機関トップ
資料グループ
テキスト一覧
年表一覧
キーワード一覧
弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
トップページ
詳細検索
詳細検索
目録
テキスト
年表
キーワード
その他(トップページ等)
検索条件を追加
目録
テキスト
年表
キーワード一覧
その他(トップページ等)
AND
OR
NOT
年号変換
閉じる
検索結果
: 29件
辞書ファセット
○○○
△△△
10件
20件
50件
100件
(並べ替え)
テキストタイトル(昇順)
テキストタイトル(降順)
ページタイトル(昇順)
ページタイトル(降順)
掲載ページ(昇順)
掲載ページ(降順)
/ 1ページ
通史編1(古代・中世)
(斉明天皇五年の「北征」)
斉明天皇五年の「北征」 斉明天皇五年(六五九)三月にも、比羅
夫
は越国を発して再度「北征」に赴いた。,あきた)・渟代・津軽の蝦夷と、前年帰順した渡嶋蝦夷の一派と思われる胆振鉏(当時の訓が『日本書紀』に「伊
浮
梨娑陛,比羅
夫
は、これまでそういった対立を利用して平定を進めてきたわけであるが、大和政権に帰順した蝦夷相互での,抗争は防がねばならず、蝦夷の調停者として、蝦夷の神も比羅
夫
の主導の下に祀らせたのである。 ,その上で比羅
夫
の水軍は有間浜を出発し、北の渡嶋方面へと向かった。
通史編2(近世1)
(土着策と蝦夷地警備)
これまでみてきた土着策による家中成り立ちと、蝦夷地出兵の関係をとらえてみると、従者(武家奉公人)確保の問題が
浮
かび,鉄炮等雑器持
夫
・
浮
夫
(うきふ))が蔵百姓から出されることになっている。,たとえば役長柄奉行の建部菊太
夫
は松前出仕の支度金として一五両の借用を藩に願い出ているが、同時に郷人
夫
の,けも申し出ている(「松前御用諸書付留」寛政元年七月条 弘図古)ことからも知られるように、蔵百姓を貸郷
夫
(,つまり、軍役規定どおりに従者や武器を用意すべきところを、貸郷
夫
をもって名目を立て、規定どおりの従者の動員
通史編1(古代・中世)
(後方羊蹄の所在地)
岩木川河口の十三湖に
浮
かぶ中島遺跡からは、この比羅
夫
の時代の七世紀まで遡る可能性の高い土師器(はじき),津軽半島北部の蝦夷までが大和政権と朝貢関係を結ぶにいたって、「北征」に一応の目途(めど)をつけた比羅
夫
は
通史編5(近・現代2)
(弘前女学校のキリスト教)
そうとも知らず私は松森町にある桜庭駒五郎氏宅にこの件に関しておもむいたところ、御
夫
婦は身を白装束に清め,私はご
夫
婦のあまりの厳粛さに頭を上げているわけにいかず同様に土下座したのであった。,しかしながらこのとき、私の脳裡に
浮
んだのは、これで弘前学院(ママ)が助かったという喜びであった。,勿論桜庭さん御
夫
婦とも手をにぎりあって喜んだ。笹森先生といえばこの終戦の詔を青森駅頭で聞いたという。,成田校長
夫
妻の排斥運動である。
通史編5(近・現代2)
(福祉事業の推進)
外地に
夫
を残し子供を抱えて引き揚げてきた女性を典型に、男性が復員しておらず女性だけで子供を養う家庭は、,空襲による罹災で親を失った児童が激増したため、児童保護の必要性から戦災孤児の保護対策、
浮
浪児対策が
浮
上,そのため国民の間から保護の請求権が認められないなど、さまざまな批判が
浮
上した。
通史編1(古代・中世)
(国造の分布)
については、道奥(みちのく)の菊多(きくた)(菊多郡)・石城(いわき)(磐城郡)・染羽(しめは)(標葉郡)・
浮
田,)(宇多郡)・思・白河(しらかわ)(白河郡)・石背(いわせ)(磐瀬郡)・阿尺(あさか)(安積郡)・信
