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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編5(近・現代2) (酒造業)

昭和七年の日本醸造協会主催第十三回全国清酒醤油品評会において、弘前市紺屋町の酒造業川村東一郎の出品した,これまで吟醸に用いる米は備前・播州・秋田米などに限られていたが、「一洋」は津軽米を使用して吟醸された清酒,この出来事が津軽米の名声を高めることになり、さらに弘南地域の清酒が本品評会で全国一の入賞率を示したことで,また、昭和十三年の第十六回全国清酒品評会では、津軽酒八点が優等賞を獲得し、特に「一洋」は酒界の王者と称,しかし、戦時体制の昭和十九年になると、米の増産政策のもと、酒造米は減産を余儀なくされたため、酒造は合成酒 / 酒造業
通史編4(近・現代1) (日清戦争後の会社、銀行と工業生産)

日清戦争後の会社、銀行と工業生産 明治二十九年(一八九六)時点での弘前市内の会社は、株式会社が四社、,である弘前酒造合資会社が入っている。,弘前市は藩政時代から酒造業が盛んであり、明治期に入ってもその伝統は続いた。,代表的な酒造業者には、清酒白藤を販売し、またブドウ園を開いて葡萄酒を醸造した藤田半左衛門、りんご酒の醸造,を始めるなど、革新的な酒造業展開を目指した松木淳一、新たに酒造業を興した福島藤助らがいた。 / 日清戦争後の会社、銀行と工業生産
通史編3(近世2) (平清水三右衛門による作陶)

平清水三右衛門による作陶 「国日記」元禄四年(一六九一)八月十二日条によると、藩士平清水三右衛門はかねて,平清水三右衛門はまた、元禄七年(一六九四)十月、作陶修業のため江戸へ上り、翌八年六月帰国。,図143.平清水三右衛門・瀬戸物焼役屋敷(←印)  三右衛門の本格的製陶は小人町に構えた焼物御細工所,濃茶々碗・薄茶茶碗など、上流層を対象とした茶陶類、並びに一般向けを含めた茶碗・皿・砂糖鉢・したみ茶碗鉢・銘酒つぼ・,元の姓は〝阿保(あぼ)〟で、元禄三年(一六九〇)〝平清水〟と改姓している。 / 平清水三右衛門による作陶
通史編3(近世2) (青森商社と帰田法)

4 石岡菊次郎 25町歩 百石酒造 五所川原市野里 5 北山彦作 25町歩 百石酒造 黒石市浅瀬石,6 寺田佐吉 20町歩 百石酒造 五所川原市石岡 7 葛西勝之丞 15町歩 百石酒造 西津軽郡木造町濁川,ヶ沢町舞戸 16 喜太郎 19町7反 百石酒造 南津軽郡平賀町唐竹 17 長谷川清次郎 19町歩 百石酒造,12町歩余 室家業 北津軽郡鶴田町中野 21 重兵衛 9町3反 醤油醸造 西津軽郡岩崎村松神 22 清兵衛,田辺弥右衛門 6町歩余 木綿屋 南津軽郡尾上町 29 小山内勇吉 3町歩 染屋 南津軽郡平賀町尾崎 30 清野庄兵衛
通史編5(近・現代2) (富田小学校の弘前移管と焼失)

富田小学校の弘前移管と焼失 富田小学校は当時中津軽郡清水村の所管になる小学校で、現在の紙漉町文化幼稚園,この地区は、弘前市に隣接して経済的にも弘前同様だったため、昭和三年(一九二八)四月、清水村から分離して,しかし、出火時に同校当直室で教員たちが飲酒雑談して、出火に全く気づかず大事に至ったという。,それを重視した弘前市長松下賢之進は、十一月二十七日、今後校舎内において点灯後酒類を禁止する旨、各校に通知
通史編4(近・現代1) (日露戦後の工業)

明治四十三年(一九一〇)の生産金額では、清酒が最も多く、織物がこれに次いでいる。,  9,450   113,400   8,505   107,100   8,033 清 ,明治四十三年の弘前市と富田村の酒造業者とその営業税は表42のとおりであった。,清酒 白酒 濁酒 味醂 焼酎 計 数量 価格 石 石 石 石 石 円 石 円 明治39年 18,(明治43年) 業種別 営業所 氏 名 営業税 酒造業(葡萄酒)ブランデー 松森町127 藤田久次郎
通史編4(近・現代1) (日露戦後の商業)

