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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編1(古代・中世)
(湊の始まり)
十三
湊
が文献に見い出されるのは、室町時代中期ごろに成立した廻船式目(かいせんしきもく)の三津七
湊
(さんしんしちそう,)の一つとして示された「奥州 津軽十三の
湊
」(史料七四〇)などと考えられてきた。,していることを示しており、北辺の
湊
のイメージというよりは、広域流通の拠点的
湊
と考えることもできる。,また、十三
湊
の重要性は日本海交易の中核港湾であった三国
湊
(みくにみなと)(福井県三国町)の事例にも認められる,もしこの「津軽船」が十三
湊
を主要
湊
とする船であると考えると、船の所有形態は別にしても、北条得宗管轄下の /
湊
の始まり
通史編1(古代・中世)
(湊の最盛期)
湊
の最盛期 文献を裏づけるように、発掘調査の成果は多種多様な十三
湊
の断面をみせてくれる。,もっとも
湊
機能の充実した時期は一四世紀後半から一五世紀前半である。,図44 十三
湊
の図 現在までの調査結果からすると、十三
湊
遺跡は、南北に区分する土塁の北側と南側,十三
湊
の約半分である。,図45 十三
湊
と境関館の出土陶磁器比率の比較 (外側は十三
湊
,内側は境関館) このような瀬戸製品 /
湊
の最盛期
通史編2(近世1)
(近世の十三湊)
近世の十三
湊
近世の十三
湊
(とさみなと)は、弘前城下の町年寄を務めた松井家の由緒書などから、安藤氏の,退転後も、十六世紀の中ごろにはその機能を回復しつつあり、十七世紀の初めには、新たに十三町、十三
湊
の再建,十七世紀初めの十三町の町並みの中心・
湊
の部分は、中世とはかなり相違するものであった。,この時期の十三
湊
は、「川
湊
(かわみなと)」(正保・承応年間にはすでに「川
湊
」と称される
湊
へと変貌していた / 近世の十三
湊
通史編1(古代・中世)
(一六世紀の湊)
一六世紀の
湊
それでは一六世紀に十三
湊
に代わりうる
湊
は、どこに存在したのであろうか。 ,そのなかでも、拠点的
湊
と推定されるのが大浜(おおはま)(現在の青森市油川(あぶらかわ)周辺)である。,このように一六世紀の陶磁器の動きをみると、主体となる交易港は十三
湊
ではなく、外浜を支配していた浪岡北畠氏,また日本海域では十三
湊
に代わって、鰺ヶ沢町の種里(たねさと)城を中心とした地域や深浦町の元城(もとしろ,)などがその拠点として想定され、のちの鰺ヶ沢
湊
や深浦
湊
に連続するものと考えられる。 / 一六世紀の
湊
通史編1(古代・中世)
(湊安藤氏の誕生)
湊
安藤氏の誕生 「北海夷狄」の動乱が起きていたというちょうどそのころ、下国安藤盛季の弟鹿季が足利義満,に謁見ののち秋田
湊
に移住し、秋田城介顕任を滅ぼしてこれに替わったことが伝えられる(史料七四二)。,また、「秋田家系図」(写真163)でも鹿季が秋田の
湊
を攻め、
湊
家の元祖となったことを伝え(史料一一五三,)、これは秋田
湊
をめぐる安藤氏一族の内訌(ないこう)であったといわれる。,ところが、秋田
湊
を通じての蝦夷沙汰機構をただちに津軽に一本化はできず、それを継承するものとして
湊
家を新 /
湊
安藤氏の誕生
通史編1(古代・中世)
(十三湊空白の百年)
十三
湊
空白の百年 十三
湊
の発掘調査で出土する遺物には、一五世紀末から一六世紀代の遺物がほとんど認められないという,これまでは、「南部氏に攻められた安藤氏が逃散したために、
湊
機能も失われた」などと推定していた。,類似した現象は、日本海沿岸の
湊
機能をもった遺跡にも認められ、普正寺(ふしょうじ)遺跡(金沢市・写真169,写真169 普正寺遺跡 とくに、近年の調査で十三
湊
と関係が深いとされる北海道余市(よいち)町の,いずれにしても、今後の発掘調査によって具体的な十三
湊
盛衰の姿を発見できるものと思われる。 / 十三
