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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編5(近・現代2)
(農業会の解体と農協の乱立)
特に、農協が多数設立された自治体は千年村が八、
清水村
が五である一方、船沢村、和徳村など一ヵ所のところもあった,市町村名 農協名 設立年月日 市町村名 農協名 設立年月日 市町村名 農協名 設立年月日
清水村
,昭和23年3月3日 千年村 清水森 昭和23年3月12日 藤代村 藤代村北部 昭和23年3月23日
清水村
,小沢 昭和23年3月5日 東目屋村 東目屋村 昭和23年3月18日
清水村
清水村
青柳 昭和23年3,しかし、単協からの連合会委託は少なく、中津軽郡では、
清水村
、高杉村、堀越村などの経済的力量のある単協は
通史編5(近・現代2)
(市域の整備と町村合併)
その一つが
清水村
との合併である。,昭和三年(一九二八)四月一日、
清水村
の富田・紙漉両部落の弘前市への合併が実現した。,
清水村
富田の住民が熱心に合併運動を促進した結果、松下賢之進市長の時代に具体案が完成して合併が成立した。,写真2 第12代市長松下賢之進
清水村
との合併実現に対し『弘前新聞』は「大弘前市民たれ」と主張
通史編5(近・現代2)
(指導者・石岡彦一)
清水村
の無産農民も今では自分の苦しい事と資本家、地主の為めに苦められつつある事に目はさめ、全農の支部でなければ,青森県弘前市外
清水村
下湯口
清水村
準備会 石岡彦一 全農本部御中
通史編4(近・現代1)
(農業団体の発展)
清水村
の農会は大正三年、村費補助も一七五円と大きく、専任の書記を置いていた。,明治期末から大正期にかけて、中津軽郡農会の活動に貢献した人物として、
清水村
の外崎嘉七、楠美冬次郎、工藤銀次郎,明治十三年(一八八〇)、
清水村
高田の果樹園においてブドウ及びりんごなどの栽培を始めた。,同二十四年(一八九一)、
清水村
小沢にりんご園を開設、栽培法、病虫害、駆除予防法に尽力した。
通史編4(近・現代1)
(盗伐問題と師団の設置)
一方、同じ
清水村
で、明治三十一年から第八師団建設工事が始まったため大発展した大字富田のケースもある。,現弘前第三中学校)、騎兵第八連隊(現住宅地)、同西側(旧千年村)に歩兵第三一連隊(現弘前実業高校)、
清水村
桔梗野,さらに、
清水村
大字小沢字大開(現弘前南高校、金属団地一帯)に五〇町歩、小沢と原ヶ平に跨がる館野に五〇町歩,明治末年) これによって、沈滞しきっていた弘前の経済も活況を呈し、明治二十三年(一八九〇)の
清水村
,旧
清水村
は、苦難の時代を物語る飢渇坂(けがずざか)の地名があるように、生産力の低い山里であったが、明治三十八年
通史編4(近・現代1)
(農会の設立と農事改良)
ようやく明治三十年代後半に入って、中津軽郡では一六ヵ村全部に農会が設置され(「中津軽郡
清水村
農会規則議案,成田七太郎(大浦村)・小堀章六(堀越村)、稲-木村要作(豊田村)・木村長五郎(同)、大豆-清野長二郎(
清水村
,)、株大豆-象潟皓一(高杉村)、馬鈴薯(ばれいしょ)-小田桐豊太郎(和徳村)、林檎-三上喜太郎(
清水村
,(駒越村)、榲悖(まるめろ)-藤田常正(駒越村)、葡萄-藤田葡萄園(堀越村)、林檎苗木-楠美冬次郎(
清水村
通史編5(近・現代2)
(富田小学校の弘前移管と焼失)
富田小学校の弘前移管と焼失 富田小学校は当時中津軽郡
清水村
の所管になる小学校で、現在の紙漉町文化幼稚園,この地区は、弘前市に隣接して経済的にも弘前同様だったため、昭和三年(一九二八)四月、
清水村
から分離して
通史編4(近・現代1)
(道路改修問題と佐和知事)
、石川村、大鰐村、蔵館村、碇ケ関村 秋田県界 兵営道 第八師団司令部 弘前市土手町 山道町、住吉町、
清水村
富田,第八師団司令部 歩兵第三十一聯隊兵営 弘前市親方町 本町、新寺町 歩兵営 輜重兵第八大隊兵営 弘前市新寺町
清水村
富田樹木派立,第八師団司令部 弘前市富田町、堀越村取上 騎兵営 郡道 中津軽郡役所 弘前市土手町 弘前市山道町、
清水村
富田
通史編4(近・現代1)
(地主制の確立と在村地主の役割)
青森県農会が明治四十年(一九〇七)から同四十一年にかけて
清水村
(大字富田、紙漉町、小沢、坂元、悪戸、下湯口,、常盤坂)で行った調査(『中津軽郡
清水村
農事調査』、明治四十三年六月)によれば、
