽承昭の財政援助によるところが大,写真39 津軽承昭公から東奥義塾へ寄附金調書(菊池九郎筆)  東奥義塾開学の中心となったのは、兼松成言
通史編3(近世2) (東奥義塾)

英学教師吉川泰次郎と諮(はか)り、成田五十穂(いつほ)、吉崎豊作、榊喜洋芽(きよめ)と協議し、私立学校創設の立案を津軽承昭
通史編4(近・現代1) (家禄制度改革)

一八七一)七月に廃藩置県が行われ、旧弘前藩は弘前県となり、知藩事(藩名を付すときは、弘前藩知事と呼んだ)の津軽承昭,この賞典禄も上層に厚く、旧弘前藩知事津軽承昭は二五〇〇石であった。,明治五年には、津軽承昭は、四年冬渡分と五年春渡分の賞典米を旧藩士に分け与えた。
通史編3(近世2) (一二代承昭の襲封)

一二代承昭の襲封 弘前藩最後の藩主となった津軽承昭(つぐあきら)は、安政二年(一八五五)一一代順承の,図41.津軽承昭  ただ、こうした経緯で行われた承昭の襲封に反対する勢力も当然存在した。
通史編3(近世2) (英学寮)

藩知事津軽承昭は進取の知識を洋学に求め、稽古館の教育を刷新し、最勝院に敬応書院を設けて皇・漢・英の三教科
通史編3(近世2) (戦局の推移と戦費負担の増加)

い方に関して家老杉山上総は「現今ノ任、軍事、俗事湊合シ、時アリテ参謀ノ如ク、時アリテ問屋ノ如シ」(『津軽承昭公伝,1,242 18 青森残留諸藩人数 301 301 計 6,651 5,337 11,988 注) 『津軽承昭公伝,この点に関し、『津軽承昭公伝』では実に意外であったと記しているが(明治元年十二月十三日条)、当時の率直
通史編3(近世2) (松前徳広の領内落去)

さらに、同二十五日、藩主津軽承昭(つがるつぐあきら)は藩の財政状況は逼迫しているが、この戦争での成功や,東北戦争後の処理も進み、弘前藩は盛岡藩領のうち北郡・三戸郡・二戸郡の取り締まりを命じられ、二十九日には、津軽承昭,明治二年一月二日、藩主津軽承昭は士気を高めるために、青森で木村繁四郎・都谷森甚彌両隊の操練を見分し、さらに
通史編4(近・現代1) (弘前士族の反発)

川越石太郎は、維新後に戸長も務めたが、維新政府の文明開化政策に反対し、旧藩主流派に怨念を抱く山田登や藩主の津軽承昭
通史編4(近・現代1) (城跡の荒廃)

旧藩主にして知藩事の津軽承昭はすでに東京に移住していたので、主(あるじ)なき荒城となってしまった。
通史編3(近世2) (旧弘前藩の債務処理)

『津軽承昭公伝』では朝廷よりの貸付金の内、残高六万四〇〇〇両、大坂負債額二一万三四七八両一歩二朱と永(
通史編3(近世2) (政府軍の乙部上陸)

これを受けて、弘前藩主津軽承昭(つぐあきら)は翌五日、松前へ渡海する藩兵へ激励書を送った(資料近世2No
通史編4(近・現代1) (貨幣制度の改革)

同年十二月には、旧知藩事津軽承昭が自らの家禄により藩札を消却することを申し出た。
通史編3(近世2) (藩論の統一)

したかったとみられるが、その諮問の結果、多くは「同盟ヲ履ンテ、官軍ニ抗シ、飽迄モ真正ノ勤王ニ従事セン」(『津軽承昭公伝
通史編3(近世2) (野辺地戦争の動機)

盛岡藩との戦いについては、前述の津軽承昭の熊本藩への援軍要請にあった「旧怨之国柄」(資料近世2No.五四六
通史編4(近・現代1) (公園開設)

(『津軽承昭公伝』)  こうして、明治四年の廃藩以来荒廃に任せていた城地は、二四年ぶりで公衆に開放されることになった
通史編3(近世2) (商社の活動内容)

この開削に要した労働力は延べ一〇万人といわれ(『津軽承昭公伝』)、西海岸と青森および津軽半島内陸部の連結
通史編4(近・現代1) (戸籍法と戸籍区)

月 事項 明治 2 (1869)  4 版籍奉還  6 旧弘前藩主津軽承昭
通史編2(近世1) (津軽家宛ての領知宛行状と領知高の変動)

徳川家定 津軽順承 判物 継目 安堵 10万石 あり 890 安政7年(1860)3月5日 徳川家定 津軽承昭,内分分知記載内容以外、No.八八七と同内容 津軽本次郎(承叙)  四、〇〇〇・〇〇 八九一 徳川家茂 津軽承昭
通史編3(近世2) (藩から県へ)

弘前藩知事津軽承昭(つぐあきら)は明治四年四月二十八日に弘前を発し、五月十五日に東京に着いており、七月十四日
通史編3(近世2) (弘前の民衆)

旧藩主津軽承昭(つぐあきら)は東京横川の邸宅に移住し、西館融(とおる)・杉山龍江・西舘孤清(こせい)・
通史編3(近世2) (鎮撫総督軍の領内通行問題)

藩主津軽承昭(つがるつぐあきら)から沢為量へ宛てた書翰には、奥羽地方がまだ鎮静されていないので、転陣は
通史編4(近・現代1) (県政初期の混乱)

この中に官に無届けのものもあり、それが廃藩のとき旧藩主の私債としてに二六万両残り、旧藩主津軽承昭の家禄
通史編3(近世2) (戦場に駆り出された民衆)

官軍が最も多く結集したのは箱館総攻撃に際してであったが、『津軽承昭公伝』では明治二年四月時点で各地に展開
通史編4(近・現代1) (草創期の外国人教師たち)

旧藩主津軽承昭が開学資金として提供した五〇〇〇円の大半が外国人教師雇用に充てられていたことになり、当時
資料編3(近世編2) (【解説】)

【解説】 本章は弘前藩最後の藩主十二代津軽承昭(つぐあきら)が嗣子に決定する安政年間から明治四年(一八七一
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