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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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資料編1(古代・中世編)
(深浦1~74)
深浦
1~74
深浦
1 西
深浦
町
深浦
字浜町-円覚寺境内-
深浦
2 西
深浦
町
深浦
字浜町-円覚寺境内-,
深浦
3 西
深浦
町
深浦
字浜町-円覚寺境内-
深浦
4 西
深浦
町
深浦
字岡町-浄念寺墓地-
深浦
5 西
深浦
町
深浦
字吾妻沢,-六所の森-
深浦
6 西
深浦
町
深浦
字吾妻沢-六所の森-
深浦
7 西
深浦
町
深浦
字吾妻沢-六所の森-,
深浦
32 西
深浦
町関字栃沢-甕杉下-
深浦
33 西
深浦
町関字栃沢-甕杉下-
深浦
34 西
深浦
町関字栃沢,-
深浦
40 西
深浦
町関字栃沢-甕杉下-
深浦
41 西
深浦
町関字栃沢-甕杉下-
深浦
42 西
深浦
町関字栃沢 /
深浦
1~74
資料編1(古代・中世編)
([付図])
藤崎町藤崎字村元 摂取院境内 5 藤崎町藤崎字西若松 (藤崎町教育委員会保管) 6 藤崎町藤崎字唐糸 唐糸の碑
深浦
,1~3
深浦
町
深浦
字浜町 円覚寺境内 4
深浦
町
深浦
字岡町 浄念寺墓地 5~7
深浦
町
深浦
字吾妻沢,六所の森 8・9
深浦
町風合瀬字汐干浜 弁天堂の御神体 10~31
深浦
町北金ヶ沢字塩見形 薬師堂境内,32~73
深浦
町関字栃沢 甕杉下 74
深浦
町関字栃沢 (
深浦
町歴史資料館保管) 鰺ヶ沢 1・2
通史編2(近世1)
(本村と新田)
ついで開発の史料としては、元和六年(一六二〇)十一月十八日に二代藩主信枚が北村久左衛門に「
深浦
町派(立,「
深浦
町」は現西津軽郡
深浦
町
深浦
のことであるが、
深浦
村がこの時派立されたとは考えにくく、町場形成がなされたものか,古くから
深浦
は日本海に面した湊町であり、
深浦
町浜町の真言宗醍醐派円覚寺(えんかくじ)には、至徳二年(一三八五,『津軽郡中名字』にも「吹浦(フカウラ) 近代
深浦
ト書ク」とみえており、
深浦
が古くから湊として存在していたことを,ちなみに「津軽知行高之帳」では、
深浦
村は鼻和郡に高三九一・九八石の村としてある。
通史編1(古代・中世)
(有間浜の所在)
ただ有間浜については、話の展開などから考えて、齶田浦からある程度北上した、おそらく西津軽郡
深浦
(ふかうら,西海岸には比羅夫来航伝説とも関わる日和山が、
深浦
(写真32)にも鯵ヶ沢(写真33)にもある。,音の類似からいうと
深浦
町の吾妻(あづま)の浜(写真34)も有力な比定地の一つである。,写真32
深浦
町・日和山 写真33 鯵ヶ沢町・日和山 写真34
深浦
町・吾妻浜
通史編5(近・現代2)
(弘西林道の開通)
弘西林道の開通 昭和四十八年(一九七三)、弘前市と西津軽郡岩崎村(現
深浦
町)を結ぶ弘西林道(現県道岩崎西目屋弘前線,、弘前大学等の関係者による予定路線の現地調査の実施、昭和三十四年に弘前市、中津軽郡西目屋村、西津軽郡
深浦
町
資料編1(古代・中世編)
(協力者及び協力機関一覧(敬称略))
(青森県) 岩手県立図書館(岩手県盛岡市) 岩手大学附属図書館(岩手県盛岡市) 円覚寺(青森県
深浦
町,) 八戸市立図書館(青森県八戸市) 平賀本土寺(千葉県松戸市) 平賀町教育委員会(青森県)
深浦
町教育委員会,(青森県)
深浦
町歴史民俗資料館(青森県) 藤崎町教育委員会(青森県) 藤島神社(福井県福井市)
通史編2(近世1)
(一 青森開港と初期海運)
それに基づいて、二代目の田中九兵衛も津軽へ進出し、
深浦
・鰺ヶ沢・十三の各湊へ入津している(和泉清司「近世,津軽弘前藩では、これら津軽領内の物資交易のため、従来の十三湊のほか近世初期に青森・鰺ヶ沢・
深浦
等の湊も
通史編4(近・現代1)
