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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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資料編1(古代・中世編) (深浦1~74)

深浦1~74 深浦1 西深浦町深浦字浜町-円覚寺境内- 深浦2 西深浦町深浦字浜町-円覚寺境内-,深浦3 西深浦町深浦字浜町-円覚寺境内- 深浦4 西深浦町深浦字岡町-浄念寺墓地- 深浦5 西深浦町深浦字吾妻沢,-六所の森- 深浦6 西深浦町深浦字吾妻沢-六所の森- 深浦7 西深浦町深浦字吾妻沢-六所の森-,深浦32 西深浦町関字栃沢-甕杉下- 深浦33 西深浦町関字栃沢-甕杉下- 深浦34 西深浦町関字栃沢,- 深浦40 西深浦町関字栃沢-甕杉下- 深浦41 西深浦町関字栃沢-甕杉下- 深浦42 西深浦町関字栃沢 / 深浦1~74
資料編2(近世編1) (『深山惣次』五巻)

『深山惣次』五巻 著作年代が確定できないが、書名と内容からして川原平流謫中に著されたものと推定できる,「深山」とは西目屋川原平の深山幽谷の地を指し、「惣次」は「荘子」のもじりである。,彼は「世界の事が馬鹿らしい」と見て唐を去って日本に渡り、肥前松浦の「和藤内」の世話で女房をもらい一子をもうけた,最晩年の乳井は格段に深まった次元において老荘の思想に邂逅したかに見える。   / 『深山惣次』五巻
通史編1(自然・原始) (深海に堆積してできた地層)

深海に堆積してできた地層 この時代は、前の時代よりさらに海に広く覆われていた。,日本海が誕生後に急激に深くなった時期で、日本はすでに火山を伴った複数の島列にはなっていたが、現在の本州,このころ、もちろん奥羽山脈はまだ山地の形態をなしておらず、むしろ海域の中でも南北に延びた深い谷状の深海,弘前市を含めた青森県の大部分もこの海に覆われており、深い海底には泥が厚く堆積していた。,深浦町扇田沢の大童子層からは、ヒゲクジラ亜目ナガスクジラ科に属すると考えられる下顎骨の一部がみつかっている / 深海に堆積してできた地層
資料編1(古代・中世編) ([付図])

[付図] 石川城縄張り推定復元図   乳井茶臼館縄張り推定復元図   大浦城縄張り推定復元図,藤崎町藤崎字村元 摂取院境内 5 藤崎町藤崎字西若松 (藤崎町教育委員会保管) 6 藤崎町藤崎字唐糸 唐糸の碑 深浦,1~3 深浦町深浦字浜町 円覚寺境内 4 深浦町深浦字岡町 浄念寺墓地 5~7 深浦町深浦字吾妻沢,六所の森 8・9 深浦町風合瀬字汐干浜 弁天堂の御神体 10~31 深浦町北金ヶ沢字塩見形 薬師堂境内,32~73 深浦町関字栃沢 甕杉下 74 深浦町関字栃沢 (深浦町歴史資料館保管) 鰺ヶ沢 1・2
通史編2(近世1) (本村と新田)

ついで開発の史料としては、元和六年(一六二〇)十一月十八日に二代藩主信枚が北村久左衛門に「深浦町派(立,「深浦町」は現西津軽郡深浦町深浦のことであるが、深浦村がこの時派立されたとは考えにくく、町場形成がなされたものか,古くから深浦は日本海に面した湊町であり、深浦町浜町の真言宗醍醐派円覚寺(えんかくじ)には、至徳二年(一三八五,『津軽郡中名字』にも「吹浦(フカウラ) 近代深浦ト書ク」とみえており、深浦が古くから湊として存在していたことを,ちなみに「津軽知行高之帳」では、深浦村は鼻和郡に高三九一・九八石の村としてある。  
通史編1(古代・中世) (有間浜の所在)

