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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編4(近・現代1) (漆器の商況)

漆器の商況 漆器については七月三十一日の報告に以下のように記されている。,明治二十年代においては、漆器の県外輸出は十分とはいえなかった。  ,漆器(殼塗)(当市産)ハ、管内外各地方ヘ輸出アレトモ、販路未タ十分ナラズ、而シテ管外ニ於ケル重ナル取引地方,価格五百拾円ナリ(但壱個トアルハ小包ナリ) 写真87 津軽塗の製品  本市製造家ニテ需用セシ漆汁,ヨリ輸入スレトモ、津軽産ハ南部、秋田ノ産ヨリ品質優等ナルヲ以テ、多クハ該品ヲ需用セリ (同前)  漆器 / 漆器の商況
資料編1(考古編) ((4)漆器・木器生産)

(4)漆器・木器生産 古代における、一般的な食膳具は、土師器・須恵器の坏(椀)・皿類であるが、このほか,それは、木胎漆器だけではなく、植物のつるで編んだ籃胎(らんたい)漆器、あるいは織布を用いた布胎(ふたい,)漆器などの生産に現れている。  ,律令制に組み込まれた官工房での生産は、黒色漆器・朱漆器を問わず、木胎の上に布を着せ、高価な漆を何度も塗,これは、同時に漆器そのものの普及にも拍車がかけられ、11世紀中葉には供膳具のほとんどが土師器から漆器へと / (4)漆器・木器生産
通史編1(自然・原始) (漆)

漆 漆を使った遺物の発見は、大正末期から昭和初期に八戸市是川の中居遺跡で認められ、そのすばらしい品々,これらの漆塗り製品は縄文晩期に属するものである。  ,三内丸山遺跡の調査で「北の谷」の泥炭層から前期の土器(円筒下層a~b式)とともに漆を塗った品々が出土し,、なかには漆にベンガラを混ぜて塗った赤色を呈するものもあり、漆が特殊なものではなく、三内丸山人にとって,椀・鉢・櫛の一部のほか、赤漆塗りの深鉢もみられ、さらに時期は下がるが漆を入れていた広口壷型土器もある。 / 漆
通史編3(近世2) (近世漆工芸の発展)

このことは、わが国の漆工芸に二つの特色を生じさせた。  ,半田市太郎は『近世漆器工業の研究』(一九七〇年 吉川弘文館刊)に、次のように書いている。  ,から蒔絵の名工を招いて抱え蒔絵師としたことで、京都に住んでいた蒔絵師の一部が江戸に移り、江戸蒔絵、江戸漆器,他の一つは、家臣団の調度・家具や日用雑器などの需要、ないし新興町人層、あるいは有力農民層における漆器需要,の増大と、さらにこれらに対処してとられた領主の領内漆器生産の保護・奨励」である。   / 近世漆工芸の発展
通史編3(近世2) (塗師の知恵が支えた漆芸)

な漆工品の製作が可能になっていたのに対し、津軽で製作された漆器は、地味であるとか、暗い感じがする、といわれることがある,の類は黒塗を使用し、蒔絵の類は堅く禁ずると漆器についての規制が書かれている(「国日記」正徳元年八月二十六日条,そのため津軽の塗師たちは、限られた条件の中で漆器を作らなければならなかった。,これらの漆器には、時代の流れに合うものを作ろうとした創作意欲や創造性が感じられ、その技法には塗師たちの,蒔絵から変わり塗への移行、芸術的であるよりも実用的、個性的な漆器が生まれた要因の一つは、このような津軽 / 塗師の知恵が支えた漆芸
通史編3(近世2) (津軽における漆工芸の起点)

縄文時代の籃胎漆器(らんたいしっき)(竹や植物を編んでカゴにしたものに漆を塗った漆器)を観察してみると,、器胎の材料は無くなり塗膜だけになっていたが、その塗膜の内側の面に、幅が五ミリメートル、厚さが一ミリメートル,にも満たない帯状の細長い材料が編み組まれ、器胎を形成していた痕跡が歴然と認められる。  ,この技法は、今日の下地法(したじほう)とよく似ており、また、土器には赤色顔料を混ぜた漆液で施文をしたものも,りが施され、武具・調度、日用雑器などの漆工芸品が途絶えることもなく作られてきた。   / 津軽における漆工芸の起点
通史編3(近世2) (江戸中期の漆工芸)

