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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編1(自然・原始)
(漆)
漆
漆
を使った遺物の発見は、大正末期から昭和初期に八戸市是川の中居遺跡で認められ、そのすばらしい品々,これらの
漆
塗り製品は縄文晩期に属するものである。 ,、なかには
漆
にベンガラを混ぜて塗った赤色を呈するものもあり、
漆
が特殊なものではなく、三内丸山人にとって,椀・鉢・櫛の一部のほか、赤
漆
塗りの深鉢もみられ、さらに時期は下がるが
漆
を入れていた広口壷型土器もある。,
漆
は塗装剤としてまた接着剤として広く利用されていたのである。 /
漆
通史編4(近・現代1)
(漆器の商況)
漆
器の商況
漆
器については七月三十一日の報告に以下のように記されている。,明治二十年代においては、
漆
器の県外輸出は十分とはいえなかった。 ,
漆
器(殼塗)(当市産)ハ、管内外各地方ヘ輸出アレトモ、販路未タ十分ナラズ、而シテ管外ニ於ケル重ナル取引地方,価格五百拾円ナリ(但壱個トアルハ小包ナリ) 写真87 津軽塗の製品 本市製造家ニテ需用セシ
漆
汁,ヨリ輸入スレトモ、津軽産ハ南部、秋田ノ産ヨリ品質優等ナルヲ以テ、多クハ該品ヲ需用セリ (同前)
漆
器 /
漆
器の商況
通史編2(近世1)
(漆の栽培奨励)
漆
の栽培奨励 津軽領の国産品として代表的なものに
漆
が挙げられる。,十七世紀後半の貞享検地帳では領内の
漆
の総数は三二万七〇〇〇本であるのに対し、文化二年(一八〇五)の「御郡中
漆
之覚,藩は享和元年(一八〇一)、一般の農民に向けて
漆
栽培のための農書「
漆
木家伝書」を成田五右衛門に命じて作成,
漆
から上がる収益は、樹液と蝋燭(ろうそく)の原料になる
漆
実(うるしのみ)に大別できるが、樹液を採取するのは,さらに
漆
栽培について一定の成果が上がると、
漆
仕立証文が下付され、子々孫々にわたる
漆
木の所有が認められたほか /
漆
の栽培奨励
通史編3(近世2)
(近世漆工芸の発展)
近世
漆
工芸の発展 慶長八年(一六〇三)、徳川家康は江戸に幕府を開き、幕藩体制をつくり上げた。,このことは、わが国の
漆
工芸に二つの特色を生じさせた。 ,「一つは、京都で育まれた伝統的
漆
工技術が将軍や大名という後援者を得たことである。,の増大と、さらにこれらに対処してとられた領主の領内
漆
器生産の保護・奨励」である。 ,城下町弘前の
漆
工芸もこのような時代背景をもとにして展開された。 / 近世
漆
工芸の発展
通史編2(近世1)
(漆の集荷・販売体制)
漆
の集荷・販売体制 一方、集荷機構であるが、
漆
守が
漆
実を集め、城下の商人が藩に代行して買い取りを行うという,時代はやや下るが、弘化三年(一八四六)の時点で集荷に当たっていたのは、領内の
漆
守(
漆
守がいない地区では,
漆
守のもとで各村庄屋が一村単位で買い集め、代銭は代官を通じ
漆
守に渡され、さらに庄屋が通帳によって受け取,
漆
の実は買い取り値段が上中下にランク分けされ、さらに山
漆
・里
漆
でも買入れ価格が異なっていた。 ,「
漆
木家伝書」によると、この書が書かれた段階で領内で集荷された樹液(水
漆
)のうち、藩で使用するのが七割 /
漆
の集荷・販売体制
通史編3(近世2)
(江戸後期の漆工芸)
江戸後期の
漆
工芸 江戸時代後半期の津軽の
漆
