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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編5(近・現代2) (津軽藩踏水会)

津軽藩踏水会 弘前市のスポーツ団体に、津軽十万石の古式泳法の伝統を伝える「津軽藩踏水会」がある。,津軽藩時代の泳法は武芸であったため明治以降絶え、その内容・流派は不明であった。,津軽藩では、慶長十九年(一六一四)に南溜池(現南塘グラウンド)が築かれ、人馬の水練場にもなっていた。,津軽藩踏水会の会旗は津軽家の定紋の牡丹(ぼたん)である。 写真315 津軽藩踏水会 / 津軽藩踏水会
通史編2(近世1) (一九 津軽藩官制・職制・禄制・租税制)

一九 津軽藩官制・職制・禄制・租税制 官制・職制は明治期に旧弘前藩士工藤主善が、官職によって津軽弘前藩 / 一九 津軽藩官制・職制・禄制・租税制
通史編2(近世1) (一三 津軽藩旧記伝類(きゅうきでんるい))

一三 津軽藩旧記伝類(きゅうきでんるい) 「津軽旧記類」の続編として、津軽家一門や藩主の夫人、著名な / 一三 津軽藩旧記伝類(きゅうきでんるい)
通史編2(近世1) (二 寛政改革の実施)

(本項の記述は、瀧本壽史「寛政改革と藩士土着政策」長谷川成一編『津軽藩の基礎的研究』一九八四年 国書刊行会刊,、瀧本壽史「津軽藩寛政改革意見書の分析」『弘前大学国史研究』七九、浅倉有子「津軽藩士『在宅』政策について
通史編5(近・現代2) (書の伝統)

覃山も津軽藩士の子で、師の跡を継いで師範学校書道教師となった。,高山文堂は、さらに、津軽藩江戸定府の士で、維新のときに弘前に定住した平井東堂(ひらいとうどう)に師事し
通史編2(近世1) (近世大名と大名課役)

の蝦夷地警衛をはじめとする課役は別項で詳述する(なお、本項の記述は、長谷川成一「北方辺境藩研究序説―津軽藩,に課せられた公役の分析を中心に―」・「所謂『北狄の押へ』の再検討―浪川氏の拙稿批判によせて―」同編『津軽藩
通史編2(近世1) (掲載図版・写真の典拠・所蔵一覧)

表8 作成 表9 作成 表10 作成 表11 作成 表12 作成 表13 作成 表14 福井敏隆「津軽藩,における支配機構の一考察」『北奥地域史の研究』46頁 昭和63年 名著出版刊 表15 福井敏隆「津軽藩,における支配機構の一考察」『北奥地域史の研究』47頁 昭和63年 名著出版刊 表16 福井敏隆「津軽藩,の基礎的研究』219頁 昭和59年 国書刊行会刊 表19 浪川健治「藩政の展開と国家意識の形成―津軽藩,の基礎的健研究』175~176頁 昭和59年 国書刊行会刊 表26 浪川健治「津軽藩政の展開と飢饉―特
通史編4(近・現代1) (白銀小学を「朝陽」と改称)

所有する市河米庵の書『朝陽館』の扁額(旧弘前城能楽堂に掲げられたものを同校がもらい受けたもの)と第九代津軽藩主寧親公
通史編4(近・現代1) (遊説の影響)

所謂旨義に同感を表示する者ハ、力めて相親睦和熟せざるべからず、然れども予輩の希望する処は此所に止まらず、旧津軽藩士,安政三年(一八五六)生まれの津軽藩士で、若くして政治に志し、後藤象二郎弘前招待の発起人となった。,このときの北津軽郡の四人の議員はいずれも旧津軽藩士で、のち花田一色は初代五所川原町長、小山内鉄弥は衆議院議員
通史編2(近世1) (近世における史書の編纂)

編纂を通じて形成されていく津軽家の自己認識について述べる(なお、この項の記述は主として、長谷川成一「津軽藩藩政文書
資料編1(考古編) (第5節 陶磁器類)

17世紀以降、津軽藩・南部藩の成立によって、地場産業として散発的な発生は認められるものの、他地域からの
通史編2(近世1) (宝暦改革の課題)

