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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) (城下の銭湯)

城下の銭湯 銭湯での男女混浴は風紀が乱れるということで、幕府の寛政改革では禁止されたが、松平定信(まつだいらさだのぶ,藩では文政十二年(一八二九)十二月に、城下の銭湯に対し男女を分けた入浴を実施させようとしたが、銭湯側では,同年九月になると、日割りでは町人や遠くから来る者にとって(城下周辺の農村か)不便であり、そのため入湯人数,城下の銭湯は庶民に利用された社交場の一つでもあったが、混浴を認めざるをえない状態になったのは、風紀が乱,図128.柘榴口 図129.風呂屋の看板 / 城下の銭湯
通史編4(近・現代1) (理髪床・銭湯)

明治四年ごろ、市中には二一軒の湯屋があり、湯銭は明治三年十一月に銅銭四文、それが四年四月から三文になった,八年二月に布令が出て、男女の浴室を区分し、また、湯屋の入口に赤と白の布を横にはぎ合わせた長さ二尺ほどの,小旗を目印に立てることになり、湯銭は八文になった。,十年八月になって岡湯(上がり湯)が自由に汲み出せるようになった。,十九年四月一日から実施することになった「湯屋取締規則」によれば営業時間を午前五時から午後十一時までとし / 理髪床・銭湯
通史編3(近世2) (金木屋の生活)

高屋(たかや)村(現中津軽郡岩木町)の庄屋が嶽(だけ)温泉(現中津軽郡岩木町)へ入湯するので、見舞人を,二十八日、今朝、大道寺源之進と家族一同が、湯段(ゆだん)温泉(現中津軽郡岩木町)へ湯治へ行く途中我が家,二日、〓の親方が温湯(ぬるゆ)(現黒石市)へ入湯につき見舞いを差し上げる。,〓の母が嶽温泉へ湯治の帰途に立ち寄る。我が家の稲刈りが今日終わったが実入りがよくない。,現北津軽郡板柳町)〓の亭主と尾上(おのえ)村(現南津軽郡尾上町)西谷(にしや)の後家(〓の妹)が、嶽温泉に入湯の / 金木屋の生活
資料編1(古代・中世編) (五 東目屋地区の中世城館の特徴)

五 東目屋地区の中世城館の特徴 一、二でも述べたように、東目屋地区は弘前市内でも特に中世城館跡が密集,東目屋盆地の東にそびえる高館山にも高館城跡が残り、安藤勢が立てこもったと伝える。,しかも、大浦城から目屋に向かう旧目屋街道は、この高館城跡の直下を通っていて、高野館跡(城館というより、,・相馬・五所・湯口・獨狐・宮館等、諸方の小館不残御家臣ニ相成、御郡中一円平均ニ相成候」という記事を載せている,中世後期、東目屋盆地の入口一帯が「目屋ノ澤」と呼ばれていたらしいことから(「津軽郡中名字」)、この「目屋澤館 / 五 東目屋地区の中世城館の特徴
通史編3(近世2) (悪戸村における製陶)

―の文化六年(一八〇九)九月八日条によると、秋田領(場所不明)で製瓦技術を習得してきていた鋳物師冨川屋圓次郎,(とがわやえんじろう)が、城中の塀と番所の屋根に用いる瓦の試焼に当たることになった。,「封内事実秘苑(ほうだいじじつひえん)」(弘図郷)の文政九年七月二十四日条によると、藩主が湯口(現市内下湯口,「封内事実秘苑」天保元年(一八三〇)二月十一日条によると、湯口村(下湯口を含む)では国産陶器の焼成が引,五郎七は筑前上須恵(ちくぜんかみすえ)(現福岡県糟屋(かすや)郡須恵町上須恵(かみすえ))の瀬戸師で、
通史編4(近・現代1) (城西小学校創立)

中初 土手学区 三 ○土手町、品川町、山道町、住吉町、新品川町、鍛冶町、○新鍛冶町、北川端町、桶屋町,禰宜町、若党町、小人町、春日町、馬喰町、○亀甲町 亀甲 中初 盈進 中初 下町学区 一 鷹匠町、馬屋町,、西大工町、新町、駒越町、平岡町、紺屋町、浜ノ町、袋町、○五十石町 城西 中初 本町学区 土手町学区 ,○富田、紙漉町 富田 中初 富田分校 中初 小沢学区 一 ○小沢、坂本 小沢 初等 悪戸学区 一 下湯口,、○悪戸、常盤坂 青柳 中初 湯口学区 一 ○湯口、黒滝 石堂 初等 明治十七年五月十九日付青森県布達
通史編4(近・現代1) (盗伐問題と師団の設置)

