機関トップ
資料グループ
テキスト一覧
年表一覧
キーワード一覧
弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
トップページ
詳細検索
詳細検索
目録
テキスト
年表
キーワード
その他(トップページ等)
検索条件を追加
目録
テキスト
年表
キーワード一覧
その他(トップページ等)
AND
OR
NOT
年号変換
閉じる
検索結果
: 393件
辞書ファセット
○○○
△△△
10件
20件
50件
100件
(並べ替え)
テキストタイトル(昇順)
テキストタイトル(降順)
ページタイトル(昇順)
ページタイトル(降順)
掲載ページ(昇順)
掲載ページ(降順)
/ 8ページ
通史編4(近・現代1)
(中津軽郡会)
中
津軽郡
会 明治二十四年四月一日から青森県に郡制が施(し)かれた。郡制により郡会が発足した。,中
津軽郡
は定員一六人で、弘前市域関係は次のとおりである。, 清水村 三浦大吉 新和村 小山内小三郎 藤代村 不詳 石川村 成田多佐久(南
津軽郡
,和徳村 福士音太郎(憲政) 堀越村 工藤長左衛門(憲政) 清水村 今八太郎(中立) 南
津軽郡
石川村 / 中
津軽郡
会
通史編4(近・現代1)
(小学校令と中津軽郡)
小学校令と中
津軽郡
小学校令実施で中
津軽郡
の大半は簡易小学校となり、尋常小学校は数校にすぎなかった。,当時中
津軽郡
に属し、現在弘前市となっている地域の設置状況を挙げる。 / 小学校令と中
津軽郡
通史編4(近・現代1)
(中津軽郡公立弘前中学校)
中
津軽郡
公立弘前中学校 明治十二年(一八七九)九月の教育令制定によって、県は県立専門学校教則と青森県公立中学校教則,公立弘前中学は十四年に至ると生徒数が二三一人と増加し、中
津軽郡
町村聯合会は議決して、下白銀町の東奥義塾内,写真59 公立中学校在籍生徒学齢調(明治17年) 公立弘前中学校は再建を策し、中
津軽郡
内の有志 / 中
津軽郡
公立弘前中学校
通史編4(近・現代1)
(「農事調査」と中津軽郡)
「農事調査」と中
津軽郡
明治十年代の松方財政による殖産興業政策の転換は、特に地方経済の悪化の要因となったが,前田の「青森県農事調査」(『明治中期産業運動資料』第一巻、日本経済評論社、一九七九年)所収の「中
津軽郡
農業備考,要約すると、中
津軽郡
の土地の四〇%は作物栽培に適地であるが、五五%は荒れ地、五%は砂地で、半分以上は肥沃,0 518 裾野村 145 415 0 267 合 計 5,879 862 2 6,586 前掲「中
津軽郡
農業備考,また、「農事調査」の「陸奥国中
津軽郡
農産地図」によれば、各村の中心的な農産物として、弘前市街-林檎・養蚕 / 「農事調査」と中
津軽郡
通史編2(近世1)
(二五 陸奥国津軽郡御検地水帳(みずちょう))
二五 陸奥国
津軽郡
御検地水帳(みずちょう) 藩政時代の津軽領内の検地帳。 / 二五 陸奥国
津軽郡
御検地水帳(みずちょう)
通史編4(近・現代1)
(日清戦争後の商業活動)
表37 商家営業別 明治30年 明治31年 卸 売 戸 戸 東
津軽郡
17 6 西
津軽郡
50,37 中
津軽郡
13 13 南
津軽郡
131 125 北
津軽郡
50 52 上北郡 56 55,5 - 西
