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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編2(近世1) (海防報告書にみる天保期の海防体制)

海防報告書にみる天保期の海防体制 天保十三年(一八四二)七月二十六日、幕府はそれまでとっていた異国船打払令,そのうち、同年八月九日に発せられた触は、「海岸防禦之面々」に対して沿岸防備強化を命じ、さらに海防に動員,天保期の海防報告書提出命令は、さきにも触れたように沿岸防備強化を命じ、さらに海防人員・兵器の増加数を報告,なお、海防報告書のなかに並記されている津軽黒石藩の海防体制についてもここで簡単に触れておきたい。,この海防報告書の提出形態からもわかるように、津軽弘前藩では津軽黒石藩領である平内領の沿岸海防も一体のものとしてとらえ / 海防報告書にみる天保期の海防体制
通史編2(近世1) (幕末期の海防体制)

幕末期の海防体制 藩では嘉永年間以降、台場(だいば)設置、西洋流砲術の導入と銃砲・武器類の鋳造・購入,、武芸訓練の奨励と調練(演習)の実施など、領内海防体制を一層強化している。  ,嘉永二年(一八四九)五月三日に海防掛老中牧野忠雅に提出された藩主順承名の願書(嘉永二年閏四月十二日付),元治元年(一八六四)十一月には、従来六〇人としてきた青森詰人数を、海防をめぐる情勢の変化と青森が蝦夷地渡海口,一方、藩では海防の強化に伴い西洋式の砲術を導入した。 / 幕末期の海防体制
通史編2(近世1) (領内海防と台場の構築)

領内海防と台場の構築 津軽弘前藩は、蝦夷地警衛などに当たった実績と、その影響によって、同様の境遇にあった,盛岡藩とともに、海防についても、同時期の奥羽諸藩に比較すれば、早くから関心を持っていた(原剛『幕末海防史,領内海防においても、武士身分のものばかりではなく、領民が担い手として位置づけられていた。,秋田藩は、当初この依頼を自領の海防と蝦夷地警衛に人数を派遣していることを理由に断るつもりであったが、結局,さらに翌年、津軽弘前藩は秋田藩に対して領内海防の「永々加勢」を仰ぐことになった(『御亀鑑』四・江府四  / 領内海防と台場の構築
通史編2(近世1) (旅行者のみた領内海防)

旅行者のみた領内海防 津軽領の海防体制は、海防に深く関心を持つ旅行者の目にどのように映っていたのであろうか,伊東は松陰に対して津軽領の海防体制を語っている。,三馬屋(厩)は原(も)と一隊を戍(じゅつ)せしが、今は稍(やや)減じて僅かに百人のみ」とするのは、直接海防,さいくがしら)、賄頭(まかないがしら)を勤め、安政元年(一八五四)勘定吟味役(かんじょうぎんみやく)となり、海防掛 / 旅行者のみた領内海防
通史編2(近世1) (一 海防問題の発生と蝦夷地出兵)

一 海防問題の発生と蝦夷地出兵 本項では十八世紀後半以降、藩政に大きな影響を及ぼした蝦夷地警備の問題,の基礎的研究』一九八四年 国書刊行会刊、浅倉有子『北方史と近世社会』一九九九年 清文堂刊、原剛『幕末海防史 / 一 海防問題の発生と蝦夷地出兵
通史編5(近・現代2) (伊東梅軒)

弘化元年(一八四四)大坂に行き、篠崎小竹の門に入って僧月性(げっしょう)らの志士と交遊し、安藤太郎らと海防,を論じ、のち禁書『海防臆測』(古賀侗庵著)を安藤から入手、安藤の言によれば胡羯を呑むの慷慨の気を燃やした,海防僧月性との交遊が弘前藩の海防家伊東梅軒の名を志士の間に広めるゆえんとなり、頼三樹三郎(らいみきさぶろう,そして、この四文字こそ、梅軒が弘化四年夏四月、四年の遊学を終え、憂国の海防家となって津軽へ帰るときに師
通史編2(近世1) (異国船打払令の発令と津軽弘前藩)

異国船打払令の発令と津軽弘前藩 水野忠成を中心とする文政期の幕閣は、海防をゆるめ、その任に当たっていた,この異国船打払令の発令は、幕府が突如海防に関する政策を強硬策に転じたように受け取られるが、実はそうとばかりともいえない,打ち払いによって、異国船拒否の意志が諸外国に徹底すれば、大名の海防に要する負担の必要すらなくなるはずと
通史編2(近世1) (民兵の登場)

これら農兵の役割は、おおよそ海防における藩の軍事力の不足を補い、かつ、即応態勢を取るためのものであった,(原剛『幕末海防史の研究』一九八八年 名著出版刊)。  
通史編3(近世2) (稽古館の儒学者たち)

その後弘化元年(一八四四)大坂に赴き、篠崎小竹の門を叩き、ここで海防僧と呼ばれた月性(げっしょう)と交,弘化四年(一八四七)帰藩し、嘉永二年(一八四九)には御馬廻七番組を仰せつけられ、北辺警備の海防の役についた,同五年、東北周遊の途にあった吉田松陰と宮部鼎蔵(ていぞう)の二人が広之進宅を訪れ、北辺の地津軽の海防や
通史編5(近・現代2) (二つの源流)

この二つが、明治維新期の内外の危機状況に伊東梅軒の海防思想、古川他山の頼山陽と南宋陸遊詩愛好を生み、それが
通史編2(近世1) (幕末期の借財)

しかし、藩はこの年上野寛永寺山門普請の上納金や、「異国船渡来海防」の経費がかさみ、とても支払える状態でなかった
通史編2(近世1) (異国船の領内来航)

異国船の領内来航 前述のとおり文化四~五年の対ロ緊張を契機に、天保年間にかけて津軽領内の海防体制は徐々,黒石藩の海防態勢をみると、黒石から二〇人ほどの藩士が平内領の田沢村(東津軽郡平内町東田沢)に派遣されるとともに
通史編2(近世1) (警備引き揚げとその背景)

高度な政治判断で蝦夷地直轄を続ける意義が薄れ、経営効率や採算の面からの消極論が強まってきた(菊池勇夫「海防,このことは寛政年間以来続いてきた幕府の海防への関心を薄めることにつながった。  
通史編2(近世1) (津軽人のみた開港場箱館)

海峡を隔てて開港場箱館と接するという状況となって、津軽領の人々が、海防の任に当たる機会のある武士はもちろんのこと
通史編2(近世1) (幕府の蝦夷地政策)

していた本多忠籌(ほんだただかず)の蝦夷地直轄化による開発論が次の松平信明(のぶはる)政権で採用され、海防
通史編2(近世1) (新編弘前市史 通史編2(近世1) 目次)

…………  445 第二節 対外危機と寛政改革 …………………………………………  494   一 海防問題
通史編2(近世1) (掲載図版・写真の典拠・所蔵一覧)

43 作成 表44 作成 表45 作成 表46 作成 表47 作成 表48 作成 表49 原剛『幕末海防史
資料編3(近世編2) (【解説】)

一方では、ロシアの南下をはじめとする対外危機が表面化し始める時期でもあり、海防や蝦夷地開発の問題など、
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