湊
空白の百年
通史編1(古代・中世)
(一 十三湊と津軽)
一 十三
湊
と津軽 津軽地域と他地域との交易を考えるとき、物資の窓口として十三
湊
(とさみなと)は特筆すべき / 一 十三
湊
と津軽
通史編2(近世1)
(湊合戦と惣無事令違反)
湊
合戦と惣無事令違反 その後、北奥羽地域では、天正十七年(一五八九)二月初め、元
湊
城主
湊
茂季(みなとしげすえ,天正七年(一五七九)の茂季の死後に豊島城主を継いでいた豊島九郎通季(みちすえ)(高季(たかすえ))が、
湊
家嫡流,を称して戸沢盛安(とざわもりやす)・南部信直らと結んで
湊
城を襲った。 ,愛季の死後、
湊
城にはその愛季の後継者である実季(さねすえ)が入っていたが、戦端が開かれると実季は檜山城,これは、実季が、愛季のときから外交を担当していた
湊
右近(北畠季慶)・
湊
宮内大輔(南部季賢(すえかた)) /
湊
合戦と惣無事令違反
通史編2(近世1)
(十三小廻しの成立と町の盛衰)
、西風・南風のときは、
湊
口に砂が積もってしまい、荷物のない船であっても
湊
への出入りができなかったようである,つまり、十三
湊
は
湊
口が浅いために、積み荷は日本海上で降ろして空船状態にしてから入
湊
し、沖番所などのある,こうした各
湊
津への規定が十三
湊
に最も早く出されたのは、このころの津軽領内で、十三
湊
の比重が大きかったことを,しかしながら、さきにみたように、十三
湊
は
湊
口に砂が積もってしまうこともあり、
湊
津の条件としては決して恵,十七世紀の後半には、入
湊
する船舶の極端な減少により、十三
湊
は衰退していたようである。
通史編2(近世1)
(材木移出)
なかでも、材木の積み出し
湊
としては、十三川
湊
(とさかわみなと)・中師(ちゅうじ)(現東津軽郡蟹田町)・,今別(いまべつ)・小
湊
(こみなと)の四
湊
が知られる。,もちろん、この材木が十三
湊
から移出されたとはいえないが、十三川
湊
・中師(蟹田)・今別・小
湊
のいずれかの,
湊
から移出されたものと思われる。,これは主に、十三
湊
からの材木移出と、山から材木を十三
湊
へ切り出す際の手続きとに分かれており、 ①材木
通史編2(近世1)
(中世の北国海運)
ここには、三津七
湊
に含まれない
湊
として能代を挙げることができる。 ,同じように、三津七
湊
に含まれない
湊
には、陸奥田名部(むつたなぶ)・出羽酒田が挙げられる(以下は、特に断,図106.酒田市山居倉庫の荷物積み出し場 さて、津軽十三
湊
は、「十三往来」や「十三
湊
新城記」などの,変遷は、 ①十二世紀後半に
湊
としての活動が始まったという。,また、領主が
湊
そのものに居を構えており、その権力基盤を象徴している。
通史編1(古代・中世)
(得宗領・安藤氏との関わり)
舩)」=「うつぼ舟」のモチーフは津軽地方の所伝ではみられないので、秋田で付加されたものらしいが、土崎
湊
といい,、外浜といい、藤崎
湊
といい、能代
湊
といい、いずれも唐糸伝説を伝える寺院が津軽安藤氏・秋田安東氏の拠点とかかわっていることが,津軽にも「清藤家由緒書断簡」(尾上町)などのように、唐糸の漂着先を十三
湊
とするものがある。
通史編2(近世1)
(中世の比内浅利氏)
弟勝頼(かつより)を浅利当主に立てることにより南比内を勢力下に収め、さらに永禄十三年(一五七〇)には
湊
(,また、かつての
湊
城主茂季(しげすえ)の子
湊
九郎通季(みちすえ)(高季)もこの機に南部氏・戸沢氏らの支援,を得て、天正十七年二月、秋田
湊
城の実季を急襲し、ここに
湊
合戦が始まった。,小名や夷島の蠣崎(かきざき)氏、津軽の大浦為信の支援を得て、檜山城に籠城すること五ヵ月でようやくこの
湊
合戦
通史編3(近世2)
(公娼と私娼)
ここは、藩の重要な二つの
湊
で、江戸時代には「両浜(りょうはま)」と称されていた。,諸国遊所見立角力并ニ直段附」(『近世風俗志(三)―原名 守貞漫稿』一九九九年 岩波書店刊)によれば、両
湊
