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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編2(近世1) ((三)藩士土着政策廃止をめぐる諸問題)

これに先立って、同年五月二十三日・二十四日に、家老牧野左次郎、用人赤石安右衛門、勘定奉行菊池寛司が御役御免蟄居,いうまでもなく土着策の責任をとらされたのであるが、赤石が同年三月二十八日に五〇石加増されて用人となっていることから
通史編3(近世2) (勤務の状況)

御用座敷は上ノ間から家老、二ノ間は用人・大目付、三ノ間は三奉行(寺社奉行・町奉行・勘定奉行)、四ノ間は,梅ノ間御次ノ間には大目付が午前十時から午後二時まで勤め、家老・用人が退出後、用事がなければ帰る。,右筆(ゆうひつ)(側用人(そばようにん)直属の下僚で書記)一人は、家老・用人が出仕する前に詰め、彼等が,藩主が他出する際の留守は、寺社へ参詣の場合、当番の用人が勤め、一日中他出の場合、午後二時ころまで城代が,これらの場合に、城代・留守居組頭は梅ノ間御次ノ間西側で、用人は御用座敷で勤務する。
通史編3(近世2) (第二次藩政改革)

石) 津軽済(900石) 番 方 要 職 津軽平八郎(御手廻組頭・500石) 山野茂樹(同上格用人兼,140石外160石) 加藤武彦(御留守居組頭格・200石外100石) 役 方 要 職 西館孤清(用人,・100石外200石) 桜庭太次馬(用人手伝・10両4人扶持外240石) 神盛苗(用人手伝・150石外,150石) 都谷森逸眠(勘定奉行用人手伝・200俵) 小山巴(同上・100石外200石) 工藤嘉左衛門,) 一町田大江(公用人会計司兼・200俵) 樋口小三郎(公用人市政司兼・80俵3斗4升外70俵) 赤石礼次郎
通史編3(近世2) (礼服)

御中小姓は武官で、あとは奥向の役職、当番の御目付……大目付の指揮を受ける監察の官)、平服麻裃(掃除見分の用人,(ようにん)・大目付(おおめつけ)……用人は家老の補佐役。,文政十一年(一八二八)――「国日記」に「四日御箒(ごほうき)初に付、罷出候御用人并大目付常服麻上下」とあり,享保二年(一七一七)――常服半袴(藩主の一族・家老・用人・大目付)、常服麻裃(城中の諸番人) 宝暦三年,文政十一年――熨斗目麻裃(家老・用人)常服麻裃(大目付)  藩主在国中の文政十一年より、在府中の前二者
通史編2(近世1) (支配機構の整備)

一方、役方における重要な動きとしては、延宝七年十一月十一日、用人職が設置され、田村幸則(たむらゆきのり,この支配割り当ては、後に用人の支配職分に含まれることから、この時点に用人職の萌芽を見いだすことができる,北村・棟方の職掌は、用人へさらに一歩近づいたものといえよう。  ,このような過程を経た用人職創設のねらいはどこにあったのであろうか。,なお、これ以降の家老就任者と用人就任者を比べると、家老は門閥・譜代重臣層が登用されるのに対して、用人職
通史編2(近世1) (弘前藩庁日記の開始)

においてまとめられていた記録と考えられる「御伝帳」・「御家老帳」・「御家老剪紙(きりがみ)控」・「御用人剪紙控, 「国日記」一日分の記事内容は、初期のころを除いて、まずその月初めには、その月の月番である家老・用人,それから日々の記事は、まず、月日と天候が記されたあと、その日の家老・用人・大目付の登城の有無、次に祭祀,形式的には、月初めに月番家老と用人名を掲出し、日々の記事は、月日天候、その日の当番用人名を記して、それから
通史編2(近世1) (六 要記秘鑑(ようきひかん))

六 要記秘鑑(ようきひかん) 文化年間に用人三橋左十郎が編纂したもの。
通史編3(近世2) (学校開設準備)

