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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編2(近世1)
(中世の比内浅利氏)
中世の比内
浅利氏
比内
浅利氏
は、甲斐源氏(かいげんじ)の一族であり、浅利与市義遠(よいちよしとお)を,しかし、
浅利氏
はこの後も依然として甲斐国浅利郷を本拠地としており、天文年間ころ、本拠地を甲斐国から比内,とっこ)城を築き、一族を比内地方に配置し勢力を拡大した(大島正隆「北奥大名領成立過程の一段面 ―比内
浅利氏
,この時、大浦為信は、浅利勝頼の子頼平を援助し、
浅利氏
遺臣をその家臣団に組み入れるとともに、仙北角館(かくのだて / 中世の比内
浅利氏
通史編2(近世1)
(秋田安東実季の名護屋参陣)
この時、米にして五四五石九斗に当たる金子二枚二両三分の上納を
浅利氏
は命じられた。,これに対して、
浅利氏
は金子一枚三両二分を納入しているが、残る九両一分が未進分となった。,これら
浅利氏
の実季に対する軍役や太閤蔵入地からの物成(年貢)未進が、後に
浅利氏
と秋田氏との確執の原因になっていく,の物成未進分を容赦し、
浅利氏
の知行を返付することで落着した。,
浅利氏
の突然の上洛計画といい、豊臣秀次の重臣木村重茲の調停といい、
浅利氏
はすでにこのころより中央政権内
通史編2(近世1)
(浅利頼平の怪死)
この二通の覚書は、
浅利氏
が秋田氏へ納めた軍役や物成、太閤蔵入地からの年貢米や伏見作事板の運上の決算報告書,であるが、
浅利氏
はこの覚書で、年貢徴収ができないのは秋田方よりの放火・「なてきり」が理由であると弁明している,この
浅利氏
の行動を秋田氏は、前田利家の調停を無視した不届きの行為であり、さらに自分に対して虚言を仕掛け,・秋田両氏が大坂に上り何度も政権からの詮索があった後、やがて浅利方有利に傾いた時、実季が陰謀をもって
浅利氏
,また、『源姓
浅利氏
由緒書』では、秀吉の裁定により
浅利氏
が勝利を得たとき、
浅利氏
が召し連れていた一門の浅利牛蘭
通史編2(近世1)
(浅利騒動の停戦命令)
浅利騒動の停戦命令 慶長元年(一五九六)二月十六日、
浅利氏
と秋田氏が比内で対峙(たいじ)していた時、,慶長元年二月、浅野長吉は、豊臣秀吉の家臣佐々正孝に対して、秋田氏と
浅利氏
の紛争の停戦を命じるよう指示を,(2)
浅利氏
に賦課される軍役・物成や太閤蔵入地の代官所支配も、一般の家臣並みとすること。,当面は
浅利氏
の子と家老を秋田氏の城下へ詰めさせ、以後は一般の家臣同様に城下詰めとすること。,特に浅野長吉については、
浅利氏
はすでに前年に誓紙を提出して取次を依頼していたのである。
通史編2(近世1)
(浅利頼平の比内帰還)
浅利氏
は数代安東氏の家臣であったが、親の愛季に対し逆心を企てたため浅利勝頼を成敗した。,この
浅利氏
没落の時、頼平は津軽へ逃れ、以後十数年ばかり津軽氏が抱え置いた。,その間、
浅利氏
の知行は安東氏で支配していたが、その後、津軽氏からの度重なる申し出により
浅利氏
の旧領を頼平,この太閤検地によって
浅利氏
の旧領である扇田(おうぎた)村、独鈷(とっこ)村、花岡(はなおか)村、中野(,後の片山氏ら重臣の安東方への寝返りは、
浅利氏
帰還の時からすでにその伏線が存在したのである。
通史編2(近世1)
(浅利騒動と津軽氏)
同九月七日、実季数百騎の軍兵を引率して米代川の辺に出張せり」と記しており、秋田氏はこの時期
浅利氏
との戦闘,また八月二十二日付書状では、比内
浅利氏
より檜山の実季へ戦闘をしかけたが、津軽方より
浅利氏
を支援することになり,、そのため
浅利氏
は津軽為信を後ろ盾にしている。,一方、
浅利氏
重臣片山氏・八木橋氏の実季方への寝返りや、浅利方から秋田領への侵入による稲の刈り取りが行われたと,図36.津軽氏の
浅利氏
擁護を示す南部信直書状案 この文禄四年の戦闘において頼平が頼みとしたのは
通史編1(古代・中世)
(文献史料から見た戦国動乱の激化)
内容は檜山安東氏が比内(ひない)の
浅利氏
や為信との間で書信による交誼のあることを示すものである。
通史編2(近世1)
(伏見作事板の運上と太閤蔵入地)
たらんとして「隣郡之衆」として編成されることを拒否したとも、また、この時期津軽氏が庇護していた比内の
浅利氏
通史編2(近世1)
(伏見滞在と派閥抗争)
また長束正家は、この伏見作事板の朱印状の取次だけではなく、文禄三年以降の
浅利氏
と秋田氏との抗争である浅利騒動
資料編1(古代・中世編)
([十六世紀])
秋田の安東実季と和睦、秋田勢の比内出兵に援軍を送るという(ただし、秋田勢の比内攻撃は天正十八年、相手は
浅利氏
資料編1(古代・中世編)
(第一章 綱文・史料一覧)
… 秋田家文書・新羅之記録・源姓
浅利氏
系図并由緒書・福山秘府・八戸湊文書 333 ●天正十~十二年(一五八二,… 坊沢村長崎氏文書・源姓
浅利氏
系図并由緒書 336 ●天正十三年(一五八五)三月、大浦為信、外が浜油川城,秋田の安東実季と和睦、秋田勢の比内出兵に援軍を送るという(ただし、秋田勢の比内攻撃は天正十八年、相手は
浅利氏
資料編1(古代・中世編)
(出典・典拠一覧(第一章・第二章))
湊矩季家蔵文書 ………………………………………………………………………… 秋田藩採集文書〔秋田県立図書館〕 源姓
浅利氏
系図并由緒書
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