津軽郡
2 2 中
津軽郡
16 16 南
津軽郡
44 90 北
津軽郡
21 22 ,1,504 1,537 西
津軽郡
1,156 1,035 中
津軽郡
651 618 南
津軽郡
,305 498 西
津軽郡
286 254 中
津軽郡
48 37 南
津軽郡
299 395 北
津軽郡
通史編4(近・現代1)
(組合町村制)
中
津軽郡
には二〇の組合が成立し、弘前の八九ヵ町は第一組から第五組の戸長役場地区に分けられた。,中
津軽郡
第一組戸長役場 →中
津軽郡
弘前本町外十六ヶ町戸長役場 中
津軽郡
第二組戸長役場 ,→中
津軽郡
弘前土手町外十六ヶ町戸長役場 中
津軽郡
第三組戸長役場 →中
津軽郡
弘前和徳町外廿一ヶ,町戸長役場 中
津軽郡
第四組戸長役場 →中
津軽郡
弘前東長町外廿二ヶ町戸長役場 中
津軽郡
第五組戸長役場, →中
津軽郡
弘前鷹匠町外九ヶ町戸長役場 明治二十二年四月一日、弘前市が誕生するとともに、この
通史編3(近世2)
(青森商社と帰田法)
西
津軽郡
木造町菰槌 18 七左衛門 2町8反 小売酒屋 北
津軽郡
鶴田町亀田 19 北山長次郎 25町歩,9町3反 醤油醸造 西
津軽郡
岩崎村松神 22 清兵衛 7町歩余 醤油醸造 南
津軽郡
尾上町 23 慶助,28 田辺弥右衛門 6町歩余 木綿屋 南
津軽郡
尾上町 29 小山内勇吉 3町歩 染屋 南
津軽郡
平賀町尾崎,30 清野庄兵衛 5町歩 室家業 南
津軽郡
尾上町猿賀 31 孫兵衛 6町歩 室家業 南
津軽郡
平賀町大袋,32 半兵衛 1町3反 染屋 南
津軽郡
尾上町 33 七兵衛 1町歩 染屋 南
津軽郡
平賀町平田森 34
通史編5(近・現代2)
(岩木山の登拝行事)
青森市、弘前市、黒石市、五所川原市、東
津軽郡
、西
津軽郡
、中
津軽郡
、南
津軽郡
、北
津軽郡
。
通史編2(近世1)
(続発する強訴の動き)
続発する強訴の動き 文化十年九月二十二日、駒越組(こまごしぐみ)(現弘前市・中
津軽郡
岩木町・同郡西目屋村,・同郡相馬村・西
津軽郡
鰺ヶ沢町)五代村(ごだいむら)(現中
津軽郡
岩木町)の十兵衛を頭取として、堀越組(,次いで同年九月二十四日から翌二十五日にかけて、猿賀組(現黒石市・南
津軽郡
尾上町・同郡田舎館村)の大勢の,九月二十四日、猿賀組の原村(はらむら)(現南
津軽郡
尾上町)と猿賀村(さるかむら)(現同郡同町)の野原に,さらに、翌九月二十六日、今度は大光寺組(現南
津軽郡
平賀町・同尾上町)・尾崎組(現南
津軽郡
平賀町)の百姓
資料編1(考古編)
((2)文字資料と文字文化)
〃 〃 9世紀 9 「幸」 石上神社遺跡 西
津軽郡
木造町大字蓮川字玉田 〃 (16土) 〃 10,集落跡(1H) 須恵器坏 10世紀後半 2 井 源常平遺跡 南
津軽郡
浪岡町字中野 集落跡 土師器坏,10世紀 3 × 石上神社遺跡 西
津軽郡
木造町練蓮川字玉田 〃 (低地集落) 須恵器坏,10世紀 4 大小 山本遺跡 南
津軽郡
浪岡町大字徳才子字山本 〃 須恵器坏 10世紀前半 5,須恵器坏 10世紀前半 13 〓 大沼遺跡 南
津軽郡
浪岡町川倉字大沼袋 〃 土師器坏 〃 14
通史編4(近・現代1)
(鬼沢小学開校と「村落小学」)
