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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編2(近世1) (津軽領の知行制)

津軽領の知行制 いわゆる「地方(じかた)知行制」とは主として中・上層藩士に個別の知行地が設定され、年貢,しかし、津軽領の場合、藩が藩士への俸禄の支給を一括して管理する「蔵米制」への移行が進み、貞享二年(一六八五,大身の家老、津軽百助(ももすけ)の場合、宝暦十年(一七六〇)の段階では知行地は実に九七ヵ村にわたり、津軽領 / 津軽領の知行制
通史編2(近世1) (津軽領内のアイヌ民族)

津軽領内のアイヌ民族 津軽弘前藩が江戸幕府の命令によって提出した「正保国絵図」の下図を貞享二年(一六八五,現在の北海道地方を除き、近世国家においてアイヌ民族の居住が確認されるのは、津軽領の津軽・夏泊両半島、そして,寛文九年(一六六九)時点の津軽領内のアイヌの家族について記した「御領分犾之覚」(寛文九年十一月六日付),このことから、高岡という地名が弘前に変わり、それが津軽領内で普遍化してきたと考えられている正保期には、,「陸奥国津軽郡中絵図」津軽半島の犾村 表17 津軽領内のアイヌ 村  名 軒数(軒) うた村 / 津軽領内のアイヌ民族
通史編2(近世1) (二五 陸奥国津軽郡御検地水帳(みずちょう))

二五 陸奥国津軽郡御検地水帳(みずちょう) 藩政時代の津軽領内の検地帳。,確立期津軽領の農村を研究するうえで、基幹となる史料。,なお黒石市蔵の明暦二年(一六五六)の検地帳が、津軽領に残る最古のものとされている。
資料編2(近世編1) (【解説】)

【解説】 本章は、津軽領における「産業と海運の発達」として、おおむね第四代藩主津軽信政の時期から藩政後期,にかけての期間を取り扱い、地域的には津軽領及び江戸、大坂、日本海沿岸地域や近隣の南部領、秋田領などの地域,近世の領主は、藩政の成立期より領内鉱山の開発には特に熱心であり、津軽領も例外ではなかった。,第二節の「海運の発達」では、海上交通による津軽領と上方及び江戸、蝦夷地などとの人や諸物資の交流についての,史料を中心に掲げたが、本節を節として独立して立てることにより、津軽領と全国市場との関わりをよりいっそう
通史編2(近世1) (天明三年に頻発した騒動)

天明三年に頻発した騒動 天明の飢饉の直前、天明三年(一七八三)七月、津軽領では、藩最大の湊町であった,津軽領でこのように凶作による騒動が短期間に集中したことは初めてで、「飢餓移出(きがいしゅつ)」を招いた
通史編2(近世1) (烏帽子山紛争)

一方、津軽領と南部領の領境については、文禄四年(一五九五)、津軽領は狩場沢(かりばさわ)村(現東津軽郡平内町狩場沢,この言葉は、山の入会権をめぐって黒石津軽領狩場沢村と南部領馬門村の間に対立が起こり、それが津軽弘前藩と,盛岡藩の対立となり、ついには幕府の裁決を仰いで、比較的津軽領に有利な裁定が下されたことの名残であるという,正徳二年(一七一二)四月、津軽弘前藩の役人から隣領盛岡藩の役人に対して、烏帽子山の一峰、津軽領堀指(ほりさし,、それが平内村の言い分に相応すること、延宝元年(一六七三)嶋地山で馬門村の百姓が材木を切りとった際、津軽領
資料編2(近世編1) (【解説】)

の「藩政への道」に引き続いて、明暦二年(一六五六)から宝暦三年(一七五三)に至る、弘前市を中心とした津軽領,地域は本市並びに藩政時代の津軽領全域を主たる対象とし、藩政確立期の動向を中心に、江戸、大坂、京都、日本海沿岸地域,これらの文書、記録、日記類をもって項目を立て、第一節は、「領内支配と支配機構の整備」と題して、津軽領における,第三節では、「検地の実施と新田開発」として、津軽領における検地と新田開発に関する史料を掲げた。,そもそも津軽領の検地は、天正十八年(一五九〇)の奥羽日の本仕置(ひのもとしおき)において太閤検地が実施
通史編2(近世1) (一 青森開港と初期海運)

