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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編1(自然・原始) (旧石器時代)

本州の北端に位置し津軽海峡を挟んで北海道と対峙する青森県は、南から伝来の文化を北へ渡し、北の文化が本州,あひょう)期(約三~五万年前)に気温が上昇した結果、海水面が上昇し、北海道とつながっていた陸橋が切れて、津軽海峡
通史編4(近・現代1) (日露開戦と第八師団の派遣)

しかし郷土師団たる第八師団が大陸出征したり、津軽海峡にロシア艦隊が出没したり、樺太からロシア人捕虜が弘前,開戦翌日の二月十一日、ロシア海軍のウラジオストク艦隊四隻の軍艦が津軽海峡に現れ、青森・秋田県境の艫作(
通史編1(古代・中世) (境界の北進)

の郡制に編成されたことによって、日本の北(これまでも触れてきたように、当時の認識としては東)の境界は津軽海峡
通史編1(自然・原始) (津軽山地)

津軽山地 津軽半島は北が津軽海峡、西が日本海、東が陸奥湾と三方が海に面し、南西方には岩木火山が位置している
通史編1(自然・原始) (亀ヶ岡文化の広がり)

がり 現在みられる当該土器の分布範囲は、日本の先史土器文化のなかでも他の追従を許さぬほど広く、北は津軽海峡
通史編1(自然・原始) (春)

津軽海峡側や地域の高地でも弘前市から三日遅れくらいで開花する。  
資料編1(考古編) ((2)9世紀~10世紀後半)

また土師器においては、前代では東北北部から北海道のほぼ全域を同一文化圏とする特徴を持っていたものが、津軽海峡
通史編1(自然・原始) (台風来襲)

昭和六十三年(一九八八)、惜しまれながら青函連絡船は廃止となり、天候の影響を受けない海底トンネルによる津軽海峡線
資料編1(考古編) (1.旧石器時代の概観)

氷河が拡大した時期(氷期)は海水面の低下を招き、旧石器時代人は津軽海峡を自由に往来することができた。,、海水面が上昇して海峡を越えることは困難になり、氷河時代の終わった後の完新世(旧名沖積世)に入ると、津軽海峡
資料編1(考古編) ((2)北方文化との交易・交流)

9世紀になると、青森県域全体が律令体制の影響を強く受けることとなり、それと同時に津軽海峡を境として、これまでの
通史編2(近世1) (津軽領内のアイヌ民族)

村(現東津軽郡今別町)と、野田(のだ)村(現青森市)から小泊(こどまり)村(現北津軽郡小泊村)に至る津軽海峡,彼らと北海道に住むアイヌたちの間には近世初頭まで津軽海峡を挟んで活発な交流関係があったものと推定される
通史編1(自然・原始) (夏)

同じこの期間、津軽海峡側や陸奥湾周辺の地方では、濃い霧が侵入する日が多くなり、交通事故や海難・飛行機事故
通史編1(自然・原始) (前期)

その広がりは、北をみると津軽海峡を越えて渡島(おしま)半島に上陸し、さらに北へ向かって北上を続け、現在
通史編1(自然・原始) (中期)

さらに円筒上層式の世界に進出した大木式土器は津軽海峡を越えて北海道に渡り、渡島半島にその足跡を残している
通史編1(自然・原始) (位置と地勢)

北は津軽海峡を隔てて北海道の渡島(おしま)半島に相対し、東は太平洋、西は日本海に面し、南の西半分は秋田県
通史編1(自然・原始) (気候境界と地域特性)

、東西南北二〇〇キロメートルくらいの範囲内で生じる気候の地域差の原因には、日本海側と太平洋側あるいは津軽海峡側
通史編1(古代・中世) (前九年合戦の勃発)

当時は、津軽海峡を挟んで本州と北海道が活発な交流を展開していた時期であり、さらに北では、擦文(さつもん
通史編1(古代・中世) (エゾ=アイヌ)

の住居跡(北海道常呂町) 写真67 オホーツク文化の墓(北海道常呂町)  中央政府は津軽海峡
通史編4(近・現代1) (電信事業)

東京・青森間の電信線の架設が終わり、また、同時に、北海道開拓使によって進められてきた今別から函館に至る津軽海峡
通史編1(古代・中世) (一六世紀の湊)

一七世紀初めの遺物を大量に出土した東通(ひがしどおり)村浜通(はまどおり)遺跡の状況をみると、日本海から津軽海峡
通史編1(自然・原始) (弥生文化の内容)

東北北部の地は次第に北からの人々が津軽海峡を越えて移住し、北の文化(北大(ほくだい)式・江別(えべつ)
通史編1(自然・原始) (日本海沿岸海域に震源のある地震)

また、特異例に津軽海峡北西沖の大島噴火による地震・津波がある。
通史編2(近世1) (旅行者のみた領内海防)

)村、現秋田県山本郡二ツ井(ふたつい)町)に宿泊した時、青森から国元に帰る途中の加賀出身の船頭から、津軽海峡,さらに北上した松陰は竜飛崎で津軽海峡を異国船が自由に往来することを嘆いたのち、三月六日に平舘に到着した
資料編1(考古編) ((4)縄文時代中期)

縄文時代の前期と中期に栄えた円筒土器は、その下層式土器の段階において、北は津軽海峡を越えて北海道の石狩川河口
通史編1(古代・中世) (「東夷征討」祈願)

の地」のまま残った北奥羽地域(現在の青森県全域と秋田県の北部、岩手県の北部および海岸地域)に加えて、津軽海峡
通史編3(近世2) (宮古湾海戦)

宮古湾海戦 津軽海峡を挟んで対峙(たいじ)することとなった政府軍と旧幕府軍は探索の者を送り、間者を厳
通史編1(古代・中世) (粛慎とは何者か)

蝦狄が、渡嶋=津軽海峡を挟む世界のさらに北に広がる、道央・道東北の世界に住む人々の総称となっていくのである
通史編1(古代・中世) (かわらけと陶磁器)

かわらけとセット関係になって陶磁器を出土する遺跡は、北海道までは波及していないことから、この時期に至って津軽海峡
通史編1(自然・原始) (人類の進化)

たとえばアジア大陸と日本列島を分離させているタタール(間宮)海峡、ラ・ペルーズ(宗谷)海峡、津軽海峡などは
通史編1(古代・中世) (渡嶋の所在)

道南部はむしろ津軽海峡を挟んだ世界と一体性がある。
資料編1(考古編) ((2)石器)

石器のみならず、津軽海峡を越えての交流は想像以上に頻繁で、早期後半からその証拠が認められる。
通史編1(古代・中世) (延久蝦夷合戦の実相)

して三方面軍編成をとったことが予想され、陸奥守頼俊軍が気仙郡から海岸沿いに閉伊地方へと進軍、さらに北の津軽海峡
通史編1(自然・原始) (食料)

一方、魚類については種類が豊富で、陸奥湾内はもとより、時には津軽海峡のような外海にまで出漁していた。
通史編1(古代・中世) (一 中世寺院の建立)

『今昔物語集』にみる安倍頼時の渡道は、津軽海峡を挟む津軽と夷島との交通を文献的に証明する一大事象である
資料編1(考古編) (〈注及び参考文献一覧…第3章〉)

96 江坂輝弥 「奥羽地方北部の古墳時代の文化」(北奥古代文化4) 1972年 *97 千代肇 「津軽海峡,総合研究 津軽十三湖)佐々木孝二編 1988年 *265 相馬信吉 「続縄文期から擦文期にかけての津軽海峡
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