江戸中期の漆工芸 元禄に入ると、漆工品名・図柄・技法などについても記録されるようになる。  ,(ちょうじ)・麝香(じゃこう)・白檀(びゃくだん)などを入れておく香箱などが使用され、塗師はこれらの漆器,また同四年には春慶塗の重箱、同五年には黒塗に蒔絵を加飾した漆器、縁に金粉を蒔いた盆の内側には、牡丹の折,(一七〇〇)十一月十八日条には大野山六郎左衛門は手板(ていた)を製作するために、本朱(ほんしゅ)・青漆(,さらに実験を行うために、四坪の細工所の薄縁を厚畳に敷き換えほこりを防ぐとともに、漆器を乾燥させるために / 江戸中期の漆工芸
通史編3(近世2) (江戸後期の漆工芸)

江戸後期の漆工芸 江戸時代後半期の津軽の漆工芸は、『塗物伝書』や『塗物秘伝書』(弘図岩)から多彩なものであったことがわかる,これらの伝書に書かれている技法で塗られたと思われる漆器や手板がある。,嘉永元年(一八四八)五月、三浦亀次郎作」と外箱に書かれた「いろいろ塗五段重」は、変わり塗技法で仕上げられた漆器,漆器や手板の文様は、細い筆を使って色漆で描き、その上に色漆を塗り込み、研ぎ出して透明漆を塗り、磨いて仕上,この「いろいろ塗五段重」を塗った三浦亀次郎は、武器塗師三浦久次郎の子である。 / 江戸後期の漆工芸
通史編3(近世2) (江戸から明治初期への漆工芸)

やがて明治に入ると藩からの仕事が絶えたが、伊太郎は弟子とともに漆器の製作を続け、これまで一子相伝の秘法,大正七年・一八三八~一九一八)、明治七年(一八七四)三月、鎌田貞顕、須藤良彦、古平一実らの援助を得て漆器製造,をはじめ、同十三年、伊藤正良と図って漆器樹産合資会社を本町に設立し、手工芸を産業化する新しい体制をつくった,(津軽塗漆器産業診断勧告書 一九五三年 青森県商工部刊)。  ,津軽の漆工芸は、このように多くの漆工関係者たちの努力と工夫によって政治・経済の大変革を乗り越え、天然漆 / 江戸から明治初期への漆工芸
通史編2(近世1) (漆以外の国産品)

漆以外の国産品 文政七年(一八二四)一月の「御国産品書上」(国史津)では、藩の国産品として次のような,椀・線香・𨫤(きせる)・墨・瀬戸物焼・紅粉・紙類・硯・紺屋灰・石灰・菜種・漆・銀鉛とあり,、これらの品々のうちの多くが城下周辺で作られる工芸品で、第一次産品は漆・菜種程度である。,他の産品で比較的、政策的な流れがわかるのが養蚕で、その経緯も漆と共通するものがある。,悪戸焼は松前、秋田方面にも移出され、藩は嘉永三年(一八五〇)に至り、他領からの陶器の移入を禁止している / 漆以外の国産品
通史編1(自然・原始) (三 亀ヶ岡土器文化の発展)

晩期の土器を俗に亀ヶ岡式土器と称し、その時代に人々が築き上げた品々などを総称して亀ヶ岡文化と呼んでいる,この土器文化は、さきの後期に繁栄した十腰内式土器を母胎にして生まれ、さらに十腰内式土器をしのぐほどに成長発展,なかでも土器器形の多様化と、漆や赤色塗料の使用量の増大、木製品(現在は用途不明なものもある)の種類の多,い状況は、亀ヶ岡土器文化の特色であるとさえ考えられる。,大洞C1式皿形土器 八戸市・是川中居遺跡 (八戸市博物館提供) / 三 亀ヶ岡土器文化の発展
通史編1(自然・原始) (土器棺墓)

土器棺墓 東北北部の円筒土器の世界では、八戸市蟹沢遺跡などの例のごとく、埋設された土器のなかから胎児骨,幼くして亡くなった乳児または胎児を、土器のなかに入れて埋葬したのであろうか。,直立・倒立をさせた土器の底を抜くか、底近くに孔を開けて容器としての実用性を失わせ、丸い石を一~二個抱かせて,土器を使ったいわゆる土器棺墓は、縄文後期になると数は中期に比べて少なくなるが、遺体を入れた土器棺も特別,器面に漆またはベンガラ・朱を塗ったものもある。 / 土器棺墓
通史編1(古代・中世) (かわらけと陶磁器)

