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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編1(古代・中世) (「津軽(郡)中名字」と浪岡北畠氏)

「津軽(郡)中名字」と浪岡北畠氏 津軽平野の地名や集落の歴史を探るときに、必ずといっていいほど引用される,文献に、浪岡北畠氏が天文十五年(一五四六)に編んだとされる「津軽(郡)中名字(つがる(ぐん)ちゅうなあざ,天文二十一年に浪岡北畠氏が正二位権大納言まで昇った公卿の山科言継(やましなときつぐ)(一五〇七~一五七九,一六世紀半ばには、しばしば浪岡北畠氏の名が同時代史料にあらわれるようになる。,浪岡北畠氏の官位獲得も、双方の思惑の上に成り立っていたものとみてよいであろう。   / 「津軽(郡)中名字」と浪岡北畠氏
通史編1(古代・中世) (浪岡城攻略)

山科家は浪岡北畠氏の朝廷取り次ぎ役的な立場にあったともみられる。,そして、具永・具運といった名前は浪岡北畠氏の当主であり、伊勢国司の北畠氏と同じ「具」を通字とし、伊勢北畠氏,浪岡北畠氏の官途は、従五位侍従から始まり、具永は従四位下左中将にまで昇進している。  ,浪岡北畠氏は、中世末から近世初期に書かれた諸記録からは、戦国期には「御所」と呼ばれており、その所領は現在
通史編1(古代・中世) (安藤愛季の津軽侵略)

愛季の家臣であるにもかかわらず、「津軽之南部」を名乗って上洛させたのは、山科家と浪岡北畠氏との関係から,一方、安藤氏と浪岡北畠氏との関係では、たとえば、為信に攻められた顕村は愛季の娘を正室としていた。,愛季が為信による浪岡北畠氏の攻略後、津軽に侵攻したのは、愛季と浪岡北畠氏との間にこのような関係があったからである
資料編1(古代・中世編) (三 刀剣)

森宗は、浪岡北畠氏関係の刀工であり、年号が刻まれていることから、北畠氏の活動状況をしのぶことができる。
通史編1(古代・中世) (一六世紀の湊)

このように一六世紀の陶磁器の動きをみると、主体となる交易港は十三湊ではなく、外浜を支配していた浪岡北畠氏
通史編1(自然・原始) (江戸時代~明治十七年(一八八四))

この記事は、浪岡北畠氏の子孫といわれる山崎立朴(やまざきりゅうぼく)(?
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