鬼沢小学開校と「村落小学」 明治九年六月七日、
津軽郡
(つがるごおり)鬼沢村に「鬼沢小学」が開校された,(九年当時の行政区画は大区小区制で、津軽一円は単に
津軽郡
(ごおり)とされていた。,十一年十月大区小区制廃止、「郡制」施行により、
津軽郡
は東西南北中五郡となり、弘前を含む中
津軽郡
が誕生した,以下の記述は郡制施行以前だが、便宜上中
津軽郡
を使用する)。 ,鬼沢小学は中
津軽郡
で二番目に早く設置された小学である。
通史編4(近・現代1)
(玉成高等小学校の創立)
玉成高等小学校の創立 明治十九年の小学校令で尋常ならびに高等小学校が設置されたが、弘前及び中
津軽郡
各村,、ことに日清戦争勝利後の三十年に至って入学希望者が激増したため、弘前高等小学校は校舎の狭隘を告げ、中
津軽郡
児童,ここにおいて中
津軽郡
各村では新たに高等小学校設置の必要に迫られ、三十二年四月に誕生したのが玉成高等小学校,しかし、玉成高等小学校の最大の功績は、中
津軽郡
各村の連帯意識を昂揚したことであった。,そのため同校卒業者は多く中
津軽郡
各村に居住し、郡内各村は学校を中心に強く結ばれた。
資料編1(古代・中世編)
(七 板碑の発見と保護の状況)
西
津軽郡
深浦町風合瀬(晴山) 二基 西
津軽郡
深浦町関 一基 西
津軽郡
鯵ヶ沢町舞戸町 一基,弘前市国吉 一基 弘前市境関 一基 弘前市乳井 一基 中
津軽郡
岩木町如来瀬, 一基 南
津軽郡
平賀町岩館 一基 南
津軽郡
大鰐町宿川原 一基 南
津軽郡
大鰐町三ッ目内, 一基 南
津軽郡
藤崎町藤崎 二基 南
津軽郡
田舎館村二津屋 一基 次に、中村良之進の『陸奥古碑集
資料編1(考古編)
(2.青森県の旧石器時代(図1))
また、昭和28年(1953)6月には、明治大学の杉原荘介を中心とする第四紀研究のメンバーによって、北
津軽郡
金木町,スクレパー(掻器) 12 〃 山崎 東
津軽郡
今別町山崎字山元 舟底形石核・剥片・スポール(削片) 13,〃 尻高(4) 東
津軽郡
平館村今津字尻高川 石刃 14 〃 大平山元Ⅱ 東
津軽郡
蟹田町大平字山元 舟底形石器,・尖頭器・ナイフ形石器ほか 15 〃 大平山元Ⅲ 東
津軽郡
蟹田町大平字山元 尖頭器・彫器・削器・細石刃核,ほか 16 〃 相野山 北
津軽郡
金木町喜良市字相野山 尖頭器ほか 17 〃 前田野目 五所川原市前田野目字鞠
通史編4(近・現代1)
(学制の実施)
第一四中学区 青森、東
津軽郡
、南
津軽郡
、北
津軽郡
第一五中学区 弘前、中
津軽郡
、西
津軽郡
第一六中学区
通史編4(近・現代1)
(弘前の紛紜の始まり)
弘前の紛紜の始まり 明治十四年八月十一日、中
津軽郡
長笹森儀助は、青森県令に自由民権の結社共同会に官吏,ところが、明治十四年十月十二日国会開設の詔が出されたので、県令は前言を翻して共同会員の館山漸之進を東
津軽郡
長,「東
津軽郡
長館山漸之進君が中
津軽郡
長に任ぜられ、東
津軽郡
三浦清一君は当分同郡長心得申付けられ、中
津軽郡
長笹森儀助,本県士族小館兵吾君は南
津軽郡
書記(一五等相当)に、同野際原吾君は同郡書記(一七等相当)に、そして南
津軽郡
書記清野準一,、外崎高勝、益子力太郎、中
津軽郡
書記菊池楯衛、楠美晩翠、谷口永太郎、太田静、成田邦彦、東
津軽郡
書記田中幹造