一七八七)の朱印改め時のそれは一九万六三五三石余となっており、年貢収納高が頭打ちになっていた(浅倉有子「津軽藩,まれることで、自らの生活を維持していたことが、一層この傾向を拡大させていくのである(瀧本壽史「宝暦・天明期津軽藩農村
通史編3(近世2) ((二)食事)

作られ、膳番が藩主の食べる朝・昼・暮の食膳、そのほかすべて藩主に差し出す飲食物を検査した(小館衷三『津軽藩政時代,猪口物(ちょこもの)(小丼で刺身(さしみ)や酢のものなどを盛る小さな器)一品ということが知られる(前掲『津軽藩政時代
通史編2(近世1) (領内の乳井評価)

倫理絶類の人なり」(『伝類』)といった見方もあれば、他方ではそれは「廉節(れんせつ)」を「飾る」(「津軽藩史
通史編2(近世1) (一 海防問題の発生と蝦夷地出兵)

蝦夷地』一九八四年 雄山閣出版刊、同『北方史のなかの近世日本』一九九一年 校倉書房刊、長谷川成一編『津軽藩
通史編2(近世1) (一 青森開港と初期海運)

づいて、二代目の田中九兵衛も津軽へ進出し、深浦・鰺ヶ沢・十三の各湊へ入津している(和泉清司「近世における津軽藩
通史編5(近・現代2) (明治時代の柔術)

/津軽藩の柔術である「本覚克己流」は、添田家九代定吉が、「和(やわら)」といって、藩学校「稽古館」の後
通史編3(近世2) (稽古館の儒学者たち)

著述に「引声啓蒙」「喪服私議」「津軽藩祖略記」「前譜磯菜間筆記」「柄討南記略」「討北略記」等がある。,工藤主善は史学に長じ、『津軽藩史』を著している。,図175.津軽藩史 目録を見る 精細画像で見る  伊東広之進(一八一五~一八七七 字は一轂、梅軒
通史編3(近世2) (住吉宮)

和泉父子は吉田家へ越訴(おっそ)に及んだが、これまでの神職組織を変えるまでには至らなかった(篠村正雄「津軽藩
通史編3(近世2) (斎藤規房)

和学方御用掛に任じられ、同十二年十月高岡神社の祭司手代、同十三年二月には祭司を命じられた(「吉川神道関係資料 津軽藩斎藤家文書
通史編2(近世1) (捜索・召捕)

町奉行(弘前城下の町方の行政・司法を担当)の付属吏である町同心・町目付・目明が担当した(黒瀧十二郎『津軽藩
通史編2(近世1) (前期農政と検地)

状況のなかで経営を解体させ、水呑へと転落したことにより、請作地を増大させたという面もあった(浪川健治「津軽藩前期農政
通史編3(近世2) (参勤の準備)

四代信政が延宝三年(一六七五)三月十五日に参府した場合をみると次のようになる(小館衷三『津軽藩政時代に
通史編4(近・現代1) (師範学校と分校の設立)

弘前分校の校舎は亀甲町旧藩倉廩(現「津軽藩ねぷた村」付近)を仮校舎に充て、専任教師は三人であった。
通史編2(近世1) (三 鷹献上と鷹保護)

らかにされてきたところである(長谷川成一『近世国家と東北大名』一九九八年 吉川弘文館刊、同編『弘前の文化財 津軽藩初期文書集成
通史編2(近世1) ((四)改革の諸政策と藩士土着政策)

などがその主なものであるが、これ以後の藩政の動向は積極的な新田開発と殖産興業の推進であった(今野敏「津軽藩政
通史編2(近世1) (一 明暦検地の意義)

示す数少ない史料である(以下は、特に断らないかぎり、浪川健治「前期農政の基調と展開」 長谷川成一編『津軽藩
通史編1(自然・原始) (完新世の噴火)

表3 津軽藩時代の火山活動一覧表(宮城一男,1971より転載) 噴 火 年 代 活動の型式 場所
通史編5(近・現代2) (獅子踊(舞))

津軽藩の庇護を受けて伝承されてきた」とする伝承が多い。
通史編2(近世1) (家臣団の成立)

した、津軽氏の家臣たちをまとめたものが表12である(長谷川成一「文禄・慶長期津軽氏の復元的考察」同編『津軽藩,それを、まとめたものが表13である(福井敏隆「元和・寛永期津軽藩の家臣団について」『弘前大学国史研究』
通史編2(近世1) (貞享検地)

