機関トップ
資料グループ
テキスト一覧
年表一覧
キーワード一覧
弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
トップページ
詳細検索
詳細検索
目録
テキスト
年表
キーワード
その他(トップページ等)
検索条件を追加
目録
テキスト
年表
キーワード一覧
その他(トップページ等)
AND
OR
NOT
年号変換
閉じる
検索結果
: 68件
辞書ファセット
○○○
△△△
10件
20件
50件
100件
(並べ替え)
テキストタイトル(昇順)
テキストタイトル(降順)
ページタイトル(昇順)
ページタイトル(降順)
掲載ページ(昇順)
掲載ページ(降順)
/ 2ページ
通史編3(近世2)
(瓦職人)
瓦
職人
瓦
職人には経験年数と技能の程度によって位付けがあった。,上々
瓦
師・上
瓦
師・中
瓦
師・下
瓦
師・下々
瓦
師の五段階である。,職位と給与(日給)について、貞享四年(一六八七)の例では上々
瓦
師一匁七分二分増、上
瓦
師一匁五分三分増、,中
瓦
師一匁三分一分増、下
瓦
師一匁三分三分(ママ)増とあり、職位相応の待遇がなされていた。,増分は町
瓦
師を引き止めるために、
瓦
師頭から普請奉行へ申請された昇給額である。 /
瓦
職人
通史編3(近世2)
((四)瓦)
(四)
瓦
「国日記」によると、弘前城内並びに一部城外建造物に使用された屋根
瓦
は、国元で焼成された国
瓦
,と、大坂(大阪)から海路移入された上方
瓦
(下り
瓦
とも表記されている。,完形品および大量の
瓦
片の出土をみた。,これら遺物の中には〝大坂
瓦
細工人〟や〝大塚理右衛門(おおつかりえもん)〟大坂
瓦
師)の印銘のある
瓦
片もみられ,図151.
瓦
印銘(大坂
瓦
細工人・大塚理右衛門) / (四)
瓦
通史編3(近世2)
(瓦の利用)
瓦
の利用 築城当時(慶長十六年〈一六一一〉)における
瓦
利用の実態については明らかでない。,移入
瓦
が使用された。,なおこの門については、合わせて六〇種類の
瓦
を取り混ぜ、約一万七八六四枚の
瓦
が見積もられている。,、明和六年(一七六九)六月十一日条の本丸金蔵屋根葺き用補完
瓦
の焼成を最後に製
瓦
の記録はみられない。,をしだいに
瓦
葺きにする計画が出され、嘉永四年(一八五一)には御用
瓦
二〇〇両を焼き出している。 /
瓦
の利用
通史編3(近世2)
(瓦の製造)
瓦
の製造 製造は
瓦
細工所で行われていたが、その内容は現在の
瓦
工場の場合で考えると、採掘原土の搬入、粘土,の調製、成形と仕上げ、生
瓦
の乾燥、窯詰め、焼成、冷却後の窯出し、貯蔵といった一連の作業であったようだ。,元禄十五年(一七〇二)の「弘前惣御絵図」(弘図郷)では、前記古絵図のかわら屋二ヵ所のほぼ同じ場所に、
瓦
ヶ,細工所は
瓦
の需要に応じて拡張・縮小あるいは新築・撤去および修復等が行われていた。,図152.