『下湯口集落史』上巻(弘前市下湯口町会、一九八九年)で著者の石岡国雄は、古老から聞いた明治三十四年前後,この事件は大変大掛りなもので、一野渡・湯口・相馬・目屋に跨(また)がる国有林にそれら山下村の一野渡・大和沢,・狼森・悪戸・下湯口・相馬村全域、西目屋村にわたる一〇〇〇人にも上る大規模事件であったといわれ、悪戸、,下湯口では男手のある家はほとんど連座したという。  
通史編3(近世2) (江戸での買い物)

(4)娯楽――小山氏は上屋敷の長屋に居住し、勤務のとき以外は長屋での単調な生活を余儀なくされるわけだが,(5)その他――銭湯代は江戸滞在八ヵ月で一〇〇回以上払っているので、一ヵ月平均一三回ほど銭湯へ行ったことになる,手紙を出している回数も多く、また「長屋払」と記されているので、上屋敷の長屋の借家賃を払っていることが知,これらのほかに、日常の生活に必要と思われる品物がたくさんみられ、購入した品物から小山氏の長屋暮らしの様子
通史編1(自然・原始) (海に流れ込んだ火砕流)

西目屋村西目屋小・中学校の下の崖にみられる軽石凝灰石を、フィッショントラック法で年代測定した結果、三六,尾開山凝灰岩は、湯ノ沢カルデラから噴出した火砕流堆積物が堆積してできた地層である。,湯ノ沢カルデラは、碇ヶ関カルデラ(一六四頁参照)とほぼ同じ所にあったが、碇ヶ関カルデラよりは、古い時代,しかし、その当時、これほど大量の火砕流を放出した火山がどこに位置していたのかについては、湯ノ沢カルデラ,尾開山凝灰岩 八甲田第1期火砕流堆積物(村岡・長谷,1990) 大落前川層(根本,2000) 西目屋村上田代
通史編4(近・現代1) (大区小区制の成立)

長坂町 蔵主町 大浦町 亀甲町 小人町 馬喰町 春日町 若党町 鍛冶町 新鍛冶町 北川端丁 南川端丁 銅屋町, 桶屋町 新寺町 北新寺町 新寺町新割丁 茂森新丁 古堀新割丁 西茂森町 古堀丁 茂森町 在府丁 相良丁, 北土器(かわらけ)丁 南土器丁 中土器丁 上土器丁 代官丁 和徳町 茶畑丁 茶畑新割丁 北横丁 紺屋丁, 浜ノ町 五十石町 袋町 鷹匠町 馬屋町 新町 西大工町 平岡町 駒越町 二小区(一八ヵ村) 黒滝村, 湯口村 下湯口村 悪戸村 常盤坂村 坂本村 小沢村 原ヶ平村 富田村 和徳村 高崎村 大久保村 百田村
通史編3(近世2) (瓦の利用)

その他、および三の丸屋形(邸宅)等。,城内の場合、本丸では一部の建造物の屋根周りや棟瓦に使用された。,)屋)が宇和野銀納畑(上野とも表記。,下湯口(現市内下湯口)の瀬戸師石岡林兵衛の場合は半官半民の形で、藩用品を含め商用としての製瓦であった。,下湯口の神明宮にある嘉永六年(一八五三)の寄進札の最初に「一、瓦・左官 石岡林兵衛」と記されている。
通史編3(近世2) (猿賀神社より盗み)

のことで、徒刑は「寛政律」の規定では、取上の御仕置場で鞭刑の執行後に、尾太(おっぷ)銅山(現中津軽郡西目屋村,、現在廃坑)や湯野沢(ゆのさわ)鉱山(現南津軽郡碇ヶ関村、現在廃坑)で労役に従事することになっていたのだが,牢屋は元来未決拘置所のことであるが、右の牢居のほかに永牢(ながろう)を科された者が収容された。
通史編5(近・現代2) (弘前市農協の合併)