工芸は、『塗物伝書』や『塗物秘伝書』(弘図岩)から多彩なものであったことがわかる,これらの項目は、着色材のつくり方、下地法、色
漆
の精製法、蒔絵法、春慶(しゅんけい)塗と呂色(ろいろ)塗,、接着剤としての
漆
の使い方、一九種類の塗り技法など大きく七つに分けることができる。,これらの伝書に書かれている技法で塗られたと思われる
漆
器や手板がある。,
漆
器や手板の文様は、細い筆を使って色
漆
で描き、その上に色
漆
を塗り込み、研ぎ出して透明
漆
を塗り、磨いて仕上 / 江戸後期の
漆
工芸
通史編2(近世1)
(その後の漆栽培奨励策)
その後の
漆
栽培奨励策 その後の流れを示すと、廃藩置県に至るまで、
漆
栽培奨励策そのものは続けられ、特に,新庄藩では安政二年(一八五五)に
漆
増殖の一五ヵ年計画を打ち出し、米沢藩では
漆
の一二〇〇万本増殖という過大,これに伴い制度的改革も行われ、
漆
役(
漆
守を改称、世襲制度なども廃した)を統括する役職として
漆
大仕立役を,新設、さらに
漆
役に準ずる役職として「
漆
小仕立役」も新設、
漆
役になるほど経済力のない農民でも
漆
を栽培させられるなど,の一つに指定されているが、一方で
漆
役の栽培ぶりの不徹底さも指摘されており、
漆
栽培をめぐる藩の試行錯誤は / その後の
漆
栽培奨励策
通史編3(近世2)
(江戸中期の漆工芸)
江戸中期の
漆
工芸 元禄に入ると、
漆
工品名・図柄・技法などについても記録されるようになる。 ,(ちょうじ)・麝香(じゃこう)・白檀(びゃくだん)などを入れておく香箱などが使用され、塗師はこれらの
漆
器,また同四年には春慶塗の重箱、同五年には黒塗に蒔絵を加飾した
漆
器、縁に金粉を蒔いた盆の内側には、牡丹の折,(一七〇〇)十一月十八日条には大野山六郎左衛門は手板(ていた)を製作するために、本朱(ほんしゅ)・青
漆
(,さらに実験を行うために、四坪の細工所の薄縁を厚畳に敷き換えほこりを防ぐとともに、
漆
器を乾燥させるために / 江戸中期の
漆
工芸
資料編1(考古編)
((4)漆器・木器生産)
それは、木胎
漆
器だけではなく、植物のつるで編んだ籃胎(らんたい)
漆
器、あるいは織布を用いた布胎(ふたい,最初に
漆
の塗装技術を見る。,律令制に組み込まれた官工房での生産は、黒色
漆
器・朱
漆
器を問わず、木胎の上に布を着せ、高価な
漆
を何度も塗,これは、同時に
漆
器そのものの普及にも拍車がかけられ、11世紀中葉には供膳具のほとんどが土師器から
漆
器へと,(
漆
塗か?) / (4)
漆
器・木器生産
通史編2(近世1)
(林政の展開と漆木の栽培)
漆
が藩にとって領内の産物として重要視されていくのは、
漆
が塗物の原料として、また
漆
の実が蝋燭(ろうそく),主たる仕事は春秋二回の領内見回り、
漆
木栽培可能な場所の見分、各村に専属で置かれた
漆
守の支配、および
漆
掻,さらに
漆
掻きが行われるときには、
漆
奉行の他に足軽目付や足軽組頭から命じられた
漆
掻き立ち会い目付が領内を,採取された生
漆
は
漆
奉行の管理のもとに置かれたが、
漆
の実は蝋燭にするため城下の蝋燭問屋へと払い下げられ、,一方、元禄期以降の
漆
栽培についてみると、享保七年(一七二二)の
漆
の実生産量は三二四石一斗一升、生
漆
生産量 / 林政の展開と
漆
木の栽培
通史編2(近世1)
(漆栽培奨励策の行き詰まり)
文化年間の
漆
守制採用後二〇年余を経た文政十一年(一八二八)には、