幕領検地の技術と農民支配方式によって可能になったという(浪川健治「前期農政の基調と展開」長谷川成一編『津軽藩,と、いったことからうかがうことができる(福井敏隆「津軽藩における支配機構の一考察―天和・貞享・元禄期を
通史編3(近世2) (曹洞宗)

現南津軽郡大鰐町)に創建の金竜寺もこの派に属し、平川・浅瀬石川流域に布教が行われたとみられる(小舘衷三『津軽藩政時代
通史編5(近・現代2) (笹森順造の偉業)

著者は明治二十年代幼少七・八才の頃から弘前市北辰堂道場で旧津軽藩の指南役対馬健八等に一刀流の手ほどきを
通史編5(近・現代2) (山鹿学の影響)

以後津軽藩の兵制は幕末まで山鹿流だった。
通史編2(近世1) (寺社政策)

められ、神田は悪田に取り替えられ、諸経費は削減された(資料近世1No.九六三)(以下、主に長谷川成一「津軽藩宝暦改革,の一断面―寺社政策を中心に―」『転換期北奥藩の政治と思想―津軽藩宝暦改革の研究―』平成三年度科学研究費補助金研究成果報告書
通史編5(近・現代2) (東奥義塾の昭和)

藤田謙一は津軽藩士明石永吉の次男で、東奥義塾の卒業生であった。,八月八日、津軽藩祖為信公の銅像出陣を見送った後、十一日には出発している。
通史編4(近・現代1) (出家と禅画)

父佐藤忠正(旧津軽藩士)、母つやの三男、幼名を忠三という。
通史編2(近世1) (土着策施行期の廃田開発)

としたものとなってくると同時に、その労働価値の増大に伴い、仮子給銀は急上昇していく(瀧本壽史「宝暦・天明期津軽藩農村
通史編2(近世1) (幕末期の藩財政)

国情から異国への防備の触れが出ていることを受けて、七ヵ年で赤字財政を整理する計画を立てた(「安政初期津軽藩財政状況調
資料編1(古代・中世編) ((3) 津軽氏の政庁としての堀越城)

その七年後の文禄三年(一五九四)、為信は改めて堀越城を修築、その上で大浦からこの地に本拠を移し、津軽藩
通史編2(近世1) (津軽信英による後見政治と法令の整備)

のため今のところ明らかにできない(福井敏隆「支配機構の一考察―寛文・延宝期を中心として―」長谷川成一編『津軽藩
通史編3(近世2) (凡例)

□・資料近世2□頁、津軽歴代記類……記類、津軽藩旧記伝類……伝類、津軽徧覧日記……徧覧日記、封内事実秘苑
資料編1(古代・中世編) (一 堀越城の立地と現状)

大浦城からこの地に本拠を移し、慶長十六年(一六一一)、二代信枚が高岡城(弘前城)に移るまでの十七年間、津軽藩
通史編2(近世1) (元禄の大飢饉と家臣召し放ち)

知行取層まで拡大せざるをえなくなり、その見返りとして軍役を軽減する措置をとったものであった(浪川健治「津軽藩政,(福井前掲「津軽藩における支配機構の一考察―天和・貞享・元禄期を中心として―」)。
通史編2(近世1) (上方廻米)

同年以後も敦賀・大津への廻米は断続的に実施され、大坂廻米の補足的な役割を果たしていたという(印牧信明「津軽藩
通史編2(近世1) (信寿の高増運動)

これらの文書に記された卯年は享保八年に比定される(浪川前掲「藩政の展開と国家意識の形成―津軽藩における
通史編2(近世1) (凡例)

□・資料近世2□頁、津軽歴代記類……記類、津軽藩旧記伝類……伝類、津軽徧覧日記……徧覧日記、封内事実秘苑
通史編3(近世2) (切支丹類族)

女子は、孫から類族を離れた(前掲 小舘衷三『津軽藩政時代における生活と宗教』)。  
通史編4(近・現代1) (生い立ち)

父は中田兵作といい、津軽藩士だった。
通史編2(近世1) (藩政の転換と家臣団統制の動き)

、門閥・譜代層を基礎として藩政を展開しようとしたと考えられる(浪川健治「藩政の展開と国家意識の形成―津軽藩
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