ただ有間浜については、話の展開などから考えて、齶田浦からある程度北上した、おそらく西津軽郡深浦(ふかうら,西海岸には比羅夫来航伝説とも関わる日和山が、深浦(写真32)にも鯵ヶ沢(写真33)にもある。,音の類似からいうと深浦町の吾妻(あづま)の浜(写真34)も有力な比定地の一つである。,写真32 深浦町・日和山 写真33 鯵ヶ沢町・日和山 写真34 深浦町・吾妻浜,史料九一五)の伝える中世の北津軽の郡名とされる江流末(えるま)郡の音に近いことから、岩木川河口の北津軽郡市浦村
通史編2(近世1) (海防報告書にみる天保期の海防体制)

浦 1 1 7 深浦大筒台場 3 2 金井ヶ沢村浦番所,大間越・深浦・鰺ヶ沢・十三・今別(現東津軽郡今別町)・蟹田・青森・野内(現青森市野内)といった領内の主要地,浦 10 10 深浦台場 1 2 金井ヶ沢村台塲 1 2 鯵ヶ沢 10 25,大筒台場は、大間越・深浦・金井ヶ沢・鰺ヶ沢・十三・小泊七ツ石崎・龍浜崎・袰月浦鷹野崎・蟹田・青森の各所,さらに、異国船の監視に当たる遠見番所が、月屋村(つきやむら)(現西津軽郡深浦町)・長浜(ながはま)(現西津軽郡木造町
通史編2(近世1) (領内海防と台場の構築)

馬廻組頭(表書院大番頭)西館宇膳(にしだてうぜん)を士大将とする一手五五人を派遣し、また三厩・鰺ヶ沢・深浦,さらに、翌年にかけて大間越(おおまごし)浦(現西津軽郡岩崎村大間越)・深浦(現同郡深浦町深浦)・金井ヶ,沢(かねがさわ)(現同町北金ヶ沢)・鯵ヶ沢浦(現同郡鰺ヶ沢町)・十三浦(現北津軽郡市浦村十三)・蟹田(,十 三 3 鰺ケ沢 1 3 1 金ケ沢 3 2 深 ,浦 1 3 大間越 3 計 1 1 1 6 38 3 2 3 7 9
通史編2(近世1) (一 青森開港と初期海運)

近世初期の段階では、敦賀の廻船商人で徳川家康との関係が深かった田中清六(せいろく)正長らが新たに日本海海運,それに基づいて、二代目の田中九兵衛も津軽へ進出し、深浦・鰺ヶ沢・十三の各湊へ入津している(和泉清司「近世,津軽弘前藩では、これら津軽領内の物資交易のため、従来の十三湊のほか近世初期に青森・鰺ヶ沢・深浦等の湊も
通史編5(近・現代2) (弘西林道の開通)

弘西林道の開通 昭和四十八年(一九七三)、弘前市と西津軽郡岩崎村(現深浦町)を結ぶ弘西林道(現県道岩崎西目屋弘前線,、弘前大学等の関係者による予定路線の現地調査の実施、昭和三十四年に弘前市、中津軽郡西目屋村、西津軽郡深浦町
通史編1(自然・原始) (積雪)

黒石八五センチメートル、碇ヶ関八八センチメートル、今別七五センチメートル、鰺ヶ沢七二センチメートル、深浦四二,表18 最深積雪・降雪量と根雪期間 観測地点 最深積雪 年平均値 cm 年間降雪 量平年値 cm,浦 42 192 12/24 3/10 77 91 1984/2/13 12 1948/11/19 36,東北地方の積雪と降雪(仙台管区気象台より)  地域分布でみると西海岸の深浦四二センチメートルを除き、,細かくみると海岸では十日くらい短く、特に深浦では約八〇日と最短期間になっている。
資料編1(古代・中世編) (協力者及び協力機関一覧(敬称略))