瓦
ヶ町の御
瓦
細工所周辺図 (右上に森山彦七の屋敷がある) /
瓦
の製造
通史編3(近世2)
(瓦の移入)
瓦
の移入 先にも触れたように、領内で使用された
瓦
には国
瓦
と移入
瓦
とがあった。,「国日記」延宝五年(一六七七)七月十七日条に、御用の
瓦
が十三に着岸、当座必要の分は弘前へ搬送し、残りは,十三に陸揚げした
瓦
はひとまず囲っておき、必要に応じて岩木川をさかのぼり、板屋野木(いたやのき)(現北津軽郡板柳 /
瓦
の移入
通史編3(近世2)
(瓦の種類と生産量について)
瓦
の種類と生産量について
瓦
の焼成は、その都度用途に応じて種類や数量等が異なる。,平
瓦
・敷平
瓦
・塀平
瓦
・丸
瓦
・立
瓦
・巴(ともえ)
瓦
・唐草
瓦
・角唐草
瓦
・面戸(めんと)
瓦
・鳥ぶすま
瓦
・うつぼ,
瓦
・熨斗(のし)
瓦
・御紋付鬼
瓦
・鬼板など種々の
瓦
が作られていた。,これらの中で特に多いのは平
瓦
と丸
瓦
であるが、これらは使用頻度が高く需要が多かったためである。 ,匁 内 訳
瓦
職人2094人日用銭 2貫421匁
瓦
役人・
瓦
職人 /
瓦
の種類と生産量について
通史編3(近世2)
(焼成について)
また元禄十二年(一六九九)四月二十七日の普請奉行の申し立てでは、明日、土器町(
瓦
ヶ町とも)
瓦
屋で
瓦
を焼成,
瓦
は必要に応じて焼成されたが、
瓦
の耐用年数を考慮すると、毎年作る必要はなく、貯蔵分や移入
瓦
による需給調整,
瓦
ヶ町での焼成は享保年間(一七一六~一七三五)からしだいにとだえていった。,それまでの
瓦
葺きが銅
瓦
葺き(この場合の銅
瓦
とは、木を
瓦
に形どり〈木
瓦
〉、これを銅板で覆ったもの)に代えられていったためである,銅
瓦
は最初に費用が多くかかるものの、補修や保守・管理の費用を軽減できた。
通史編4(近・現代1)
(戸長の配置)
村谷勘左衛門 代官町 緑町 植田町 萱町 笹権之助 上
瓦
ヶ,町 中
瓦
ヶ町 南
瓦
ヶ町 北
瓦
ヶ町 徳田町 南柳町 北柳町 坂本町 西川岸町 田代町 徒町 徒町川端町
資料編3(近世編2)
(3 現存する天守・城門等の考察)
屋根は当初から銅
瓦
葺であり、外壁や懸魚の付く破風は白漆喰で仕上げてあるが、軒裏は素木のままである。,二の丸南門 脇戸付き櫓門 銅
瓦
葺 二の丸東門 脇戸付き櫓門 銅
瓦
葺 三,の丸追手門 脇戸付き櫓門 銅
瓦
葺 三の丸東門 櫓門 銅
瓦
葺 北の,郭北門 脇戸付き櫓門 銅
瓦
葺 弘前城の城門は、枡形の土塁によって囲まれた櫓門である。,また、現在はすべて銅
瓦
葺であるが、当初はいずれも本
瓦
葺であり、北門のみ栩葺であったことが知られている。
通史編4(近・現代1)
(城西小学校創立)
富田町、富田新町 蓬莱 中初 敬業 中初 知類 中初 和徳学区 一 代官町、緑町、植田町、萱町、南
瓦
ケ,町、北
瓦
ケ町、上
瓦
ケ町、中
瓦
ケ町、徳田町、南柳町、北柳町、坂本町、田代町、西川岸町、徒町、徒町川端町、
通史編5(近・現代2)
(若葉・愛光幼稚園の合併と聖愛幼稚園)
若葉・愛光幼稚園の合併と聖愛幼稚園 北
瓦
ヶ町の私立若葉幼稚園は、私立弘前女学校幼稚園が独立の園舎を建築,両幼稚園は昭和二十六年四月から、ともに弘前学院の管轄となっていたが、三十三年四月合併、中
瓦
ヶ町一番地に
資料編1(考古編)
(第4節 中世・近世の生活用具)
かつゆう)壺(以上陶磁器)/曲物・桶(以上木製品) 灯火具 火打金(鉄製品)/火打石・石鉢(石製品)/
瓦
燈,(土製品) 暖房具
瓦
質(がしつ)火鉢・行火(あんか)(以上土製品)/温石(おんじゃく)(石製品)/,鉄製品)/紅皿(陶磁器) 茶の湯 中国製鉄釉壺・碗,瀬戸美濃鉄釉壺・碗・天目台・茶入(以上陶磁器)/
瓦
質風炉,(土製品)/茶臼(石製品) 聞香 青磁香炉,瀬戸美濃香炉(以上陶磁器)/
瓦
質香炉(土製品) 文房具
資料編1(考古編)
(4.15世紀の様相)
特に、
瓦
質土器の火鉢などはこの時期から搬入される量が多くなり、16世紀に至ってはかなりのバリエーション,この
瓦
質土器を在地生産とする考え方もあるようだが、全国的な流通スタイルを見ても搬入されたものと見るべきであろう,図13 浪岡城跡出土