、和徳、松木平、十腰内、藤代、堀越、小栗山、弘前畜産、豊田第一、清水りんご、弘前市、独狐、鬼楢、東目屋第一,、高杉、千年第一、薬師堂、悪戸、船沢、三和、東目屋、小沢、豊田村、下湯口、豊田第二)の合併合意が成立した,)(藤代)、専務理事菊池正英(きくちまさえい)(和徳)、りんご担当常務石岡国雄(いしおかくにお)(下湯口
通史編3(近世2) (塵芥捨場の設置)

すなわち、御徒町川添(おかちまちかわぞえ)、土手町(どてまち)川添、桶屋町(おけやまち)川添、北横町(,南溜池東側の土居添の下、西川岸川欠けの所、土手町の土田屋小兵衛家の裏通、御徒町川端川欠けの所、馬屋町の,布川文治家の後、五十石町の奥瀬登家の向かい、春日町の外れの長谷河左太郎上明き屋敷、大浦町(おおうらまち,)の杉山専太郎家の隣にある御用地、与力町(よりきちょう)内の毛内権蔵上屋敷、北横町(きたよこちょう)の,(たかじょうまち)の川添、荒町(あらまち)の後の古川添、五十石町東側の御馬寄場、大浦町御用地大湯彦五郎家
資料編1(考古編) (28.尻高沢層Ⅲ)(しりたかざわそう))

模式地は、西目屋村湯ノ沢上流より尻高沢一帯。藍内川・藤倉川・大沢川・横倉川などの流域に広く分布する。
通史編2(近世1) (本村と新田)

十三(とさ)(現北津軽郡市浦村十三)を巡検し、亀ヶ岡(かめがおか)(現西津軽郡木造町亀ヶ岡)に城と町屋敷建設,信枚は寛永元年(一六二四)六月二十五日に森内左兵衛と大湯彦右衛門に大湯町村(おおゆまちむら)の開発を命,大湯町村は現西津軽郡木造町大湯町のことであるが、実際の開村は元禄九年(一六九六)であるという(『永禄日記,なお、亀ヶ岡築城計画、中止、大湯町村取り立て、これらは一連のつながりがあり、元和八年に出された亀ヶ岡築城計画,その代わりに大湯町村派立が計画されたようである。  
通史編3(近世2) (帰国の旅)

五月三日、午前六時、上屋敷(かみやしき)(神田小川町、現東京都千代田区)へ行き、薬箱などの準備をする。,十時藩主が上屋敷を出発、十二時前草下(加)(そうか)で昼休み。,午後四時前、湯原(ゆばら)へ到着。松平(まつだいら)陸奥守の使者が来る。  ,湯沢(ゆざわ)へ午後二時すぎ到着。  十六日、午前六時前に湯沢を出発し、横手(よこて)で昼の休憩。,湊の本陣の主人は河野屋弥三右衛門、私たちの宿(脇本陣か)の主人は杉山藤兵衛であった。  
資料編1(考古編) ((2)集石・配石遺構)

数百集まって全体的に円を描くもので、同様の遺跡遺構としては、国の特別史跡に指定されている秋田県鹿角市の大湯遺跡,)、同郡三戸町泉山(晩期)、むつ市酪農五号(後期)、下北郡川内町宿野部榀ノ木平(後期)、同郡東通村尻屋札地,これらの中から大湯と小牧野遺跡を参考にすると、前者は野中堂と万座の2地区に分かれており、両地区とも内帯,この両地区の遺構について、かつて縄文時代の祭祀場説と墓地説とが存在したが、大湯遺跡調査によって集石ブロック,また、大湯の万座と同様に、角あるいは髭ともいわれる環状列石から外側へ延びる列石が数か所に存在する。
通史編4(近・現代1) (生活刷新の布告)

一、湯屋ニ於テ頭上ヨリ湯ヲ掛ク間敷事。 一、途中或ハ坐上ニテ風呂敷様ノモノヲ冠ル間敷事。,店先及ビ人ノ触目スル所ニテ虱ヲ取リ或ハ噛殺ス事 第五条 便器ヲ枕頭ニ置キ臥ナガラ尿スル事 第六条 湯屋,ニ於テ入浴中、頭上ヨリ湯ヲ被ル事 第七条 便所設立ノ場ニテ他ノ街道或ハ溝渠ヘ猥リニ尿スル事 第八条
資料編1(考古編) (第5節 温泉)