の,鰺ヶ沢については、寛文十二年(一六七二)に「十三小廻(とさこまわ)し」体制(十三
湊
(とさみなと)〈現北津軽郡市浦村,十三
湊
は中世では全国の「三津七
湊
(さんしんしちそう)」の一つに数えられるほどであった。,そのため、この
湊
はしだいに衰退の道をたどったが、遊廓などがありにぎわったと推定される。
通史編1(古代・中世)
(秋田家系図)
住二津軽一」と注し、その後さらに「此間七十余年、某名不レ詳故不レ記」、次の愛秀(旧記云、自二此時一初住二十三
湊
一,さらにその孫の鹿季が秋田
湊
を伐って秋田
湊
家の元祖となったと記す。
通史編2(近世1)
(一 青森開港と初期海運)
それに基づいて、二代目の田中九兵衛も津軽へ進出し、深浦・鰺ヶ沢・十三の各
湊
へ入津している(和泉清司「近世,津軽弘前藩では、これら津軽領内の物資交易のため、従来の十三
湊
のほか近世初期に青森・鰺ヶ沢・深浦等の
湊
も
通史編2(近世1)
(天明三年に頻発した騒動)
天明三年に頻発した騒動 天明の飢饉の直前、天明三年(一七八三)七月、津軽領では、藩最大の
湊
町であった,青森をはじめとして弘前・鰺ヶ沢などの城下町や
湊
町で、打ちこわしや騒動が相次いで発生した。
通史編2(近世1)
(岩木川舟運)
川
湊
としては浜ノ町(現弘前市浜の町東・同西・同北)、船場(ふなば)(現藤崎町船場)、板屋野木(いたやのき,)(現板柳町板柳)、三世寺(さんぜじ)(現弘前市三世寺)、
湊
(現五所川原市
湊
)、大泊(現五所川原市藻川,(もかわ))、蒔田(まきた)(現金木町蒔田)、十三
湊
(じゅうさんみなと)(現市浦村十三)などが挙げられる,領内の米や木材は各地の川
湊
に集められ、十三
湊
まで輸送された。,これらの物資は十三湖周辺の小型船によって、七里長浜沖を南下、鰺ヶ沢
湊
(現鰺ヶ沢町浜町)まで廻漕され、そこから
通史編1(古代・中世)
(秋田の唐糸伝説)
『初七日山釈迦堂略縁起』『羽州秋田郡土崎
湊
納坂二七日山光明寺御本尊釈迦如来並寺之縁起』では、唐糸は「鎌倉金沢,やがて時頼が諸国巡検の折に「津軽藤崎
湊
」へ立ち寄り、そこで唐糸と再会するが、唐糸は書き置きを残して「烏,また人見蕉雨の『余腍録』には、二七日山光明寺を建てたのは「のしろ
湊
」であるともみえている。
資料編2(近世編1)
(【解説】)
津軽領の
湊
は、青森・鯵ヶ沢の両
湊
が中心であり、城米は直接両
湊
へ駄送したほか、岩木川舟運を経て、十三(とさ,)で積み替えて鯵ヶ沢
湊
へ回漕する、いわゆる「十三小廻(とさこまわ)し」の態勢がとられ、同
湊
で西廻り海運
資料編2(近世編1)
(はじめに)
また付録として、弘前城下、青森
湊
町、鯵ヶ沢
湊
町、十三
湊
町、深浦
湊
町、藤崎(ふじさき)村、岩舘(いわだて
通史編2(近世1)
(由緒書から)
住んでいた竹内勘六の由緒によると、先祖嘉右衛門は、高松の出身で、天文年間(一五三二~一五五五)に十三
湊
へ,彼は、越前三国
湊
との交流があったこともさることながら、文化・宗教の移入者として、多くの情報をもたらした
通史編2(近世1)
(青森町の成立と青森開港)
青森町の成立と青森開港 右のような歴史的な背景の中で、同藩が、外浜(そとがはま)地帯に新たな町づくりと
湊
の,ここに青森は、弘前に次ぐ町方を抱える
湊
町として発展する素地が築かれることになった。 ,弘前藩は、中世以来の有力な
湊
町の油川(あぶらかわ)を都市建設の中核に設定せず、わざわざ善知鳥(うとう),なお上浜町には沖口番所と遠見矢倉(とおみやぐら)が設置され、
湊
への船の出入りを監視していた。,前述のように、青森に隣接する中世以来の有力な
湊
であった大浜=油川の存在が大きく、青森への商船集中を藩が
通史編1(古代・中世)
(戦国時代の都市(城下町)発生)
さらに地域の経済活動の中心となっていた市・町屋・交通の要である宿駅・
湊
・津などの整備も行われている。,しかしなかには寺院を中心に寺内町が形成されたものや、大阪の堺や大
湊
など高度な自治組織をもつ港町が、畿内地方
資料編2(近世編1)