瓦
質土器 主要な遺跡としては、市浦村十三湊遺跡・伝山王坊跡・檀林寺跡・二ツ
通史編3(近世2)
(瀬戸師林兵衛による製陶)
瀬戸師林兵衛による製陶 「国日記」などの製陶や
瓦
焼成に関する記述の中に、瀬戸師林兵衛・
瓦
師林兵衛・石岡林兵衛等,なお林兵衛は
瓦
の焼成にも当たっている。,すでに触れたが、悪戸村での製陶は製
瓦
を含めて文化年代初期から始められており、文政年間の半ば過ぎには窯業,製品には陶器・磁器・
瓦
などが挙げられるが、多くを占めるのは陶器である。
通史編3(近世2)
(悪戸村における製陶)
御用格 寛政本」(弘図津)巻十八―作事―の文化六年(一八〇九)九月八日条によると、秋田領(場所不明)で製
瓦
技術,を習得してきていた鋳物師冨川屋圓次郎(とがわやえんじろう)が、城中の塀と番所の屋根に用いる
瓦
の試焼に当,、圓次郎は宇和野(うわの)の銀納畑のうち土取場・焼場所とも二反歩(約一九八〇平方メートル)の所で瀬戸
瓦
の,その際の申し付けによると、
瓦
は試焼段階にあるが、瀬戸焼(陶器)は国産になるので自由に焼き出すようにと記述
資料編3(近世編2)
(●隣松寺 久祥院殿位牌堂 西茂森二丁目--県重宝)
台座の上に置かれた建築型一間厨子の形を取っており、宝形造木
瓦
葺の屋根の正面に軒唐破風を付けて、屋根の頂上
通史編5(近・現代2)
(柴田女子高校の繁栄)
三十五年五月、北
瓦
ヶ町の学園本部から出火し、短大、栄養学校、中学校の校舎のほか、講堂、学生寮のすべてが,まもなく本部と短大は北
瓦
ヶ町に、中学校は高校敷地内に再建されたが、時を同じくして起こった高校生急増対策
通史編4(近・現代1)
(その他の会社)
大正11年9月 富田町 株式会社弘前倉庫 100,000 42,000 貨物保管 明治32年12月 北
瓦
ケ,明治28年11月 代官町 弘前製氷株式会社 50,000 12,000 製氷販売 大正11年5月 北
瓦
ケ
通史編5(近・現代2)
(前川設計建築群)
また、市立博物館からは外壁を煉
瓦
様タイルで飾るという手法がとられ、ここに用いられた深みのある煉
瓦
色が城下町
通史編5(近・現代2)
(りんご復興と澁川伝次郎)
昭和二十五年(一九五〇)、りんご会館を弘前市中心部の北
瓦
ヶ町に建設した(のち昭和五十年、城東中央三丁目,写真126 北
瓦
ヶ町時代のりんご会館
通史編4(近・現代1)
(学区の改変)
元長町、森町、覚仙町、鍛冶町、新鍛冶町、南北川端町などとなり、和徳小学学区は、和徳町、代官町、南北中
瓦
ヶ
通史編3(近世2)
((三)住居)
(三)住居 江戸でははじめ板葺の屋根が多く、
瓦
の屋根は贅沢であると禁じられていたが、度重なる大火のため,、享保ころ
瓦
葺塗屋造りが奨励されるようになった。
通史編5(近・現代2)
(明治時代の柔術)
そして、明治十六年(一八八三)九月、長坂町に「北辰堂」、十七年二月、鷹匠町に「明治館」、二十年八月、北
瓦
ヶ
通史編5(近・現代2)
(和洋裁縫女学校の躍進)
を迎えたが、時勢の推移に敏感で、柔軟な対応をする和洋裁縫女学校にとっては、不景気も戦争も関係なく、中
瓦
ヶ,町・上
瓦
ヶ町の土地を購入して拡大を続けた。
通史編3(近世2)
(鳥羽・伏見の戦い)
六日夜、徳川慶喜は密かに大坂城を脱出して海路で江戸を目指し、旧幕府軍は
瓦
解していった。
通史編5(近・現代2)
(東北女子短期大学の開学)
写真143 柴田学園本部と東北女子短期大学(上
瓦
ヶ町・昭和25年ごろ) 昭和二十七年三月には、
通史編2(近世1)
(土着策と弘前城下)
・小人町・長坂町・御徒町(おかちまち)・御徒町川端(かわばた)町・徳田町・田代町・山下町・西川岸町・
瓦
(,かわらけ)町上町・
瓦
町中町・
瓦
町南町・
瓦
町北町・田中町・柳町・坂本町・緑町・片山町・植田町・山道町・住吉町
通史編3(近世2)
((三)陶磁器)
陶磁器や
瓦
等窯業における生産方式や運営形態は時代や窯場等によって異なる。,
瓦
は文化年代(一八〇四~一八一七)以前は藩の御用として使用されていたので、その間は純然たる藩窯(はんよう
通史編4(近・現代1)