津軽平野周辺にあるもののうち、大鰐温泉、温湯・板留温泉、嶽・湯段温泉などが高温泉のタイプに含められ、酸,ヶ湯・蔦温泉もこれに入る。,一般に第四紀火山に近接した高温泉は、硫酸酸性泉(嶽・湯段温泉、酸ヶ湯温泉)が見られ、第四紀火山から離れた,境関温泉 弘前市大字境関字亥ノ宮8-1 550 150~100 46.0 0 153 14 白菊温泉 紺屋町温泉,弘前市大字紺屋町52-1 500 150~100 36.0 0 230 15 川端泉 弘前市大字堅田字宮川
通史編1(自然・原始) (南麓)

南麓 写真12は、岳~百沢間の地蔵茶屋付近、写真13は岩木山百沢スキー場での露頭写真である。,百沢面は、おおむね岳東方を流れる湯ノ沢から毒蛇沢にかけて分布している。,写真12 地蔵茶屋付近の土石流堆積物。地表直下とローム層中に礫が層状に含まれる。
資料編1(考古編) ((1)貝塚に見る食生活)

その種類は斧足(ふそく)類(二枚貝)で表5に示したように52種(帽子屋敷貝塚でオキアサリが出土しており,                            ○ ○         ○     ○ 早・前期 湯ノ,          ○         ○                   ○         早・前期 湯ノ,                                            ○         早・前期 湯ノ,                                                    早・前期 湯ノ
通史編5(近・現代2) (農業会の解体と農協の乱立)

市町村名 農協名 設立年月日 市町村名 農協名 設立年月日 市町村名 農協名 設立年月日 清水村 下湯口,東目屋村 昭和23年3月18日 清水村 清水村青柳 昭和23年3月23日 駒越村 駒越村民主 昭和23,年5月28日 和徳村 和徳村 昭和23年4月6日 岩木村 岩木村百沢 昭和23年4月22日 相馬村 湯口,西目屋村 昭和23年4月9日 西目屋村 砂子瀬 昭和23年4月24日 裾野村 裾野村 昭和23年8月,西目屋村更正 昭和23年4月28日 相馬村 紙漉沢 昭和23年9月16日 新和村 新和村 昭和23年
資料編1(考古編) (31.砂子瀬層Ⅲ)(すなこせそう))

模式地は、西目屋村砂子瀬の岩木川流域。,藍内川層上半部、酒井(1960)の一野渡層、岩井(1962)の関ヶ平層、大沢(1962)の黒石沢層上半部と湯口山層
通史編4(近・現代1) (戸籍法と戸籍区)

区域内にある家屋敷は華士族、平民の別なく何番屋敷と番号が付けられ、その順番によって戸籍簿が作られた。,#160;5 (1872)  3 青森県下に区画(戸籍区)を設ける  4 庄屋・,津軽郡第二〇区内小一区 上銀丁 新屋敷 茂森町 宇庭光海及耕春院并元門前 長勝寺々中一円 同元門前 ,高田 境関 菅野 福田 第一九区(和徳) 和徳 宮田 津賀野 小沢 百田 堅田 大久保 向外瀬 湯口, 撫牛子(ないじょうし) 悪戸 高崎 清野袋 常盤坂 下湯口 黒滝 坂本 原ヶ平 第二一区(駒越)
通史編3(近世2) (信政の文治)

桐山正哲(しょうてつ)   神道 山野十右衛門、北川新次郎、河原岡新右衛門・同新次郎   和学 十河能登、湯浅律斎,和田玄亮、河野祐作(針医)、古郡玄宣、佐々木宗寿、小山内三益、八郎兵衛(歯科医)、豊田検校、十河能登、湯浅律斎,いもの)師、塗師(ぬし)、鏡研(かがみとぎ)、大工、石工(いしく)、造船、木地挽(きじひき)、瓦師、桶屋、,瀬戸物、屋根葺、車牛遣、庭師、鷹匠、具足師、鍛冶師、弓師、矢師等々、生活全般の領域に及んで技能者が多数召
通史編3(近世2) ((二)食事)

襲封直後の記録によって朝飯は一汁一菜、夕飯は平椀(ひらわん)(平椀に盛った料理)もしくは焼物一種、夜は湯漬,御焼物 一、御鉢御通下ル  一、御盃台 御焼物ト引替 一、御銚子 御鉢付所江付ル   一、御肴 御台屋江置,、御銚子 三献目 一、御肴 御吸物膳ヘ上ル   一、御盃台下ル   一、御吸物御膳下ル   一、御湯   
通史編3(近世2) (瀬戸師林兵衛による製陶)

