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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編2(近世1)
([口絵])
[口絵] 口絵1
津軽為信
坐像と御影堂障壁画 口絵1
津軽為信
坐像と御影堂障壁画,口絵2 大浦光信倚像 口絵3 伝
津軽為信
下賜卍船印 口絵4 上野国勢多郡津軽領代官足立氏,原合戦図屏風 (左隻) 口絵6 近衛信尹書状 津軽右京亮宛 近衛信尹(のぶただ)書状
津軽為信
宛, (折紙)7月22日付 文書は,左大臣近衛信尹が
津軽為信
に宛てた書状である。
資料編2(近世編1)
([口絵])
[口絵]
津軽為信
画像 (国立史料館蔵)
津軽為信
霊屋(弘前市・革秀寺) 為信の霊屋は,年未詳十月二十八日 徳川家康御内書 津軽右京亮宛 (本文史料二四四号) 慶長5年正月27日
津軽為信
任右京大夫口宣案,(本文史料76号) 慶長9年11月22日
津軽為信
黒印歩米渡状 念西宛 (弘前市指定文化財,,本文史料199号) 慶長期九月二十九日
津軽為信
書状 大和泉讃岐守宛 (本文史料二四〇,号) 年未詳九月十五日
津軽為信
夫人仙桃院消息 (本文史料四六二号) 年不詳6
資料編3(近世編2)
(●革秀寺 藤代一丁目)
図7 革秀寺本堂立面図 (『県重宝 革秀寺本堂保存修理工事報告書』より転載) (二)
津軽為信
霊屋,図8
津軽為信
霊屋平面図・立面図 (『重要文化財
津軽為信
霊屋修理工事報告書』より転載)
資料編2(近世編1)
(編年史料 (天正十七年~明暦二年))
●慶長五年(一六〇〇)正月二十七日、
津軽為信
、右京大夫に任官する。,
津軽為信
の配置について指示なし。,
津軽為信
への指示なし。,●慶長十二年(一六〇七)十二月五日、
津軽為信
、京都にて死去する。,●寛永五年(一六二八)四月二十九日、
津軽為信
室、死去する。
通史編2(近世1)
(三 大浦から堀越への移転~西根から東根へ)
三 大浦から堀越への移転~西根から東根へ
津軽為信
は、戦国期以来、津軽(大浦)氏の居城であった大浦(
通史編3(近世2)
(藩主の位牌を盗む)
一八四三)五月に津軽家の菩提寺で、曹洞宗僧録所の長勝寺(ちょうしょうじ)(現市内西茂森一丁目)から初代藩主
津軽為信
通史編2(近世1)
(二 浅利騒動への加担)
浅利騒動は、単に一地方の大名領内の問題に終わらず、豊臣政権を構成する奉行や有力大名のほか、周辺の大名
津軽為信
通史編2(近世1)
(七 津軽一統志)
七 津軽一統志
津軽為信
の津軽統一を中心として編さんした官撰史書。
通史編5(近・現代2)
(供出と配給)
廃品回収 金属回収政策のなかで弘前市民に衝撃を与えたのが、津軽藩の藩祖で弘前市民の誇りだった
津軽為信
像,
津軽為信
がいかに弘前市民の心の拠り所であり、誇りだったのかがよくわかる。,写真30
津軽為信
像の供出 供出されたものは軍需品としての金属だけではなかった。
通史編2(近世1)
(関ヶ原の戦いと津軽氏)
津軽為信
は、関ヶ原の戦いの際に、実際に合戦の行われた美濃国に赴いており、大垣城攻略に参加していたとされる,一八四二)に幕府に献じられた「朝野旧聞裒藁(ちょうやきゅうぶんほうこう)」の「東照宮御事蹟」別録七十九に、
津軽為信
,現在確実な文書によって、この動乱の時期の津軽家の動向が確認できるのは、慶長五年八月十九日付の徳川秀忠が
津軽為信
,慶長六年、関ヶ原での功績により、
津軽為信
に対して上野国勢多(こうずけのくにせた)郡のうち二〇〇〇石が加増
通史編2(近世1)
(九戸一揆の鎮圧)
ほかに出羽国鹿角(かづの)郡浄法寺(じょうほうじ)より仙北の小野寺義道・秋田実季・仁賀保勝利らが、そして
津軽為信
,
津軽為信
を含む秋田氏・小野寺氏・仁賀保氏らの軍勢は若狭館の向かいの穴手(あなて)に陣を構え、信直らとともに
通史編2(近世1)
(浅利騒動と津軽氏)
、比内浅利氏より檜山の実季へ戦闘をしかけたが、津軽方より浅利氏を支援することになり、そのため浅利氏は
津軽為信
,南部信直書状案 この文禄四年の戦闘において頼平が頼みとしたのは、浅利勝頼の謀殺後、頼平が身を寄せていた