日露戦後の商業 日清戦後から日露戦後期にかけて、弘前市は軍都として急速に拡大した。,一清酒 今期二月は恰(あたか)も旧正月の節季なるを以て年中の好時期なれは前期末に引続き益好況を呈せしか,一清酒 本季に入り米価昂騰の為めか売渋りの状態にして前記に比すれば稍不況なり 一織物 前期末に引続き,(曲物、蔓細工、雑貨販売)、癸卯合資会社(質屋業)、中太合資会社(醤油醸造及質屋業)、松木合資会社(酒類醸造
通史編5(近・現代2) (朝日シードルの進出)

こうして、加工事業拡大が期待されるなか、二十九年六月二十五日、日本酒造会社(弘前市住吉町)社長の吉井勇,した際、シードルというフランスなどで広く大衆に愛飲されている、ビール特有の苦みをりんごの甘みに変えた清涼飲料的,ビールに着目し、これを家庭だんらんの酒にしようと考え、加工原料りんごの消費量一〇〇万箱を目標に、フランス,写真116 朝日シードル会社の工場となった吉井酒造煉瓦倉庫 写真117 朝日シードル
通史編4(近・現代1) (その他の会社)

〇〇〇〇円)があり(表55参照)、市街の近村では、陸奥製糸株式会社(払込資本金、二〇〇〇〇〇円、生糸製造、清水村,)、富士醸造株式会社(払込資本金、一一〇〇〇〇円、酒類製造、清水村)、蛭田製材所(払込資本金、七〇〇〇〇,30,000 30,000 金銀及採掘 同 6年6月 本 町 松本合資会社 30,000 30,000 酒類製造
通史編5(近・現代2) (青森県工業試験場)

設立当初は、機織部・染色部・化学部・庶務部の四部で業務が開始されたが、大正十五年には酒造組合などの要望,たとえば、酒造業では津軽米の使用を試み、全国品評会において優賞を得た。,化学の試験研究 化学部に分析試験室を有し前記化学に関する依頼試験研究を行ふ (ハ)醸造の指導   清酒,醸造の試験研究 醸造工場にて醤油、味噌、種麹製造払下、醤油、味噌、ソース、アミノ酸、調味品の試験研究酒造米
通史編3(近世2) ((一)年中行事と生活)

朝飯(雑煮・飯・酒)。 三日、うたい始め。 四日、門松の取り払い、かり(仮カ)松を立てる。,若水汲み、雑煮・酒で祝う。 十六日、御用始め。白粥に粥の汁(けの汁)。,四月中、道路の清掃。畑に種を蒔く。 (五月)一日、のぼり(幟)を立てる。ちまき(粽)を作る。,十五夜(月へ梨・桃・栗・新米・青大豆・神酒(みき)を供える)。 八月中、彼岸。
通史編4(近・現代1) (食生活の変化)

食後にも白湯(さゆ)でなく茶を飲むことにしたり、酒も地方酒よりも軍人や御用商人などが飲む上方くだりの銘酒,や、ビール、ブランデーといった洋酒を口にしてみたくなるというふうであった。  ,三十九年に上鞘師町にミルクホールが開店し、数種の洋食と和洋酒を客に提供した。,アイスクリームの売り始めは三十三年ごろであるが、夏はもっぱら富田の清水(しつこ)が市中に売りに出た。
通史編5(近・現代2) (争議の発端と経過)

会長佐藤清吉(酒造業・商工会長)、副会長高樋竹次郎(土木建設業・津軽実業新報社長)、長谷川忠蔵(黒石消費組合長
通史編4(近・現代1) (荒城の桜)

しかし、当時は明治維新後の混乱も続き、また、士族の気風も強かった時代でもあり、「城の中に桜を植えて、花見酒などとはもってのほか,写真195 内山覚弥  まず、明治二十八年に、公園として一般公開が始まった弘前城跡に日清戦勝記念
通史編4(近・現代1) (地主制の確立と在村地主の役割)

衆議院議員、弘前商業会議所会頭)、笹森栄(和徳村、村長、県会議員)、松木純一郎(千年村、村長、県会議員、酒造業,青森県農会が明治四十年(一九〇七)から同四十一年にかけて清水村(大字富田、紙漉町、小沢、坂元、悪戸、下湯口,、常盤坂)で行った調査(『中津軽郡清水村 農事調査』、明治四十三年六月)によれば、清水村の形態別農家は,弘前市-玉田惣次郎(茂森町)・山内勘三郎(富田新町)・石崎金蔵(和徳町)・菊池定次郎(東長町)、清水村,-成田有作・楠美冬次郎・石岡粕太郎・中田平次郎(清水村長)、和徳村-加藤長章・阿部荘治・加藤喜久衛・舘田長之介
通史編3(近世2) (戦局の推移と戦費負担の増加)