(第二節 海運の発達)
第二節 海運の発達 一 海運に関する布達 二 出舟・出人、
湊
口、津出・入津役 (旧八木橋氏蔵)
通史編1(古代・中世)
(安藤氏の所領)
郷・片野辺(かたのべ)郷と糠部宇曽利(ぬかのぶうそり)郷(下北半島)・中浜御牧(なかはまのみまき)・
湊
(,「
湊
」については、それを十三
湊
とする説と、下北半島の内に求める説とに分かれるが、配列のみからいうと後者,近年では十三
湊
説が有力である。 「関」は現在の深浦町。
通史編2(近世1)
(蝦夷地への人口流出)
天保元年(一八三〇)、藩は松前渡海に関する規定を設け、領民が渡海しようとする時は
湊
口(みなとぐち)改めを,町方は町名主、在方は庄屋が発行する印形(いんぎょう)を
湊
口の問屋を経由して
湊
目付に提出し、改めを受けた
通史編1(古代・中世)
(津軽奪還を目指して)
もりすえ)の甥にあたる潮潟重季(うしおがたしげすえ)の嫡子政季(師季)(まさすえ(もろすえ))は、十三
湊
の,このことから、師季の保護は、南部氏が十三
湊
安藤氏にかわる安東(この時期に「安藤」から「安東」に氏の表記,一方、十三
湊
を追われ蝦夷地に逃れた安藤盛季(もりすえ)の子息康季(やすすえ)は、そののち津軽に戻ったが,さらに同年、秋田にいる安東氏の一族、
湊
安東(みなとあんどう)氏の当主安東堯季(たかすえ)は、安東師季を
通史編2(近世1)
(一〇 平山(ひらやま)日記)
一〇 平山(ひらやま)日記 六巻よりなる、五所川原市
湊
(みなと)の平山家の家記。
資料編1(考古編)
((5)塩業)
〃 東田沢字大沢 製塩土器 〃 7 釜場遺跡 〃 浦田字釜場 〃 〃 8 雷電際遺跡 〃 小
湊
字雷電際, 〃 〃 9 小
湊
遺跡 〃 小
湊
〃 〃 10 近野遺跡 青森市安田字近野 製塩土器,土製支脚, イタヤの木 〃 〃 27 浜中野沢遺跡 むつ市近川浜中野沢 〃 〃 28 八角館遺跡 〃 大
湊
資料編1(古代・中世編)
([十六世紀])
その中に「奥州十三
湊
日之本将軍」による再建の事蹟が記される。,また蠣崎季広、
湊
家をはじめ津軽・秋田の諸氏と姻戚を結ぶという。,下国安東愛季側近奥村惣右衛門あて
湊
安東茂季(
湊
家当主・愛季弟)書状。,●天正十七年(一五八九)二月、秋田豊島城主
湊
通季(
湊
安東茂季の子)、
湊
城主安東実季を急襲、北奥羽をまきこむ,動乱に発展する(
湊
合戦)。
通史編1(古代・中世)
(後方羊蹄の所在地)
その地名の由来である崖山(がけやま)とは十三
湊
北方の権現崎(これまた日本海交通における格好のランドマーク,写真36)であり、そのふもとの大船団碇泊のための格好の港である岩木川河口の十三
湊
こそ、シリペシであろう
通史編2(近世1)
(農村部での騒動)
農村部での騒動 これらはいずれも
湊
町での騒動であるが、藩主の膝元の弘前では直接的な騒動は起こっていない,このことに農民の不満が爆発し、
湊
町の廻米強化に対する批判と呼応するかのように、藩の政策を鋭く批判することとなった
通史編1(古代・中世)
(一 「日の本将軍」安藤氏)
永享八年(一四三六)四月、「奥州十三
湊
日之本将軍」安藤康季(やすすえ)が後花園天皇の勅命を受けて、前年三月
通史編4(近・現代1)
(出生の真実と仏苗学園)
祖母は同じ十三村の浄土宗
湊
迎寺の二四世工藤定巖和尚のもとへ愛蔵を引き取ってもらった。,そこで愛蔵は
湊
迎寺から父のもとにやってきたが、父は養家や妻の心を思いやって、今度は愛蔵を深浦の曹洞宗宝泉寺,そこで愛蔵は再び十三の
湊
迎寺に戻った。
通史編4(近・現代1)
(鉄道の開通と運輸事業)
青森五人、弘前三人(田辺粂吉・福津兼蔵・鹿内友蔵)、碇ヶ関二人、蔵館(現大鰐町蔵館)三人、大鰐二人、小
湊
(,現平内町小
湊
)一人、野辺地一人で構成され、相当広い営業圏を持っていた。
通史編2(近世1)
(町年寄の由緒)
慶長十一年(一六〇六)に家督を継いだ三代目の松井助左衛門のときに、十三
湊