藩校創設の機運は熟し、寛政六年八月十一日には津軽永孚(ながざね)が学校創設の総責任者として用人に登用され
通史編3(近世2) (御軍政局の発足と組織)

山田十郎兵衛 御軍政局御用掛 御手廻大番頭 500石 御手廻組頭・御側向・武芸引担 明治1.6 御用人,大組足軽頭兼務  4 三橋左十郎 〃 御手筒足軽頭 250石 諸手足軽頭 明治1.8 御側御用人,木村も同五月に用人兼務となり、山田の転出後は御手筒(おてづつ)足軽頭の三橋左十郎(みつはしさじゅうろう,)が、軍政局評定方より御側御用人兼帯のうえ、御用掛に昇進している。,このように局中を総括する御用掛の出自が番方最上位のみでなく、用人・側用人として藩主、あるいは御用所(ごようじょ
通史編3(近世2) (年越しと小正月の料理)

日記によれば、幕末の安政元年(一八五四)十二月晦日の昼は、家族と酒造りの杜氏(とうじ)など五〇余人の使用人,安政五年一月十五日には、昼に例年どおり年越しの食膳を囲んだことが記され、夜には使用人の若者たちへ鯖(さば
通史編2(近世1) (意見書提出の奨励)

森岡主膳元徳(もりおかしゅぜんもとのり)(家老)・山田彦兵衛勝令(やまだひこべえかつはる)(用人)・大谷津七郎茂成,(おおやつしちろうもりしげ)(江戸用人)と津軽多膳貞栄(つがるたぜんさだよし)(用人、後に家老)との対立
通史編3(近世2) (織)

なお江戸出立に際して、江戸屋敷御用人から国許御用人への書状を持参していたが、それには織物師両人が領内各地,養蚕や絹織以外の繊維や染料等の調査にも及んでいるのは、前述の江戸藩邸御用人よりの覚書に基づくもので、巡察
通史編2(近世1) (七 津軽一統志)

四代藩主信政時代に計画され、資料収集を企てたが実現せず、五代藩主信寿(のぶひさ)の享保十二年(一七二七)に用人桜庭半兵衛
通史編3(近世2) (藩営紙漉座と蘭医星弘道)

安政六年(一八五九)十月、御用人楠美荘司(くすみしょうじ)が楮仕立・紙漉座御用係、勘定奉行浅利(あさり,御用人本多東作(ほんだとうさく)・佐野茂助、勘定奉行寺田慶次郎(てらだけいじろう)ら一七人と手付き七人,翌文久元年(一八六一)春、家老・用人・大目付が二度にわたって楮町の楮畑と、紙漉町の紙漉座とを検分に訪れた
通史編3(近世2) (白石同盟の動き)

協議すべく、同道の佐藤英馬を先行させて秋田藩重役との会見を申し込み、閏四月八日に、同藩家老岡本又太郎、用人金大之進,秋田藩は翌日、家老戸村十太夫と用人金大之進を使者として仙台へ派遣した。
通史編3(近世2) (答礼使の出発)

答礼使の出発 三月二十日になって、弘前藩は、秋田・仙台両藩へ家老西館宇膳(にしだてうぜん)・副使用人楠美荘司,った局面展開が生じてきたが、依然仙台藩使者が伝える方向性に賛同を示しており、これは、三月二十九日付の用人北原蔵人
通史編2(近世1) (殖産政策の前提)

の勘定奉行荻原重秀(おぎわらしげひで)による貨幣改鋳策、次の将軍徳川家宣(とくがわいえのぶ)のもと側用人間部詮房
通史編2(近世1) (捜索・召捕)

手先(てさき)などともいう)は町奉行配下の諸役人の手先として利用されたが、職制としては非公認の私的な使用人
通史編2(近世1) (在宅制度廃止以前の廃田・新田開発)