窯跡は現在のところ①扇田(おうぎた)窯(現市内下湯口字扇田)②野際(のぎわ)(野木屋または野木和)窯(,現市内下湯口字扇田か)③青柳(あおやぎ)窯(同湯口字青柳)が挙げられる。,大小の擂鉢と片口、徳利、湯通し、飯銅(はんどう)、土鍋(どなべ)、各種茶碗類、各種皿類、生姜(しょうが
通史編3(近世2) (捕虜となった庶民)

そこで庄内兵も彼を放置し、四日間陣屋の前に縛られて置かれた。,それから今之助は四日かけて縄つきのうえ鶴岡城下に連れて行かれ、牢屋に入れられた。,としてはまったく生きた心地がしなかったであろうが、庄内藩側も町人一人の命を奪うことまでは考えておらず、五日で牢屋から,出し、一ト市町の美濃屋という商人に預けて、籠居(ろうきょ)(軟禁)処分とした。,同日、馬門(まかど)村(現上北郡野辺地町)の湯小屋という所にさしかかった時、突如銃声が響き、恐怖で度を
通史編3(近世2) (草創期三代)

彼は黒石、大浦村高屋(現中津軽郡岩木町)、弘前に住み二二年間を津軽で過ごした。,調興は当初城内に住んだが、後に湯口村に居住、さらに馬屋町の南隅(旧藤田別邸の庭園内)に移住し、八十四歳
通史編1(自然・原始) (大規模な海底地滑りの痕跡)

写真49 東目屋層の変形した地層のクローズアップ。,このような特徴をもった堆積物は、弘前市付近では東目屋(ひがしめや)層と呼ばれていて、西目屋村の郷坂沢の,がっていた海域の南の方に三つもあり、それぞれに碇ヶ関(いかりがせき)カルデラ、沖浦(おきうら)カルデラ、湯ノ,おびらき)山のふもとの、お茶の水として知られる湧水付近でみられる白っぽい岩石や、りんご園の白い崖の地層は、湯ノ,平賀町尾崎の白岩(しろいわ)(写真53)と呼ばれる崖を作っているのも、湯ノ沢カルデラから流出した火砕流
通史編1(自然・原始) (縄文集落)

秋田県鹿角(かづの)市の高屋館(たかやだて)遺跡は、後期前葉の十腰内Ⅰ群(式)土器期の各遺構が、配石遺構,を中心に土壙・柱穴群と順に取り巻く形で弧状に配列され(43)、同じく鹿角市の大湯環状列石万座(まんざ)
通史編4(近・現代1) (鬼沢小学開校と「村落小学」)

ちなみに、最も早いのは同郡村市村(現西目屋村)「村市小学」と砂子瀬村(現西目屋村)「砂子瀬小学」で、九年五月十日,表17 中津軽郡各小学 名 称 地 名 設立年 新築 旧屋 公有 借用 教 員 生 徒 授業料 備,の前身 小沢小学 同 小沢村 同九月十九日 同 同 一 四二 同 現小沢小学校 青柳小学 同 下湯口村,一 三二 同 現大和沢小学校 桜庭小学 同 国吉村 同七月 同 同 二 六二 一 同 現東目屋小学校
通史編4(近・現代1) (凶作と副業の奨励)

100 駒 越 … 535 357 岩 木 602 152 682 相 馬 341 342 340 東目屋,446 大 浦 … 664 344 船 沢 604 715 146 高 杉 333 300 333 西目屋,として藁細工、蔓細工、柳細工、藺筵、竹細工、木綿機業、木炭製造、寒天、苹果袋作、氷豆腐製造、草履表製造、湯葉製造
通史編4(近・現代1) (町村合併と弘前市制施行)

清水村(大字富田)-富田村 紙漉町 坂本村 常盤坂村 悪戸村 下湯口村 小沢村 和徳村(大字堅田)-, 取上村 千年村(大字小栗山)-小栗山村 松木平村 清水森村 大和沢村 一野渡村 原ヶ平村 東目屋村,東目屋村-目屋は古名であり、西目屋村の東なので東目屋村。
通史編2(近世1) (城下弘前の変化)