(青森県) 岩手県立図書館(岩手県盛岡市) 岩手大学附属図書館(岩手県盛岡市) 円覚寺(青森県深浦町,) 鶴岡市郷土資料館(山形県鶴岡市) 東京国立博物館(東京都台東区) 那智大社(和歌山県那智勝浦町,) 八戸市立図書館(青森県八戸市) 平賀本土寺(千葉県松戸市) 平賀町教育委員会(青森県) 深浦町教育委員会,(青森県) 深浦町歴史民俗資料館(青森県) 藤崎町教育委員会(青森県) 藤島神社(福井県福井市)
通史編4(近・現代1) (出生の真実と仏苗学園)

平次郎は明治初年市浦村十三(現五所川原市)に仕事に行き、そのまま村の宿屋の婿となった。,しかし、四年後妻が病死し、平次郎は愛蔵を置いて仕事の多い深浦へ出た。,平次郎は深浦で千崎家の養子となり、一家を構えた。,そこで愛蔵は湊迎寺から父のもとにやってきたが、父は養家や妻の心を思いやって、今度は愛蔵を深浦の曹洞宗宝泉寺,後年、如幻を慕って渡米し、経済的に援助した弘前市の写真家宮本保作や十三村長加福善蔵などは深浦仏苗学園の
通史編2(近世1) (民兵の登場)

藩では海岸を持つ油川両組(油川・後潟組)・浦町両組(浦町・横内組)・金木両組(金木組・金木新田)・広須両組,(広須・木造新田)・赤石組の各代官、および九浦のうち碇ヶ関を除く八浦(野内・青森・蟹田・今別・十三・鰺,ヶ沢・深浦・大間越)の各町奉行へ民兵の編成を通達し、翌年二月までに、海岸の村々で約一〇〇〇人、八浦で約二,図200.海岸村々并八浦民兵一件 目録を見る 精細画像で見る  一方、八浦では、青森が火消組を,深浦では一組二五人、一〇組編成とし、二五〇人余の動員が見込まれ、伏兵となって戦う計画を立案した。
通史編3(近世2) (人家の火災)

同年三月十八日の関(せき)村(現西津軽郡深浦町)二七軒焼失、同二十七日木作(きづくり)・上(かみ)木作村,(現西津軽郡木造村)九六軒、同二十八日舞戸(まいと)村・田浦(たうら)村(両村ともに現西津軽郡鰺ヶ沢町,)九七軒、四月十四日深浦町(現西津軽郡深浦町)四五~六軒の焼失があった(前掲『津軽史事典』)。, 〃 3月2日 田浦村33軒焼失。 ※文政5年の作柄は不明。
通史編2(近世1) (近世初期海運)

近世初期海運 さて西津軽郡深浦町の圓覚寺(えんかくじ)(真言宗醍醐派(しんごんしゅうだいごは))は、,江戸時代までは深浦の澗口観音(まのくちかんのん)として船乗りの厚い信仰を集めた観音堂であった。,深浦澗(ふかうらま)は避難港としてよく利用された湊であった。
通史編3(近世2) (振舞)

十二月三日条にみえ、運送方(うんそうがた)の者たち(農村の者のほかに弘前・青森・鰺ヶ沢(あじがさわ)・深浦,(ふかうら)・十三(とさ)〈現北津軽郡市浦村(しうらむら)〉の町人の名前がみえ(合計二七六人)へ、藩から
通史編1(自然・原始) (県内の月別降水量)

年間降水量は、青森一三〇〇ミリ、弘前一一〇〇ミリ、深浦一四〇〇ミリ台である。,弘前 104 89 79 61 61 73 114 129 119 95 100 113 1138 深浦,深浦では七月から九月にかけて多く、前線の停滞によるものと台風の影響が大きい。,また、月降水量の七〇ミリ以下の極小月をみると、黒石一月~五月、鰺ヶ沢・市浦二月・三月、深浦二月、蟹田三月
通史編2(近世1) (青森以外の町の騒動)