夫
(,信
夫
郡)・伊久(いぐ)(伊具郡)の一〇の国造が示されている(図11)。
通史編4(近・現代1)
(町の様子)
今一人の有名な弘前の人物を残したが
夫
れは小山内建麿氏の中町方面の人である。,
夫
れでも別に警察に訴へて出るものがなかった。,でも不老倉鉱山が失敗して、お一門の歴々図書、金太郎、平八郎を始め多田、間宮、笹其他の人々も大分破産の
浮
目,に陥らしめられたが、
夫
れでも旧藩君が御下向の時は大抵は新町の松原に御出迎へをした。,東奥義塾生一同は碇ヶ関までお迎へ申上げ
夫
れから御一行を御警護申し上げたものだ。
通史編3(近世2)
((二)相撲興行)
同人 亀甲町六助 同人 同 町七兵衛 岡町村角兵衛 掛橋 唐崎 岡町村角兵衛 奥内村有兵衛 唐崎
浮
雲,胴突 唐崎 白戸角太
夫
同人 浅瀬石村伴左衛門 小和森村弥作 唐畸 荒浪 小和森村弥作 同人 小杉村才次郎,浅瀬石村万三郎 同人 垂柳村勘七 同人 西村友閑下人三十郎 夜嵐 浜野町惣次郎 瀧川藤九郎家来白戸角太
夫
,夜嵐 同人 早川
浮
雲 白戸角太
夫
同人 沖館村弥兵衛 同人 後潟村弥兵衛 掛橋 堀太左衛門家来遠藤権八,奥内村有兵衛 懸橋 唐崎 奥内村有兵衛 小 結
浮
雲 後潟村弥兵衛 同人 同人 脇 詰 亀甲町六助
通史編5(近・現代2)
(秩父宮の歩兵第三一連隊赴任)
伝染病患者や病人を隔離したり、
浮
浪者を退去させたり、通行脇の住居から不審物や不衛生なものを除去させたりなど,写真18 秩父宮
夫
妻と紺屋町の仮邸
通史編3(近世2)
(戦場に駆り出された民衆)
り出された民衆 さて、戊辰戦争ではこれまで述べた農兵・社家隊・修験隊などのほかに、多くの農民が雑役
夫
として,にすぎず、あとは足軽・軽卒が二八七人、又者(またもの)という高級士分の私的従者六人を除けば、残り六七人は炊
夫
(,すいふ)(食事係)・
浮
夫
(うきふ)(雑役
夫
)・持
夫
(もちふ)(弾薬運搬係)などの農町民であり、この時には,戦死者の内、明治二年六月の招魂祭(しょうこんさい)で祀られた者の一覧であるが、総勢六七人の内、五人は軍
夫
に,姓は後日のもの 6 (本川)長之助 22歳 軍
夫
箱館峠下村 祭祀米 毎年5俵 植田村
通史編1(自然・原始)
(第一節~第三節 引用・参考文献)
五頁 大沢穠 (一九六二) 五万分の一地質図幅「弘前」及び同説明書、地質調査所 小貫義男・三位秀
夫
・,青森県津軽十三湖地域の沖積層、東北大学地質学生生物学教室研究邦文報告 第五八号、一~三六頁 内藤博
夫
(,、森重出版 鈴木隆一(一九七二) 岩木火山の変位、地理学評論 第四五巻、七三三~七五五頁 中川久
夫
(,一九七二) 青森県の第四系、青森県の地質 第二部、青森県、七一~一一四頁 中川久
夫
・中馬教允・石田琢二,アトラス-日本列島とその周辺-、東京大学出版会 山口義伸(一九九三) 平川流域での十和田火山起源の
浮
石流凝灰岩
通史編2(近世1)
(幕末期の借財)
年ごとの額からすれば少額であるが、それすら滞るという、藩の慢性的財政難の状況が
浮
き彫りにされている(長谷川成一,・坂本壽
夫
「近衛雑事日記」解説 年報『市史ひろさき』八・九)。
通史編2(近世1)
(負担の増大による民衆の困窮)
既に、藩士土着策の主要な目的の一つである従者確保について触れたところであるが、百姓は郷
夫
(ごうふ)として,寛政十一年の東蝦夷地仮上知の際に当藩が用意した足軽五〇〇人の大半は町人・職人・郷
夫
であり、無苗字であることが,不都合であることから、以後職人・郷
夫