通史編4(近・現代1)
(農会の設立と農事改良)
ようやく明治三十年代後半に入って、中
津軽郡
では一六ヵ村全部に農会が設置され(「中
津軽郡
清水村農会規則議案,弘前市及び中
津軽郡
の物産品評会は津軽産業会が開催してきたが、「農産物の出品が期待通りの数には達しなかった,」ことを理由として、明治四十一年(一九〇八)十月、中
津軽郡
農会による第一回物産品評会が開催された。,出品種類は、中
津軽郡
で生産された産物として、農産は米・粟・蕎麦(そば)・麦・豆・蕓臺(うんだい)(油菜,五日間の参観人員は一万一二四三人と盛況であった(「第三回中
津軽郡
物産品評会受賞人名」、資料近・現代1No
通史編2(近世1)
(協力機関および協力者一覧(機関・個人順、五十音順))
個人順、五十音順) 青森県立郷土館 秋田市立佐竹史料館 安盛寺(青森県弘前市) 圓覚寺(青森県西
津軽郡
深浦町,松月院(東京都板橋区) 市立函館図書館 専修寺(青森県弘前市) 仙台市博物館 高照神社(青森県中
津軽郡
岩木町,) 種里八幡宮(青森県西
津軽郡
鰺ヶ沢町) 長勝寺(青森県弘前市) 天徳寺(秋田県秋田市) 藤先寺,東京都板橋区立公文書館 東北大学附属図書館 東楊寺(群馬県新田郡尾島町) 浪岡八幡宮(青森県南
津軽郡
浪岡町
通史編4(近・現代1)
(養蚕業の振興)
それゆえ、中
津軽郡
においても養蚕業の振興が課題となっていた。 ,同会社には、弘前市のみならず、中・南
津軽郡
の投資家・農家を中心に県内の実業家、有力者が投資しており、他,の高額株主は対馬忠郷(船沢村・現弘前市)、成田匡之進(南
津軽郡
五郷村・現青森市浪岡)、鳴海廉之助(西
津軽郡
車力村,しかし、大正九年(一九二〇)の養蚕戸数は、青森県全体で四七二五戸、うち弘前市一一七戸、中
津軽郡
一八五戸
通史編4(近・現代1)
(運送業の活躍)
その他市外行きとしては、中
津軽郡
岩木村百沢・岩木山神社及び嶽温泉方面行き、南
津軽郡
藤崎町行き、南
津軽郡
柏木町村,(現平賀町)方面及び北
津軽郡
板柳町方面、中
津軽郡
相馬村方面があった。
通史編5(近・現代2)
(中弘地区の合併推移)
弘前市と中
津軽郡
一六村の相談所は弘前市警察署会議室で開催された。,しかし中
津軽郡
各村は弘前市との合併に冷淡で、反対意見も多かった。当時の弘前市は極度の赤字財政だった。,もちろん中
津軽郡
各村も自らの財源が苦しかったのは弘前市同様であり、合併問題は他人ごとではなかった。,十二月二十六日の弘前市と中
津軽郡
一六村の合併促進懇談会では、小町村間の合併は意味がないとの意見まで出た,弘前市が郡を越えて南
津軽郡
石川町への接近をはかっていたころ、裾野村と新和村も郡を越えて北
津軽郡
板柳町との
通史編2(近世1)
(本村と新田)
『
津軽郡
中名字』には「圓(マリノ)澤」とすでに地名がみえているが、「津軽知行高之帳」には村名はみえず、,一方、「柏木町」は現南
津軽郡
平賀町柏木町を指し、六羽(ろっぱ)川と唐竹川に挟まれた平野部に位置している,「松神」は現西
津軽郡
岩崎村松神であり、「大間越」は現西
津軽郡
岩崎村大間越である。,元和八年(一六二二)には、信枚が十三(とさ)(現北
津軽郡
市浦村十三)を巡検し、亀ヶ岡(かめがおか)(現西
津軽郡
