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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編2(近世1)
(関ヶ原の戦いと津軽氏)
関ヶ原の戦いと
津軽氏
この慶長五・六年の動乱に際して、
津軽氏
はどのような動きをとったのだろうか。,たとえば、新井白石が著した「藩翰譜(はんかんぷ)」の
津軽氏
の項(『新編藩翰譜』四 一九七七年 新人物往来社刊,さきに述べた慶長五年七月段階の最上氏支援の動員体制にも、慶長六年の上杉景勝国替に際しての動員にも
津軽氏
,関ヶ原の合戦当時卍印の幟(のぼり)・旗差物を用いた大名は、堀・蜂須賀両氏のほかに
津軽氏
のみであり(堀氏,は除かれており、そのことが逆に
津軽氏
の関ヶ原参陣という状況をもたらしたといえるのではないだろうか。 / 関ヶ原の戦いと
津軽氏
通史編1(古代・中世)
(津軽氏の系譜と唐糸御前)
津軽氏
の系譜と唐糸御前 また
津軽氏
の系譜に関する史料である『可足権僧正筆記之写』や『前代歴譜』(写真 /
津軽氏
の系譜と唐糸御前
通史編2(近世1)
(浅利騒動と津軽氏)
浅利騒動と
津軽氏
文禄三年、秋田方は比内の浅利領へ兵を進め、物成の差し押さえを行い、さらに岩脇村(いわわきむら,図36.
津軽氏
の浅利氏擁護を示す南部信直書状案 この文禄四年の戦闘において頼平が頼みとしたのは / 浅利騒動と
津軽氏
資料編1(古代・中世編)
((3) 津軽氏の政庁としての堀越城)
(3)
津軽氏
の政庁としての堀越城 『永禄日記』は、天正十五年(一五八七)、「正月より堀越御城所々築直,つまり、堀越城下に集められたのは、大浦にあった寺院と町、それに
津軽氏
の家臣団であった。,正しければ、堀越城では家臣団の集住が進められただけで、領内の寺社・商工業者の城下集住は未達成であり、
津軽氏
/ (3)
津軽氏
の政庁としての堀越城
通史編2(近世1)
(津軽氏の鷹保護)
津軽氏
の鷹保護 鷹巣の保護については、豊臣政権は既に天正十四(一五八六)・十五年に、いわゆる九州平定 /
津軽氏
の鷹保護
通史編2(近世1)
(知行安堵)
津軽氏
の場合、天正十八年(一五九〇)十二月に前田利家に伴われて妻子とともに上洛を果たしており(資料近世,では、
津軽氏
の石高はどのくらいであったのであろうか。,表1によると、
津軽氏
の石高は、三万石もしくは三万四〇〇〇石とされている。,
津軽氏
への割り当ては、小野寺氏の割り当て量とほぼ一致していることがわかる。,ここから、
津軽氏
の領知高は、約三万石であったと考えられる(小野寺氏より若干少ない程度)。
通史編2(近世1)
(太閤蔵入地の設定)
太閤蔵入地の設定 右にみてきたように、天正十九年十月までに確定された
津軽氏
の領知高は三万石程度であったと,考えられる・高橋富雄『東北の歴史と開発』(一九七三年 山川出版社刊)によると、慶長三年(一五九八)に
津軽氏
,津軽地方に太閤蔵入地が設定された場合、さきにみたように
津軽氏
の領知高が三万石であることから、その石高は,そして、ここに幕藩体制下における
津軽氏
の本高四万五〇〇〇石が確定したのである。,そして、その支配形態も、秋田氏と同じように、太閤蔵入地・
津軽氏
知行地の双方が各村に含まれ、代官として
津軽氏
通史編2(近世1)
(伏見作事板の運上と太閤蔵入地)
は、表3のように秋田氏自身のほか、小野寺、戸沢、本堂、六郷、仁賀保、赤宇曽、滝沢、内越、岩屋、そして