かわらけと陶磁器 中崎館遺跡から出土する遺物のなかでもっとも特色のある遺物が「かわらけ」(写真80),といわれるもので、基本的には皿形の土器である。,この場合、陶磁器とともに搬入された土器(かわらけ)までなくなるわけではないが、日常の食器は木器と陶磁器,の二器種だけで対応し、儀礼的な器は漆器・陶磁器と銅器が対応するようになる。  ,このような陶磁器の組み合わせの相違に加えて、時間の推移をみるときは土器が有効である。 / かわらけと陶磁器
通史編5(近・現代2) (津軽塗)

普及し始めるが、その契機となったのが、明治十三年(一八八〇)七月、士族授産の一環として創立された弘前漆器授産会社,そして、明治十四年二月、弘前漆器授産会社が第二回内国勧業博覧会に津軽漆器を出品する際に「津軽塗」という,そして、大正時代に入り、七々子塗が津軽塗の技法に多く取り入れられると、漆器の持つ鈍重さがある程度修正され,それには、青森県工業試験場が昭和八年(一九三三)に漆器の実地研究を行うようになり、専門的な漆工研究部門,昭和十五年に青森県漆器統制会が設けられてから漆器業は統制下に置かれ、同十七年には技術的保存制度により六名
資料編1(考古編) ((2)県内遺跡の出土工芸品)

(2)県内遺跡の出土工芸品 本県でも、縄文時代前期中葉の円筒下層a並びにb式土器期に、鳥浜貝塚と同様,、漆を塗料に使用している籃胎(らんたい)漆器・櫛(くし)などが発見されている*136。,のほか、漆塗釧1個・樹皮製容器の破損品1個分・箆状木製品(二弦琴との説あり)18本などが見られ、編物として,赤漆塗の籃胎漆器が2個分出土している*137。,なお、この籃胎漆器について文化庁の保坂三郎は、〝竹籠に下地を厚く塗って目止めをし、その上に黒漆・赤漆を
資料編1(考古編) ((3)多様な技法)

当該遺物は、晩期の大洞C1式土器とともに出土した籃胎漆器の皮膜残欠であり、上下の長さ2.68cm、左右,籃胎漆器のこのような小破片に、糸数が1cm2の中で経糸が24本、緯糸は22~24本を数えることができ、,経糸・緯糸とも18ないし19本、金巾(かなきん)(キャラコ)では27か28本であり、石郷遺跡の当該籃胎漆器,図20 縄文時代の編物(籃胎漆器ほか) 籃胎漆器… 木造町・亀ヶ岡遺跡(晩期) (木造町縄文館蔵,み)… 青森市・三内丸山(Ⅱ)遺跡(前期) (県埋蔵文化財調査センター提供) 籃胎漆器の
通史編3(近世2) (津軽と「津軽塗」)

五月九日条、文化元年(一八〇四)十一月十四日条には、「弘前塗」と書かれ、「弘前塗」とか「津軽塗」とは、単に漆器,」、「霜降塗(しもふりぬり)」、「貫入塗(かんにゅうぬり)」、「紋虫喰塗(もんむしくいぬり)」などと漆器,中央公論美術出版刊)には、明治六年(一八七三)五月から開催されたウィーン万国博覧会に青森県が出品した漆器,フィラデルフィアで開催された万国博覧会に青海源兵衛は香盆、香炉台、提重などを出品し、「津軽韓塗(からぬり)漆器,この中に津軽塗の項があり、このころから津軽においても、津軽で塗られた漆器類を単に「津軽塗」と呼ぶようになった
通史編1(古代・中世) (食の道具)

図51 食生活の道具 1・2擂鉢,3粉挽き臼,4・5漆器,6・7箸,8折敷。,その場合に盛りつける器は、陶磁器や漆器で、武家社会の正式な食事場面では折敷(おしき)(図51-8)と呼,漆塗り椀・皿に関しては問題がある。,検出されるなど、木地師(きじし)の集団が存在したことは明らかであるが、中世段階では木地師・塗師など、漆器製作,しかしながら、陶磁器と同様に食器として使用された漆塗り椀・皿の出土量に比して、漆塗りの工具等は少なく、
通史編3(近世2) (変わり塗と池田源兵衛)