木造町亀,大湯町村は現西
津軽郡
木造町大湯町のことであるが、実際の開村は元禄九年(一六九六)であるという(『永禄日記
通史編5(近・現代2)
(弘西林道の開通)
弘西林道の開通 昭和四十八年(一九七三)、弘前市と西
津軽郡
岩崎村(現深浦町)を結ぶ弘西林道(現県道岩崎西目屋弘前線,昭和三十一年には関係市町村、営林局、弘前大学等の関係者による予定路線の現地調査の実施、昭和三十四年に弘前市、中
津軽郡
西目屋村,、西
津軽郡
深浦町、同郡岩崎村の沿線四市町村で「弘西林道開設期成同盟会」が結成され、昭和三十六年の着工となった
通史編3(近世2)
(猿賀神社より盗み)
猿賀神社より盗み 文政二年(一八一九)、三上清吉の次男の庄五郎は、猿賀(さるか)深沙宮(現南
津軽郡
尾上町猿賀神社,懲役刑)のことで、徒刑は「寛政律」の規定では、取上の御仕置場で鞭刑の執行後に、尾太(おっぷ)銅山(現中
津軽郡
西目屋村,、現在廃坑)や湯野沢(ゆのさわ)鉱山(現南
津軽郡
碇ヶ関村、現在廃坑)で労役に従事することになっていたのだが
通史編3(近世2)
(海蔵寺)
海蔵寺 海蔵寺(かいぞうじ)は、明応年間(一四九二~一五〇〇)、江山が開山となり、種里村(現西
津軽郡
鰺,堀越村(現市内)・大浦坪貝(現中
津軽郡
岩木町)へ移転し、慶長年間(一五九六~一六一四)、長勝寺構の中に
通史編3(近世2)
(大社の神仏分離)
次に深沙宮(現南
津軽郡
尾上町)は神宮寺が別当を免じられ、本社の仏像は神宮寺に預けられ、社号を猿賀(さるか,これに伴い、大円寺は高伯寺(こうはくじ)跡(現南
津軽郡
大鰐町(おおわにまち))へ移転した。 ,図78.愛宕山橋雲寺お札 岩木三所大権現(現中
津軽郡
岩木町)は、百沢寺(ひゃくたくじ)が別当を,岩木山神社神主に任命され、広大な境内の林は岩木山神社・百沢寺・救聞持堂(ぐもんじどう)(現求聞寺、中
津軽郡
岩木町,ほかに古懸(こがけ)不動尊別当の国上寺(こくじょうじ)(現南
津軽郡
碇ヶ関(いかりがせき)村)、観音堂別当久渡寺
通史編2(近世1)
(民次郎一揆)
民次郎一揆 文化十年(一八一三)九月二十八日、藤代組(ふじしろぐみ)(現弘前市・北
津軽郡
鶴田町)・高杉組,(たかすぎぐみ)(現弘前市・中
津軽郡
岩木町・西
津軽郡
鰺ヶ沢町)・広須組(ひろすぐみ)(現西
津軽郡
柏村・,同郡木造町)・木造新田(きづくりしんでん)(現西
津軽郡
木造町・同郡車力村・同郡森田村)の四組、岩木川左岸,このほか、高杉組立石村(たていしむら)(現西
津軽郡
鰺ヶ沢町)庄屋作太郎と木造新田山田村(やまだむら)(
通史編4(近・現代1)
(勧業諸会の展開)
化育社は明治十七年(一八八四)に中
津軽郡
農談会と改称、中
津軽郡
役所楼上を借りて、月一回の集会を行い、会員相互,写真16 津軽産業会館(現東北電力敷地) 明治二十年と二十一年には、中
津軽郡
が公立農工商談話会
通史編1(古代・中世)
(掲載図版・写真の典拠・所蔵一覧)
万蔵寺蔵 口絵11 弘前市 法源寺蔵 口絵12 弘前市 貞昌寺蔵 口絵13 弘前市 長勝寺蔵 口絵14 南
津軽郡
大鰐町,口絵24 西
津軽郡
鰺ヶ沢町教育委員会 口絵25 八戸市博物館 口絵26 弘前市教育委員会 口絵27,21 弘前市 村越潔氏写真提供 写真22 日本書紀 斉明天皇元年7月条 弘前市立図書館蔵 写真23 南