津軽為信
通史編2(近世1)
(伏見滞在と派閥抗争)
有力大名である伊達政宗、最上義光、南部信直は妻子を人質として上洛させ(『大日本古文書・島津家文書』)、
津軽為信
,っていた前田利家に「日本之つき合」のため、あるいは「上衆」に「なふり心」にされないためにすがり、一方
津軽為信
,
津軽為信
は、有力大名である利家にも取次を依頼しようとしていたが「表裏之仁」と評され、さらに政権を支える,「津軽右京亮」は
津軽為信
のことであり、「津軽越中守」は為信の三男信枚(のぶひら)のことであるとされており,さらに南部信直の屋敷と
津軽為信
の屋敷が極めて近接していることは、注目に値する。
通史編2(近世1)
(湊合戦と惣無事令違反)
がなされなかったことは、天正十八年(一五九〇)の奥羽仕置での津軽地域の在り方を大きく規定することになった(長谷川成一「
津軽為信
論,―
津軽為信
と全国政権―」同編『弘前の文化財―津軽藩初期文書集成―』)。
通史編1(自然・原始)
(刊行によせて)
わがまち「弘前」は、藩祖
津軽為信
公が高岡の地に町割りを計画したことに始まり、以来先人たちの営々とした努力
通史編1(古代・中世)
(為信の離反)
写真197
津軽為信
木像 為信の離反とその後の津軽の情勢については、南慶儀より八戸政栄に報告されているが
通史編1(古代・中世)
(枝城・端城の城跡)
一方『津軽一統志』『津軽名臣伝』『盛岡由緒書』には、
津軽為信
代の家老職を務め、独立統一のため戦陣の総師
資料編3(近世編2)
(1 弘前城の歴史)
1 弘前城の歴史
津軽為信
が、その居城を大浦城から堀越城へ移したのが文禄二年(一五九三)であった。
通史編3(近世2)
(他領から技術を導入)
御鞘師として貞享二年(一六八五)に抱えられていた大川善兵衛の祖父、弥七郎は、秋田出身の者であり、初代藩主
津軽為信
通史編3(近世2)
(江戸時代初期の建築)
革秀寺境内にある
津軽為信
霊屋(たまや)は、慶長十三~十九年(一六〇八~一四)に二代信枚によって造られたとされているが,、これは「慶長・寛永期とみるよりは江戸時代前期とする」という見解(『重要文化財
津軽為信
霊屋修理工事報告書
通史編3(近世2)
(草創期三代)
草創期三代 藩祖
津軽為信
は十代のころ、近衛尚通(ひさみち)(関白、名は前久(さきひさ)、龍山と号す)
通史編2(近世1)
(津軽氏の鷹保護)
さて天正十九年(一五九一)十二月十日と推定される豊臣秀吉朱印状(資料近世1No.四二)は、
津軽為信
の領地
通史編3(近世2)
((一)藩主家の菩提寺)
図204.革秀寺
津軽為信
霊屋 信枚は天海僧正に帰依し、江戸では天台宗常福寺を菩提寺として埋葬されたが
通史編4(近・現代1)
(藩祖三百年祭)
藩祖三百年祭 明治三十九年は藩祖
津軽為信
の三百年祭に当たった。
通史編2(近世1)
(奥羽大名の名護屋参陣)
すでに秀吉は、九戸一揆鎮圧によって、
津軽為信
、南部信直、そして「日の本」領主蠣崎(松前)慶広らの大名衆,なお、
津軽為信
の名護屋参陣を記した史料は津軽家側では皆無に近い。,誓紙の中に、
津軽為信
・南部信直らの署名と花押が認められ、蒲生氏郷(がもううじさと)・最上義光(もがみよしあき
通史編2(近世1)
(鷹献上システムの成立)
、大正寺、 越前内 北庄、付中、今城、疋田、 江州内 かい津、大みそ、坂本、 右の朱印状は、
津軽為信
通史編3(近世2)
(館神)
この秀吉の木像は明治になって東京の津軽家へ移され、昭和三十二年(一九五七)より、革秀寺の
津軽為信
霊廟に
通史編3(近世2)
(江戸時代後期の建築)
革秀寺の
津軽為信
霊屋は、一間に一間の小規模なものであり、正面に軒唐破風を付けた入母屋造こけら葺の屋根で
資料編1(古代・中世編)
(一 堀越城の立地と現状)
堀越城跡がとりわけ注目されるのは、文禄三年(一五九四)、
津軽為信
が大浦城からこの地に本拠を移し、慶長十六年
通史編1(古代・中世)
(合戦の方法)
この戦法により
津軽為信
は絶体絶命の危機に追い込まれることとなったが、家臣の田中太郎五郎が身代わりとなり
通史編2(近世1)
(浅利頼平の怪死)