現福井県)から招かれたといわれ、この源兵衛とその子源太郎によって、これまで黒塗・朱塗・蒔絵を主体としてきた漆工,池田源兵衛が津軽へ来たころの小浜藩の塗師たちは、変わり塗技法(色漆を塗り重ね、研ぎ出して平滑に仕上げる,)を用いて漆器を製作し、これらの漆器は、若狭塗と呼ばれていた。,この中の色漆類は、総数一五〇種に及ぶ変わり塗の見本板であり、この中に「しもふり塗」「むしくい塗」「魚子塗,元禄六年(一六九三)にまとめられた『若狭郡県志』にも、「魚子塗」「虫喰塗(むしくいぬり)」など、変わり塗漆器
通史編5(近・現代2) (地場産業の諸相)

(一)津軽塗  津軽塗の漆器工業は、戦時統制下の企業整備により従業員は転廃業をやむなくされ、昭和二十二年,が禁止され、翌二十三年には指定生産資材割当規則によって、生活必需品としてわずかに残された漆器の生産にも,漆液の配給が実施されるに至り、漆器生産は極度に制約された。,、各種化学塗料を加工するという創意に満ちたものであり、堅牢優美でお盆、菓子器、その他の容器などが主な製品,(三)弘前手織  織物工場も津軽塗の漆器工業と同様、戦時企業統制により多くが姿を消し、残るは東北織物
通史編3(近世2) (海底塗と唐塗を結ぶ磯草塗)

海底塗と唐塗を結ぶ磯草塗 古い漆器と現在の津軽の漆器を比較してみると、表面の文様が異なっており、国日記,津軽の古い唐塗と同様の文様・磯草塗の技法は、粘度の高い絞漆を塗った濡れ塗膜の上に、芯棒がついた円板を置,この漆を器物に塗り、その上を、漆を漉(こ)すのに使った吉野紙(吉野で漉されたこうぞ和紙)を丸めたもので,一日乾燥させ、漆をうすく塗り、さらに青漆と黄漆を塗り、乾燥後に朴(ほお)の木炭で平滑に研ぎ、鹿の角(つの,図154.芯棒が付いた円板の移動でできた磯草塗りの文様 図155.漆漉しに使った吉野紙や布を
通史編1(古代・中世) (擦文文化圏との交易)

擦文文化圏との交易 岩木山麓に展開した大規模な鉄生産も年代的にはこの須恵器生産とほぼ軌(き)を一にしており,に伴って膨大な量の製鉄関連遺物(鉄製品・鉄滓(てっさい)・砂鉄・羽口(はぐち)など)や生活遺物(土師器・,須恵器・擦文土器・土錘(どすい)・土玉・木製品など)が出土した。,さらには、九世紀から一一世紀にかけての漆器(木製皿・椀)の製作は、一〇世紀後半における漆塗りの省略化、,図19 製鉄炉を営む工人集団の集落跡(鰺ヶ沢町杢沢遺跡) 写真57 大川遺跡の漆器 (北海道余市町
通史編3(近世2) (黒塗、朱塗、蒔絵に加わった変わり塗)

「霜降塗(しもふりぬり)」は、粘度の高い黒漆(絞漆(しぼうるし)という)を塗り、塗膜が硬化しないうちに,その中の一つは、黒漆を塗り、この濡れ塗膜面に籾殻を蒔き、乾燥後、籾殻を払い落とし、漆を塗り、研いで平滑,塗り、虫が喰ったような感じにみせ、軽く研いだ後に素黒目(すぐるめ)漆(油分の入っていない精製漆)を塗り,源兵衛が津軽において漆器製作に用いた三つの技法を取り上げてみたが、これらの漆器は現在みることはできない,享保五年(一七二〇)に入ると、さらにみごとな漆器が津軽で製作されるようになった。
資料編1(考古編) ((3)10世紀後半~11世紀)