(出生の真実と仏苗学園)
しかし、四年後妻が病死し、平次郎は愛蔵を置いて仕事の多い
深浦
へ出た。,平次郎は
深浦
で千崎家の養子となり、一家を構えた。,そこで愛蔵は湊迎寺から父のもとにやってきたが、父は養家や妻の心を思いやって、今度は愛蔵を
深浦
の曹洞宗宝泉寺,後年、如幻を慕って渡米し、経済的に援助した弘前市の写真家宮本保作や十三村長加福善蔵などは
深浦
仏苗学園の
通史編2(近世1)
(近世初期海運)
近世初期海運 さて西津軽郡
深浦
町の圓覚寺(えんかくじ)(真言宗醍醐派(しんごんしゅうだいごは))は、,江戸時代までは
深浦
の澗口観音(まのくちかんのん)として船乗りの厚い信仰を集めた観音堂であった。,
深浦
澗(ふかうらま)は避難港としてよく利用された湊であった。
通史編1(自然・原始)
(県内の月別降水量)
年間降水量は、青森一三〇〇ミリ、弘前一一〇〇ミリ、
深浦
一四〇〇ミリ台である。,弘前 104 89 79 61 61 73 114 129 119 95 100 113 1138
深浦
,
深浦
では七月から九月にかけて多く、前線の停滞によるものと台風の影響が大きい。,また、月降水量の七〇ミリ以下の極小月をみると、黒石一月~五月、鰺ヶ沢・市浦二月・三月、
深浦
二月、蟹田三月
資料編2(近世編1)
([付図])
弘前市立図書館蔵「津軽家文書」) 五、奥州十三之図・慶安元年(市立函館図書館蔵) 六、奥州
深浦
之図
通史編5(近・現代2)
(景気回復後の弘前市の商業)
能代,大館,鷹巣 60% 化粧品 A 弘前市内,北郡,五能線沿線 薬品 A 市内個人,官公立病院,
深浦
,猿賀 C 市内各病院,南郡,北郡,市周辺 陶器 A 黒石,大鰐,浪岡,七和,鶴田,金木,車力,
深浦
,,鰺ヶ沢,五所川原,陣場,鷹巣,大館 理髪美容具品 A 他県には殆どでない,県内では青森,金木,
深浦
通史編3(近世2)
(公娼と私娼)
そのほかに
深浦
(ふかうら)(現西津軽郡
深浦
町)は、「諸国遊所見立角力并ニ直段附」によれば、青森・鰺ヶ沢,したがって
深浦
も公娼が認められた地域であるが、関係史料がなくほとんど実態は不明である。
通史編3(近世2)
(人家の火災)
同年三月十八日の関(せき)村(現西津軽郡
深浦
町)二七軒焼失、同二十七日木作(きづくり)・上(かみ)木作村,九六軒、同二十八日舞戸(まいと)村・田浦(たうら)村(両村ともに現西津軽郡鰺ヶ沢町)九七軒、四月十四日
深浦
町,(現西津軽郡
深浦
町)四五~六軒の焼失があった(前掲『津軽史事典』)。
資料編1(古代・中世編)
(七 板碑の発見と保護の状況)
西津軽郡
深浦
町風合瀬(晴山) 二基 西津軽郡
深浦
町関 一基 西津軽郡鯵ヶ沢町舞戸町 一基,先に述べたように、中別所の源光氏の板碑は国の重要美術品に指定されており、
深浦
町関の板碑群は県の史跡に指定
通史編5(近・現代2)
(鉄道敷設の請願)
さらに昭和十七年にはこの予定線を五能線岩崎駅もしくは
深浦
駅に延長する日本海貫通鉄道の敷設が申請された(,その理由としては、岩崎および
深浦
が朝鮮・満洲ならびにウラジオストクに最短航路の軍事上重要な港であり、またその
通史編2(近世1)
(青森以外の町の騒動)
同じ西浜の
深浦
では天明三年七月三十日に蔵米を津出しようとした問屋、三国屋助左衛門・秋田屋惣左衛門が打ちこわしを,
深浦
町奉行は八月になり、首謀者とされる町人八人を逮捕する一方、能代から米を買い付けて一軒につき米一俵を
通史編2(近世1)
(領内海防と台場の構築)
馬廻組頭(表書院大番頭)西館宇膳(にしだてうぜん)を士大将とする一手五五人を派遣し、また三厩・鰺ヶ沢・
深浦
,さらに、翌年にかけて大間越(おおまごし)浦(現西津軽郡岩崎村大間越)・
深浦
(現同郡
深浦
町
深浦
)・金井ヶ
通史編1(自然・原始)
(津軽地域の気温と特徴)
津軽地域の青森・
深浦
・弘前および太平洋側の八戸・むつのアメダス観測点相互の月別気温の比較から、同じ津軽地域内,1.4 8.1 13.5 17.7 20.9 23.3 18.2 11.8 5.7 0.9 9.8