一方、
津軽為信
の子信建(のぶたけ)は、浅利氏支援についての実季からの詰問に答えるため慶長三年八月二十六日
通史編2(近世1)
(伏見作事板の運上と太閤蔵入地)
津軽為信
は、慶長元年には九〇間、慶長二年から四年までは一四五間の杉板を運上するよう下命されている。,
津軽為信
は、再三にわたる秋田氏からの催促にもかかわらず、この三年間秋田山から杉板を受け取らず山出しをしていない
通史編2(近世1)
(北奥羽の領知確定)
しかし
津軽為信
はその治世(~慶長十二年十二月五日死去)において、家臣に対する知行安堵状(ちぎょうあんどじょう,
津軽為信
が、千徳(せんとく)氏を慶長二年(一五九七)に滅亡させ(資料近世1No.六六)、津軽建広(たてひろ
通史編2(近世1)
(人質徴収)
また、
津軽為信
も、前田利家に伴われて十二月に足弱衆を伴って上洛している(資料近世1No.二七)。
資料編1(古代・中世編)
(二 大浦城の歴史)
しかし文禄三年(一五九四)、
津軽為信
は堀越城を修築して移り、大浦の寺院・町々も移転させたという(『永禄日記
資料編1(古代・中世編)
(五 東目屋地区の中世城館の特徴)
館主は誰だったのか等々、現時点では具体的にしがたいが、『封内事実秘苑』の文禄四年(一五九五)の条は、
津軽為信
通史編3(近世2)
((三)主要人物)
初代藩主
津軽為信
に慶長二年(一五九七)召し抱えられ、鉄炮役を仰せつけられた。
通史編4(近・現代1)
([付図])
す 33 小山内薫 自由劇場創立〈明治42年〉 34 藩祖三百年祭記念事業として
津軽為信
銅像建立
通史編5(近・現代2)
([口絵])
口絵20 新鍛冶町家庭防空団防空演習の際に、弘前キネマ館前にて 口絵21 金属供出のため、
津軽為信
公銅像出陣
通史編2(近世1)
(家臣団の成立)
表12「時慶卿記」にみえる家臣
津軽為信
の家臣と 推定される人物 津軽信建の家臣と 推定される人物
通史編2(近世1)
(公家との関係)
後世の官撰史書である「津軽一統志」では、文禄二年(一五九三)に、上洛した
津軽為信
が、中絶していた「本末,り、干ワラヒ 津軽右京亮、 (『史料纂集 三貌院記』一九七五年 続群書類従完成会刊) 後段に、
津軽為信
資料編1(古代・中世編)
(一 はじめに)
文禄三年(一五九四)、
津軽為信
は、それまでの本拠・大浦城から堀越城に移り、ここを津軽領国支配の拠点として
通史編3(近世2)
(民衆の精神世界)
岩木山には往古より霊力を持った鬼が住んでおり、藩祖
津軽為信
(ためのぶ)の津軽統一事業の際、その霊力で為信
通史編2(近世1)
(津軽家の自己認識確立への試み)
の自己認識確立への試み 津軽家がどのように興り、またどのようにして津軽を統一していったのか、さらに
津軽為信
通史編4(近・現代1)
(巡幸の日誌と弘前)
至る間についてみると、浪岡のところでは、北畠氏の歴史を回顧し、黒石については、またそこの往昔に触れ、
津軽為信
通史編2(近世1)
(掲載図版・写真の典拠・所蔵一覧)
国文学研究資料館史料館蔵津軽家文書 54 京都市 財団法人陽明文庫蔵 55 京都絵図 弘前市立博物館蔵 56
津軽為信
夫妻画像,弘前市立博物館蔵 76 津軽信義知行加増黒印状 津軽百助宛 正保4年 国文学研究資料館史料館蔵津軽家文書 77
津軽為信
墨付
通史編5(近・現代2)
(昭和弘前市民の一側面)
当時弘前城には
津軽為信
の銅像があり、桜と天守閣と為信像は市民のシンボルであり誇りでもあった。
資料編2(近世編1)
(【解説】)
の政治状況も、武断(ぶだん)政治から文治(ぶんち)政治への移行期にあたり、津軽領を取り巻く情勢も初代
津軽為信
通史編1(古代・中世)
(二 北奥宗教界を彩る中世的寺社)
一五九三) 中山正種 新屋村 (平賀町) 同右 同右 藤先寺 同右 天正年間 (一五七三~九二)
津軽為信
通史編2(近世1)
(豊臣再仕置軍の奥州下向)
長吉)画像 このように、信直の領国糠部郡を含む奥羽の地が奥羽再仕置に深く巻き込まれていく中で、
津軽為信
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