これによれば、家業として木綿(もめん)屋・小間物屋・菓子屋・そば屋・そうめん屋・青物屋などの商家があり,商家では地名・国名を屋号とするものが多く、江戸屋・京屋・大坂屋・兵庫屋・堺屋・尾張屋・丹波(たんば)屋,・広島屋・備前(びぜん)屋・大和屋・若狭(わかさ)屋・越前屋・越中屋・越後屋・輪島屋・秋田屋などがあった,湯屋と記さずに風呂屋と記したり、大坂屋が多いことからわかるように、上方との交流が深いことが判明する。,第一は新銅屋町(現銅屋町)と新派(しんはだち)町(現桶屋町・新鍛冶町)ができ、万治の絵図にあった銅屋町
資料編1(考古編) (〈1〉津軽地方の土師器と擦文土器)

羽黒平遺跡 浪岡町五本松字羽黒平 18号住居覆土 〃 10C後半 県埋文報 12 野尻遺跡  〃 高屋敷字野尻,集落 〃 10C~ 23 上小国遺跡 蟹田町小国字館下 採集 〃 24 杢沢遺跡 鰺ヶ沢町湯舟町字若山,30 油川遺跡  〃 西田沢字浜田  〃 〃 10C後~11C 31 大平D地点遺跡 東通村尻屋字大平,32 白糠赤平遺跡  〃 白糠字赤平  〃 〃 9C~10C 表採資料 33 ムシリ遺跡  〃 尻屋, 〃 34 稲崎遺跡  〃 蒲野沢字浜ノ平 竪穴 〃 9C~10C 35 将木館遺跡  〃 田屋字将木館
資料編1(考古編) ([付図])

境関温泉 弘前市大字境関字亥ノ宮8-1 550 150~100 46.0 0 153 14 白菊温泉 紺屋町温泉,弘前市大字紺屋町52-1 500 150~100 36.0 0 230 15 川端泉 弘前市大字堅田字宮川,弘前市大字小沢字野本 城館跡 歴史 02110 坂本館 弘前市大字館後字新田 城館跡 歴史 02111 古屋敷,弘前市大字国吉字村本 城館跡 鎌倉 02112 出間館 弘前市大字銅屋町 城館跡 安土桃山,江戸 02113,02081 小沢遺跡 弘前市大字小沢 丘陵東斜面 包含地 縄文(後・晩期) 縄文土器 66 02082 銅屋町遺跡
通史編1(古代・中世) ([付図])

集落跡・城館跡 縄文・弥生 平安・中世 74 弘前城跡 下白銀町、西茂森1・2丁目、南塘町 桶屋町,、銅屋町 公園・寺院・宅地 城館跡 縄文・平安・江戸 75 蔵主町遺跡 蔵主町 宅地 包蔵地 縄文 76,歴史 109 小沢舘 小沢字前沢 田 〃 〃 110 坂本舘 館後字新田 田・畑 〃 〃 111 古屋敷,森(1)遺跡  〃 字湯ヶ森182の2・3ほか 〃 〃 平安 182 湯ヶ森(2)遺跡  〃  〃 13,の22ほか 〃 〃 縄文 183 湯ヶ森(3)遺跡  〃  〃 57ほか 〃 〃 〃 184 湯ヶ森(
通史編1(自然・原始) (環状列石)

環状列石 この類の遺跡は、昭和二十六年(一九五一)から実施された秋田県鹿角市にある大湯遺跡の調査を契機,準ずるものとして報告されている例は、昭和二十九年(一九五四)に、下北半島の東北端で発掘された東通村尻屋にある,尻屋札地(ふだち)遺跡(後期・十腰内Ⅰ群〈式〉土器期)、岩木山の東北麓にあって、昭和三十五年(一九六〇
通史編3(近世2) ((一)衣服)

下衣は男は二部式で袴式の裁付(たっつけ)・軽袗(かるさん)・股引(ももひき)などであり、女は湯文字(ゆもじ,なぬし)そのほか農民の女房は紬(つむぎ)の着物まではよいとしたが、同十九年五月の「郷村諸法度」では、庄屋(
資料編1(古代・中世編) (二 本章で取り上げる中世城館跡)