同じ西浜の深浦では天明三年七月三十日に蔵米を津出しようとした問屋、三国屋助左衛門・秋田屋惣左衛門が打ちこわしを,深浦町奉行は八月になり、首謀者とされる町人八人を逮捕する一方、能代から米を買い付けて一軒につき米一俵を,なお、領内「四浦」の一つである十三では打ちこわしは発生しなかったものの、青森騒動に先立つ七月十五日に、
通史編5(近・現代2) (景気回復後の弘前市の商業)

能代,大館,鷹巣 60% 化粧品 A 弘前市内,北郡,五能線沿線   薬品 A 市内個人,官公立病院,深浦,猿賀   C 市内各病院,南郡,北郡,市周辺   陶器 A 黒石,大鰐,浪岡,七和,鶴田,金木,車力,深浦,秋田県北郡,鷹巣,尾上,碇ヶ関   B 市周辺,黒石,浪岡,青森,鰺ヶ沢,五所川原,木造,板柳,大浦,,,鰺ヶ沢,五所川原,陣場,鷹巣,大館   理髪美容具品 A 他県には殆どでない,県内では青森,金木,深浦
通史編3(近世2) (公娼と私娼)

については、寛文十二年(一六七二)に「十三小廻(とさこまわ)し」体制(十三湊(とさみなと)〈現北津軽郡市浦村,そのほかに深浦(ふかうら)(現西津軽郡深浦町)は、「諸国遊所見立角力并ニ直段附」によれば、青森・鰺ヶ沢,したがって深浦も公娼が認められた地域であるが、関係史料がなくほとんど実態は不明である。  
通史編3(近世2) (藩政前期為信)

文禄三年(一五九四)居城を大浦(おおうら)より堀越(ほりこし)へ移し、城下町の形成に着手し、寺社をその,寺社の縁起によると、津軽氏の先祖大浦氏より菩提寺としていた長勝寺(ちょうしょうじ)を種里から、法立寺は,大浦城下賀田(よした)から、安盛寺(あんせいじ)は深浦から移転させた。,図188.神明宮棟札  天正十四年(一五八六)に為信は深沙宮(じんじゃぐう)(現猿賀神社、南津軽郡尾上町,、為信は統一に当たって寺院勢力を利用して敵を攻略し、古くからこの地方の信仰を集めていた旧勢力でもある深沙宮
資料編1(考古編) (50.西股山層Ⅰ)(にしまたやまそう))

50.西股山層Ⅰ)(にしまたやまそう) 箕浦(1989)の命名による。模式地は、弘前市西股山。,西股山周辺から北方の毛無山にかけて、大和沢川及び深山沢の各上流部に分布する。
資料編1(考古編) (62.三ツ目内川層Ⅰ)(みつめないがわそう))

62.三ツ目内川層Ⅰ)(みつめないがわそう) 箕浦(1989)の命名による。,深山沢の上流及び大和沢の上流域に分布する。
資料編1(古代・中世編) (二 青森県の板碑分布)

第二の分布地帯は西海岸地方で、深浦町から鯵ヶ沢町・市浦村にかけてである。,多数の板碑が存在する地点は大鰐町三ッ目内、弘前市乳井、弘前市国吉、弘前市中別所、深浦町関、深浦町北金ヶ,種子に「バン」を刻む(『陸奥古碑集』所載)  浅瀬石城の存在は、大浦(津軽)為信の統一の時点に焦点,日照田には大きな館跡があり、板碑はこの館と関係が深いと推測することもできる。  
資料編2(近世編1) ([付図])

弘前市立図書館蔵「津軽家文書」)   五、奥州十三之図・慶安元年(市立函館図書館蔵)   六、奥州深浦之図
通史編1(古代・中世) (二 北奥宗教界を彩る中世的寺社)

「弘前近隣における古代・中世の寺社」は、前項一でみた『津軽一統志』のなかの、主要寺社から、弘前と深いかかわりを,長勝寺 曹洞宗 金沢宗徳寺 大永六 (一五二六) 大浦盛信 種里 (鯵ケ沢町) 西茂森 大浦盛信,安盛寺 同右 耕春院 慶長以前 深浦村 (深浦町) 同右 慶長年間、現在地に移転。,延暦年中(七八二~八〇六) 猿賀神宮寺 尾上町 (もと猿賀村) 天台宗 猿賀神社の別当、もと深沙大権現,、多少の史料をも伝えるまったく稀有(けう)な存在で、そして執権時頼の開基と伝えるように、中央権力との深い
資料編1(古代・中世編) (七 板碑の発見と保護の状況)