箱館に旧幕府脱艦隊榎本武揚の軍が来襲し、同地を守る府知事清水谷公考(しみずだにきんなる)が弘前藩に対して,木村に続いて清水谷公考と随行員も青森に敗走し、世情は緊迫の一途をたどった。,、明治元年中よりすべての藩に対して均等な距離を保とうとの基本姿勢が打ち出されており、戦費負担も後日、酒田参謀局,(現山形県酒田市に置かれた奥羽鎮撫総督府の軍務機関)より償還(しょうかん)すると令達が出された。,出兵人数443人  8 同上 領内沿岸警備 36,610 出兵人数3,628人  9 清水谷公考青森転陣
通史編3(近世2) (二 藩主の日常生活)

午前十一時すぎ山吹ノ間へ出座し、多膳と会い藩政について用談・決裁――木野(きの)清兵衛の預米願いにつき,午前十一時すぎ山吹ノ間へ出座し、多膳と会い藩政について用談・決裁――用達の苗字改め申し出の件、木野清兵衛,午前十一時すぎ山吹ノ間へ出座し、多膳と会い藩政について用談・決裁――勘定人不足につき補充の件、木野清兵衛,午前十一時より居間を清掃。午後二時に着替えて四季ノ間において夕料理祝い。,引き続き酒・肴などを遣わし、茶道・近習坊主へは囲炉裡ノ間(いろりのま)で酒を遣わす。  
通史編4(近・現代1) (町の様子)

木村喜代太郎・石郷岡文吉・小野弥門・小坂某・成田建夫・平田某・鎌田賢之助・煤田至誠・坂本千代三郎・笹森清造,今日から想像するときは其裏面には木村繁四郎・西館孤清・杉山龍江氏の尽力で出来たものであると考へられるが,貧乏士族の子弟一団は集って城中を利用して唯一の酒食場としたのである。,そして御土産として御酒お肴お菓子に御紋章焼附の御杯を一同に賜はった。  
通史編4(近・現代1) (県下銀行の発展と金融都市弘前)

県下銀行の発展と金融都市弘前 日清戦争(明治二十七~二十八年)後の好景気は青森県にも波及し、明治二十七年,初代頭取は中津軽郡千年村の地主で、酒造業も営む松木彦右衛門、取締役は西津軽郡木造村の地主である市田利平,初代専務取締役(頭取と同じ)は弘前市大字東長町で酒造業を営む菊池定次郎、取締役は弘前市大字松森町で呉服商,弘前市で屋号を「カネ五」と称する小間物商を営む関清六とその一族によって作られた同族銀行で、前身は金廻舎,社長は関清六、業務担当社員には関藤吉・関平八が就任した。  
資料編1(考古編) (-文献リスト-)

No.8, P.42-44 ◇32 岩井武彦・酒井軍治郎(1962) 青森県弘前市清水のカオリン粘土,大沢穠・平山次郎・斎藤正次(1960) 20万分の1地質図幅「秋田」.地質調査所 ◇69 大沢穠・角清愛,Rep., Ser.3, V.7, P.1-46 ◇87 鴈澤好博・村井雄一・柳井清治(1993) ,◇164 平山次郎・大沢穠・角清愛・盛谷智之(1961) 北秋田地方から西津軽地方にかけてのグリーンタフ,1961) 十和田・八甲田火山噴出物.青森県農試研報,No.6,P.1-73 ◇178 松本隆・弘原海清(
通史編2(近世1) (津軽信英による後見政治と法令の整備)

後見政治の期間、家老として特に重きをなしたのは、信英と同じく前藩主信義の弟である津軽信隆と、神保清成(,「諸法度」は、孝悌・婦道の奨励、武士に対する学問・武芸の奨励、酒色の戒め、訴訟方法、衣服・振舞・音信贈答
通史編2(近世1) (寛文蝦夷蜂起と津軽弘前藩)