津軽氏
,
津軽氏
のほか秋田・仙北・由利郡の大名・小名は「隣郡之衆(りんぐんのしゅう)」として編成され、その新たに,
津軽氏
は、知行高三万石に対し約一万五〇〇〇石が太閤蔵入地として設定されていた。,この
津軽氏
の太閤蔵入地も伏見作事板の廻漕費用に充当されていた。,理由は、
津軽氏
が独立大名たらんとして「隣郡之衆」として編成されることを拒否したとも、また、この時期
津軽氏
通史編2(近世1)
(北奥羽の領知確定)
しもむら)氏らはわずか一ヵ村のみを知行する小名であるが、豊臣政権はこれら由利の小名や仙北衆・秋田氏、そして
津軽氏
,
津軽氏
や南部氏については、現在のところ石高表記の朱印状が確認されていないが、天正十九年の十月までには両氏,に朱印状が発給されたとされており、
津軽氏
の場合、約三万石の領知を認められ、ほかに約一万五〇〇〇石の太閤蔵入地,
津軽氏
が居城を大浦城から、文禄三年に堀越城、慶長十六年に高岡城へと移転させ、南部氏も居城を三戸城から、,、豪商の経済力によって領国支配を強化するとともに、京都への交通を握る敦賀・小浜の豪商を通じて南部氏や
津軽氏
資料編2(近世編1)
(第一節 領内支配と支配機構の整備)
地方知行の状況 (一)知行充行状の下付 (二)知行帳 (三)寺院への知行方 (四)黒石
津軽氏
知行
資料編1(古代・中世編)
(一 堀越城の立地と現状)
それはまた、豊臣大名として認知された
津軽氏
が、自らを近世大名へと成長させてゆくステップでもあった。,それゆえ、堀越城及び堀越城下町の実像の解明は、近世大名
津軽氏
の権力の形成と、津軽地方における中世から近世,って国道七号石川バイパスが建設されたが、昭和六十年(一九八五)、先に指定されていた弘前城跡と合わせて「
津軽氏
城跡
通史編2(近世1)
(九戸一揆の意義)
また、この一揆鎮圧のために
津軽氏
を含む東国の大名衆を軍事動員できたことにより、秀吉は奥羽・「日の本」までに,惣無事令の下での信直には、私恨による殺害はできず、
津軽氏
の家臣をせいぜい徹底して追い返すことぐらいしかできなかったのである,為信襲撃未遂やこの
津軽氏
の家臣に対する処置からも、戦国末期以来から残っていた信直の為信に対する私恨はこの
通史編2(近世1)
(一六 葛西秘録(かさいひろく)・御定法編年録)
一六 葛西秘録(かさいひろく)・御定法編年録 「葛西秘録」は、
津軽氏
の開祖から享和三年(一八〇三)までの
通史編2(近世1)
(三 大浦から堀越への移転~西根から東根へ)
大名の居城にはその権力の特徴が顕著に現れており、この居城移転の過程と居城の構造は、
津軽氏
が戦国大名から
通史編1(古代・中世)
(大浦氏の城下町建設の流れ)
為信は天正十八年(一五九〇)から文禄三年(一五九四)の五年間、近世大名
津軽氏
の領国支配の本拠として大浦城,をはじめ商・工業者の集住に対する取り組み、さらには宗教施設や寺院などの配置を明らかにしていくことにより、
津軽氏
通史編2(近世1)
(浅利頼平の比内帰還)
この浅利氏没落の時、頼平は津軽へ逃れ、以後十数年ばかり
津軽氏
が抱え置いた。,その間、浅利氏の知行は安東氏で支配していたが、その後、
津軽氏
からの度重なる申し出により浅利氏の旧領を頼平,図33.戦国末期の北羽の大名・小名 安東氏と
津軽氏
は、湊合戦により秀吉の惣無事令違反は明白であったが,奥羽諸大名の領地安堵はこの国家的戦略に添って決定されたのであり、安東氏や
津軽氏
に対してこれ以降朝鮮出兵
