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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) (火災)

火災 火災は武家町・町人町では頻繁に発生しており、寺社や城郭内からも起きている。,特に城下の三大大火と称されるのは、慶安・延宝・延享の火災である。,焼失家屋の内訳は大家二二七軒、借家一七〇軒、土蔵五七棟、武家屋敷一二軒の大規模な火災であった(『津軽史事典,右の火災のほか藩政期を通じて、火災は放火もあるが、失火による場合が多かったのはいうまでもない。   / 火災
通史編5(近・現代2) (相次ぐ火災)

相次ぐ火災 水害同様に火災も市民を恐怖に陥れた災害であった。,火災は人災的側面が強く、他の都市と同様、数多く起こっている。,の記録を見ると、全焼二〇戸以上の火災だけでも、戦後の昭和二十二年四月十五日の火災から、昭和四十二年五月十日,一般民家の火災だけでなく、公共施設もかなり火災に遭っている。,家屋の構造が火災に弱い木造から鉄筋コンクリート造へと変わるなど、建築物構造の変化も重要だが、火災後の街並 / 相次ぐ火災
通史編3(近世2) (人家の火災)

人家の火災 災害は水害、風・雪害、地震、噴火などの天災によるものと、火災のような主として人の不注意による,特に集落内で火災が発生すると、消防力が弱いため、風がある時にはすぐ付近に延焼し大火となる場合が多かった,火災の頻発のうちでも特に著しかったのは、享保二十年(一七三五)であった。,享保二十年以後の火災の状況と火の用心に関する触書については表34に示したので参照されたい。,触書類は火災の頻発と大火の発生に対して、火災を未然に防ごうとする法令であった。 / 人家の火災
通史編3(近世2) (山林の火災)

山林の火災 集落の火災のほかに、山火事もあった。,野火禁止の法令が、幕末まで枚挙にいとまがないほど出されていることは、山林の火災が多かったことを意味するが,右の七ヵ条から山林の火災防止対策が知られる。,山林の火災は、農民の生活に大きな影響を与えたのである。 / 山林の火災
通史編5(近・現代2) (時敏・朝陽校の火災と不寝番の実施)

時敏・朝陽校の火災と不寝番の実施 昭和二十四年十月十二日午前四時二分ごろ、時敏小学校南側校舎から出火,しかも十日足らずの間の二校の火災に、巷間(こうかん)放火のうわさが高く、各校とも火災を恐れて戦々兢々(,度重なる学校火災に、市当局は十月二十四日「職員当直を三名として交替見廻りすべき旨」通牒(ちょう)を発したため,夜警二人は宿直員とともに校舎内外の警備に当たったが、その後、幸い学校の火災はなく、翌年三月末をもって夜警 / 時敏・朝陽校の火災と不寝番の実施
通史編2(近世1) (災害の続発とその影響)

#160;2月29日 風害 碇ヶ関,西海岸,青森 仮屋・並木松に被害,破船  3月18日 火災,~18日 風害 領内(特に西海岸) 家屋倒壊,難船など 享保2(1717)  4月20日 火災,関村(赤石組) 27軒焼失 閏 3月27日 火災 木作村・上木作村(木作新田) 96軒焼失,閏 3月28日 火災 舞戸村(赤石組) 97軒焼失  4月14日 火災 深浦 46,火災 小泊村(金木組) 89軒焼失 元文3(1738)  1月28日 火災 金井ヶ沢村・鴨村
通史編1(自然・原始) (春)

それにこの季節は、年間で最も降水量が少なく、空気が非常に乾燥し火災が多く発生する。,火災は最小湿度が四〇パーセント以下、木材の乾燥度を加味した実効湿度が六五パーセント以下になると発生件数,林野火災は、晴天日に気温が上がり、最小湿度が低いほど発現が高い。  
通史編3(近世2) (消防制度)

火災の合図は、宝永五年(一七〇八)の「弘前火事の節合図の定」によれば、「鐘撞堂(かねつきどう)」(現市内森町,その鐘によって、二の丸の時太鼓櫓の者が、城郭内の火災の場合は早太鼓を打ち、周辺の寺町(てらまち)・蔵主町,文政四年(一八二一)には、城下の火災発生から鎮火まで、太鼓と半鐘を一つずつ交互に打つように変わったが、,これではあまり騒々しいので、翌五年になり、火災が下火になった時には打ち方は同じであるが、間を長くとって,このように、時代によって火災の際の合図に多少の違いがあった。  
資料編3(近世編2) (2 本所の上屋敷)

