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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編4(近・現代1) (漆器の商況)

漆器の商況 漆器については七月三十一日の報告に以下のように記されている。,明治二十年代においては、漆器の県外輸出は十分とはいえなかった。  ,漆器(殼塗)(当市産)ハ、管内外各地方ヘ輸出アレトモ、販路未タ十分ナラズ、而シテ管外ニ於ケル重ナル取引地方,ヨリ輸入スレトモ、津軽産ハ南部、秋田ノ産ヨリ品質優等ナルヲ以テ、多クハ該品ヲ需用セリ (同前)  漆器 / 漆器の商況
資料編1(考古編) ((4)漆器・木器生産)

木製漆器の食膳具も生産使用されている。  ,それは、木胎漆器だけではなく、植物のつるで編んだ籃胎(らんたい)漆器、あるいは織布を用いた布胎(ふたい,)漆器などの生産に現れている。  ,律令制に組み込まれた官工房での生産は、黒色漆器・朱漆器を問わず、木胎の上に布を着せ、高価な漆を何度も塗,これは、同時に漆器そのものの普及にも拍車がかけられ、11世紀中葉には供膳具のほとんどが土師器から漆器へと / (4)漆器・木器生産
通史編5(近・現代2) (津軽塗)

普及し始めるが、その契機となったのが、明治十三年(一八八〇)七月、士族授産の一環として創立された弘前漆器授産会社,そして、明治十四年二月、弘前漆器授産会社が第二回内国勧業博覧会に津軽漆器を出品する際に「津軽塗」という,そして、大正時代に入り、七々子塗が津軽塗の技法に多く取り入れられると、漆器の持つ鈍重さがある程度修正され,それには、青森県工業試験場が昭和八年(一九三三)に漆器の実地研究を行うようになり、専門的な漆工研究部門,昭和十五年に青森県漆器統制会が設けられてから漆器業は統制下に置かれ、同十七年には技術的保存制度により六名
通史編3(近世2) (近世漆工芸の発展)

半田市太郎は『近世漆器工業の研究』(一九七〇年 吉川弘文館刊)に、次のように書いている。  ,から蒔絵の名工を招いて抱え蒔絵師としたことで、京都に住んでいた蒔絵師の一部が江戸に移り、江戸蒔絵、江戸漆器,他の一つは、家臣団の調度・家具や日用雑器などの需要、ないし新興町人層、あるいは有力農民層における漆器需要,の増大と、さらにこれらに対処してとられた領主の領内漆器生産の保護・奨励」である。  
通史編3(近世2) (津軽と「津軽塗」)

五月九日条、文化元年(一八〇四)十一月十四日条には、「弘前塗」と書かれ、「弘前塗」とか「津軽塗」とは、単に漆器,」、「霜降塗(しもふりぬり)」、「貫入塗(かんにゅうぬり)」、「紋虫喰塗(もんむしくいぬり)」などと漆器,中央公論美術出版刊)には、明治六年(一八七三)五月から開催されたウィーン万国博覧会に青森県が出品した漆器,フィラデルフィアで開催された万国博覧会に青海源兵衛は香盆、香炉台、提重などを出品し、「津軽韓塗(からぬり)漆器,この中に津軽塗の項があり、このころから津軽においても、津軽で塗られた漆器類を単に「津軽塗」と呼ぶようになった
資料編1(考古編) ((3)多様な技法)

当該遺物は、晩期の大洞C1式土器とともに出土した籃胎漆器の皮膜残欠であり、上下の長さ2.68cm、左右,籃胎漆器のこのような小破片に、糸数が1cm2の中で経糸が24本、緯糸は22~24本を数えることができ、,経糸・緯糸とも18ないし19本、金巾(かなきん)(キャラコ)では27か28本であり、石郷遺跡の当該籃胎漆器,図20 縄文時代の編物(籃胎漆器ほか) 籃胎漆器… 木造町・亀ヶ岡遺跡(晩期) (木造町縄文館蔵,モジリ編み)… 青森市・三内丸山(Ⅱ)遺跡(前期) (県埋蔵文化財調査センター提供) 籃胎漆器
通史編3(近世2) (塗師の知恵が支えた漆芸)