それは、木器(漆器)生産の発達による土師器坏の極端な減少、把手付土器や内面黒色処理壺、あるいは蒸籠形甑,③農業・製鉄・製塩・漆器生産・窯業・馬産等の産業が全体的に極めて活発化した時期である。  ,漆器生産は、この時期に大きな転換期を迎え、10世紀中葉と11世紀初めの二つの技術革新により量産体制が整,い、食膳具としての土器を凌駕し、ほとんど漆器椀・皿に置換される。  ,10世紀初頭から11世紀中葉期まで操業した五所川原市持子沢系・前田野目系窯跡群の須恵器は、器形及び胎土
通史編1(古代・中世) (擦文文化の終末年代)

擦文文化の終末年代 本州の擦文土器は、土師器と共伴する例が多いことから、鉄鍋・内耳鉄鍋の出現、そして,木器(漆器)の量産体制確立による土師器の衰退と呼応して一一世紀後半には消滅したとする説が現在有力である,終末を迎えた可能性が高いとされる弘前市中崎館遺跡堀跡(SD01)の堆積土および底面から出土した擦文土器が,擦文文化にあっても、基本的には土器から煮炊具である鉄鍋、供膳具である木器(漆器)への転換が考えられる。,峻別(しゅんべつ)され、独自性の象徴であった擦文土器の消滅は、必ずしも土師器の消長と連動していたという
資料編1(考古編) ((1)工芸の種類)

赤色漆塗の櫛をはじめ、ユズリハ・サカキ・ヤブツバキを原材とした石斧の柄、カシ類等の弓・尖(とが)り棒、,カヤの小型弓、トチノキを使った盆のような容器(高台部に漆を塗っているものもある)、スギの丸木舟、ケヤキ・ヤマグワ,この中で、縄について縄文人は、〝糸・紐・縄・綱の区別を熟知し、土器や木器の補修には径2~3mmの糸が使
通史編5(近・現代2) (青森県工業試験場)

六年には工場を新築して、漆器・木工・竹蔓細工の指導を行うようになり、十一年には窯業部を新設した。,アミノ酸、調味品の試験研究酒造米の依頼精白を行ふ       三 工芸指導部 (イ)工芸の指導   漆器,一般工芸に関する質疑応答、講習、講話、審査、研究生並に練習生の養生 (ロ)工芸試作研究  指導部工場に漆器,を有し、一般工芸品の試作見本、製作研究を行ふ       四 窯業部 (イ)窯業の指導   陶磁器並, 窯業工場に於て陶磁器試験、試作依頼製作、製品の払下を行ふ       五 工業相談部 (イ)工業
資料編1(考古編) (第7節 出土遺物と生活)

陶磁器の中に志野が出土していることから、16世紀末から17世紀初頭の埋葬が推定される。,浪岡町浪岡城跡北館出土人骨は土壙埋葬であり、女性骨で瓦質土器の出土から16世紀頃と推定される。,出土文字資料(陶磁器・漆器・木器ほか)は比較的少ない。,陶磁器の底に文字・記号を書いた例と、漆器の底や側面に文字の書かれた例は、浪岡城跡に多いものの「大」「二,堀越城では木器の表面に達筆な文字で書かれた事例が存在するが判読までには至っていない。  
通史編4(近・現代1) (士族授産事業の成立と展開)

一万円の勧業資金貸与を受けて綿布製織を目的とした弘前興業織物工場、明治十七年に五〇〇〇円の貸与を受けて漆器製造,を目的とした漆器樹産会社、同年に五〇〇〇円の貸与を受け、養蚕製糸を目的とした盛蚕社があった。
通史編4(近・現代1) (市制施行直前の工業)

数量 … … 29 … … 33 … … 62 代価 … … 53 … … 34 … … 87 漆 ,器 数量 … … ケ 22,675 … … … … … ケ 22,675 代価 … … 円 5,791,… … … … … 円 5,791 陶 器 数量 … … … … … … … … 23,423 代価,この時期の弘前とその近辺に所在する工業会社は、中津軽郡富田村に所在する盛蚕社、弘前本町の興業社、同所の漆器樹産会社,このうち興業社は織物会社、発誠社は漆器製造会社、改光社はマッチ製造会社である。
通史編4(近・現代1) (工業建設の意見)