津軽郡
尾上町,写真208 弘前市蔵 写真209 同上 写真210 北
津軽郡
小泊村企画商工観光課写真提供 写真211,撮影 写真212 弘前市蔵 写真213 西
津軽郡
鰺ヶ沢町教育委員会写真提供 写真214 撮影 写真215
資料編1(古代・中世編)
(参考文献(第四章に関連する主要文献・論文-各節の文中で記述したものは除く))
参考文献(第四章に関連する主要文献・論文-各節の文中で記述したものは除く) (1)中村良之進『青森県中
津軽郡
船沢村郷土史,』 (2)中村良之進『青森県中
津軽郡
大浦村郷土史』 (3)中村良之進『青森県中
津軽郡
藤代村郷土史』,(4)中村良之進『青森県南
津軽郡
石川町郷土史』 (5)竹内運平「津軽大戸瀬村の古碑と箱舘所在貞治
通史編4(近・現代1)
(農業団体の発展)
大正期に、中
津軽郡
では、各村ごとに農作物品評会を開催するようになり、同三年(一九一四)には独自に清水・,同五年には、前記二つの青年団とともに駒越村兼平青年団も独自に品評会を開催している(『中
津軽郡
農会報』第七号,しかし、中
津軽郡
一六村に農会が設置されていたものの、必ずしもそのすべてが活発であったのではなく、立毛(,明治期末から大正期にかけて、中
津軽郡
農会の活動に貢献した人物として、清水村の外崎嘉七、楠美冬次郎、工藤銀次郎,木村大助、日村善助の名前が挙げられている(「町村農会の事業と経費」、資料近・現代1No.六三八、「中
津軽郡
農会
通史編3(近世2)
(山伏にあるまじき行為)
薬師堂(やくしどう)からただちに追院(ついいん)となり、弘前および薬師堂、兼平(かねひら)の天満宮(現中
津軽郡
岩木町兼平,のち廃寺)支配の薬師堂で、明治初年の神仏分離により石戸(いしと)神社(現中
津軽郡
相馬村湯口)と改められている
通史編2(近世1)
(本村と新田)
本村と新田 津軽弘前藩は
津軽郡
四万五〇〇〇石と、他に上野国勢多(こうづけのくにせた)郡(現群馬県)に,津軽野村は天文十五年(一五四六)に成立したという『
津軽郡
中名字(つがるぐんちゅうなあざ)』(資料古代・,また、『
津軽郡
中名字』にも「船水」として地名がみえ、古い村であった可能性が高い。,折笠(おりかさ)村も『
津軽郡
中名字』に「縫笠(ヲリカサ)」として地名がみえている。,『
津軽郡
中名字』にも「尻引(シリヒキ)」と「三世寺」の地名がみえてる。
資料編1(考古編)
((1)3世紀末~4世紀前半代)
144 9 神田遺跡 西
津軽郡
木造町越水字神田289 C1 単独 227 10 小友遺跡 弘前市小友,C2・D 185 11 古館遺跡 南
津軽郡
碇ヶ関村古館 C2・D 天王山式系 12 鳥海山遺跡 ,169 15 小牧野遺跡 青森市小牧野 A 弥生後期 269 16 一本松苗A遺跡 東
津軽郡
平内町松野木,C2・D 弥生後期 297 37 玉清水遺跡 青森市駒込字月見野 C2・D 38 横峯貝塚 東
津軽郡
平内町東田沢字横峯,C2・D 246 39 李平下安原 南
津軽郡
尾上町李平字下安原 C2・D 図1 続縄文土器
資料編3(近世編2)
(協力機関及び協力者一覧(各機関・個人ごとに五十音順、敬称略))
専修寺(青森県弘前市) 禅龍寺(北海道斜里郡斜里町) 宗徳寺(青森県弘前市) 高照神社(青森県中