(5)市街地区 ⑳和徳城(和徳町)、21鷹ヶ岡城(のちの弘前城、下白銀町)、22出間(でま)館(銅屋町,(6)清水地区 23青柳館(湯口館、下湯口字青柳)、24小沢館(小沢字広野)、25坂元館(坂元、Bのみ,(9)東目屋地区 36高野(こうや)館(国吉字耕田)、37坂本館(目屋川新館・古館、館後(たてうしろ,)字新田)、38古屋敷(国吉字村元、Aのみ)、39国吉館(山伏館、国吉字坂本)、40黒土館(黒土、A・,しかも、近隣する坂本館など、東目屋の他の城館の在り方を通じ、地域内での城館相互の関係を考えることも可能
通史編4(近・現代1) (市制施行直前の商業)

油 類 152 15 11 64 9 30 1 22 酢 96 8 2 … 4 … … 82 八百屋,608 薬 種 14 … 2 9 1 … … 2 蝋 燭 232 … 60 … 6 20 4 142 湯 ,24 4 5 9 3 … … 3 旅 店 251 36 7 32 11 … … 165 船問屋 24,… 9 … … … … 15 回漕業 133 14 2 … … … … 117 湯 屋 183 16,7 28 6 5 2 119 料理屋 52 6 3 12 1 2 2 26 飲食店 671 34 15
通史編3(近世2) (城下での生活)

監物は午前四時に死亡し、二十五歳であったと大湯市兵衛が語っている。,神楽があり、小寺三郎右衛門・嶋口半左衛門・吉屋久四郎・竹屋半四郎・竹村宗甫などもいた。,十六日、昼ころに大湯彦八・打越源五郎・唐牛与右衛門を訪ねる。,昼飯すぎ彼らとともに浜の町の橋(現富士見橋か)を見物に行き、川原で酒を飲み、午後八時に百沢小左衛門宅で湯づけをご,唐牛与右衛門・新屋縫殿丞・青沼与四郎・鑓屋庄五郎も招かれていた。
通史編4(近・現代1) (営業税雑種税賦課法の審議)

以上のほか、料理屋、湯屋、理髪に関する雑種税第一種に関する租税賦課案があった。
通史編3(近世2) (公娼と私娼)

温泉場へ出てくることは禁止されていたにもかかわらず、大鰐(おおわに)(現南津軽郡大鰐町)や黒石領の温湯(,両浜の遊女になるには人身売買(じんしんばいばい)によるほか、親が遊女屋へ証文を出して年季奉公の形をとった,しかし、女たちがこのような奉公に耐えきれずに、遊女屋から逃げ出して温泉場で稼ぐ者もあった。
通史編1(自然・原始) (積雪)

山地の酸ヶ湯(標高九二〇メートル)では統計年一九七六~一九九〇年の平均値が三九五センチメートル、期間の,は、青森や五所川原・三厩(みんまや)・東目屋(ひがしめや)で最深積雪が二〇〇センチメートルを超す豪雪・,山地の酸ヶ湯では、十一月下旬から五月中旬までの根雪期間で約一六〇日。,その後、高さ約三メートルに達する土砂まじりの水流のため、家屋二〇戸、非住家二八棟、水田一五〇町歩の流失
資料編2(近世編1) (【解説】)

津軽家文書、八木橋文庫、旧八木橋文庫蔵史料、弘前藩庁日記(国日記)などの日記類、青森県立図書館所蔵の瀧屋文書,、鯵ヶ沢町公民館所蔵の塩屋文書を中心に、国立国文学研究資料館史料館所蔵の津軽家文書、京都府立丹後郷土資料館所蔵,の丹後国元結屋三上家文書、福井県敦賀市立図書館所蔵の高島屋文書、船登源兵衛文書などからなっており、これらの,から藩財政の悪化にともない、財政の再建を目指して尾太(おっぷ)、砂子瀬(すなこせ)、虹貝(にじかい)、湯口,幕末に至るまでの、西廻り海運や東廻り海運における商品流通の実態を示す史料を中心に、青森や鯵ヶ沢の廻船問屋史料
通史編1(自然・原始) (気候境界と地域特性)

これは休屋(やすみや)、酸ヶ湯(すかゆ)など高地の観測値で確かめられる。  
通史編3(近世2) (焼成について)

また元禄十二年(一六九九)四月二十七日の普請奉行の申し立てでは、明日、土器町(瓦ヶ町とも)瓦屋で瓦を焼成,燃料には岩木川の流木が多く使用されていたほか、悪戸村(現市内悪戸)の松山や湯口(ゆぐち)(現中津軽郡相馬村
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