蒔絵や変わり塗の技法が上達・進歩し、美術的な漆工品の製作が可能になっていたのに対し、津軽で製作された漆器,、粗衣粗服を用いることを命じ、遊びの会合を禁じ、さらに器物の類は黒塗を使用し、蒔絵の類は堅く禁ずると漆器,そのため津軽の塗師たちは、限られた条件の中で漆器を作らなければならなかった。,これらの漆器には、時代の流れに合うものを作ろうとした創作意欲や創造性が感じられ、その技法には塗師たちの,蒔絵から変わり塗への移行、芸術的であるよりも実用的、個性的な漆器が生まれた要因の一つは、このような津軽
通史編3(近世2) (江戸中期の漆工芸)

(ちょうじ)・麝香(じゃこう)・白檀(びゃくだん)などを入れておく香箱などが使用され、塗師はこれらの漆器,また同四年には春慶塗の重箱、同五年には黒塗に蒔絵を加飾した漆器、縁に金粉を蒔いた盆の内側には、牡丹の折,さらに実験を行うために、四坪の細工所の薄縁を厚畳に敷き換えほこりを防ぐとともに、漆器を乾燥させるために
通史編3(近世2) (江戸から明治初期への漆工芸)

やがて明治に入ると藩からの仕事が絶えたが、伊太郎は弟子とともに漆器の製作を続け、これまで一子相伝の秘法,大正七年・一八三八~一九一八)、明治七年(一八七四)三月、鎌田貞顕、須藤良彦、古平一実らの援助を得て漆器製造,をはじめ、同十三年、伊藤正良と図って漆器樹産合資会社を本町に設立し、手工芸を産業化する新しい体制をつくった,(津軽塗漆器産業診断勧告書 一九五三年 青森県商工部刊)。  
通史編3(近世2) (変わり塗と池田源兵衛)

津軽へ来たころの小浜藩の塗師たちは、変わり塗技法(色漆を塗り重ね、研ぎ出して平滑に仕上げる)を用いて漆器,を製作し、これらの漆器は、若狭塗と呼ばれていた。,元禄六年(一六九三)にまとめられた『若狭郡県志』にも、「魚子塗」「虫喰塗(むしくいぬり)」など、変わり塗漆器
資料編1(考古編) ((2)県内遺跡の出土工芸品)

による調査で、箆状木器・棒状品や加工の施された木製品のほかに、漆を塗料に使用している籃胎(らんたい)漆器,・樹皮製容器の破損品1個分・箆状木製品(二弦琴との説あり)18本などが見られ、編物として赤漆塗の籃胎漆器,なお、この籃胎漆器について文化庁の保坂三郎は、〝竹籠に下地を厚く塗って目止めをし、その上に黒漆・赤漆を
通史編1(古代・中世) (食の道具)

図51 食生活の道具 1・2擂鉢,3粉挽き臼,4・5漆器,6・7箸,8折敷。,その場合に盛りつける器は、陶磁器や漆器で、武家社会の正式な食事場面では折敷(おしき)(図51-8)と呼,検出されるなど、木地師(きじし)の集団が存在したことは明らかであるが、中世段階では木地師・塗師など、漆器製作
通史編5(近・現代2) (地場産業の諸相)

(一)津軽塗  津軽塗の漆器工業は、戦時統制下の企業整備により従業員は転廃業をやむなくされ、昭和二十二年,し漆液の使用が禁止され、翌二十三年には指定生産資材割当規則によって、生活必需品としてわずかに残された漆器,の生産にも漆液の配給が実施されるに至り、漆器生産は極度に制約された。,(三)弘前手織  織物工場も津軽塗の漆器工業と同様、戦時企業統制により多くが姿を消し、残るは東北織物
資料編1(考古編) ((3)10世紀後半~11世紀)

それは、木器(漆器)生産の発達による土師器坏の極端な減少、把手付土器や内面黒色処理壺、あるいは蒸籠形甑,③農業・製鉄・製塩・漆器生産・窯業・馬産等の産業が全体的に極めて活発化した時期である。  ,漆器生産は、この時期に大きな転換期を迎え、10世紀中葉と11世紀初めの二つの技術革新により量産体制が整,い、食膳具としての土器を凌駕し、ほとんど漆器椀・皿に置換される。  
通史編1(古代・中世) (擦文文化圏との交易)