榎森前掲書および「シャクシャインの戦い」『白い国の詩』五一五、浅倉有子『北方史と近世社会』一九九九年 清文堂出版刊,七月十三日、信政が自ら大老酒井忠清のもとに赴き、松前から加勢が要請された場含、「人数少々」を派遣することの,この際、忠清は、老中へ言上の取り次ぎについて土井利房へ申し入れるよう指示している。,この酒井のもとに出向いたのも土井のアドバイスによる(「津軽一統志」巻十上)。  ,八三七)、出兵人数を公式に届け出た五〇〇人、出動日数を九五日間として算定し、兵糧米二三七石五斗を出羽国酒田
通史編3(近世2) (民衆の精神世界)

極端な話、町にわき出る清水を名水として利用するだけなら問題はないが、病に効能があるなどとされ、宗教色を,ところが、預かった小野若狭はこれを神前に安置し、御酒・御膳を供(そな)えて祀っている。,、この「大平神」の扱いについて藩は何の指示も出さなかったが、明治元年(一八六八)十月に萱(かや)町の清五郎,清五郎がいうにはこの神は常州(じょうしゅう)水戸(現茨城県水戸市)より飛来してきたもので、すでに六〇〇
通史編2(近世1) (領内アイヌ支配の変化)

2枚 米1俵宛      8月23日 今別狄 かぶたいん 各々膃肭獣1   昆布1把 酒被下,ちせかる  藤 島 るてるけ  釜ノ沢 ししはあいぬ  六条間 かのたあいぬ  砂ヶ森狄 清五郎,2俵  すなかもり ふくたあいぬ 鯣   5把 米2俵 1685 (貞亨2年)5月4日 今別狄 清八,9月24日 今別  かのたいぬ 黄鷹   1 往還の路銀 1694 (元禄7年)6月12日 今別  清八
資料編1(考古編) (第5節 温泉)

青森県内の温泉地は福島県に次いで多く、酒井(1967)によって青森県の温泉が総括された時点で67か所の,酒井(1981)によれば、弘前地域における地下増温率は、概ね5.5℃/100mとされている。,弘前市大字桔梗野4丁目13-5 500 150~100 36.0 0 110 32 寺沢温泉 弘前市大字清水富田字寺沢,小栗山泉 弘前市大字小栗山字芹沢2-1 700 200~100 58.4 250 39 伸光温泉 大清水源泉,弘前市大字大清水字下広野4-4 525 150~ 80 29.0 0 127 40 川合宝温泉
通史編5(近・現代2) (四 民謡)

日清戦争が始まる明治二十七年(一八九四)には《勇敢なる水兵》などが歌われ、「音楽学校は西洋音楽の奴隷にあらざるべく,現代の様相は、セミプロ的な歌手により洗練され、民謡酒場やステージで奏される音楽様式へと変容してきている
通史編1(自然・原始) (太平洋戦争終結後)

昭和二十五年(一九五〇)になると、酒詰仲男(さかづめなかお)主催の土曜会が『貝塚』を復刊させ、その復刊最初,で発掘し(78)、昭和二十九年(一九五四)まで西村正衛(にしむらまさえ)(一九一五~一九九五)・桜井清彦,慶応大学の清水潤三は、下北の東通(ひがしどおり)村尻屋札地(しりやふだち)遺跡において環状列石等を発見,早稲田大学では、桜井清彦が津軽半島をフィールドとして、市浦村相内の鰊崎(にしんざき)・岩井(いわい)・,昭和三十年(一九五五)を迎え、清水潤三を中心とする慶応大学の一行は、津軽半島突端に近い三厩村宇鉄(三月
通史編2(近世1) (舟橋騒動)

の他に、岩橋杢助(もくすけ)・三村次郎左衛門・打越(うてつ)孫九郎・坂本嘉左衛門・増川二郎兵衛・七戸清三郎,二代藩主信枚が死去した時、罪により前橋(現群馬県前橋市)の酒井家に預けられていた最上(もがみ)家の旧臣本城満茂,江戸にいた細川忠興(ただおき)から子の肥後熊本藩主細川忠利に宛てた書状によれば、津軽家の他に松倉家、酒井宮内
通史編2(近世1) (宝暦~天明期の弘前藩の財政状況)

、金・銀方で六三一貫六一七匁(金で一万五二六両余)にも及ぶ(浅倉有子『北方史と近世社会』一九九九年 清文堂刊,ほかに高掛(たかがかり)金という田畑にかかる年貢に準じる税が約一〇パーセントで、金銀方においても、湊役・酒造役,所一番値段 70,235 70,235 3.55 湊役 200,000 200,000 10.12 酒造役
通史編5(近・現代2) (観桜会運営の一側面)