津軽郡
岩木町,) 大円寺(青森県南
津軽郡
大鰐町) 長勝寺(青森県弘前市) 天理大学付属天理図書館(奈良県天理市,小山秀弘(青森県弘前市) 北畠顕文(青森県黒石市) 工藤文宏(青森県弘前市) 齋藤昭一(青森県中
津軽郡
岩木町
通史編4(近・現代1)
(市会と市役所開庁)
ここは、旧東長町外廿二ヶ町戸長役場の建物を買収したもので、翌年元寺町一番地の中
津軽郡
役所跡に移った。,写真61 元寺町の市庁舎(明治25年新築) 中
津軽郡
各村の初代村長は次のとおりである。,新和村 羽場久之助 船沢村 對馬源太夫 高杉村 葛西與助 裾野村 工藤武雄 石川村(南
津軽郡
通史編5(近・現代2)
(本県初の鉄道電化)
弘前電気鉄道弘高下駅 昭和二十七年(一九五二)には、弘前市に二社目の私鉄が開業することになり、弘前市中心部と南
津軽郡
大鰐町,当初の計画では、大鰐町から弘前市を経て北
津軽郡
板柳町までの路線と、弘前市から中
津軽郡
西目屋村までの路線
通史編3(近世2)
(藤先寺)
藤先寺 藤先寺(とうせんじ)は、天正元年(一五七三)に開山を中岳とし、藤崎村(現南
津軽郡
藤崎町)に創建,され、後に大光寺(だいこうじ)村(現南
津軽郡
平賀町)へ移った。
資料編1(考古編)
((1)祭祀と仏教文化の波及)
石玉1 土師器 10C前半 竪穴住居跡 床面 石玉1 土師器 10C前半 5 李平下安原遺跡 南
津軽郡
尾上町,遺構外 土製勾玉1 8 大光寺 新城跡遺跡 南
津軽郡
平賀町 大字大光寺字三村井 遺構外 石製勾玉,1 9 永野遺跡 南
津軽郡
碇ヶ関村字永野 竪穴住居跡 覆土 土製勾玉1 10C代 第13号住居跡, 番号 遺跡名 所在地 出土遺構 祭祀関連遺物 伴出遺物 時期 備考 10 山本遺跡 南
津軽郡
浪岡町,鉄鈴1 土師器・擦文土器 11C 26 羽黒平遺跡 南
津軽郡
浪岡町 大字五本松字羽黒平 鉄鈴
資料編1(考古編)
((1)石棺墓)
遺跡名 所在地 遺構 発見数 形態 規模(m) 時期 備考 1971年 (昭和46) 堀合Ⅲ号 南
津軽郡
,〔後期〕十腰内Ⅰ群(式)土器期 人骨・石鏃・土器・木炭片 1972年 (昭和47) 堀合Ⅲ号 南
津軽郡
,;0.90 〔後期〕十腰内Ⅰ群(式)土器期 人骨・副葬品なし 1978年 (昭和53) 餅ノ沢 西
津軽郡
,1.04 〔中期〕最花式・中ノ平Ⅲ式土器期 人骨・副葬品なし 1979年 (昭和54) 堀合Ⅰ号 南
津軽郡
通史編4(近・現代1)
(大凶作下の農村)
このころ、中
津軽郡
のりんご栽培面積も増加し、総反別の三分の一を占めるようになり、また、弘前市及び師団の,ばれいしょ)、大根の乾菜に塩を混ぜ合わせたお粥(かゆ)を日常食とせざるを得ないこともあった(「青森県中
津軽郡
凶作,中
津軽郡
長は児童教育の財政的困難に際し、各村長に「町村費の大部分を占めるのは教育費となっているが、義務教育,現行制度上やむを得ない」として、「貧困児童学用品ノ補助」などの予算計上を「内訓」として発している(「中
津軽郡
長
通史編4(近・現代1)
(堀越村の場合)
堀越村の場合 中
津軽郡
堀越村は、明治初年、門外村一〇三戸、堀越村五五戸、堀越村の支村川合村五三戸、取上村三三戸,聯合戸長役場時代は「中