漆
守の栽培状況がとかく無精になり、規定,だけ植えつけている例、
漆
畑が書面上だけになり地元でもわからなくなった例、また
漆
山といっても名目だけで
漆
,いくら「
漆
木家伝書」で啓蒙しても、
漆
は畑作物に比べて生育するのに時間がかかり、すぐには利益を上げられない,本郷村(現浪岡町)
漆
守鎌田家、高舘村(現黒石市)
漆
守大平家の一年間の収支帳が残っていて、それぞれ三万本,
漆
以外のものを植えたり、勝手に山を売却したりする不埒な
漆
守が生じることともなった。 /
漆
栽培奨励策の行き詰まり
通史編2(近世1)
(漆以外の国産品)
漆
以外の国産品 文政七年(一八二四)一月の「御国産品書上」(国史津)では、藩の国産品として次のような,椀・線香・𨫤(きせる)・墨・瀬戸物焼・紅粉・紙類・硯・紺屋灰・石灰・菜種・
漆
・銀鉛とあり,、これらの品々のうちの多くが城下周辺で作られる工芸品で、第一次産品は
漆
・菜種程度である。,他の産品で比較的、政策的な流れがわかるのが養蚕で、その経緯も
漆
と共通するものがある。,津軽領の国産品奨励策は以上のように
漆
を除くと個別的・単発的なものが多く、藩政改革期においても年貢収入を /
漆
以外の国産品
通史編3(近世2)
(塗師の知恵が支えた漆芸)
塗師の知恵が支えた
漆
芸
漆
工技術の面では、年代を重ねることで蒔絵や変わり塗の技法が上達・進歩し、美術的,な
漆
工品の製作が可能になっていたのに対し、津軽で製作された
漆
器は、地味であるとか、暗い感じがする、といわれることがある,二代目源兵衛が弘前に帰って間もないころの藩の政策は、優美な
漆
工品の製作を抑制する方向に動いていた。,、粗衣粗服を用いることを命じ、遊びの会合を禁じ、さらに器物の類は黒塗を使用し、蒔絵の類は堅く禁ずると
漆
器,そのため津軽の塗師たちは、限られた条件の中で
漆
器を作らなければならなかった。 / 塗師の知恵が支えた
漆
芸
通史編3(近世2)
(津軽における漆工芸の起点)
津軽における
漆
工芸の起点 縄文時代、
漆
を取り扱う技が青森県にあったことは、大正十五年(一九二六)、八戸市是川中居,さらに近年、青森市の三内丸山遺跡から弁柄
漆
(べんがらうるし)(酸化第二鉄の弁柄と
漆
を混合した赤色の塗料
漆
,)を塗った高坏(たかつき)、黒
漆
塗深鉢(ふかばち)などが発見されたことは、わが県にも独自の
漆
文化があったことを,縄文時代の籃胎
漆
器(らんたいしっき)(竹や植物を編んでカゴにしたものに
漆
を塗った
漆
器)を観察してみると,津軽信政は、江戸をはじめ他藩の
漆
工技術の高さを知り、その技術移入と
漆
産業育成の必要から大野山六郎左衛門 / 津軽における
漆
工芸の起点
通史編5(近・現代2)
(漆工芸と日本画)
漆
工芸と日本画 このように明治期の本県の美術工芸の分野において最も活発な活動を示したのが、
漆
工芸と日本画,写真268 高橋竹年『群猿』 このように本県の明治期の美術の活動は、幕末から継承した
漆
工芸や日本画 /
漆
工芸と日本画
通史編3(近世2)
(江戸から明治初期への漆工芸)
江戸から明治初期への
漆
工芸 お抱え塗師青海源兵衛の弟子のなかに成田伊太郎(文政十一年~明治二十二年・,やがて明治に入ると藩からの仕事が絶えたが、伊太郎は弟子とともに
漆
器の製作を続け、これまで一子相伝の秘法,このことから細い筆描きによる色
漆
の文様が姿を消していることがわかる。,(津軽塗
漆
器産業診断勧告書 一九五三年 青森県商工部刊)。 ,津軽の