)競技会、展覧会ヲ開キテ技工ヲ奨励スルコト  (ホ)県立工業学校ニ機械科ヲ設置スルコト   五、漆器業,一、改良要点(ママ)  (イ)材料ノ選択ヲ慎ミ、髹法及図案ヲ攻究シ、応用ノ範囲ヲ拡メ、一般漆器ノ,ニ対シ共同施設ヲ為スコト  (ロ)漆液ノ標準ヲ定ムルコト  (ハ)当業者ヲシテ簡易ナル徒弟養成所ヲ,資本家及経営者ヲ誘致ス可シ、無限ノ宝庫トハ何ソヤ、例ヘハ精錬、製鉄、鉄工、造船、製麻、製紙、製糸、セメント、陶磁器、,ヲ図ルコト (リ)商工業者及職工徒弟ニ対シ表彰ノ方法ヲ設クルコト (ヌ)県工業試験場ヲ設ケ染織、漆器
通史編5(近・現代2) (国内外の博覧会)

同博覧会への出品は津軽唐塗(からぬり)と漆器が青森県陸奥津軽の名で出され、津軽唐塗が有功賞牌を受賞している,フィラデルフィア万国博覧会には青海源兵衛(せいかいげんべえ)(明治元-明治四四 一八六八-一九一一)が津軽韓塗漆器等,青海波塗月千鳥蒔絵長箱」(県重宝)  明治二十六年(一八九三)のシカゴ・コロンブス万国博覧会では、三上平次郎が漆器出品,(一九〇四)のセントルイス万国博覧会では、青森県木通蔓細工組合が金賞、三上平次郎が銀賞他、中村甚吉、漆器樹産合資会社
通史編1(自然・原始) (亀ヶ岡文化の特色)

亀ヶ岡文化の特色 今日亀ヶ岡式土器といわれるものは、さきの後期で述べたごとく、粗製土器と精製土器に分,けられ、粗製土器はわれわれの日常生活における鍋・釜類と同様の煮炊き専用の容器で、器面に単純な縄文が施されている,これに対し精製土器は、『新編弘前市史資料編1(考古編)』一〇一頁に示したように器形の種類も多く、器面を,磨き、漆あるいは丹(に)・朱(しゅ)を併せて塗るなど、かなり手数をかけて作られている。,なかでも後期から受け継いだ香炉形土器などは形状はもとより、浮き彫り的な装飾は遮光器(しゃこうき)土偶とならんで
資料編2(近世編1) (【解説】)

目指して尾太(おっぷ)、砂子瀬(すなこせ)、虹貝(にじかい)、湯口(ゆぐち)、三ツ目内などの鉱山開発や漆、,の元禄三年(一六九〇)には領内に三三人の漆守を任命して、漆実の生産と管理を掌握させた。,漆はまた、塗物の原料として重要であり、平行して漆工芸も奨励していった。,であるから、領主権力が特段の精力を注入したと考えられる、尾太(おっぷ)鉱山の開発と経営に関する史料と、漆木,城米(じょうまい)、大豆、木材などを主力に、銅、鉛、海産物などが中心であったのに対し、移入した品は陶器、
通史編4(近・現代1) (殖産興業の展開)

表9 工業諸会社及諸製造所表(明治20年) 名称 印刷所 裁縫所 盛蚕所 興業社 漆器 樹産 会社,織物所 竹内 製糸所 竹内 織物所 総計 営業種別 活版 印刷 洋服 裁縫 製糸 織物 漆器
通史編5(近・現代2) (工業都市弘前)

そして、(一)酒造業、(二)織物業、(三)漆器業、(四)木通蔓細工工業、(五)銅・鉄工業、(六)家具指物業,昭和6年度弘前市における工業生産の内訳 工業生産物 戸数 価格   戸 円 織物 8 207,965 漆器
通史編1(古代・中世) (青森県の古墳文化)

として、県東側の天間林村森ヶ沢遺跡の土坑墓(どこうぼ)群からは、続縄文文化後半期の北大(ほくだい)Ⅰ式土器と,五世紀後半の土師器坏(つき)および大阪陶邑(すえむら)編年Ⅰ期の須恵器高坏・直口壺・蓋などが出土している,・ヤリガンナ・剣(けん)片・吊り金具状品・環状品など)・玉類(琥珀(こはく)玉・ガラス玉・石製小玉)・漆製竪櫛,このほか県東側では十和田湖町三日市(みっかいち)遺跡の須恵器直口壺や平内町槻ノ木(つきのき)遺跡の土師器小型壺,写真2 森ヶ沢遺跡出土の土師器・須恵器・北大式土器 図2 細越館遺跡出土の土師器  青森県
資料編1(考古編) (第4節 中世・近世の生活用具)