また、近世前期までの津軽と上方との交易品としては、津軽領から米や大豆等の穀類と材木・海産物が、上方からは,津軽弘前藩では、これら津軽領内の物資交易のため、従来の十三湊のほか近世初期に青森・鰺ヶ沢・深浦等の湊も
通史編2(近世1) (二七 ためし草)

二七 ためし草 津軽領で起きた飢饉の惨状や稲作関係の記事。著者は郡奉行山形宇兵衛。
通史編3(近世2) ((二)犯罪と刑罰)

では、どのような犯罪が起き、それに対していかなる刑罰が科せられていたのか、次に挙げる判決例(城下外の津軽領
通史編2(近世1) (旅行者のみた領内海防)

旅行者のみた領内海防 津軽領の海防体制は、海防に深く関心を持つ旅行者の目にどのように映っていたのであろうか,図201.東北遊日記 目録を見る 精細画像で見る  松陰が津軽領にさしかかったのは嘉永五年二月,二月二十九日、松陰は矢立(やたて)峠を越えて津軽領に入った。,伊東は松陰に対して津軽領の海防体制を語っている。,その道中津軽領を通過しており、道々、台場などを視察している。  
通史編2(近世1) (他領者と関連する事件)

○加害者が他領者で、被害者が津軽領の者または無宿――幕府の吟味(取り調べ)・仕置。,○加害者が津軽領の者または無宿で、被害者が他領者――藩は自分仕置をできず、幕府の吟味・仕置。  
通史編3(近世2) (染)

紺屋は藍を染料とした藍染業者のことであるが、津軽領における染に関する最も古い史料である。
通史編2(近世1) (信政の襲封と黒石分知)

この分知配当は、幕府の命によって本家の所領を分割配当された「内分」であり、信英の領地はあくまでも津軽領,幕府が「奉公」として諸侯・幕臣に課す役負担も、本藩が従来どおりに負担する形式をとった(浪川健治「黒石津軽領
通史編3(近世2) ((二)食事)

津軽領の農民に対する食事全般についての制限令は、「国日記」貞享四年(一六八七)八月六日条に、三ヵ条があるが,それでも津軽領の農民は一年に七日は米の飯を食べることができたのであるから、全国的にみても穀倉地帯の恵まれた
通史編2(近世1) (一 明暦検地の意義)

一 明暦検地の意義 津軽領では、寛永二年(一六二五)から全領の検地が三年をかけて行われたと伝えられる,現在、津軽領に残されている最も古い検地帳は、明暦二年(一六五六)のものである。
通史編3(近世2) (施行小屋の設置と犯罪防止)

翌年になると、秋田領から津軽領に飢えをしのぐため逃れてくる者がしだいに多くなってきた。,図16.専修寺の餓死供養題目塔  一方、津軽領内の村役人や町役人に対し、領内の農村や町から飢えた,津軽領において、このような大凶作の後の大飢饉では、農村の下層民(水呑百姓など)はなんとか生き延びるために
通史編2(近世1) (材木移出)

津軽領からの材木積出の手続きは、藩の役人(山奉行もしくは山役人)が湊の沖口横目へ、材木の積み出しを求める,者を拾ってみると、加賀二木・越後・加賀安宅(あたか)・十三・庄内・鰺ヶ沢・新保(越前)・越後今町と、津軽領内,津軽領内の材木は、大坂・上方のみならず、東廻海運・太平洋海運をも通じて流通していたのである。  ,このようにして津軽領内から移出された材木は、上方においては、蔵米と同じように現銀化可能な有力商品であった
通史編1(古代・中世) ((五)発掘調査から見た遺跡)

さらに津軽領内での合戦の舞台として登場してくる平賀町大光寺新城跡、藤崎町藤崎城跡なども開発に伴う緊急発掘調査
通史編2(近世1) (まえがき)

すなわち幕藩体制の成立から動揺・崩壊期に至る期間を対象としており、津軽領における政治・経済・社会の包括的,我々は、すでに『新編弘前市史』資料編2・3(近世編1・2)を刊行して、資料に基づいた近世津軽領の歴史的
通史編2(近世1) ((一)宝暦の飢饉)

しかし津軽領の場合、「封内事実秘苑」(資料近世2No.六)に「今年の凶作は全国的な飢饉となり、特に国元
通史編2(近世1) ((二)対外危機意識の表出)