公園内で仮営業を目的とする料理店、飲食店、写真屋、菓子店、喫茶店、酒店など、いわゆる屋台は一坪日額で二五円,清掃料として土地使用料金の半額を前納するとある。
通史編3(近世2) (松前方面の攻防と青森)

浪士からは庄内酒井氏や盛岡藩に対する処分についてや政府軍の状況について、また清水谷らの行方についての問,図67.箱館・松前付近図  十一月十六日、清水谷公考一行は黒石に転陣。
通史編3(近世2) (城下での生活)

昼飯後に隣松寺(りんしょうじ)へ参り、帰宅後、唐牛与右衛門・鑓屋庄五郎が訪ねてきて午後八時まで酒など飲,六日、朝飯後、唐牛与右衛門・片山弥兵衛・山田清左衛門・矢野玄よ・九戸十右衛門・古郡玄節が訪ねてくる。,十一日、我家の風呂へ油柳雪・山田清左衛門・片山弥兵衛が来て入る。,二十二日、山田清左衛門が来てしばらく話をして帰る。,昼飯すぎ彼らとともに浜の町の橋(現富士見橋か)を見物に行き、川原で酒を飲み、午後八時に百沢小左衛門宅で
通史編2(近世1) (文化~文政期の藩財政)

された文化十二年(一八一五)以後は、三〇〇〇両以下になっている(浅倉有子『北方史と近世社会』一九九九年 清文堂刊,四万一三一二両で、その内訳は自他領への米の売却(「払米」)が二万七七八八両で約六七パーセントを占め、他に米穀・酒の,津出料が多く、あとは田畑への高掛金(たかがかりきん)、酒造役金などであるが、米穀収入に基盤を置く体制に,29,508.75  11.61  元金18,000両,利息9ヶ月分 ㉒ 津軽屋喜太郎・鳥羽屋清次郎元利返済
資料編3(近世編2) (二 町人の住居)

○石場家住宅  亀甲町--重要文化財  この家は、代々清兵衛を名乗り、藩内の工芸品や荒物を扱う町屋であった,主屋すぐ裏の文庫蔵を改造して酒造蔵にし、その後両側の敷地を次々に買い取って居住部分を増築、さらに貯蔵蔵
通史編3(近世2) (商社の活動内容)

また、今村の息子勇吉郎が秋田・庄内・越後へ出張し、米・酒・籾(もみ)などを買い付け、雇い船二艘で庄内米一二,の昆布は従来八〇〇両の前貸しを受けて領外船に売却されていた(浅倉有子『地方史と近世社会』一九九九年 清文堂刊
通史編4(近・現代1) (弘前市財政の整備)

市税ヘ差引計算賦課シタルニ依リ、市税ト学区費ト混交セシヲ以テ併セテ滞納処分ヲナシ以テ廿二年度市税歳入ノ清算,すなわち、市は国税のうち酒税(酒造税)、醤油税等の課税は行っていない。  
通史編2(近世1) (越後高田領検地の実施)

するところであったが、相続問題が発展して御家騒動となり(越後騒動(えちごそうどう))、家綱政権下において、大老酒井忠清,三月二十一日には用人間宮勝守を元締めとする検地派遣役人を決定し(同前)、惣奉行に大道寺繁清(しげきよ),このような中で、現地の幕府代官から渡された清書の帳面の石高と、江戸で下付された高割帳のそれが相違し、検地条目,十一月二十日に江戸に戻っている((国日記」天和二年十一月二十日条)、江戸藩邸では十一月七日から検地帳の清書,成田与次右衛門  〃 30 〃 藤田茂右衛門 足軽 31 〃 木村伝兵衛  〃 32 〃 清藤弥五兵衛
通史編4(近・現代1) (『東奥日報』従軍記者の書いた雪中行軍記)

かる所に上り来たるには何かの仔細あるへし、此所に待たんとて少憩し居りしに、近つくを見れは竹舘村長相馬清次郎氏,なり、氏は人夫四名□〔を〕引連れ夜具や酒樽を負はせて来りしなり、即ち今夜□〔一〕行を宿せしめんかために,竹舘村長の相馬清次郎が三一連隊の行軍隊の宿泊に際し、宿や食糧を供給していたことが記されている。
通史編3(近世2) (新しい指導者)