漆
工芸は、このように多くの
漆
工関係者たちの努力と工夫によって政治・経済の大変革を乗り越え、天然
漆
/ 江戸から明治初期への
漆
工芸
通史編5(近・現代2)
(津軽塗)
普及し始めるが、その契機となったのが、明治十三年(一八八〇)七月、士族授産の一環として創立された弘前
漆
器授産会社,そして、明治十四年二月、弘前
漆
器授産会社が第二回内国勧業博覧会に津軽
漆
器を出品する際に「津軽塗」という,そして、大正時代に入り、七々子塗が津軽塗の技法に多く取り入れられると、
漆
器の持つ鈍重さがある程度修正され,それには、青森県工業試験場が昭和八年(一九三三)に
漆
器の実地研究を行うようになり、専門的な
漆
工研究部門,昭和十五年に青森県
漆
器統制会が設けられてから
漆
器業は統制下に置かれ、同十七年には技術的保存制度により六名
資料編1(考古編)
((2)県内遺跡の出土工芸品)
本県でも、縄文時代前期中葉の円筒下層a並びにb式土器期に、鳥浜貝塚と同様ないしはそれを凌駕する木製品(
漆
塗,り高杯・
漆
塗り深鉢)をはじめ、編物・紐(組紐もある)・結び目を有する紐・縄などが製作・使用されており、,塗料に使用している籃胎(らんたい)
漆
器・櫛(くし)などが発見されている*136。,赤
漆
塗の籃胎
漆
器が2個分出土している*137。,なお、この籃胎
漆
器について文化庁の保坂三郎は、〝竹籠に下地を厚く塗って目止めをし、その上に黒
漆
・赤
漆
を
資料編1(考古編)
((3)多様な技法)
な編みを基に編布が生産されて、人々の衣服はもとより、亀ヶ岡や秋田県南秋田郡五城目町の中山遺跡における
漆
漉,当該遺物は、晩期の大洞C1式土器とともに出土した籃胎
漆
器の皮膜残欠であり、上下の長さ2.68cm、左右,籃胎
漆
器のこのような小破片に、糸数が1cm2の中で経糸が24本、緯糸は22~24本を数えることができ、,おそらく製品としては、籠ないし笊(ざる)の上に織布を張り、その上に赤
漆
を塗布したものであろう*142。,図20 縄文時代の編物(籃胎
漆
器ほか) 籃胎
漆
器… 木造町・亀ヶ岡遺跡(晩期) (木造町縄文館蔵
通史編3(近世2)
(黒塗、朱塗、蒔絵に加わった変わり塗)
「霜降塗(しもふりぬり)」は、粘度の高い黒
漆
(絞
漆
(しぼうるし)という)を塗り、塗膜が硬化しないうちに,その中の一つは、黒
漆
を塗り、この濡れ塗膜面に籾殻を蒔き、乾燥後、籾殻を払い落とし、
漆
を塗り、研いで平滑,塗り、虫が喰ったような感じにみせ、軽く研いだ後に素黒目(すぐるめ)
漆
(油分の入っていない精製
漆
)を塗り,、さらに黒
漆
で仕上げるものである(同前)。 ,源兵衛が津軽において
漆
器製作に用いた三つの技法を取り上げてみたが、これらの
漆
器は現在みることはできない
通史編3(近世2)
(海底塗と唐塗を結ぶ磯草塗)
海底塗と唐塗を結ぶ磯草塗 古い
漆
器と現在の津軽の
漆
器を比較してみると、表面の文様が異なっており、国日記,津軽の古い唐塗と同様の文様・磯草塗の技法は、粘度の高い絞
漆
を塗った濡れ塗膜の上に、芯棒がついた円板を置,この
漆
を器物に塗り、その上を、
漆
を漉(こ)すのに使った吉野紙(吉野で漉されたこうぞ和紙)を丸めたもので,一日乾燥させ、
漆
をうすく塗り、さらに青
漆
と黄
漆
を塗り、乾燥後に朴(ほお)の木炭で平滑に研ぎ、鹿の角(つの,図154.芯棒が付いた円板の移動でできた磯草塗りの文様 図155.