といった名目をやめ、勤番中は足軽として苗字を与えているのは、このことをよく,また、文化四年から翌年にかけてシヤリ(現北海道斜里郡斜里町)で越冬した勤番人約一〇〇人の内、多くが「
浮
腫病,このような蝦夷地への百姓の動員は、労働力不足となって直接的に農耕に影響を与えるとともに、動員されないまでも郷
夫
出銭
通史編3(近世2)
(農兵の組織)
役職名 人数 備 考 1 小隊司令士 1 御目見以上の士分より任命,郷
夫
1名貸し付けられる 2,銃隊農兵 36 弾薬方と小荷駄方に4名を隊中から交番で出すこと 小計 42 5 足軽目付 1 郷
夫
1,名貸し付けられる 6 弾薬取扱宰料兼 1 代官小使より出すこと 7 弾薬持
夫
7 隊員36名につき1名増,関病院から派遣になる 9 小荷駄方勘定人 1 藩より派遣 10 小 人 2 農民より徴発 11 炊
夫
,6 農民より徴発 12
浮
夫
8 農民より徴発 小計 27 総計 69 注) 「御軍政御用留
資料編1(考古編)
(-文献リスト-)
にみられる環状地形と地質・構造について.日本地質学会第85年大会講演要旨, P.77 ◇11 石川俊
夫
(,1959) 青森ロームの問題点.青森地学,No.1,P.3-9 ◇60 大池昭二(1963) 八戸
浮
石,の絶対年代.青森地学,No.8,P.1-3 ◇61 大池昭二(1964) 八戸
浮
石の絶対年代-日本の,Bull., No.36, P.33-47 ◇105 小高民
夫
・高柳洋吉・中川久
夫
・野田浩司・岩井武彦,◇206 山口義伸(1993) 平川流域での十和田火山起源の
浮
石流凝灰岩について.年報市史ひろさき
通史編4(近・現代1)
(草創期の外国人教師たち)
ウォルフ
夫
人も教壇に立ち、リーダーを教えた。,学校関係者や生徒たちは心からの謝意を述べ、小雪がちらつく寒風の中で目に涙を
浮
かべて、彼の姿が見えなくなるまで,弘前に来てからのイング
夫
妻の活躍は、半ば伝説化している。,イング
夫
妻は一八七八年三月に、任期を四ヵ月ほど残して弘前を離れた。,理由は
夫
人ルーシーの健康問題であったとされる。
資料編1(考古編)
((2)縄文時代早期)
これに対し、小川原湖周辺の同期に関する土器文化の研究を志していた佐藤達
夫
は、三沢市の早稲田貝塚や六ヶ所村, 一方、名久井文明は、昭和46年(1971)に三戸町川守田に所在する寺ノ沢遺跡において、南部
浮
石
通史編4(近・現代1)
(帰田法の帰結)
旧弘前藩に於て一昨秋以来、士族卒土着の議を起し、富豪の田園を買ひ、家禄高に応し、
夫
々分賦、追々移住、諸費等,立帰候者多分有之由相聞、右は過日御布告面、帰田法御差止め云云と有之を誤解し、或は戸籍編入の儀より種々の
浮
説
資料編1(古代・中世編)
((3)城館の構造)
以上の通路の途中には、敵の侵入を防ぐために、さまざまな防御の工
夫
がなされている。,っていることから、目屋地区の交通路掌握を最大の目的として、この坂本館が設けられたのではないかという可能性が
浮
かび
通史編1(自然・原始)
(岩木山麓緊急遺跡発掘調査開始~現代)
、八戸市長七谷地貝塚(八月)、同市類家(るいけ)の帽子屋敷(ぼうしやしき)貝塚(八月)、前述の佐藤達
夫
等,鹿島沢古墳群については、当時古墳の北限が、岩手県の北上川上流域にある西根町谷助平・岩手町
浮
島などの古墳群
通史編2(近世1)
(津軽人のみた開港場箱館)
にうつさるるときは命短しと云ふもあり、又其影は血になって消るともいひ、又切支丹にて人を惑すとも云て、取処(所)なき
浮
説多,異国との習俗の違いについても、外国人の葬儀の様子、握手の習慣、外国人の
夫
婦が腕を組んで市中を歩行するありさま
