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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編1(古代・中世) (清原氏の登場)

清原氏の登場 こうしたなか、安倍氏を制するだけの兵力がない頼義は、出羽山北(せんぼく)の清原氏に対して,清原氏の出自については不明な点が多いが、古代には吉彦(きみこ)(吉美侯)と称していた在地系の豪族で、元慶,頼義としても清原氏との交渉のさなかである。いまここで任を解かれてはたまらない。   / 清原氏の登場
通史編1(古代・中世) (安部氏・清原氏の登場)

安部氏・清原氏の登場 このような鎮守府将軍の管郡的基盤となったのが奥六郡(岩手・志波・稗貫(ひえぬき,となったのが山北三郡(山本・平賀・雄勝(おかち))・秋田郡・河辺郡である・のちに前者から安倍氏が、後者から清原氏 / 安部氏・清原氏の登場
通史編1(古代・中世) (後三年合戦)

清原氏は本拠の仙北三郡(雄勝・平鹿・山本)に加え、安倍氏の所領であった奥六郡(胆沢・江刺・和賀・稗貫・,それは同族的共同支配の段階から、嫡宗である鎮守府将軍真衡による家父長的専制支配体制への急激な転換に伴う清原氏内部,それは清原氏一族の内紛の契機となり、やがて兄義家の苦戦を聞いた新羅三郎義光の参戦などもあって、義家・清衡同盟,を介して一気に奥羽地方への支配権拡大を目指す源氏と、独立を全うしようとする清原氏との対決という構図となり,数万の軍勢による激しい攻防の末、兵糧の尽きた清原氏は金沢柵で滅亡する。
通史編1(古代・中世) (鎮守府将軍清原武則)

前九年合戦で安倍氏が滅亡した後は、その論功行賞によって清原武則が俘囚出身者としてははじめて鎮守府将軍になり、清原氏,清原氏はこうして安倍氏が奥六郡内に有していた権限を受け継ぎ、本拠も奥六郡に移し、これから北の世界に勢力
通史編1(古代・中世) (平泉藤原氏)

平泉藤原氏 こうした清原氏同士のつぶしあいの末に生き残ったのは結局清衡のみであった。,結果としてこの清原(のちに藤原)清衡が、清原氏の遺領陸奥出羽両国「一万余之村」を継承し、以後、黄金かがやく,後三年合戦後に、清原氏に代わって、すでに出羽城介の権限をも吸収していて巨大な軍政権を握る職となっていた
資料編1(考古編) (1.12世紀の様相)

この時期は、安倍・清原氏と平泉藤原氏(間接的には京都の影響)の影響とともに、北陸地方からの影響も見逃すことはできない
通史編1(古代・中世) (延久蝦夷合戦と津軽)

で現地の政治勢力のあいだでは、相互の合従連衡、あるいは南の「日本国」の勢力である陸奥国司や鎮守府将軍清原氏
通史編1(古代・中世) (安倍氏の登場)

として権力をふるったのが、鎮守府の筆頭在庁「奥六郡俘囚長」安倍氏と、秋田城の筆頭在庁「出羽山北俘囚主」清原氏
通史編1(古代・中世) (北奥における建郡)

Ⅰの説は、①先に触れた新設の郡名から、清原氏の本拠である金沢柵に近い平鹿郡からの移住が想定されること。,清原氏は常陸平氏と深い人脈を有しており、久慈郡の郡名の一致についても同様に考えられること。
資料編1(古代・中世編) ([十一世紀])

●永保三年(一〇八三)、清原氏内紛。九月、源義家、陸奥守。清原真衡、出羽への途上、病により頓死。
資料編1(考古編) (〈注及び参考文献一覧…第3章〉)

4)(5)遺跡』(青森県埋蔵文化財調査報告書第106集) 1987年 *253 八木光則 「安倍・清原氏
資料編1(古代・中世編) (第一章 綱文・史料一覧)

………………………… 津軽一統志 119 ●永保三年(一〇八三)、清原氏内紛。九月、源義家、陸奥守。
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