の再開発に着手し、そのほかにも,これらの開発に従事した松井家は、津軽氏の領国形成に不可欠の要素であった、岩木川舟運・十三
湊
、ひいては、
通史編2(近世1)
(西廻海運と領内の整備)
体制の成立がその一つであるが、これは、岩木川流域の津軽の穀倉地帯からの米穀が、舟運(しゅううん)で十三
湊
に,はじめは、主に十三
湊
の町船・岩木川河岸の川舟がそれを担っていた。
通史編2(近世1)
(隠津出・抜け米の取り締まり)
別段締役は「国日記」同年十二月二十四日条によると、青森・弘前の周辺、主要な在町・
湊
町、街道沿いの拠点の,特に、黒石領との境界に当たる浅瀬石(あせいし)、廻米の積み出し
湊
である青森へ通じる鶴ヶ坂・柳久保(奥州街道,秋田領に通じる早瀬野(はやせの)、箱館への不正な津出があった青森、ほかに他
湊
に通じる十三・小泊などで摘発
通史編2(近世1)
(外浜の掌握と開発)
油川は、交通の大動脈である奥大道の終点であり、また、夷島(えぞがしま)への窓口となるような
湊
町でもあり,された史料に「外浜油川沖口御横目」というように、沖口役銭(おきぐちやくせん)を徴収するような機能が各
湊
に
資料編1(考古編)
(5.16世紀の様相)
その事は、染付や美濃瀬戸大窯期の資料をまったく出土しない十三
湊
の資料に端的に現れ、16世紀の空白の「
湊
資料編1(古代・中世編)
([十五世紀])
●応永十八年(一四一一)、南部守行、秋田
湊
の安藤鹿季と戦う。葛西持信これを援助するという。,●この時期、『時衆過去帳』に北奥羽住人の名が多数記され、下国安藤氏や合浦・十三
湊
住人の名も見える。,●嘉吉二年(一四四二)、下国安藤盛季、南部義政に敗れ十三
湊
を追われるという。,●康正二年(一四五六)、この年、秋田
湊
氏と南部氏が抗争し、北奥羽の動乱におよぶという。,●長禄三年(一四五九)、
湊
安東堯季、上洛して将軍義政に拝謁。左衛門督に任ぜられるという。
通史編1(古代・中世)
(安藤愛季の津軽侵略)
安藤愛季(写真199)は、天文八年(一五三九)に出羽国檜山城主下国舜季(しものくにきよすえ)と秋田城主
湊
堯季,みなとたかすえ)の娘の間に二男として生まれ、天文二十一年に檜山城主を嗣ぎ、元亀元年(一五七)に檜山・秋田
湊
両城
通史編2(近世1)
(豊臣政権の奉行衆)
なお、伏見作事板は、越前敦賀・三国(みくに)、若狭小浜(おばま)の豪商によって担われ、すべて敦賀
湊
に一旦陸揚,図32.越前国敦賀
湊
・若狭国小浜交通図 仙北の六郷氏・本堂氏・戸沢氏の太閤蔵入地は、「惣而川沿之地
通史編1(古代・中世)
(多様な系譜の在り方)
系譜の在り方 このように、安藤氏の系図相互にさまざまな混乱やずれが生じたのは、上国と下国、のちには
湊
と
通史編2(近世1)
(津軽地域の確保と蝦夷荒)
鰺ヶ沢は、西浜の重要な
湊
であり、このころまでには夷島への通路としても機能していたと思われ(資料古代・中世,これによって、十三
湊
(とさみなと)を含む岩木川下流域の地域を掌握することになり、日本海交易につながる経路
通史編4(近・現代1)
(シベリア出兵と「尼港事件」)
これら艦隊は大
湊
要港部を拠点としており、青森県はまさに「北の要塞」の役割を果たすことになったのである。,写真161 大
湊
要港部 写真162 当時のウラジオストク 日本は革命の混乱を利用して
通史編1(古代・中世)
(舶載と国産)
一四世紀後半から一五世紀の状況は、弘前市内の境関館や、尻八館(青森市)・志苔(しのり)館(函館市)そして十三
湊
の,図46 15・16世紀における北日本の陶磁器出土遺跡 ただ、前述した十三
湊
の動きを別にすれば、
通史編5(近・現代2)
(戦時中の弘高女)
また、高学年の中には、女子挺身隊として大
湊
要港部へ出動した一五人もあった。
通史編1(古代・中世)
(北の認識)
こうした津軽ないし出羽方面を北と意識するものは、やはり安藤氏関係の貴重な史料群である、千葉
湊
家の文書・
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