ともに「元禄十五年以前」ということであって、この図が元禄十五年十二月の火災以前の作事に関するものであることがわかるのであるが,本所上屋敷の絵図面を取り上げながらなされた後藤久太郎の詳細な研究があり、 「---の作事の年代が元禄八年の火災
資料編3(近世編2) (3 柳原の中屋敷)

その後、元禄十一年(一六九八)九月には火災によって類焼し、同十六年(一七〇三)二月にまた類焼している。,しかし実際には、元禄十一年(一六九八)の火災復旧後の様子が描かれたものと見られるのである。
通史編3(近世2) (革秀寺)

慶長年間(一五九六~一六一四)、駒越村(現市内)に移転し、火災に遭ったがまもなく再建されたとみられる。
通史編4(近・現代1) (白銀小学を「朝陽」と改称)

ただ、残念なことに『朝陽』の扁額は、昭和二十四年(一九四九)十月二十三日、同校の火災のときに焼失した。
通史編3(近世2) (焼成について)

また火煙が立ちのぼることについてあらかじめ火消番頭や物頭へも連絡をとっているのは、火災との誤解を避け、,火の粉等による火災発生の危険に備えてのことであろう。  
通史編1(自然・原始) (三 津軽地方災害年表凡例)

記載中の空気乾燥害としての火災の場合、大火の焼失戸数のいちおうの基準を、第一部ではおおむね三〇戸、第二部
通史編4(近・現代1) (弘前物産陳列館)

)  県内には青森市に青森県物産陳列場があり、製品の縦覧を行っていたが、明治四十三年(一九一〇)に火災
通史編5(近・現代2) (弘前市の保健対策)

ところが昭和四十四年一月三十一日、津軽病院は不運にも火災に遭い全焼してしまった。,これにより火災に遭った津軽病院は、市役所隣の分庁舎に設けられていた仮診療所を三月二十六日で閉鎖した。
通史編5(近・現代2) (東奥義塾の昭和)

五年七月、東奥義塾は火災に見舞われた。全職員が塾長宅に招待されていて不在のときに起こった。,この火災は、生徒の一人が教室内で喫煙し吸い殼を捨てたことが原因とされ、失火罪で送検された。,これらの火災は不審火とされ、未解決のまま終わっている。  
通史編1(自然・原始) (春)

それにこの季節は年間で最も降水量が少なく、空気が非常に乾燥し、火災が多く発生する。  
通史編4(近・現代1) (柾木座焼失と弘前座)

から起こった火事が付近一帯へ延焼した大火の記念日に当たり、しかも市役所や消防団、警察署が肝いりした「火災
通史編3(近世2) (最勝院)

正徳四年(一七一四)の火災の際、阿弥陀仏・閻浮檀金弥陀尊は焼けずに残った。
資料編3(近世編2) (1 神田の上屋敷)

寛文八年(一六六八)二月の火災以後、次の絵図面で示される延宝六年(一六七八)までのものと見られるが、拡張
通史編3(近世2) (城門番所の警備)

もちろん、城の近くに火災が発生した時は別である。
通史編2(近世1) (町方支配)

城下の火災に際しては、町年寄の指揮のもとで、町を単位として消火に当たり、各町内の町印が描かれた旗が持ち,また、火災に際しての町印の描かれた旗の補修や、年に二度行われるキリシタン改めもすべて町役により賄われた
資料編3(近世編2) (●岩木山神社 岩木町大字百沢字寺沢)

岩木山神社本殿外四棟修理工事報告書』より転載) (二)拝殿--重要文化財  天正十七年(一五八九)正月の岩木山噴火による火災, 百澤寺の本坊あるいは客殿とされていたもので、寛永六年(一六二九)に楼門とともに造られたが、その後火災
通史編5(近・現代2) (学都充実への要望)

さらに貧弱な財政下、六・三削の導入で義務教育設備に多額の費用をかけ、時敏、朝陽二校を火災で焼失したにもかかわらず
通史編3(近世2) (江戸勤番と生活)

夜になれば提灯を持って屋敷内を見回り、火災発生に気を付け、特に長屋(上屋敷には外壁に沿って長屋が連続して,(10)火災が発生し消火に出るときは、行列帳に記されているとおりにすべきである。  ,右のことから、屋敷の門や出入口、火災については非常に注意が払われていたことが知られる。
通史編4(近・現代1) (茂森座から柾木座へ)