深浦
,(ハ)
深浦
地点の年平均気温は、青森・弘前地点より〇・五~〇・六℃高い。
通史編3(近世2)
(振舞)
十二月三日条にみえ、運送方(うんそうがた)の者たち(農村の者のほかに弘前・青森・鰺ヶ沢(あじがさわ)・
深浦
通史編1(自然・原始)
(位置と地勢)
9,616.8km2 東端点 三戸郡階上町大字道仏字小舟渡 東 経 141度41分 西端点 西津軽郡
深浦
町大字
深浦
字久六
通史編5(近・現代2)
(ねぷた)
青森市、
深浦
町の笛の旋律と異なる独自性を主張している。行き、休み、戻りの三種がある。
通史編1(自然・原始)
(海底火山の崩壊)
相馬安山岩類をはじめとして、
深浦
町艫作(へなし)崎付近に広く分布する凝灰角礫岩や、
深浦
町不老不死温泉の
通史編2(近世1)
(海防報告書にみる天保期の海防体制)
2 月屋村遠見番所 2 深 浦 1 1 7
深浦
大筒台場,大間越・
深浦
・鰺ヶ沢・十三・今別(現東津軽郡今別町)・蟹田・青森・野内(現青森市野内)といった領内の主要地,挺) 大筒 (挺) 大間越 20 15 大間越台場 1 2 深 浦 10 10
深浦
台場,大筒台場は、大間越・
深浦
・金井ヶ沢・鰺ヶ沢・十三・小泊七ツ石崎・龍浜崎・袰月浦鷹野崎・蟹田・青森の各所,さらに、異国船の監視に当たる遠見番所が、月屋村(つきやむら)(現西津軽郡
深浦
町)・長浜(ながはま)(現西津軽郡木造町
資料編1(古代・中世編)
(二 青森県の板碑分布)
第二の分布地帯は西海岸地方で、
深浦
町から鯵ヶ沢町・市浦村にかけてである。,多数の板碑が存在する地点は大鰐町三ッ目内、弘前市乳井、弘前市国吉、弘前市中別所、
深浦
町関、
深浦
町北金ヶ
通史編2(近世1)
(民兵の登場)
木造新田)・赤石組の各代官、および九浦のうち碇ヶ関を除く八浦(野内・青森・蟹田・今別・十三・鰺ヶ沢・
深浦
,
深浦
では一組二五人、一〇組編成とし、二五〇人余の動員が見込まれ、伏兵となって戦う計画を立案した。
通史編1(古代・中世)
(一六世紀の湊)
また日本海域では十三湊に代わって、鰺ヶ沢町の種里(たねさと)城を中心とした地域や
深浦
町の元城(もとしろ,)などがその拠点として想定され、のちの鰺ヶ沢湊や
深浦
湊に連続するものと考えられる。
通史編1(古代・中世)
(下総葛西氏と津軽葛西氏)
がいくつかあるが、津軽の葛西氏についての確実な最古の史料は、永正二・三年(一五〇五・一五〇六)の年紀をもつ
深浦
町
通史編1(自然・原始)
(積雪)
黒石八五センチメートル、碇ヶ関八八センチメートル、今別七五センチメートル、鰺ヶ沢七二センチメートル、
深浦
四二,東北地方の積雪と降雪(仙台管区気象台より) 地域分布でみると西海岸の
深浦
四二センチメートルを除き、,細かくみると海岸では十日くらい短く、特に
深浦
では約八〇日と最短期間になっている。
通史編2(近世1)
(協力機関および協力者一覧(機関・個人順、五十音順))
五十音順) 青森県立郷土館 秋田市立佐竹史料館 安盛寺(青森県弘前市) 圓覚寺(青森県西津軽郡
深浦
町
通史編1(自然・原始)
(夏)
この時期における霧日数は、青森で一〇日、
深浦
で四日、太平洋側の八戸で二六日である。
通史編4(近・現代1)
(アメリカに伝える禅の心)
この苦闘する如幻を陰ながら支えたのは、
深浦
の教え子・宮本保作だった。如幻は金銭感覚は無に近かった。,宮本は、
深浦
小学校時代の恩師で弘前出身の笹森嘉吉が日本郵船の事務長だった縁で渡米し、ポートランドでカメラ,湊迎寺や
深浦
で、知り合いや仏苗学園の教え子に山ほどの短冊にせっせと句を書いて渡した。
通史編5(近・現代2)
(東京からの集団疎開児童)
疎開児童の第一次受け入れ市町村は、弘前市、板柳、金木、大鰐、清水、黒石、尾上、浪岡、藤崎、
深浦
などである
通史編4(近・現代1)
(学制の実施)
現長島小学校)、平内、黒石、木造、十三、五所川原、板柳 第一五中学区 白銀(現朝陽小学校)、和徳、鰺ヶ沢、