ロシアの南下に代表される外圧が具体化し、蝦夷地警備が恒常化する寛政期から文化期は、蝦夷地の動向が直接に津軽領
通史編2(近世1) (陸上交通網の整備)

この絵図の道路網の解説書に当たるのが、慶安二年(一六四九)二月成立の「津軽領分大道小道磯辺路并船路之帳,これと類似したものに承応(じょうおう)二年(一六五三)十一月成立の「津軽領道程帳」(弘図古、以下「道程帳,ともに津軽領と秋田藩領・盛岡藩領を結ぶ道路であり、弘前城下を中心として藩領外へ通じる道が大道筋として認識
資料編3(近世編2) (はじめに)

(近世編1)に続き、十八世紀中葉の宝暦期から明治四年(一八七一)の廃藩置県に至る、弘前市を中心とした津軽領,構成することが決定しており、したがって本巻は、幕藩体制後期から幕末維新期までを取り扱い、政治面では、津軽領内,また主に第七章と第八章において、十八世紀後半から十九世紀にかけての弘前城下を含めた津軽領における武家、
通史編2(近世1) (樋口善兵衛の報告書)

当時、津軽領内ではこうした見方が支配的であったのであろうか、六月末ころには「鰺ヶ沢米十万俵余御払相成候,津軽領内で、凶作が本格的に意識されるようになるのは、八月七日、武田源左衛門(本締役〈出納総括責任者〉兼大目付
通史編2(近世1) (近世最後の大飢饉)

津軽領では目立った一揆は起こらなかったものの、天明飢饉・元禄飢饉に次ぐ被害を出し、復興を遂げていた農村
通史編2(近世1) (一里塚)

榎本清右衛門が下向し、東奥の駅路に一里塚を築かせたという記述(資料近世1No.二〇二)はあるが、両名が津軽領,行っており(同年七月二十九日付けの小場右兵衛義成宛て佐竹義宣書状)、これら両藩の動きから推定すると、津軽領
通史編2(近世1) (天保飢饉と一揆・騒動)

一方、他藩で起こったような百姓一揆・打ちこわしは津軽領では大規模なものはなかった。,津軽領のものとしては、天保四年八月に、廻米の中止で陸揚げされた米の払い下げをめぐって、青森町民が弘前駄送
通史編2(近世1) (生産力の把握)

生産力の把握 前期の津軽領における農地の表示方式は、石高制に直接に結びつく町段歩制ではなく、「人役(,そのため、津軽領では、石高制を導入するに当たり、人役制という生産にかかわる諸条件を労働量によって表示した
通史編2(近世1) (騒動のその後)

津軽領での騒動は、大凶作の兆候がみられる天明三年七月末に集中し、被害が明らかになった八月以降には発生していない,一方、津軽領で始まった騒動は東北地方一帯に飛び火した。
通史編2(近世1) (蝦夷地への人口流出)

さらに蝦夷地の幕領化・産業開発に伴い、津軽領を含む奥羽の人々の蝦夷地への出稼ぎ・移住が盛んになった。,幕府は蝦夷地警備の人員はもちろん、開発の労働力も津軽領・南部領に頼っており、藩も領民の蝦夷地渡航に表向
通史編3(近世2) ((一)凶作・飢饉とその対策)

(一)凶作・飢饉とその対策 津軽領の四大凶作といわれるのは、元禄・宝暦・天明・天保年間の冷害による凶作
通史編3(近世2) (博奕の種類)

博奕の種類 津軽領で行われていた博奕の種類には、「国日記」によれば、前句附(まえくづけ)・取退無尽(
資料編2(近世編1) (【解説】)

、天正(てんしょう)十七年(一五八九)から明暦(めいれき)二年(一六五六)に至る、弘前市を中心とした津軽領,地域は、本市並びに藩政時代の津軽領全域を主たる対象とし、領主津軽氏と全国政権との関係動向などを視野に入,また幕藩体制全体の政治状況も、武断(ぶだん)政治から文治(ぶんち)政治への移行期にあたり、津軽領を取り,右の二つの事由から、編年体の最終条を設定したのであって、これは津軽領内のみならず幕藩体制全体の政治の動向,つまり十六世紀末から十七世紀中葉にかけて、近世の藩体制の形成に向かう北奥津軽領をめぐる歴史情勢は、このようにみるならば
通史編1(古代・中世) (堀越城と城下町)