資料編1(古代・中世編)
(二 大浦城の歴史)
後に「
津軽氏
」を名乗る大浦氏の歴史はここに始まる。,この過程において、大浦城は為信の津軽統一作戦の本拠地となり、その後も、文禄三年(一五九四)まで
津軽氏
の,したがって、大浦城はこの時期に近世大名
津軽氏
の本拠として大幅な改造を施されたと思われ、現在見る遺構は基本的
通史編2(近世1)
(黒石津軽家の大名昇格)
黒石
津軽氏
は、明暦二年(一六五六)二月、四代藩主津軽信政の叔父である信英(のぶふさ)が、五〇〇〇石をもって,文化六年四月、幕府から通達があり、寧親の望みは達成されて、黒石
津軽氏
の一万石の大名栄進と、柳の間詰め(
通史編2(近世1)
(西廻海運と領内の整備)
津軽氏
の上方廻米は、為信が京都・大坂・敦賀に屋敷を構えた文禄二年(一五九三)ころに開始されたと推測される,初期における
津軽氏
による上方廻米は、秋田氏がそうであったように、上方での生活に充てる台所米を中心とした
通史編1(古代・中世)
(城館調査の今後)
その後、弘前城跡などと一連の歴史遺産であるとの理解から、昭和六十年(一九八五)には「
津軽氏
城跡」として,その調査結果によると、弘前城移封までの
津軽氏
本拠として、数時期にわたる城郭の改修、総構(そうがまえ)的
通史編2(近世1)
(伏見滞在と派閥抗争)
図40Bの部分には「津軽越中守(えっちゅうのかみ)」、図40Cの部分には「津軽右京亮」の文字がみえ、
津軽氏
,南部氏も
津軽氏
も「日本之つき合」を名護屋から今度は伏見城下に移して行わねばならなくなった。 ,奥羽の大名、つまり
津軽氏
をはじめ、南部氏、秋田氏、仙北・由利の小名らにとって文禄・慶長期における軍役とは,図41.伏見作事杉板に関する豊臣秀吉朱印状 しかし
津軽氏
は、この伏見作事板を慶長二~四年分廻漕,しかし、
津軽氏
はこの「隣郡之衆」からの独立を求めて行く。
通史編2(近世1)
(家臣団の成立)
この「時慶卿記」に登場した、
津軽氏
の家臣たちをまとめたものが表12である(長谷川成一「文禄・慶長期
津軽氏
, 中野弥三郎 8 兼平金四郎 ※信建の女中 1 小宰相 注) 長谷川成一「文禄・慶長期
津軽氏
通史編2(近世1)
(鷹献上による豊臣政権との折衝)
鷹献上による豊臣政権との折衝 ここでは、統一政権と
津軽氏
との間で交わされた鷹関係文書を紹介しながら、,具体的には各文書が発給された時間的な経過を追って、どのように鷹献上を通じて
津軽氏
が統一政権に食い込んでいったのか,さて、
津軽氏
も他の戦国大名と同様に、豊臣政権と折衝を重ねるに際して鷹を献上しており、なかでも天正十七年,したがって
津軽氏
の当知行安堵は、秋田安東氏とほぼ同じ時期になされた可能性もある。
通史編3(近世2)
(藩政前期為信)
藩政前期為信 津軽地方の統一は、
津軽氏
の初代為信が天正十八年(一五九〇)に豊臣秀吉から領地を安堵され,寺社の縁起によると、
津軽氏
の先祖大浦氏より菩提寺としていた長勝寺(ちょうしょうじ)を種里から、法立寺は
通史編1(古代・中世)
(本城(根城)の城館跡)
その他、当市域外ではあるが
津軽氏
に関係する城館跡としては、鯵ヶ沢町の種里城跡や岩木町の大浦城跡なども挙
通史編2(近世1)
(堀越城への移転)
堀越城の拠点化は、同地帯の経営を容易にし、領内全域への近世的支配を及ぼす契機をなし、
津軽氏
が近世大名へと,それはまた、豊臣大名として認知された
津軽氏
が、自ら近世大名へと成長してゆくステップでもあった。