勃発した明治元年(一八六八)には二十四歳にして兵部少輔(しょう)となり、軍事参謀試補として箱館府総督清水谷公考,このため野田はすぐに軍務官僚の途に戻り、その後は日清戦争の戦功により男爵に叙任されるなど、中央政界で活躍,北代が新政府に宛てた県況報告によると(「青森秋田酒田宮城水沢岩手六県事情概略上伸書」国立国会図書館憲政資料室蔵品川弥二郎文書
通史編4(近・現代1) (津軽産業会の活動)

成田果 仝会計 木村一太郎 仝 仝 樋口徳太郎 仝 仝 平川棟世 仝 仝 工藤健太郎  常議員 中畑清八郎,桜庭又藏 樋口徳太郎 竹内清則 工藤健太郎 平川棟世 菊池三郎 山中卯太郎 阿保忠助 成田邦衞 佐藤英司,しかし、日清戦後期に至り、工業や商業などの広範な産業振興のための部会設置に至ったのである。  ,防止し勤倹を以て生計及ひ交際上に処し冗費を誡飾し麗衣を粧(よそお)ふことを厳禁すべきは勿論驕りケ間敷酒宴等,小野貞助  佐藤喜一郎 桜庭又藏   中畑清八郎 成田果(同前)  津軽産業会は、明治三十三年(一九
通史編3(近世2) (町役負担と御用金)

町扶持人は高一〇〇石の町年寄松井四郎兵衛・松山善次の二人のほか、俵子五〇俵の町御買物役人が二人、五人扶持の酒屋改役人,.弘前城下の町扶持人 町扶持人 扶  持 人数 町年寄 100石 2人 町御買物役人 50俵 2人 酒屋改役人,それによれば、丹波屋清三郎をはじめとする一六五人が一〇五〇両を割り当てられ、納入した。
通史編1(自然・原始) (第三節 注および引用・参考文献)

一九八五年 (25)能都町教育委員会・真脇遺跡発掘調査団 『石川県能都町真脇遺跡』 一九八六年 (26)酒井忠純,八戸市教育委員会 『風張(1)遺跡Ⅱ』(八戸市埋蔵文化財調査報告書四二) 一九九〇年 (46)尾関清子,(48)鈴木尚 「相模平坂貝塚の人骨について」『人類学雑誌』六一-三 一九五〇年 (49)星川清親
通史編2(近世1) (関ヶ原の戦いと奥羽の情勢)

豊臣家内部の対立をはじめ、石田三成(いしだみつなり)ら奉行を中心とする「吏僚派(りりょうは)」と加藤清正,する好機とみて、庄内攻略に乗りだし、北出羽の秋田・戸沢・由利郡内の各氏の協力も得て、翌慶長六年四月に酒田城
通史編4(近・現代1) (明治二十年度予算審議)

ブドウ栽培は、農商務省の後押しで酒造家藤田半左衛門を中心に広がり、明治十九年には全国第六位の栽培地となっていた,明治十年にこの土地を借りたのは、廃藩後の弘前発展のため蒲田昌清第三大区長のもと弘前全町惣代-町家は白崎源蔵
通史編3(近世2) (王族利益の実態と帰田法の意義)

王族利益の実態と帰田法の意義 明治六年(一八七三)十一月に帰田法立案者の中心であった旧小参事西舘孤清(,5.045  0.2535 4.8 0.6905 13.7 4.101  81.6 12 清藤忠八,たず、移住資金もなく、いったん移住した後は弘前の屋敷地も取り上げられるといった状況下では、前に西館孤清が,現五所川原市石岡)の豪農寺田左吉家(帰田法で二〇町歩余を献納)は、農業経営を続けながらも、資本投資の主力を酒造業
資料編2(近世編1) (編年史料 (天正十七年~明暦二年))

●慶長六年(一六〇一)三月、この月、津軽為信、領内清水森において大法会を催し、戦死者を弔う。,●元和二年(一六一六)十一月十日、これより先、津軽信枚、秋田久保田城主佐竹義宣へ酒を求める使者三階但馬,●寛永二年(一六二五)五月十五日、幕府年寄衆土井利勝、酒井忠世、津軽信枚へ、津軽から江戸への廻船運航を,●寛永二年(一六二五)、この年、津軽領内の総検地を実施し、また酒運上の徴収を開始する。,●明暦二年(一六五六)二月二日、幕府、津軽信義嫡子平蔵へ、老中酒井忠清宅にて跡目相続を許し、書院番津軽信英
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