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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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資料編1(古代・中世編)
([十二世紀])
●治承四年(一一八〇)十二月四日、奥州戎狄藤原秀衡に
源頼朝
を討たせるとの風聞。,●文治二年(一一八六)五月十日、藤原秀衡、
源頼朝
に貢馬。,●文治二年(一一八六)十月三日、
源頼朝
、陸奥よりの貢馬貢金を京進。,また三沢安藤四郎の兵略により、
源頼朝
の勝利。,●文治五年(一一八九)十二月九日、
源頼朝
、奥州の良馬を選び、厩を建てる。
通史編1(古代・中世)
(鎮守府将軍秀衡)
鎮守府将軍秀衡 東国を基盤に軍事政権樹立を目指す
源頼朝
にとって、東北地方への勢力拡大は重大事であり、,前節でも触れたが木曽義仲と
源頼朝
の不和が顕在化したときには、義仲は後白河に迫って頼朝追討の院庁下文(くだしぶみ
通史編1(古代・中世)
(守護・地頭の制)
守護・地頭の制
源頼朝
は、鎌倉幕府の地方支配の要(かなめ)となる制度として守護・地頭の制を整えた。
通史編1(古代・中世)
(津軽曽我氏の出自)
この津軽の曽我氏が、治承四年(一一八〇)の
源頼朝
挙兵による石橋山(いしばしやま)合戦に際して、頼朝に敵対
通史編1(古代・中世)
(治承・寿永内乱下の秀衡)
治承・寿永内乱下の秀衡 治承四年(一一八〇)に始まった、平氏政権打倒を目指す、
源頼朝
(よりとも)をはじめとした,しかしその義仲も翌年には、
源頼朝
の意を受けた範頼(のりより)・義経(よしつね)等に敗死。
通史編1(古代・中世)
(日の本の将軍と地域の自立性)
中世の東国においては将門は東国自立の象徴であり、
源頼朝
も語り物の世界ではそのように称されていた。
通史編1(古代・中世)
(津軽の唐糸伝説)
唐糸草子」にその名がみえるが、ただそのなかでは、木曽義仲の侍の娘として登場し、その娘万寿の舞の徳によって
源頼朝
通史編1(古代・中世)
(津軽平賀郡への入部)
曽我氏と北条氏との関係については、従来、仇討ちで有名な曽我兄弟が、祖父および父のことがもとで
源頼朝
を憚
通史編1(古代・中世)
(奥大道と文物の流通)
二十日余の道程一町ごとに笠卒塔婆をたて、その面に金色の阿弥陀像を描かせた(史料五一五)、と平泉の僧による
源頼朝
通史編1(古代・中世)
(平泉藤原氏)
古代以来の鎮守府はすでになく、名目上、陸奥守が兼任することになって久しい職であったが、のちに木曽義仲と
源頼朝
通史編1(古代・中世)
(三 北奥宗教界の中世的転回)
幕府のいわゆる「東夷成敗権」なるものは、前述したように遠く
源頼朝
に遡源し、それがいくつかの段階を経て時頼
資料編1(古代・中世編)
(第一章 綱文・史料一覧)
……………………… 兵範記・玉葉 137 ●治承四年(一一八〇)十二月四日、奥州戎狄藤原秀衡に
源頼朝
を,……………………………… 吾妻鏡 138 ●文治二年(一一八六)五月十日、藤原秀衡、
源頼朝
に貢馬。,……………………………… 吾妻鏡 138 ●文治二年(一一八六)十月三日、
源頼朝
、陸奥よりの貢馬貢金を,また三沢安藤四郎の兵略により、
源頼朝
の勝利。,……………………………… 吾妻鏡 139 ●文治五年(一一八九)八月二十二日、
源頼朝
、藤原泰衡平泉館の
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