さらには、九世紀から一一世紀にかけての漆器(木製皿・椀)の製作は、一〇世紀後半における漆塗りの省略化、,図19 製鉄炉を営む工人集団の集落跡(鰺ヶ沢町杢沢遺跡) 写真57 大川遺跡の漆器 (北海道余市町
通史編1(古代・中世) (擦文文化の終末年代)

の終末年代 本州の擦文土器は、土師器と共伴する例が多いことから、鉄鍋・内耳鉄鍋の出現、そして木器(漆器,擦文文化にあっても、基本的には土器から煮炊具である鉄鍋、供膳具である木器(漆器)への転換が考えられる。
通史編4(近・現代1) (士族授産事業の成立と展開)

一万円の勧業資金貸与を受けて綿布製織を目的とした弘前興業織物工場、明治十七年に五〇〇〇円の貸与を受けて漆器製造,を目的とした漆器樹産会社、同年に五〇〇〇円の貸与を受け、養蚕製糸を目的とした盛蚕社があった。
通史編3(近世2) (津軽における漆工芸の起点)

縄文時代の籃胎漆器(らんたいしっき)(竹や植物を編んでカゴにしたものに漆を塗った漆器)を観察してみると
通史編3(近世2) (江戸後期の漆工芸)

これらの伝書に書かれている技法で塗られたと思われる漆器や手板がある。,嘉永元年(一八四八)五月、三浦亀次郎作」と外箱に書かれた「いろいろ塗五段重」は、変わり塗技法で仕上げられた漆器,漆器や手板の文様は、細い筆を使って色漆で描き、その上に色漆を塗り込み、研ぎ出して透明漆を塗り、磨いて仕上
通史編5(近・現代2) (青森県工業試験場)

六年には工場を新築して、漆器・木工・竹蔓細工の指導を行うようになり、十一年には窯業部を新設した。,アミノ酸、調味品の試験研究酒造米の依頼精白を行ふ       三 工芸指導部 (イ)工芸の指導   漆器,一般工芸に関する質疑応答、講習、講話、審査、研究生並に練習生の養生 (ロ)工芸試作研究  指導部工場に漆器
通史編5(近・現代2) (国内外の博覧会)

同博覧会への出品は津軽唐塗(からぬり)と漆器が青森県陸奥津軽の名で出され、津軽唐塗が有功賞牌を受賞している,フィラデルフィア万国博覧会には青海源兵衛(せいかいげんべえ)(明治元-明治四四 一八六八-一九一一)が津軽韓塗漆器等,青海波塗月千鳥蒔絵長箱」(県重宝)  明治二十六年(一八九三)のシカゴ・コロンブス万国博覧会では、三上平次郎が漆器出品,(一九〇四)のセントルイス万国博覧会では、青森県木通蔓細工組合が金賞、三上平次郎が銀賞他、中村甚吉、漆器樹産合資会社
通史編3(近世2) (黒塗、朱塗、蒔絵に加わった変わり塗)

源兵衛が津軽において漆器製作に用いた三つの技法を取り上げてみたが、これらの漆器は現在みることはできない,享保五年(一七二〇)に入ると、さらにみごとな漆器が津軽で製作されるようになった。
通史編4(近・現代1) (殖産興業の展開)

表9 工業諸会社及諸製造所表(明治20年) 名称 印刷所 裁縫所 盛蚕所 興業社 漆器 樹産 会社,織物所 竹内 製糸所 竹内 織物所 総計 営業種別 活版 印刷 洋服 裁縫 製糸 織物 漆器
通史編5(近・現代2) (工業都市弘前)

そして、(一)酒造業、(二)織物業、(三)漆器業、(四)木通蔓細工工業、(五)銅・鉄工業、(六)家具指物業,昭和6年度弘前市における工業生産の内訳 工業生産物 戸数 価格   戸 円 織物 8 207,965 漆器
通史編4(近・現代1) (日清戦争後の会社、銀行と工業生産)