復元でもっとも基本となった資料は、天和四年(一六八四)の「堀越村書上絵図」と慶安二年(一六四九)の「津軽領分大道小道之磯辺路并船路之帳,しかしその規模は小さく、津軽領内の寺院や商工業者を集住させるには不充分なものであったことから、津軽氏は,津軽氏が近世大名として津軽領内を掌握する政庁的性格をもたせようと作った堀越城下町ではあったが、十分に対応,つとして考えられるが、それよりも弘前城下町の建設が行われた背景には、堀越城と堀越城下町では近世大名として津軽領内
通史編3(近世2) (鎮撫総督軍の領内通行問題)

沢一行の目的は、秋田領から津軽領へと転陣し、最終的には箱館(はこだて)へ向けて渡海することにあった。,閏四月二十二日に締結された白石同盟の結果を受け、五月七日、弘前藩軍政局御用懸は、沢副総督一行が津軽領へ,われていたが、沢副総督一行が松前へ渡海して同所の軍勢と合流し、総兵力を強大化させることを危惧しており、このため津軽領,沢副総督付属の藤川能登ら三人の先触れが到着し、領内通過および箱館渡海の手配を求めるとともに、正式に沢副総督の津軽領
通史編2(近世1) (漆以外の国産品)

南部領では馬は重要な国産品であったが、津軽領では産業としての馬産はふるわなかった。  ,津軽領の国産品奨励策は以上のように漆を除くと個別的・単発的なものが多く、藩政改革期においても年貢収入を
資料編2(近世編1) (編年史料 (天正十七年~明暦二年))

●寛永四年(一六二七)二月十日、津軽領内に強い地震起こる。,津軽領より逐電した間男の九兵衛を、返却してほしい旨を伝えられる。,この日、津軽領大地震あり、岩木山鳴動し、降灰あり。,●慶安三年(一六五〇)四月十八日、津軽領より南部領へ帰参百姓あり。,●承応二年(一六五三)十二月十八日、津軽領内大地震。
通史編3(近世2) (飢餓の状況)

津軽領内における飢餓の実態については、天明三年十月の「国日記」に、城下および農村での倒死が最も多く記されている
通史編2(近世1) ([口絵])

口絵2 大浦光信倚像 口絵3 伝津軽為信下賜卍船印 口絵4 上野国勢多郡津軽領代官足立氏
通史編1(古代・中世) (本城(根城)の城館跡)

これらの城館跡を拠点として津軽領国の統一が行われていくことになるのである。
通史編2(近世1) (在宅制度廃止以前の廃田・新田開発)

『平山日記』天明四年(一七八四)条によれば、当時の津軽領の田方耕地面積二万七七六五町余のうち一万三八〇
通史編3(近世2) (操人形芝居)

津軽領内では慶安二年(一六四九)六月にあやつり太夫の興行があり、大当たりとなった(「秘苑」)。
通史編1(古代・中世) (戦国時代の都市(城下町)発生)

大浦(津軽)氏が津軽領域の掌握に向け、拠点として居城した城跡を中心として、城と町、城と城下町ということについてみていくことにする
通史編1(古代・中世) (刈田・放火)

津軽領内の文献史料ではないが、南部氏側史料「東政勝(ひがしまさかつ)書状写」(史料九八五)の中に元亀年間
通史編3(近世2) ((一)箱館戦争の開始)

明治元年十月二十三日条)と日常生活を再開できる状況になったと思ったら、またすぐに異変が起こり、さらに大きな混乱が津軽領内
通史編2(近世1) (前期農政と検地)

前項でみたように、津軽領の場合、人役制という相対的な田積表示方式を採用していたこともあり、村高を社会生産力
通史編3(近世2) (歌舞伎)

図33.出雲阿国の墓  津軽領内では正保三年(一六四六)六月、歌舞伎興行が初めて行われた(「秘苑
通史編3(近世2) (観音信仰)

西国や坂東の三十三ヵ所観音霊場に倣って、津軽領内でも札所巡りが行われるようになったが、その始まりについてはわからない
通史編2(近世1) (参勤交代路と街道の状況)

鷹献上経路の書き出しが秋田分領として「八森~の志(し)ろ(現秋田県八森町~同能代市)」となっており、津軽領内,85.旧松前街道(平舘台場跡付近)の松並木  現在、「松原」の地名が各地に点在するが、かつての津軽領
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