素材として見た場合は、土器、陶磁器、鉄製品、銅製品、木製品、石製品、骨角製品、紙、革製品、竹、藁等で、,に見た場合、県内の遺跡からは以下のような出土品が発見されている   食膳具 折敷(おしき),膳,漆塗,・壺・鉢・承台(しょうだい),白磁碗・皿・壺・小杯,染付碗・皿・鉢・小杯,赤絵碗・皿(以上中国製陶磁器),/粉青沙器(ふんせいさき)碗・皿・壺(以上朝鮮製陶磁器)/瀬戸美濃灰釉(かいゆう)碗・皿・壺・盤・瓶子,,瀬戸美濃鉄釉(てつゆう)碗・皿・壺・天目台,唐津皿・碗・鉢・壺(以上日本製陶磁器)/土器皿 調理具
資料編1(考古編) ((3)石製品)

石棒は、前期の円筒下層d1式土器期に出現し、中期の円筒上層e式や最花・中の平Ⅲ式土器期には太く短い形状,図16 縄文時代の装身具各種(石製品・土製品・骨角製品・植物製品) 丹漆塗櫛(歯を欠失)… 尾上町,尾上町教育委員会蔵) 骨製飾櫛…天間林村・二ッ森貝塚(前期) (県立郷土館保管) 漆塗櫛,作る際に削り工具として使われたであろう異形石器、半円状扁平打製石器と同時期に出現し、中期初めで姿を消す,玦入扁平磨製石器等もある。
通史編4(近・現代1) (日清戦争後の会社、銀行と工業生産)

曲物其他販売 4,500 8 同 弘前煙草合資会社 同    土手町 煙草製造及仲買 3,500 7 同 漆器樹産合資会社,同    本町 漆器販売 3,000 5 同 陸奥物産合資会社 同    和徳町 藁細工物其他販売
資料編1(考古編) ((6)縄文時代晩期)

しかし、亀ヶ岡遺跡並びに同式土器は、発見が江戸時代にさかのぼるほど古いにもかかわらず、山内清男は、出土土器,その特徴的な主文様と器形は、精製土器を通して表すと表3のようになる。,表3 亀ヶ岡精製土器の器形と文様 時代 分期 土器形式 文様(装飾を含む) 器形 口縁部文様帯 頸部文様帯,、特に精製土器において製作の際に粘土を選び、器面を丹念に磨き、ていねいな文様を施し、中には漆または丹漆,現在、亀ヶ岡式土器の分布する範囲は、時期(土器形式)によって異なる。
通史編1(自然・原始) (弥生文化の内容)

恐らく縄文時代から主要な用具であった石器類は次第にその地位を失って、金属器(おもに鉄器)が利器の主流を,占めるようになり、それらの器具を使って東北北部でも開拓が進展したであろう。,)遺跡や、八戸市是川中居遺跡で出土した木製品(9)(八幡崎は木製碗・是川中居は箆(へら)状ならびに赤漆塗太刀形木製品,)などのように、細部にわたる彫刻は金属器ならではの感が強く、金属器は弥生文化よりも一足早く、縄文晩期の,すでに述べたごとく、縄文晩期にはコメが受け入れられていたと仮定すると、生活に不可欠な利器として鋭利な金属器
通史編1(古代・中世) (四耳壺の出土)

四耳壺の出土 ここで注目すべきことは、陶磁器の中で四耳壺(しじこ)といわれる器種が多く出土することである,とくに中国製の白磁四耳壺は、陶磁器生産が未熟な日本社会のなかではとりわけ貴重な器であったらしく、全国的,当時の絵巻物などに描かれている状況をみると、白磁四耳壺は酒器、つまり酒を入れる器として使用し、柄杓(ひしゃく,このように、中世初期の遺跡では古代まで一般的であった土器と木器(漆器)という食膳具の使用形態に陶磁器が,陶磁器は日常の食器であるとともに、所有者の権威を示す器でもあった。  
通史編1(古代・中世) (三 中世の道具と生産)