曲物其他販売 4,500 8 同 弘前煙草合資会社 同    土手町 煙草製造及仲買 3,500 7 同 漆器樹産合資会社,同    本町 漆器販売 3,000 5 同 陸奥物産合資会社 同    和徳町 藁細工物其他販売
通史編3(近世2) (海底塗と唐塗を結ぶ磯草塗)

海底塗と唐塗を結ぶ磯草塗 古い漆器と現在の津軽の漆器を比較してみると、表面の文様が異なっており、国日記
資料編1(考古編) (第7節 出土遺物と生活)

出土文字資料(陶磁器・漆器・木器ほか)は比較的少ない。,陶磁器の底に文字・記号を書いた例と、漆器の底や側面に文字の書かれた例は、浪岡城跡に多いものの「大」「二
通史編4(近・現代1) (市制施行直前の工業)

この時期の弘前とその近辺に所在する工業会社は、中津軽郡富田村に所在する盛蚕社、弘前本町の興業社、同所の漆器樹産会社,このうち興業社は織物会社、発誠社は漆器製造会社、改光社はマッチ製造会社である。
通史編4(近・現代1) (工業建設の意見)

)競技会、展覧会ヲ開キテ技工ヲ奨励スルコト  (ホ)県立工業学校ニ機械科ヲ設置スルコト   五、漆器業,一、改良要点(ママ)  (イ)材料ノ選択ヲ慎ミ、髹法及図案ヲ攻究シ、応用ノ範囲ヲ拡メ、一般漆器ノ,ヲ図ルコト (リ)商工業者及職工徒弟ニ対シ表彰ノ方法ヲ設クルコト (ヌ)県工業試験場ヲ設ケ染織、漆器
資料編1(考古編) (2.堀越城跡)

堀越城跡発掘状況 土留の遺構検出状況 漆器出土状況 土留の遺構検出状況,漆器の類としては椀(図122-1)、膳(図122-5・6)のほか、文様の見られる製品(図122-2)などがあり
通史編5(近・現代2) (第三回青森県鉱産物品評会)

技工優秀なるものを視るも、尚水元滲落の不良引班等、改善すべき点少しとせず、尚熱誠なる努力を望む  漆器
通史編1(古代・中世) (四耳壺の出土)

このように、中世初期の遺跡では古代まで一般的であった土器と木器(漆器)という食膳具の使用形態に陶磁器が
通史編1(古代・中世) (かわらけと陶磁器)

土器(かわらけ)までなくなるわけではないが、日常の食器は木器と陶磁器の二器種だけで対応し、儀礼的な器は漆器
通史編4(近・現代1) (巡幸の日誌と弘前)

此地物産多く、最も漆器に名あり。質堅彩美。号して津軽塗となす。前年市店火を失す。延焼千余戸。
通史編5(近・現代2) (昭和初年の弘前の工業生産)

円 円 円 341,461 - - - - - - 7,527 - 8,154 1,257,144 漆器及漆液
通史編5(近・現代2) (高度経済成長期の工業)

53,460 73,480 津軽製紙(株) 41.2 2,330 24 ちり紙 - 12,920 ブナコ漆器製造
通史編4(近・現代1) (津軽産業会の活動)

本会定款第一条の目的を貫徹せんか為めに本会内に左の部会を設置す  農業部 蚕糸部 牧畜部 果実部 染織部 漆器部
資料編1(考古編) (第6節 金属製品)

しかし、11~12世紀の段階で土師器製作が下火になることによって、饗膳においては木器(漆器がほとんどであるが
資料編1(考古編) (資料編1「考古編」掲載図・表・写真一覧)

計測一覧 表3 本州の擦文土器出土遺跡一覧 表4 津軽五所川原古窯跡群一覧 表5 青森県の木製容器(漆器
資料編1(考古編) (新編 弘前市史 資料編1-1 考古編 目次)

          <2>津軽地方で生産された須恵器 …………  277          (4)漆器
資料編1(考古編) (1.境関館遺跡)

23.9 0.9 2.2 3.0 真 「十三」 〔木製品〕 形状の分かるものは38点あり、曲物、漆器椀
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