西津軽郡深浦町風合瀬(晴山) 二基  西津軽郡深浦町関    一基  西津軽郡鯵ヶ沢町舞戸町 一基,先に述べたように、中別所の源光氏の板碑は国の重要美術品に指定されており、深浦町関の板碑群は県の史跡に指定
通史編5(近・現代2) (鉄道敷設の請願)

さらに昭和十七年にはこの予定線を五能線岩崎駅もしくは深浦駅に延長する日本海貫通鉄道の敷設が申請された(,その理由としては、岩崎および深浦が朝鮮・満洲ならびにウラジオストクに最短航路の軍事上重要な港であり、またその
通史編1(自然・原始) (駒木浮石流凝灰岩)

図19に示したが、井戸沢や沖浦など浅瀬石川流域においても、火砕流堆積物が丘陵前縁にあって、基盤に張りつくように,この堆積物はダム湖南端に流れ込む深沢でも認められ、標高約二五〇メートルあり、異質礫の混入もなく均質な塊状,これはV字状の深沢を埋積するように逆流し、比重の軽い軽石粒が集中したからと判断される。,沖浦での軽石質砂岩と深沢での軽石質凝灰岩から採取した炭化物の年代測定では、前者が約三万年前、後者が約二万五,写真32 浅瀬石川ダム湖岸に分布する沖浦軽石質砂岩  浅瀬石川支流の中野川においても火砕流堆積物
通史編1(自然・原始) (津軽地域の気温と特徴)

津軽地域の青森・深浦・弘前および太平洋側の八戸・むつのアメダス観測点相互の月別気温の比較から、同じ津軽地域内,1.4 8.1 13.5 17.7 20.9 23.3 18.2 11.8 5.7 0.9 9.8 深浦,(ハ)深浦地点の年平均気温は、青森・弘前地点より〇・五~〇・六℃高い。
通史編1(古代・中世) (北の認識)

この点から見て興味深いのが、津軽安藤氏関係の史料群である。,秋田家系図』(史料一一五三)冒頭の、著名な安藤氏の始祖説話のなかで、安日王が流されたのは津軽・外浜・安東浦を,現在も使用される「東奥」「北奥」という用語とも関わって興味深い。
通史編1(古代・中世) (得宗領の分割)

によって、とくに津軽側を中心に当時のようすが比較的詳細に明らかにされており、また中央政治に関わる興味深い,北条時頼袖判盛阿奉書  『吾妻鏡』には、泰時の最晩年のこととして、若宮大路下馬橋付近で起きた三浦一族,と小山一党との喧嘩に際して、中立を守った時頼が泰時にほめられ、三浦方についた経時がしかられたという逸話
通史編3(近世2) (海底塗と唐塗を結ぶ磯草塗)

松浦三十郎は、これから暗示を得て菊塵塗を創造した。若狭塗の元祖である。,松浦氏は絶えてしまい、同じ塗り技法を行う西脇氏など数軒が城下において若狭塗を職業としている。,若狭塗の元祖松浦三十郎が最後に記録されたのは、『拾椎雑話』の元文二年(一七三七)であり、宝暦七年(一七五七,このことから、津軽において享保五年(一七二〇)ころから盛んに作られた唐塗の文様とは海底塗の技法と関係深い,された『塗物伝書』(佐藤武司『日本農書全集』五三 一九九八年 農村漁村文化協会刊)の中の唐塗仕様と関連深い
資料編1(古代・中世編) ([十六世紀])