資料編2(近世編1)
(【解説】)
地域は、本市並びに藩政時代の津軽領全域を主たる対象とし、領主
津軽氏
と全国政権との関係動向などを視野に入,豊臣政権による十六世紀後半から末にかけての奥羽日の本(ひのもと)仕置から始めて、同政権下における
津軽氏
,徳川政権にあっては、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の動乱以後、
津軽氏
による徳川政権や朝廷公家勢力との関係構築,元和五年(一六一九)の福島正則改易(ふくしままさのりかいえき)に伴う福島正則の津軽への転封(てんぽう)と
津軽氏
通史編2(近世1)
(三 鷹献上と鷹保護)
一九九八年 吉川弘文館刊、同編『弘前の文化財 津軽藩初期文書集成』一九八八年 弘前市教育委員会刊 以後、
津軽氏
通史編1(古代・中世)
(堀越城と城下町)
さらに近世大名
津軽氏
の権力の形成と津軽地方における中世末から近世初頭への移行期の様相を明らかにするうえで,しかしその規模は小さく、津軽領内の寺院や商工業者を集住させるには不充分なものであったことから、
津軽氏
は,
津軽氏
が近世大名として津軽領内を掌握する政庁的性格をもたせようと作った堀越城下町ではあったが、十分に対応
通史編2(近世1)
(名護屋における「日本之つき合」)
これに乗じて
津軽氏
も彼らと「入魂」になりたいと思い、徳川家康に取次を依頼したが、家康がその斡旋(あっせん,
津軽氏
は、名護屋における諸大名との円滑な関係作りに困難をきたしていた。 ,ここでは、なぜ
津軽氏
の陣屋が秀吉の居城の直近に設けられたのかということについて考えてみたい。,できたかどうかはともかくとしても、同氏が文禄元年の段階で参陣を果たしていなかった、もしくは、免除されていたとすれば、
津軽氏
,肥前名護屋城諸侯陣跡之図(部分) 右下に津軽為信の陣屋が印されている 図22.ネギ畑の中に残る
津軽氏
陣屋跡
通史編2(近世1)
(「津軽一統志」の編纂)
この書は
津軽氏
の事績を記すことに主眼があり、同じ事件にいくつかの説がある場合、まず本来の事象と考えられるものを,イデオロギーの面から津軽弘前藩の存在の正当性を明らかにし、補強しようとしたものといえよう(長谷川成一「
津軽氏
資料編1(古代・中世編)
((2) 戦国時代の堀越城)
「
津軽氏
系譜(歴譜)」は、大浦為則の弟甚三郎守信は、はじめ赤石城にいたが、後に堀越城主武田重信の養子となって
通史編2(近世1)
(町年寄の由緒)
これらの開発に従事した松井家は、
津軽氏
の領国形成に不可欠の要素であった、岩木川舟運・十三湊、ひいては、
通史編2(近世1)
(為信の築城計画)
(『堀越城跡 前川災害復旧関連工事遺跡発掘調査報告書』一九七八年 弘前市教育委員会他刊)、堀越の地は
津軽氏
資料編1(古代・中世編)
(五 大浦城と「城下」の構造)
大浦城は戦国大名大浦氏の居城であり、天正十八年(一五九〇)~文禄三年(一五九四)の五年間は、近世大名
津軽氏
,こうした意味で、大浦「城下町」は、まさしく中世都市の段階にとどまっており、
津軽氏
が近世大名に飛躍しようとすれば
資料編1(古代・中世編)
(一 大浦城の立地と現状)
大浦城は、元和元年(一六一五)のいわゆる「一国一城令」によって廃城となったが、
津軽氏
のルーツをなす城の
通史編2(近世1)
(津軽家宛ての領知宛行状と領知高の変動)
津軽氏
の領知高の変遷をたどると、豊臣政権下では津軽家に対する領知高を明記した秀吉朱印状が現在に至るまで,各史料と、豊臣政権下で北奥羽の大名に課された役である秋田杉板の作事板搬出割り当ての状況から検討すると、