資料編3(近世編2)
(【解説】)
する家臣団の知行地の在り方を示す寛政七年(一七九五)「御家中知行田畑帳」からは、弘前藩の知行制の実態が
浮
かび,なお、安政五年(一八五八)「入置申一札之事」は、家を出た妻が、再度
夫
のもとに戻った際の詫状である。,かれている絵を中心とした史料から、さらに「弘前藩庁日記」に記されている史料によって、人々の生活の様子を
浮
き
通史編3(近世2)
(宗教と交通統制の低下)
覚随が毒を入れた事実はないと判明したが、多くの者が無頼(ぶらい)僧や無宿者などとなって領内外を
浮
遊し、,をちらつかせ、松前や江差などの鯡(にしん)場に農民を連れて行こうとするブローカーも多かったからである(坂本壽
夫
「
通史編5(近・現代2)
(「草を刈る娘」について)
描写は緻密にして適確、それでいて風土の香りや郷土の人間が豊かなイメージで
浮
かびあかってくる。,平松幹
夫
(前出)は『現代日本文学アルバム 石坂洋次郎』普及版(昭和五十八年 学習研究社刊)の作品解説でこう,なお、本作品は映画化され、西河克己監督、吉永小百合、浜田光
夫
ら出演で津軽ロケを行い、昭和三十六年(一九六一
資料編1(考古編)
(〈注及び参考文献一覧…第3章〉)
*31 斎藤忠 「北日本における古砦址の概観」(館址)東京大学出版会 1958年 *32 江上波
夫
・,1965年 *56 菅江真澄 『菅江真澄遊覧記Ⅰ』東洋文庫(54)平凡社 1965年 *57 大場利
夫
・,66 宇田川洋 「擦文式文化研究略史」(北海道考古学3)北海道考古学会 1967年 *67 平山久
夫
,桑原滋郎 「東北地方における古代土器生産の展開」(考古学雑誌57-3) 1972年 *94 佐藤達
夫
,政庁跡-』 1985年 *317 山田一郎・井上克弘 「東北地方を覆う古代の珪長質テフラ〝十和田-大湯
浮
石
通史編1(自然・原始)
(昭和時代)
松本は、宮城県の松島湾に
浮
かぶ宮戸島里浜(みやとじまさとはま)貝塚と、岩手県陸前高田(りくぜんたかだ),昭和十六年(一九四一)三月には、江坂輝彌と直良信
夫
(なおらのぶお)(一九〇二~一九八五)が、亀ヶ岡遺跡,なお同じ号には、吉田格(よしだいたる)と直良信
夫
が連名でオセドウ貝塚より採集の遺物を報告している(64
通史編2(近世1)
(安政期の蝦夷地警備と交通問題)
寛政年間より蝦夷地警備の問題が藩政の最重要課題として
浮
上すると、領内には様々な困難が生じたが、その第一,いているところに蝦夷地警備の人数・物資が殺到し、安政元年から四年にかけて村で賄った馬は延べ五六〇〇匹余、人
夫
は
資料編3(近世編2)
(【解説】)
「弘前藩記事」は筆者がすでに翻刻し、刊本として世に出している(坂本壽
夫
編『弘前藩記事』全五冊、北方新社刊,これらの他にも、田中秀和氏の民衆史料によって宗教政策や民衆生活が
浮
き彫りにされるであろう。,(解説 坂本壽
夫
)
資料編1(古代・中世編)
(第一章 綱文・史料一覧)
……………………………… 続日本紀 23 ●天平宝字二年(七五八)十月二十五日、陸奥国
浮
浪人、桃生築城,……………………………… 続日本紀 24 ●天平宝字三年(七五九)九月二十七日、坂東諸国らの
浮
浪人を雄勝柵戸,……………………………… 続日本紀 27 ●神護景雲三年(七六九)六月十一日、
浮
浪人を陸奥国伊治村に移配,…………………………… 続日本後紀 70 ●承和十年(八四三)四月二十八日、他国に
浮
浪する陸奥・出羽国,…………………… 岩大新渡戸文書 154 ●仁治二年(一二四一)三月十八日、曾我広忠
夫
人岩楯尼、亡
夫
墓堂仏聖田
/ 1ページ