●永正二年(一五〇五)十二月十七日、葛西頼清、深浦円覚寺本堂を建立する。,●永正三年(一五〇六)四月十七日、葛西頼清、深浦円覚寺薬師堂(か)を建立す。,●永正十五年(一五一八)九月十一日、深浦円覚寺の堂宇建立、供養行われる。,●天文十五年(一五四六)、深浦森山館主飛驒守季定、下国安東尋季・舜季父子に滅ぼされるという。,下国安東愛季、「深浦口逆意之方」を成敗したことを仙北六郷氏に告げる。
資料編1(古代・中世編) (四 城館の構造)

図20 大浦城縄張り推定復元図  大浦城の大手虎口は、百沢街道が東から西へと直進し、城に突き当たった,堀h2の幅は一三・五メートル、深さは現状で一メートルほど。曲輪Iの全体の形はほぼ方形である。  ,堀h4の幅は六・八メートル、深さは現状で〇・七メートルである。  曲輪Ⅳの南側にも虎口Gがあった。,以上のように、最終段階の大浦城は六つの曲輪から構成されていた。,図21 大浦城跡の現状写真と模式図 図22 大浦城跡の現状写真と模式図
通史編1(古代・中世) (協力機関および協力者一覧(機関・個人順、五十音順))

財団法人 石川県埋蔵文化財センター 石巻文化センター 岩手大学附属図書館 円覚寺(西津軽郡深浦町,宮内庁書陵部 国見町教育委員会 熊野奥照神社(弘前市) 熊野那智大社(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町,五所川原市教育委員会 小泊村企画観光商工課 西光寺(弘前市) 猿賀神社(南津軽郡尾上町) 市浦村教育委員会,築館町教育委員会 鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市) 貞昌寺(弘前市) 土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアム(山口県豊浦郡豊北町
資料編1(古代・中世編) (一 東目屋地区の中世城館と領主の歴史)

このうち、①②は東目屋地区、③④は西目屋地区の大字名を名字としており、⑫の関惣右衛門は「城代」として、深浦町,さらに『封内事実秘苑』では、彼らのうち桜庭・黒土・蒔苗・大秋・中畑の五人が、大浦為信の津軽統一作戦において,第三節大浦城跡の項で述べたように、岩木山麓から目屋地区にかけての地域は、西浜と津軽平野を結ぶ戦略的要地,そして戦国時代末期、大浦為信が南部氏からの独立を目指して行動を始めると、彼ら中小の領主(土豪)たちは、,主君為信直属の軍事力を構成し、大浦氏直属軍団の有力メンバーとして活躍したことがうかがえる。
通史編1(古代・中世) (戦国時代の都市(城下町)発生)

ちつつ、政治的、経済的、文化的活動を営む場」、あるいは「農業以外の産業に基盤を置く人と社会が、自然との深い,当市域の中世都市の発生をみると、やはり領主(大浦氏)の政策的な考えの中で意図的に城下町(都市)が作られていったということができる,大浦(津軽)氏が津軽領域の掌握に向け、拠点として居城した城跡を中心として、城と町、城と城下町ということについてみていくことにする
通史編1(自然・原始) (位置と地勢)

9,616.8km2 東端点 三戸郡階上町大字道仏字小舟渡 東 経 141度41分 西端点 西津軽郡深浦町大字深浦字久六
通史編5(近・現代2) (ねぷた)

青森市、深浦町の笛の旋律と異なる独自性を主張している。行き、休み、戻りの三種がある。
通史編1(古代・中世) (東目屋地域に見られる城館跡)

東目屋地域に見られる城館跡 大浦城跡から西側に当たる岩木山麓から目屋地区にかけての地域は、西浜と津軽平野,戦国時代末期に大浦為信が南部氏からの独立を目指して行動を起こすと、東目屋地域の土豪(中小領主)たちは、,為信直属の軍事力を構成し、大浦氏直属軍団の有力構成員として活躍したことがうかがえる。  ,関惣右衛門は「城代」として、深浦町の関(折曽の関)と東目屋の国吉(くによし)に居館を持っていたと伝えられている,そして、国吉館といった大浦氏の重臣居館であっても、さらにその居館を中心としたネットワークが存在していたであろうことも
通史編1(自然・原始) (海底火山の崩壊)