天明五年二月二十八日に藩は「当仕込世話役」として、在方七六名、城下五五名の者を任命し、さらに家老津軽多膳・用人喜多村監物以下
通史編2(近世1) (改革推進体制の構築)

改革推進体制の構築 さて、右の課題を解決するため、家老津軽主水、用人毛内有右衛門、勘定奉行乳井市郎左衛門,最高責任者の「惣司(そうじ)」は用人の毛内有右衛門が就任した。,次いで翌六年七月一日、藩主信寧(のぶやす)から「貢」の名を拝領、同年十月十一日には用人次順の格式であった
通史編2(近世1) (在宅制度廃止後の廃田・新田開発)

けて、まず「御郡内開発御用掛」に藤田権左衛門が任じられ、翌享和三年正月二十八日に、家老喜多村監物など御用人
通史編3(近世2) (歌舞伎)

同十年五月には四奉行・用人の奥方・藩士・町人・在方からの見物もあって繁昌したという(「秘苑」)。  
通史編3(近世2) ((三)住居)

したところで、西から東へ上段・御用所上ノ間(家老〈大名の重臣で家務を統轄する者〉が詰める)、二ノ間(用人,・大目付…用人は家老の補佐役、大目付は監察を任務とし法規典礼を掌る)・三ノ間(三奉行…寺社奉行・町奉行
通史編3(近世2) ((三)主要人物)

忍(おし)藩主阿部(あべ)忠秋に仕え、一三〇〇石、側用人(そばようにん)。,つがるやすちか)の時に中小姓に召し出され、一〇代信順(のぶゆき)の時代、文政八年(一八二五)五〇石を加増され側用人
通史編3(近世2) (出発)

家老・用人・城代が御目見(おめみえ)し、続いて山水ノ間・梅ノ間・浪ノ間で次々と重臣が御目見する。,玄関より出る時は、玄関下座敷西の方に家老、同東の方に城代、その後に用人が控え、さらに白砂東の方に大目付,一番最後は用人と家老であった(『記類』下)。
通史編2(近世1) (越後高田領検地の実施)

三月二十一日には用人間宮勝守を元締めとする検地派遣役人を決定し(同前)、惣奉行に大道寺繁清(しげきよ),次いで各藩の担当区域の高割帳がそれぞれの用人達に下付され(「国日記」天和二年四月九日条)、検地着手以前,検地の事務細目については各藩の用人が寄り合って協議した。  ,の役職 新規召抱 備  考 1 惣奉行 大道寺隼人 手廻組頭 国元から呼ぶ 2 元締め 間宮求馬 用人, 〃 30 〃 藤田茂右衛門 足軽 31 〃 木村伝兵衛  〃 32 〃 清藤弥五兵衛 用人支配物書
通史編5(近・現代2) (平家琵琶)

『弘藩明治一統誌 人名篇』に「元御用人 楠美太素(たいそ)、士族 工藤繁司(くどうしげじ)」の名が記されている
通史編2(近世1) (「出頭人」の台頭)

先にみた用人職設置で最初に任命された田村幸則は山鹿素行の甥に当たる。,一六八二)に対して、役儀はないままで津軽政朝の手伝いおよび御用見習いを命じ、また間宮・木村・唐牛の三用人,それまで三家老が果たしてきた職務を用人に吸収させるねらいがあったものと思われる。
通史編4(近・現代1) (最初の県会)

山田登は旧藩の勘定奉行、用人として功があり、山崎清良も旧藩大目付で戊辰の役で活躍、藩を勤王とした功があるが
通史編3(近世2) (一〇代信順の治世)

江戸詰用人河野六郎・工藤伝兵衛、勘定奉行武田準左衛門は江戸の商人からの借財でこれを切り抜けようとしたが,劣勢を挽回するために笠原は天保四年九月に弘前に下ってきた側室の増衛と接触し、十月には大寄合格用人手伝い・,かわりに家老には大道寺玄蕃繁元(げんばしげもと)が任じられ、笠原は御馬廻組頭兼用人(天保五年に家老就任
通史編2(近世1) (文教政策の展開)