清水村
の形態別農家は,弘前市-玉田惣次郎(茂森町)・山内勘三郎(富田新町)・石崎金蔵(和徳町)・菊池定次郎(東長町)、
清水村
,-成田有作・楠美冬次郎・石岡粕太郎・中田平次郎(
清水村
長)、和徳村-加藤長章・阿部荘治・加藤喜久衛・舘田長之介
通史編4(近・現代1)
(中津軽郡会)
豊田村 木村良一 千年村 相馬豊五郎 東目屋村 今井一徹 船沢村 成谷亀之助
清水村
,) 裾野村 須藤信夫(憲政) 和徳村 福士音太郎(憲政) 堀越村 工藤長左衛門(憲政)
清水村
通史編4(近・現代1)
(町村合併と弘前市制施行)
清水村
(大字富田)-富田村 紙漉町 坂本村 常盤坂村 悪戸村 下湯口村 小沢村 和徳村(大字堅田)-,)-新里村 境関村 福田村 福村 外崎村 高田村 小比内村 堀越村(大字門外)-門外村 堀越村 大
清水村
,
清水村
-富田の清水(しつこ)や笹清水など、清水がたくさん湧出に由来。
通史編4(近・現代1)
(玉成高等小学校の創立)
玉成高等小学校校舎 新築校舎は弘前市下白銀町二〇番地(現弘前中央高校敷地)に建てられ、設立者は中津軽郡
清水村
,学校組合は会議を開いて、校名を「
清水村
外十ヵ村組合立玉成高等小学校」と命名した。
通史編4(近・現代1)
(郡制の施行)
豊田村 木村良一 千年村 相馬豊五郎 東目屋村 今井一徹 船沢村 成谷亀之助
清水村
,和徳村 福士音太郎 裾野村 須藤信夫 千年村 佐藤義雄 豊田村 福士健夫(以上五人憲政党)
清水村
通史編4(近・現代1)
(その他の会社)
〇〇〇〇円)があり(表55参照)、市街の近村では、陸奥製糸株式会社(払込資本金、二〇〇〇〇〇円、生糸製造、
清水村
,)、富士醸造株式会社(払込資本金、一一〇〇〇〇円、酒類製造、
清水村
)、蛭田製材所(払込資本金、七〇〇〇〇
通史編4(近・現代1)
(外崎嘉七と島善鄰-りんごの神様と恩人)
外崎嘉七と島善鄰-りんごの神様と恩人 外崎嘉七(安政六-大正一三 一八五九-一九二四)は、安政六年、
清水村
樹木,二十代前半のころ、当時、
清水村
の富田地区には小学校が開校されていたが、樹木地区は未設置だった。,写真172 外崎嘉七経営の「向陽園」 (明治40年代 旧中津軽郡
清水村
樹木) 嘉七は、後年、,同四十四年(一九一一)、
清水村
林檎生産販売購買組合の組合長に就任した(同前)。,大正十一年(一九二二)、報徳会(会長楠美冬次郎)が、
清水村
産業組合の隣接地(現弘前市樹木二丁目)に記念碑
通史編5(近・現代2)
(米穀の統制と自作農創設)
中でも
清水村
はりんごの発展を担ってきた地域であるとともに、しばしば農村調査の対象地域となり、わが国及び,その一つとして昭和十五年(一九四〇)の「苹果地帯農業経済調査青森県中津軽郡
清水村
」(資料近・現代2No
通史編4(近・現代1)
(堀越村の場合)
中津軽郡堀越村は、明治初年、門外村一〇三戸、堀越村五五戸、堀越村の支村川合村五三戸、取上村三三戸、大
清水村
四七戸
通史編4(近・現代1)
(電灯業の発展)
営業願によると、弘前電灯株式会社は、
清水村
大字富田に発電所を設け、汽灌(かん)を動かして発電機を回転させ,当初の電力の供給区域は、弘前市と
清水村
大字富田、堀越村大字取上であった。
通史編4(近・現代1)
(大成小学校創設)
三校合併案は十七年十一月学区町村聯合会(「学区町村聯合会」とは学聯区ではあるが、三校とも隣接村落〔
清水村
通史編4(近・現代1)
(第二大成小学校の焼失)
第二大成小学校の焼失 大正六年五月十八日、
清水村
富田(現弘前市富田一丁目)の民家から出火、大火となり
通史編4(近・現代1)
(通信関係)
弘前郵便局の呼出区域は、弘前市、中津軽郡駒越村駒越、同郡
清水村
常盤坂・紙漉町・富田、同郡小沢村大原、同郡堀越村取上
通史編5(近・現代2)
(凶作と小作争議)
相馬村の出稼ぎ者は全員樺太へ二四〇人、豊田村は八一人のうちロシア領へ六〇人という多人数が赴いており、逆に
清水村
通史編4(近・現代1)
(「農事調査」と中津軽郡)
表10 農家の貯蓄(金穀)状況(明治21年) 村 名 籾石数 貯蓄人数 石 勺 人
清水村
280,農事調査」の「陸奥国中津軽郡農産地図」によれば、各村の中心的な農産物として、弘前市街-林檎・養蚕・葡萄、
清水村
通史編4(近・現代1)
(市会と市役所開庁)
清水村
中田平次郎 和徳村 小野貞助 豊田村 一戸久之亟 堀越村 樋口徳太郎 千年村
通史編4(近・現代1)
(養蚕業の振興)