漆
漉しに使った吉野紙や布を
通史編3(近世2)
(変わり塗と池田源兵衛)
現福井県)から招かれたといわれ、この源兵衛とその子源太郎によって、これまで黒塗・朱塗・蒔絵を主体としてきた
漆
工,池田源兵衛が津軽へ来たころの小浜藩の塗師たちは、変わり塗技法(色
漆
を塗り重ね、研ぎ出して平滑に仕上げる,)を用いて
漆
器を製作し、これらの
漆
器は、若狭塗と呼ばれていた。,この中の色
漆
類は、総数一五〇種に及ぶ変わり塗の見本板であり、この中に「しもふり塗」「むしくい塗」「魚子塗,それがのちに塗師頭となり、津軽における
漆
工の主流を占めるようになった理由は、江戸での八年間の修業で、他
通史編3(近世2)
(津軽と「津軽塗」)
津軽と「津軽塗」 津軽地方で塗られた
漆
工品は、いま産地名を冠して「津軽塗」と総称されている。,五月九日条、文化元年(一八〇四)十一月十四日条には、「弘前塗」と書かれ、「弘前塗」とか「津軽塗」とは、単に
漆
器,」、「霜降塗(しもふりぬり)」、「貫入塗(かんにゅうぬり)」、「紋虫喰塗(もんむしくいぬり)」などと
漆
器,中央公論美術出版刊)には、明治六年(一八七三)五月から開催されたウィーン万国博覧会に青森県が出品した
漆
器,この中に津軽塗の項があり、このころから津軽においても、津軽で塗られた
漆
器類を単に「津軽塗」と呼ぶようになった
通史編1(古代・中世)
(胆沢築城)
その完成時期は不明であるが、胆沢城跡から出土した
漆
紙文書のなかに、この年六月に玉造軍団からの解文の到着,なお、
漆
紙文書とは文書の反故(ほご)紙が
漆
の壺の蓋に転用されたため、そこに
漆
が附着して腐敗せずに後世まで,写真49 胆沢城跡出土
漆
紙文書 延暦21年6月玉造軍団より胆沢城にあてられたもの。
通史編1(古代・中世)
(食の道具)
図51 食生活の道具 1・2擂鉢,3粉挽き臼,4・5
漆
器,6・7箸,8折敷。,その場合に盛りつける器は、陶磁器や
漆
器で、武家社会の正式な食事場面では折敷(おしき)(図51-8)と呼,
漆
塗り椀・皿に関しては問題がある。,最近浪岡城の遺物を再検討していたら
漆
ベラが三点ほど発見され、城内に塗師が存在したことは確実となった。,しかしながら、陶磁器と同様に食器として使用された
漆
塗り椀・皿の出土量に比して、
漆
塗りの工具等は少なく、
通史編5(近・現代2)
(地場産業の諸相)
(一)津軽塗 津軽塗の
漆
器工業は、戦時統制下の企業整備により従業員は転廃業をやむなくされ、昭和二十二年,さらに戦後の配給統制のもと、二十二年の重要資材使用統制規則により、ほとんどの津軽塗製品に対し
漆
液の使用,が禁止され、翌二十三年には指定生産資材割当規則によって、生活必需品としてわずかに残された
漆
器の生産にも,
漆
液の配給が実施されるに至り、
漆
器生産は極度に制約された。,そこで、青森県工業試験場では、これら津軽塗の欠点を克服するため、郷土色豊かな
漆
工芸品の研究開発に取り組
通史編3(近世2)
(他領から技術を導入)
他領から技術を導入 近世、津軽における
漆
工芸は、藩主導の中で諸条件が整備されるとともに、領外から新技法,津軽地方の
漆
工芸をみるとき、刀剣や甲胄の
漆
工技術を離れて考えることはできない。 ,このように、近世初期の津軽の
漆
工芸は、秋田の鞘師、京都の塗師、江戸の具足師の移入によって興ったもので、,彼等は、主として武具、馬具の装飾、藩主の調度の製作、その他寺社の塗装を行い、
漆
工技法は、黒塗・朱塗に蒔絵
通史編2(近世1)
(飢餓対策における殖産政策)
下るが、安永三年(一七七四)十二月に郡奉行樋口弥三郎は凶作の対策として、空き地などへの四木(桑・楮・
漆
・,この役職は
漆
・楮・栗・クルミなどの苗木を用意し、その植え付けを推進し、また藩の奨励する畑作物の栽培について,これに先立つ明和八年(一七七一)には、古くからの産物である
漆
も栽培の奨励が行われ、
漆
木を栽培する百姓には,「自分木」として事実上の私有を認め、生産した水
漆
と
漆
実のうち二〇パーセントを藩に上納させ、残りを藩が公定価格
資料編2(近世編1)
(【解説】)
目指して尾太(おっぷ)、砂子瀬(すなこせ)、虹貝(にじかい)、湯口(ゆぐち)、三ツ目内などの鉱山開発や
漆
、,
漆
木も寛永七年(一六三〇)、各村に五万本の移植が進められて以来、順次領内各地へ植林が奨励され、四代藩主津軽信政,の元禄三年(一六九〇)には領内に三三人の
漆
守を任命して、
漆
実の生産と管理を掌握させた。,
漆
はまた、塗物の原料として重要であり、平行して
漆
工芸も奨励していった。,であるから、領主権力が特段の精力を注入したと考えられる、尾太(おっぷ)鉱山の開発と経営に関する史料と、
漆
木
資料編2(近世編1)
(第一節 殖産政策の展開)