津軽郡
門外村三ヶ村外聯合会」の行政組織だった。
通史編3(近世2)
(大円寺)
「大円寺縁起」(資料近世2No.四一一)によると、文亀年間(一五〇一~〇三)に、種里村一ツ森麓(現西
津軽郡
鰺,明治五年(一八七二)、神仏分離により最勝院が大円寺の場所へ移り、大円寺は高伯寺(こうはくじ)(現南
津軽郡
大鰐町
通史編3(近世2)
(協力機関および協力者一覧(機関・個人順、五十音順))
秋田市立佐竹史料館 悪戸町会(青森県弘前市) 出光美術館(東京都千代田区) 岩木山神社(青森県中
津軽郡
岩木町,巖鬼山神社(青森県弘前市) 環境省京都御苑管理事務所 久渡寺(青森県弘前市) 求聞寺(青森県中
津軽郡
岩木町,宗徳寺(青森県弘前市) 袋宮寺(青森県弘前市) 大仏院(青森県弘前市) 高照神社(青森県中
津軽郡
岩木町
通史編4(近・現代1)
(開業時の状況)
として独占していたが、第五十九国立銀行は開業前から県下各大区長へ依頼していたため、十一年十二月には中
津軽郡
役所,、翌十二年六月には東
津軽郡
・西
津軽郡
役所の収税金の取扱いが許可されることになった。
通史編4(近・現代1)
(郡区町村編制法への移行)
写真6 中
津軽郡
初代郡長 笹森儀助 この郡区町村編制法によって、第三大区一小区から六小区は中
津軽郡
,、第二大区一小区から一〇小区及び五大区一小区は南
津軽郡
となった。
通史編3(近世2)
(二代信枚)
くからあった熊野宮(現熊野奥照(くまのおくてる)神社)の地が城の鬼門に当たるとして八幡(やわた)村(現中
津軽郡
岩木町,神明宮(現弘前神明宮)、袋宮(ふくろのみや)権現宮(現熊野宮、市内茜町)、浪岡八幡宮、広船神社(現南
津軽郡
平賀町,四七一)を出しているが、これは創建した虚空蔵(こくうぞう)菩薩を祀る求聞寺(ぐもんじ)堂(現求聞寺、中
津軽郡
岩木町,五山は真言宗最勝院、百沢寺(ひゃくたくじ)、国上寺(こくじょうじ)(現南
津軽郡
碇ヶ関村)、橋雲寺(きょううんじ,)(現中
津軽郡
岩木町)、久渡寺(くどじ)(現市内坂元)をいう。
通史編4(近・現代1)
(第一回通常県会)
中
津軽郡
では被選人一四七九人、選挙人二七八五人で、投票は一人に三枚の投票用紙が渡され、選挙人は記名捺印,中
津軽郡
からは大道寺繁禎、蒲田昌清、鳴海謙六という旧藩時代の要職の人物が選ばれた。,当選二四人のうち士族出身は一〇人だったが、郡定員が全員士族というのは中
津軽郡
のみだった。,自由党系は北
津軽郡
にも合同会や北辰社、三八地方には暢伸社(土曜会)が結成された。 ,本多庸一らの国会開設の建白書は、青森県下の有志三千人の代表と唱え、二十二年五月の大同派会合で竹内清明は南
津軽郡
益友会千二百余人
通史編2(近世1)
(領内海防と台場の構築)
さらに、翌年にかけて大間越(おおまごし)浦(現西
津軽郡
岩崎村大間越)・深浦(現同郡深浦町深浦)・金井ヶ,沢(かねがさわ)(現同町北金ヶ沢)・鯵ヶ沢浦(現同郡鰺ヶ沢町)・十三浦(現北
津軽郡
市浦村十三)・蟹田(,かにた)(現東
津軽郡
蟹田町蟹田)・青森浦(現青森市)・七ツ石崎(現北
津軽郡
小泊村)・鷹野崎(現東
津軽郡
今別町袰月,)・龍浜崎(現竜飛崎、東
津軽郡
三厩村竜飛)の合わせて一〇ヵ所に大筒台場を設置した。
/ 8ページ