中世社会のなかでは、農業的な生産活動以外にも漁撈・狩猟・採集・鉱業・鍛冶・鋳造・炭焼き・製塩・木器・,漆工・木工・窯業・織工・牧業など各種の生産活動が行われている。,さらに、鋤先を装着する木器を成形して作った上で装着し、初めて使用できる状態になるのである。,境関館出土の鉄鋌(左) 写真173 浪岡城の鉄鋌(右)  このような鉄生産にかかわる事例や陶磁器の
資料編1(考古編) (6.独狐遺跡)

一方遺物では、縄文時代早期・中期・後期・晩期の土器・石器が、また平安時代後半期(10世紀~11世紀代),の土師器・須恵器等が、さらに中・近世の陶磁器(カラー図12・13)・下駄・漆塗椀等の木製品・古銭等が出土,石器は、石鏃・石箆・削器・石錘・磨石・敲石・凹石・石皿等の器種がある。  ,竪穴内からは、10世紀代の土師器甕・同坏・須恵器甕が出土している。  ,また、この時期の土壙や溝跡あるいは遺構外の出土遺物には、10世紀後半~11世紀代の土師器甕・坏・須恵器甕
資料編1(考古編) (2.堀越城跡)

堀越城跡発掘状況 土留の遺構検出状況 漆器出土状況 土留の遺構検出状況,カラー図14 堀越城跡出土陶磁器(1)(表裏) 1~3青磁 4白磁 5~10染付 カラー図,15 堀越城跡出土陶磁器(2)(表裏) 1不明陶器 2・3肥前 4志野 5美濃瀬戸灰釉 カラー,図16 堀越城跡出土陶磁器(3)(表裏) 1~3美濃瀬戸灰釉 4~6越前 〔陶磁器〕 中国製青磁,漆器の類としては椀(図122-1)、膳(図122-5・6)のほか、文様の見られる製品(図122-2)などがあり
通史編1(古代・中世) (第三節 南北交易と「境界地域」津軽)

もっとも特徴的な出土品として、生産地や流通量が理解できる陶磁器があり、鉄製品・銅製品・石製品などすべての,この背景には、津軽地域および夷島の各種物資が相当量南に向かって流通し始め、その見返りとして陶磁器や銭貨,津軽を中心とする北奥や夷島へ「京」から入った物としては前述した陶磁器のほか、鉄製品(鍋・釜・大工道具など,ったと想定される具体的製品を示す資料は少ないが、『庭訓往来』には、「奥州の金、宇賀の昆布、夷の鮭、奥漆」
資料編1(考古編) (5.荼毘館遺跡)

〔縄文時代〕 遺構は認められず、少量の土器・石器・土製品が散見するにすぎない。,石器には、石鏃等の剥片石器や磨製石斧等のほか青竜刀型石器もある。,、甕、須恵器が、また、後者からは黒色漆塗椀や木製品が出土している。,土師器は坏、甕、壺、把手付土器、小型皿、柱状高台坏がある。,図81 荼毘館遺跡第41号井戸跡・出土遺物(土師器・須恵器) 図82 荼毘館遺跡出土土師器
資料編1(考古編) (1.境関館遺跡)

SE03(図105)からは曲物、木製紡錘車、くさび状鉄製品、粉挽臼、茶臼、黒漆塗り椀と銭貨362枚が麻状,23.9 0.9 2.2 3.0 真 「十三」 〔木製品〕 形状の分かるものは38点あり、曲物、漆器椀,-8)、折敷(図118-9)、板状の部分品(図118-10・11)、柾目板(図118-12)、椀は赤漆(,図118-13・15)と黒漆(図118-14)がある。  ,境関館遺跡出土木製品(1) 図119 境関館遺跡出土木製品(2)  竹製品は、部分的に黒漆が
通史編1(自然・原始) (人類学会創設~昭和三十三年(一九五八))

の薫陶(くんとう)を受けて現黒石市にある花巻(はなまき)遺跡の発掘を行い、発見した円筒(えんとう)土器の,器形・装飾等について細かく分類した(17)。,また、当時人類学会会長であった東京大学教授坪井正五郎(つぼいしょうごろう)の「縄文土器はコロボックル(,なかでも、佐藤蔀の描いた遺物写生図はすばらしく、縄文時代晩期における大洞(おおぼら)A式土器の特徴を巧,亀ヶ岡遺跡から、漆塗りをはじめ、赤色顔料を豊富に使用した土器類が多数出土することに興味を抱く研究者は多
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