第一節 殖産政策の展開 一 交通の整備 (一)交通 (二)関所 二 鉱山 三
漆
仕立
通史編1(古代・中世)
(擦文文化圏との交易)
さらには、九世紀から一一世紀にかけての
漆
器(木製皿・椀)の製作は、一〇世紀後半における
漆
塗りの省略化、,図19 製鉄炉を営む工人集団の集落跡(鰺ヶ沢町杢沢遺跡) 写真57 大川遺跡の
漆
器 (北海道余市町
資料編1(考古編)
((1)工芸の種類)
赤色
漆
塗の櫛をはじめ、ユズリハ・サカキ・ヤブツバキを原材とした石斧の柄、カシ類等の弓・尖(とが)り棒、,カヤの小型弓、トチノキを使った盆のような容器(高台部に
漆
を塗っているものもある)、スギの丸木舟、ケヤキ・ヤマグワ
資料編3(近世編2)
(●岩木山神社 岩木町大字百沢字寺沢)
いたるところに龍や松の彫刻を彫り、
漆
を塗り、金箔を押し、極彩色の文様を描いており、現在では「華御堂」と,柱や梁や桁のほかに、壁や扉などを黒
漆
塗りとし、随所に金箔を押し、多用されている彫刻には極彩色を施し、金鍍金,より転載) (五)奥門--重要文化財 一間一戸の向唐門の形式で、本殿と同様に彫刻が充満し、黒
漆
を,柱などの軸部は黒
漆
塗りとし、木鼻や虹梁の袖切などの部分には朱
漆
を用い、蟇股や欄間の彫刻には極彩色が施されており
資料編1(考古編)
((3)10世紀後半~11世紀)
それは、木器(
漆
器)生産の発達による土師器坏の極端な減少、把手付土器や内面黒色処理壺、あるいは蒸籠形甑,③農業・製鉄・製塩・
漆
器生産・窯業・馬産等の産業が全体的に極めて活発化した時期である。 ,
漆
器生産は、この時期に大きな転換期を迎え、10世紀中葉と11世紀初めの二つの技術革新により量産体制が整,い、食膳具としての土器を凌駕し、ほとんど
漆
器椀・皿に置換される。
通史編4(近・現代1)
(工業建設の意見)
)競技会、展覧会ヲ開キテ技工ヲ奨励スルコト (ホ)県立工業学校ニ機械科ヲ設置スルコト 五、
漆
器業,一、改良要点(ママ) (イ)材料ノ選択ヲ慎ミ、髹法及図案ヲ攻究シ、応用ノ範囲ヲ拡メ、一般
漆
器ノ,共同施設ニ依リ販路ノ拡張ト設備ノ完全ヲ期スヘシ 二、実行スヘキ事項 (イ)素材ノ購入、乾燥、製
漆
等,ニ対シ共同施設ヲ為スコト (ロ)
漆
液ノ標準ヲ定ムルコト (ハ)当業者ヲシテ簡易ナル徒弟養成所ヲ,競技会ヲ開キテ技巧ヲ奨励スルコト (ヘ)当業者ニ旅費ヲ給シテ先進地ヲ視察セシムルコト (ト)
漆
液
資料編3(近世編2)
(第二節 藩政改革の実施と黒石藩の成立)
の成立 三 天保の飢饉とその後の藩政 (一)天保の飢饉 (二)財政の窮乏 (三)
漆
の
通史編1(古代・中世)
(擦文文化の終末年代)
の終末年代 本州の擦文土器は、土師器と共伴する例が多いことから、鉄鍋・内耳鉄鍋の出現、そして木器(
漆
器,擦文文化にあっても、基本的には土器から煮炊具である鉄鍋、供膳具である木器(
漆
器)への転換が考えられる。
資料編3(近世編2)
(●隣松寺 久祥院殿位牌堂 西茂森二丁目--県重宝)
全体に黒
漆
が塗られ、細部に付けられた金具や細工物に特徴があり、細木を組み合わせた内部の格天井など、凝った
通史編4(近・現代1)
(士族授産事業の成立と展開)
一万円の勧業資金貸与を受けて綿布製織を目的とした弘前興業織物工場、明治十七年に五〇〇〇円の貸与を受けて
漆
器製造,を目的とした
漆
器樹産会社、同年に五〇〇〇円の貸与を受け、養蚕製糸を目的とした盛蚕社があった。
通史編5(近・現代2)
(青森県工業試験場)
六年には工場を新築して、
漆
器・木工・竹蔓細工の指導を行うようになり、十一年には窯業部を新設した。,アミノ酸、調味品の試験研究酒造米の依頼精白を行ふ 三 工芸指導部 (イ)工芸の指導
漆
器,一般工芸に関する質疑応答、講習、講話、審査、研究生並に練習生の養生 (ロ)工芸試作研究 指導部工場に
漆
器
通史編5(近・現代2)
(国内外の博覧会)
同博覧会への出品は津軽唐塗(からぬり)と
漆
器が青森県陸奥津軽の名で出され、津軽唐塗が有功賞牌を受賞している,フィラデルフィア万国博覧会には青海源兵衛(せいかいげんべえ)(明治元-明治四四 一八六八-一九一一)が津軽韓塗
漆
器等,青海波塗月千鳥蒔絵長箱」(県重宝) 明治二十六年(一八九三)のシカゴ・コロンブス万国博覧会では、三上平次郎が
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器出品,(一九〇四)のセントルイス万国博覧会では、青森県木通蔓細工組合が金賞、三上平次郎が銀賞他、中村甚吉、
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器樹産合資会社
通史編4(近・現代1)
(城跡の荒廃)
貸し付けた記事が見えて、新谷平太郎は二の丸馬場跡の桑の木四九三株のある土地を拝借、また、四の郭北側の