副業的養蚕が奨励される一方、本格的な製糸業を目指す動きも出ており、大正八年(一九一九)、陸奥製糸株式会社が
清水村
富田
通史編4(近・現代1)
(組合町村制)
旧五部制は、昭和三年の
清水村
富田及び紙漉町の編入で第六部が新設された。
通史編5(近・現代2)
(都市計画の開始)
周辺八村とは、
清水村
、藤代村、和徳村、豊田村、堀越村、千年村、駒越村、大浦村である。
通史編5(近・現代2)
(農地改革と自作農創設)
清水村
農地委員会(下山平吉委員長)では、農地改革の趣旨について自作農創設を最大の目標に「農地改革制度ノ,研讃〔鑚〕シテノ合議ニ基イテ実地厳調ノ上農民ノ安定ヲ期スベク極メテ厳正妥当ニ農地問題ニ関シ処理」(「
清水村
農地委員会,
清水村
の「自作農創設特別措置法第七条一項の異議申立決定の件」(同前No.四一八)によれば、その内容は地主側
通史編5(近・現代2)
(りんご栽培の進展)
また、台地の
清水村
・千年村、沖積地の藤代村等では普通畑が一斉にりんご園に変わっていき、かつて大根、菜種,県苹果試験場として独立(黒石市)、昭和九年(一九三四)苹果試験場花腐病(はなぐされびょう)試験地開設(
清水村
通史編5(近・現代2)
(津軽の基幹作物-米とりんご)
の収穫高(昭和29年) 市町村別 作付面積(10a) 単収(kg) 弘前市 2,300 415.8
清水村
通史編4(近・現代1)
(青森県の農民運動)
太平洋戦争後の農地解放に、
清水村
の農地委員として活躍した石岡彦一は日本農民組合総本部へ次の手紙を出している,労農党員 石岡彦一 青森県中津軽郡
清水村
大字下湯口 日本農民組合総本部御中 石岡彦一
通史編5(近・現代2)
(赤十字の活動)
清水村
や和徳村、藤代村などは割当を完了していただけでなく超過人員を出している。
通史編5(近・現代2)
([付図])
1 観桜会〈昭和初年〉 2 弘南鉄道開通(弘前-尾上間)〈昭和2年〉 3
清水村
富田地区
通史編4(近・現代1)
(第一回少年野球大会)
翌四日は、朝陽対時敏、城西対富田(
清水村
富田小学校)の二試合が行われたが、少年野球の人気ものすごく、会場
通史編5(近・現代2)
(総選挙での戦い)
大高喜八郎 同 福永忠助 同 小林剛 同 山形良太郎 同 前田久三郎 △評議員
清水村
, 成田勇作 大浦村 齋藤晋作 東目屋村 長谷川毅
清水村
成田清太郎 和徳村 佐藤多作 弘前市
通史編4(近・現代1)
(大正期のりんご流通)
りんご生産者がとるべき手段は、農民共同組織の結成であったが、農民的りんご販売に精力を注いでいた産業組合は
清水村
林檎生産販売購買組合
通史編5(近・現代2)
(りんごの唄と空前のりんご景気)
昭和二十七年(一九五二)九月から十月にかけて、美空ひばり主演の映画『りんご園の少女』の撮影が弘前市周辺や旧
清水村
常盤坂
通史編4(近・現代1)
(師団誘致運動)
ここに軍都弘前市は成立を見たのである(ただし、師団司令部自体は、このとき中津軽郡
清水村
(現弘前市)にあった
通史編4(近・現代1)
(大区小区制の成立)
三小区(一七ヵ村) 菅野村 境関村 福田村 福村 新里村 高田村 外崎村 小比内村 取上村 大
清水村
通史編5(近・現代2)
(小作争議と地主制)
中津軽郡においても昭和初期、
清水村
下湯口の石岡彦一らが中心になり、全農支部の結成に奔走しているが、組織
通史編5(近・現代2)
(経済更生運動と計画)
農家戸数(a) 農家総負債額(b) 農家一戸当総負債額b / a 戸 戸 円 円
清水村
通史編5(近・現代2)
(中弘地区の合併推移)
中弘地区は①弘前市、
清水村
、和徳村、豊田村、堀越村、千年村、②大浦村、岩木村、駒越村、③藤代村、高杉村
通史編4(近・現代1)
(町並みの推移)
写真122 親方町から本町を望む 兵営が設けられた市の南郊、
清水村
の富田や館野、桔梗流一帯の田園荒蕪地
年表・索引編
([弘前市の人口の推移])
2年(1927) 38,960人 3年(1928) 40,365人
清水村
富田地区
通史編4(近・現代1)
(市制の施行)
このときに、紙漉町は学区の関係上弘前から割いて中津軽郡
清水村
に編入し、また、中津軽郡和徳村飛地字野田及
通史編4(近・現代1)
(りんご生産の展開と農業振興)
写真96 旧
清水村
樹木にあった清水林檎生産購買販売組合 なお、明治期の主な移出業者(屋号、営業場所
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