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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編5(近・現代2)
(津軽藩踏水会)
津軽承昭は、
熊本藩
主細川斉護(なりもり)四男で、津軽一一代藩主順承(ゆきつぐ)の婿養子だった。,
熊本藩
は泳法が盛んで、小堀流踏水術という水中の武闘や作業ができる立游(たちおよぎ)に特色があった。
通史編3(近世2)
(野辺地戦争の開始)
一つが近衛忠熈・忠房宛て(同前No.五四五)であり、もう一つが、
熊本藩
主細川韶邦(よしくに)へ宛てたもの,そして後者は、藩主承昭の出身である
熊本藩
へ援軍を要請するものであった。
通史編3(近世2)
(山崎蘭洲)
の文人木村蒹葭堂(けんかどう)、京都古義堂の儒者伊藤東所(とうしょ)(伊藤東涯(とうがい)の長男)、
熊本藩
校時習館
通史編3(近世2)
(箱館戦争の終結)
また、二十二日には榎本らが
熊本藩
兵に護送されヤンシー艦で青森へ入港し、二十六日東京に向けて陸行で護送された
通史編3(近世2)
(津軽永孚)
津軽永孚、山崎図書以下の学校御用懸は昌平坂学問所や
熊本藩
校時習館(じしゅうかん)を範とし、図面や資料を
通史編3(近世2)
(信明の学校構想)
定信は
熊本藩
主細川重賢に私淑し、学校を人材養成のための組織的な施設として位置づける考え方を
熊本藩
校時習館,、国家有用の人材を養成する装置と捉えたが、これは徂徠を敬慕し徂徠の思想から決定的な影響を受けていた、
熊本藩
士水足博泉
通史編3(近世2)
(宮古湾海戦)
さらに、三月、四月と薩摩・水戸・
熊本藩
等の兵が続々と送られ、その他軍夫などを合わせると、最終的には総勢一万二
通史編4(近・現代1)
(菊池武徳と中央政治)
佐々は
熊本藩
士、国権論者で教育者でもあり、陸羯南の対外硬運動などに参加した。
通史編4(近・現代1)
(弘前県から青森県へ)
野田は
熊本藩
士だが、上京して横井小楠(よこいしょうなん)を師として勉学、さらに由利公正(ゆりきみまさ)
通史編4(近・現代1)
(弘前の紛紜の裏面)
山田秀典は、元
熊本藩
士で明治憲法作成の井上毅とよしみを通じている。
通史編3(近世2)
(野辺地戦争の動機)
盛岡藩との戦いについては、前述の津軽承昭の
熊本藩
への援軍要請にあった「旧怨之国柄」(資料近世2No.五四六
通史編3(近世2)
(松前方面の攻防と青森)
さらに、八日には
熊本藩
へもこの事件を報じる書状を作成し、援兵協力を求めた(『弘前藩記事』一)。
通史編2(近世1)
(舟橋騒動)
寛永十二年(一六三五)三月晦日に、江戸にいた細川忠興(ただおき)から子の肥後
熊本藩
主細川忠利に宛てた書状
通史編3(近世2)
(戦局の推移と戦費負担の増加)
252 9 大野藩 162 162 10 福山(松前)藩 531 531 11
熊本藩
通史編2(近世1)
(旅行者のみた領内海防)
吉田松陰は、嘉永四年(一八五一)十二月、仕えていた長州藩の許しを得ないまま、遊学していた江戸をたって、
熊本藩
士宮部鼎蔵
通史編3(近世2)
(松前徳広の領内落去)
また、承昭の生家である
熊本藩
細川家から送られた援兵が、悪天候のため品川からの航行途中で溺死するという悲劇
通史編3(近世2)
(新しい指導者)
新しい指導者 権参事となった野田豁通は、弘化元年(一八四四)
熊本藩
士の家に生まれ、幼少の頃(ころ)横井小楠
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