津軽氏
,図52.寛文4年の領知目録 そして、慶長十六年の禁裏造営の際、
津軽氏
の普請役賦課の役高は約四万石,このように「津軽之高四万五千石」は、当時の政治動向の中で定数として機能しており、
津軽氏
の本領(飛地を除
通史編2(近世1)
(大浦城の構造)
図24.大浦城・城下町跡の航空写真 大浦の地は、
津軽氏
が戦国期以来南部氏との抗争の過程で、その
通史編2(近世1)
(堀越城の限界性)
堀越城は、岩木川東岸で浅瀬石川・平川に囲まれた地帯へ
津軽氏
が進出する拠点として、政治的・経済的な側面に
通史編2(近世1)
(弘前八幡宮の祈祷)
回数 元禄6年~天明8年(95年間,313回) 内 容 回数 古縣不動尊出汗神楽奉納 40 藩主并
津軽氏
一族病気平癒祈祷
通史編2(近世1)
(浅利頼平の怪死)
津軽氏
も、浅利方に加担したことによってもたらされる危機を必死になって回避しようとしていたのである。
通史編2(近世1)
(関ヶ原の戦いと奥羽の情勢)
を盟主として大坂城に招き、三成を中心に着々と家康討伐計画が進められていった(長谷川成一「文禄・慶長期
津軽氏
,の復元的考察」同編『津軽藩の基礎的研究』一九八四年 国書刊行会刊、以下、本項の
津軽氏
関係の記述は多くこれによる
通史編4(近・現代1)
(不平の源流)
津軽平八郎も森岡鶴翁も
津軽氏
の一門であり、廃藩後の津軽藩主家に四〇万円の巨額な財産があり、生活難の士族
通史編1(古代・中世)
(三戸南部氏による領国支配の強化)
光信・盛信親子が戦国時代末期に津軽地方を席巻し、近世大名へと発展する大浦-
津軽氏
の祖とされているのはいうまでもない,写真189 南部(大浦)光信倚像
津軽氏
の系譜である『前代歴譜』に光信が九戸郡下久慈から南部氏
通史編1(古代・中世)
(大浦城築城以前の城館跡)
などによると一五世紀の下国義季(しものくによしすえ)陣城とも伝えられ、さらに可能性としては一六世紀に起こった
津軽氏
通史編2(近世1)
(豊臣再仕置軍の奥州下向)
切り替えられていることは、秀吉が為信を南部氏の家臣から正式に津軽の独立大名として公認する一方で、その
津軽氏
,に置き、中央の軍隊である秀次・家康・氏郷・長吉を出馬させることを考えていたが、九戸一揆を契機として、
津軽氏
通史編2(近世1)
(公家との関係)
津軽氏
にとって、西洞院親子の役割は、政治の中心地であった上方(京・伏見)で、関ヶ原の戦い直後の流動的な,、長谷川成一『弘前の文化財 津軽藩初期文書集成』一九九八年 弘前市教育委員会刊、同前掲「文禄・慶長期
津軽氏
資料編1(古代・中世編)
((2)戦国時代の「石川城(石川大仏ケ鼻城)」)
この過程で南部氏は、延徳三年(一四九一)、一族の南部光信(
津軽氏
の祖先)を西浜種里城に、明応七年(一四九八
通史編2(近世1)
(新編弘前市史 通史編2(近世1) 目次)
104 第二章 幕藩体制の成立 ………………………………………… 117 第一節 徳川政権と
津軽氏
,の動向 …………………………………… 118 一 慶長五・六年の動乱と
津軽氏
………………………
資料編1(古代・中世編)
(一 はじめに)
その中には、堀越城跡のように国史跡に指定され(弘前城跡と合わせて「
津軽氏
城跡」)、公有地化も進められて
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