(若葉幼稚園設立)
若葉幼稚園設立 弘前女学校内の教室で保育を続けていた同校付属幼稚園は、明治三十九年(一九〇六)、北
瓦
ヶ
通史編3(近世2)
(非人小屋の設置と餓死者の処理)
九月中旬ごろになって非人小屋(ひにんごや)を
瓦
(かわら)ヶ町に二軒、猫右衛門町(ねこえもんちょう)(現市内松森町
通史編4(近・現代1)
(弘前和洋裁縫女学校)
評判になり、またたく間に生徒数が増え、大正六年には北川端町に移ったが、すぐに手狭となり、翌七年には上
瓦
ヶ
通史編5(近・現代2)
(朝日シードルの進出)
写真116 朝日シードル会社の工場となった吉井酒造煉
瓦
倉庫 写真117 朝日シードル
資料編1(考古編)
(3.14世紀の様相)
また
瓦
質火炉(図10-2)や産地不詳の擂(すり)鉢(図10-3)とともに、珠洲・越前の製品が搬入されている
通史編5(近・現代2)
(弘前学院短期大学の開学)
写真144 昭和36年当時の弘前学院短期大学(北
瓦
ヶ町) 昭和四十六年(一九七一)一月二十七日
通史編5(近・現代2)
(富田大火と第一・第二大成小学校の焼失)
び、焼失区域は富田大通りの一部、偕行社通りの一部、住吉町、品川町、松森町一部、代官町、土手町一部、上
瓦
ヶ
通史編5(近・現代2)
(進取の建築)
〔一九〇七〕、現弘前銘醸株式会社)と吉井酒造株式会社倉庫(大正十四年〔一九三九〕)があり、いずれも煉
瓦
造
通史編2(近世1)
(窮民対策)
図104.弘前市専修寺の餓死供養題目塔 九月中ころ、
瓦
(かわらけ)町・猫右衛門(ねこえもん)町
通史編5(近・現代2)
(教会堂建築)
、山道町に日本聖公会弘前昇天教会聖堂が建てられたが、大正九年(一九二〇)に改築された現存の聖堂は、煉
瓦
造平屋建
資料編1(考古編)
(10.弘前城内遺跡)
式土器のほか、同時代後期の十腰内Ⅰ群(式)土器破片に加えて、平安時代の土師器をはじめ、藩政時代の陶磁器・
瓦
質陶器等
通史編1(自然・原始)
(人類学会創設~昭和三十三年(一九五八))
によって学界に紹介され、なかでも明治二十年(一八八七)の佐藤蔀により東京人類学会雑誌の三巻二一号を飾った「
瓦
偶人之図,
瓦
偶人とは、目が大きく表現された遮光器土偶(しゃこうきどぐう)のことであり、英国に留学していた坪井正五郎
通史編3(近世2)
(平清水三右衛門による作陶)
による作陶 「国日記」元禄四年(一六九一)八月十二日条によると、藩士平清水三右衛門はかねて江戸の浅草
瓦
町,図142.浅草
瓦
町周辺図 金龍山のカワラ丁の名もみえる 元禄五年(一六九二)八月二十九日の「平清水三右衛門焼物之覚
通史編4(近・現代1)
(町道場の設置)
○北辰堂(笹森町) ○明治館(鷹匠町) ○精交会(一番町) ○陽明館(北
瓦
ヶ町) ○城南倶楽部
資料編1(考古編)
(〈地域的な差〉)
根城本丸における竪穴建物跡(SI62)の床面から検出された、鎧や釘・銭貨・
瓦
質土器を参考までに提示しておく
通史編1(古代・中世)
(住の道具)
(いろり)を基本とする生活スタイルが予想されることから、基本は囲炉裏による暖房としても、火鉢(おもに
瓦
質
資料編1(考古編)
(7.陶磁器の組成)
2 0 0 0 0 0 0 148 0 唐津 0 0 0 0 0 0 176 340 43 996
瓦
質土器
通史編4(近・現代1)
(菊池武徳と中央政治)
菊池武徳と中央政治 菊池武徳は旧弘前藩士菊池元衛の長男で、慶応三年弘前
瓦
ヶ町に生まれた。
通史編3(近世2)
(信政の文治)
鋳物(いもの)師、塗師(ぬし)、鏡研(かがみとぎ)、大工、石工(いしく)、造船、木地挽(きじひき)、
瓦
師
資料編1(考古編)
(第7節 出土遺物と生活)
浪岡町浪岡城跡北館出土人骨は土壙埋葬であり、女性骨で
瓦
質土器の出土から16世紀頃と推定される。
通史編4(近・現代1)
(新事物)
本町の矢川友弥・神忍、
瓦
ヶ町小西吉十郎、山道町斎藤篤一などが三十年代の写真館を担った。
通史編4(近・現代1)
(市制施行直前の工業)
は、中津軽郡富田村に所在する盛蚕社、弘前本町の興業社、同所の漆器樹産会社、弘前和徳町の発誠社、弘前上
瓦
ヶ
/ 2ページ