相馬安山岩類をはじめとして、深浦町艫作(へなし)崎付近に広く分布する凝灰角礫岩や、深浦町不老不死温泉の
通史編1(自然・原始) (気象施設と観測資料)

県内では、青森地方気象台(統計開始年一八八六)、むつ測候所(同一九三四)、八戸測候所(同一九三六)、深浦測候所,積雪地帯には、降雪・積雪の深さを測る有線ロボット積雪深計の設置個所がある。
通史編5(近・現代2) (弘前スキー倶楽部誕生と歴史)

くの選手が冬季オリンピックなどの国際舞台で活躍をしていることを考えれば、この倶楽部の誕生はまことに意義深いものと,外崎日出城、其他会員三十余名にして、油川大尉開会の旨を宣し、神英造氏本会創立の経過を報告したる後、三浦一三氏及
通史編2(近世1) (異国船打払令の発令と津軽弘前藩)

これは、全国いずれの浦方においても、異国船が接近した場合には、有無に及ばず打ち払い、異国人が上陸した場合,はからめ取るのも討ち取ってもよく、また実状に合わせて「浦々備手立」を存分に命じるように命じたものであった,を示した国日記記事 目録を見る 精細画像で見る  まず、海岸の防備は、この時期までに大間越・深浦,また、触書の趣旨の周知徹底については、三厩派遣の兵員・浦々の町奉行・湊目付にその心得方を申し渡すよう、,立て札を作らせ、設置については八浦がそれぞれの町奉行、金井ヶ沢・小泊・平舘・油川については郡奉行が責任
通史編4(近・現代1) (アメリカに伝える禅の心)

ともかく明治三十九年(一九〇六)から大正十二年(一九二三)までの一七年間、如幻はアメリカ社会に深く沈潜,この苦闘する如幻を陰ながら支えたのは、深浦の教え子・宮本保作だった。如幻は金銭感覚は無に近かった。,宮本は、深浦小学校時代の恩師で弘前出身の笹森嘉吉が日本郵船の事務長だった縁で渡米し、ポートランドでカメラ,しかし、深く如幻に接し、如幻から信頼され、如幻の著『アメリカ人の仏教』を訳した徳沢龍譚は、如幻は春風駘蕩,湊迎寺や深浦で、知り合いや仏苗学園の教え子に山ほどの短冊にせっせと句を書いて渡した。
資料編1(考古編) (第5節 温泉)

この地下深度に応じた温度変化を、地下増温率(地温勾配とも呼ばれる)という。,例えば、シルト層より礫層が深部より浅部に分布する地層が良好な帯水層と言える。,弘前市大字三和字下恋塚189-4 860 200~100 68.0 0 218 3 大森温泉 田浦温泉,弘前市大字大森字田浦85-1 900 150~100 49.0 0 220 4 鬼沢温泉 貝沢温泉,987-1 700 150~100 51.0 0 130 9 石渡温泉 石渡温泉 弘前市大字石渡字田浦45
通史編3(近世2) (施行小屋の設置と犯罪防止)

死亡三万五六一六人、他散四万七〇四三人、斃馬・失馬共一万九〇八九匹、廃田九四八四町といわれ、長年にわたりかつ深刻,衣服が薄着のため凍死しないようにと、布子(ぬのこ)(木綿の綿入れ)などを藩の御蔵および城下・農村・九浦(,深浦・鰺ヶ沢・十三(とさ)・青森・蟹田・今別(いまべつ)の六湊と碇ヶ関・大間越(おおまごし)・野内(のない
通史編1(古代・中世) (一六世紀の湊)

また日本海域では十三湊に代わって、鰺ヶ沢町の種里(たねさと)城を中心とした地域や深浦町の元城(もとしろ,)などがその拠点として想定され、のちの鰺ヶ沢湊や深浦湊に連続するものと考えられる。
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