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木,松 三七五五本 杉 一三五二本 檜 三五六本 椵(か)(トドマツ)四一本
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八九五本
通史編4(近・現代1)
(市制施行直前の工業)
数量 … … 29 … … 33 … … 62 代価 … … 53 … … 34 … … 87
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,この時期の弘前とその近辺に所在する工業会社は、中津軽郡富田村に所在する盛蚕社、弘前本町の興業社、同所の
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器樹産会社,このうち興業社は織物会社、発誠社は
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器製造会社、改光社はマッチ製造会社である。
通史編4(近・現代1)
(殖産興業の展開)
表9 工業諸会社及諸製造所表(明治20年) 名称 印刷所 裁縫所 盛蚕所 興業社
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器 樹産 会社,織物所 竹内 製糸所 竹内 織物所 総計 営業種別 活版 印刷 洋服 裁縫 製糸 織物
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器
通史編5(近・現代2)
(工業都市弘前)
そして、(一)酒造業、(二)織物業、(三)
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器業、(四)木通蔓細工工業、(五)銅・鉄工業、(六)家具指物業,昭和6年度弘前市における工業生産の内訳 工業生産物 戸数 価格 戸 円 織物 8 207,965
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器
通史編4(近・現代1)
(日清戦争後の会社、銀行と工業生産)
曲物其他販売 4,500 8 同 弘前煙草合資会社 同 土手町 煙草製造及仲買 3,500 7 同
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器樹産合資会社,同 本町
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器販売 3,000 5 同 陸奥物産合資会社 同 和徳町 藁細工物其他販売
資料編1(考古編)
(第7節 出土遺物と生活)
出土文字資料(陶磁器・
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器・木器ほか)は比較的少ない。,陶磁器の底に文字・記号を書いた例と、
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器の底や側面に文字の書かれた例は、浪岡城跡に多いものの「大」「二
通史編1(自然・原始)
(三 亀ヶ岡土器文化の発展)
なかでも土器器形の多様化と、
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や赤色塗料の使用量の増大、木製品(現在は用途不明なものもある)の種類の多
資料編3(近世編2)
(●革秀寺 藤代一丁目)
彫刻や天井絵などの
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塗り、極彩色の華麗な塗装の多くが、文化年間(一八〇四~一八)の大修理によるものであることも
通史編3(近世2)
(諸家業と職人)
一方、御役家業は三〇職種に分類され、数は寛政期と変わらないが、山
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実買請(かいうけ)所・𨫤,山
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実買請所は寛政期には無役家業であったが、
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木の増産計画によって扱いが変わったためであろう。,豆腐屋 51 内 御用1軒 鍛冶屋 95 内 御用4軒 蝋燭屋 40 内 御用1軒 休1軒 山
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実買請所
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