茂森座から柾木座へ 常設の芝居小屋は、旧藩時代からの茂森座と、明治十三年の火災の後復興した元寺町の柾木座
通史編4(近・現代1) (行在所の奉迎ぶり)

この経路に当たった本町五丁目、一番町、下土手町の界隈(かいわい)一帯は、前年の大火災で焼け野原と化したにかかわらず
通史編3(近世2) (江戸時代末期の建築)

は、百沢寺の本坊あるいは客殿とされていたもので、寛永六年(一六二九)に楼門とともに造られたが、その後火災
通史編5(近・現代2) (終戦直後の東奥義塾)

は明治四十二年以来、多年にわたって在日し、大正十一年の義塾再興の立役者であったほか、昭和初年に相次ぐ火災
通史編3(近世2) (本町と町家)

図をみると「本町辺薬種店」と記され、屋根の上に火災予防の用水桶がみえ、店先の通路に対して「小ミセと云(
資料編1(考古編) (2.下恋塚遺跡)

2・3・5号住居跡の3軒は火災を受けている。
通史編3(近世2) (江戸時代後期の建築)

あぶらかわ)に創建されたものが弘前へ移されたといわれ、越前門徒が活躍する様を彷彿(ほうふつ)とさせるが、火災
通史編1(自然・原始) (日本海沿岸海域に震源のある地震)

渡島(おしま)半島西部の奥尻(おくしり)島では津波と火災で壊滅的被害を被り、死者二〇二人の惨事となった
通史編4(近・現代1) (大正期の弘中)

南塘・南溜池の古称鏡ヶ池を眺望する地にあるところから)に移ってから最初の火災であった。  
通史編3(近世2) (江戸から明治初期への漆工芸)

この額は、昭和五十四年(一九七九)火災で焼失したが、手板は以前に調査され、記録されていた(前掲『津軽塗
通史編5(近・現代2) (弘前高校の生徒自治会)

火災の原因は、在校生による放火という思いもかけない事実も判明した。  
通史編5(近・現代2) (弘前実科高等女学校の変遷)

火災による損害は、約二〇万円に上ったといわれる。
通史編3(近世2) (二代信枚)

(さいふくじ)、徳増寺(とくぞうじ)は貞昌寺の塔頭としてあったために記されず、慶安二年(一六四九)の火災
通史編3(近世2) (辻番・自身番・木戸番)

○もし火災などが発生し、大勢の人が往来する場合は、すぐ大木戸を開けて通行の妨げにならないようにせよ。
通史編3(近世2) (災害と生活)

火災は三月四日午前十時、牛込(うしごめ)御小納戸町・木すや町から出火し、南風に煽(あお)られ七面明神(
通史編3(近世2) (弘前市内寺院所蔵の彫刻・絵画)

こうした現状には移転や寺町の火災、宗派確立時点での本尊像整備などの事情もかかわっていよう。
通史編4(近・現代1) (ランプと写真)

のち元寺町に移ったが、火災後は本町に転住した。また、十四、五年ごろには矢川璉が下白銀町に開業した。
通史編3(近世2) (江戸時代初期の建築)

この大堂は、天正十七年(一五九〇)正月の岩木山噴火による火災で百沢寺全山が焼失した後に、為信が建立した
通史編2(近世1) (城下弘前の変化)

前年五月三日に横町から火災が起き、寺町の五ヵ寺等が焼失した。
通史編2(近世1) (信義の襲封)

弘前城下の問題としては、慶安二年(一六四九)五月三日に横町よりの火災で寺町の大寺五ヵ寺等が焼失し、翌年三月
通史編4(近・現代1) (市制の施行)

スルコド(ママ)ト思フ人口ハ日ニ月ニ減少シ滞納者ハ彌々(ますます)多ク見渡セハ林檎畑ヤ五升芋畑許リニテ火災
通史編4(近・現代1) (明治二十年度予算審議)

のち二十五年、元寺町校舎が火災に遭って、青森か黒石に移転の話まで出た県立中学校再建の地として県に寄付、
通史編4(近・現代1) (津軽産業会の活動)

津軽産業会は一時、その建物を火災に遭った東奥義塾に貸与したが、返却後、これを利用して地方物産品評会を開
通史編5(近・現代2) (新編 弘前市史 通史編5(近・現代2) 目次)

783   一 岩木川の氾濫と大水害 ………………………………………  783   二 相次ぐ台風と大火災
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