深浦
通史編1(自然・原始)
(真夏日・夏日・真冬日からみた地域特性)
(いかりがせき)一七日、五所川原(ごしょがわら)一一日、青森・黒石一〇日、鰺ヶ沢(あじがさわ)六日、
深浦
,真冬日出現日数は、青森二九日、弘前三一日、黒石三八日、鰺ヶ沢二八日、市浦二六日、
深浦
二九日、八戸二一日
通史編3(近世2)
(出開帳)
深浦
村(現西津軽郡
深浦
町)の修験大善院は、享保十七年(一七三二)、飛驒の匠(ひだのたくみ)作の薬師堂修復,のため、
深浦
澗口(まぐち)観音堂・鰺ヶ沢町・藤代村(現市内藤代)香覚院での開帳を願い出たが、このうち鰺
資料編1(古代・中世編)
(四 板碑の様式と石質)
深浦
町では、流紋岩を使用した板碑が見られ、町並みの裏手には同質の岩石層が露出している。
通史編3(近世2)
(神職の扱い)
明治二年(一八六九)社家隊は
深浦
、修験隊は赤石方面へ出陣し、同三年士族卒以外は兵隊禁止となり、解兵された
通史編3(近世2)
(子供を池に投げ殺害)
寺社奉行・町奉行・勘定奉行)が、三〇〇日の牢居の期間が終わってから一〇里四方追放・大場(おおば)(鰺ヶ沢・
深浦
通史編1(古代・中世)
(協力機関および協力者一覧(機関・個人順、五十音順))
財団法人 石川県埋蔵文化財センター 石巻文化センター 岩手大学附属図書館 円覚寺(西津軽郡
深浦
町
通史編5(近・現代2)
(青秋林道建設計画)
本県からは岩崎村(現
深浦
町)、鰺ヶ沢町、西目屋村の三町村長と議会正副議長、関係各常任委員長が出席した。
通史編1(自然・原始)
(気象施設と観測資料)
県内では、青森地方気象台(統計開始年一八八六)、むつ測候所(同一九三四)、八戸測候所(同一九三六)、
深浦
測候所
資料編1(古代・中世編)
(参考文献(第四章に関連する主要文献・論文-各節の文中で記述したものは除く))
鼻遺跡」(青森県埋蔵文化財調査報告書122集) (26)『大鰐町史』・『平賀町誌』・『岩木町誌』・『
深浦
町史
通史編2(近世1)
(災害の続発とその影響)
30日 水害 弘前城下など 岩木川の高水,橋の流失 正徳4(1714) 4月13日 火災
深浦
,軒焼失 閏 3月28日 火災 舞戸村(赤石組) 97軒焼失 4月14日 火災
深浦
,など 飢饉,領内,前年度の飢饉が年を越えて深刻化 宝暦元(1751) 6月14日 火災
深浦
通史編3(近世2)
(農兵の動員実態と要求)
この時に農兵は動員されたのであるが、明治元年十二月十六日の調べによると、実際に彼らが配置された場所は
深浦
資料編1(古代・中世編)
(一 東目屋地区の中世城館と領主の歴史)
このうち、①②は東目屋地区、③④は西目屋地区の大字名を名字としており、⑫の関惣右衛門は「城代」として、
深浦
町
通史編5(近・現代2)
(漆工芸と日本画)
くどうせんらい)(文久三-昭和一九 一八六三-一九四四)、工藤晴好(くどうせいこう)(本名相馬タケ、
深浦
町出身
通史編1(古代・中世)
(二 津軽の修験道と神社)
て祠官と成、(下略) (「安倍社寺由緒書」) 永正三年(一五〇六)に葛西頼清が建立したと伝える
深浦
円覚寺薬師堂,間口観音
深浦
聖徳太子妙巧 別当 修験善光院 初開同上(大同二年坂上田村麻呂造立,推測をたくましくすれば、この観音を長いこと
深浦
地域にひとつの信仰として伝え続けてきたのは、土着の善光院以前
通史編2(近世1)
(他領者の入領規制と流通統制)
藩庁の回答は、基本的にはそれでは出印紙が名目のみになってしまうと、否定的であったが、青森・
深浦
など関所口,出国をする輩が出る可能性があるので、あらかじめ印紙を野内(のない)・大間越(おおまごし)の関所、青森・
深浦
通史編1(古代・中世)
(東目屋地域に見られる城館跡)
関惣右衛門は「城代」として、
深浦
町の関(折曽の関)と東目屋の国吉(くによし)に居館を持っていたと伝えられている
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