さらに六月十七日には城中梅之間において儒者小泉由己が大学の講義を行い、家老・用人が聴講している。
通史編2(近世1) (裁判と判決)

重い犯罪に関しては家老(かろう)・用人(ようにん)も列席した。
通史編3(近世2) (討庄応援部隊の解兵)

そして、五月一日、総大将山崎所左衛門は、用人工藤嘉左衛門から解兵報知と、秋田藩長瀬隼之助から同藩兵の「
通史編3(近世2) (廃藩置県と帰田法の終焉)

にはすでに農村移住を願い出ている八三一人の士族・卒の引越代米が大幅に削減され、その他一七八二人の家財運搬用人馬
通史編2(近世1) (赤石安右衛門・菊池寛司の「覚」)

御目見以上支配菊池寛司正礼(きくちかんじまさのり)、作事奉行赤石安右衛門行健(あかいしやすえもんゆきたけ)の両人から、用人牧野左次郎,この前後、人事の一新が行われて、寛政二年五月信明帰国、同年六月牧野を用人に、翌三年正月赤石を郡奉行(勘定奉行兼帯,九代藩主寧親(やすちか)の代に家老となり改革を推進した大道寺隼人繁殖(だいどうじはやとしげたね)も、同年正月に用人,赤石安右衛門・菊池寛司の「覚」 目録を見る 精細画像で見る  さて、本書の藩政への影響であるが、用人
通史編2(近世1) (寛政律)

八代藩主津軽信明(のぶはる)の時代(一七八四~一七九一)に本格的編纂が始まり、用人牧野左次郎を中心とし
通史編2(近世1) (民兵の登場)

百姓の動員については、すでに文化五年(一八〇八)、対露緊張の中で領内沿岸を巡視した用人山鹿高美が必要性
通史編3(近世2) (一二代承昭の襲封)

その主張の急先鋒は用人山田登であり、彼は同志を募りながら家老西館宇膳・山中兵部・杉山八兵衛らと対決姿勢
通史編3(近世2) (第一次藩政改革と特色)

組織の構成面では藩庁は新たに政事堂と呼ばれ、旧家老は執政(しっせい)、用人は参政(さんせい)、各部署の,公務方は新政府の集議院に出席したり、国元と東京間の連絡調整を務める公議人と、その補佐の公用人などからなり,日改正藩庁組織 藩治職表 一等 二等 三等 四等 五等 政事堂 執政 参政 書記 筆生 公務方 公議人 公用人
通史編4(近・現代1) (市税の構造)

地価割…一円ニ付金五十銭 国税営業割…一円ニ付六十銭 県税営業税雑種税割…一円ニ付一円(日月税、営業用人力車税,一円ニ付十一銭 県税営業税付加税…一円ニ付七十銭 県税雑種税付加税…一円ニ付七十銭(但日月税、営業用人力車税一件,売薬営業税一円ニ付五銭 県税営業税付加税…一円ニ付九十銭 県税雑種税付加税…一円ニ付九十銭、日月税、営業用人力車税
通史編3(近世2) (大政奉還時の状況)

慶応期(一八六三~一八六八)に京都で活躍した人物といえば、京都留守居役の側用人西舘平馬(にしだてへいま
通史編3(近世2) (神事能)

能役者は、延宝八年(一六八〇)から用人の支配下となり、諸経費は楽屋奉行・能役者双方より出されていたが、
通史編3(近世2) (江戸勤番と生活)

浪岡俊連が以前からの希望がかなえられ、今日初めて上屋敷へ参り、用人へ会うことができた。,今後は裏口の玄関から入り、御台子ノ間(おんだいすのま)を通り、さらに中敷居を通るよう用人から申し渡された
通史編2(近世1) (騒動の背景)

騒動の背景 藩財政の自立を目指す宝暦改革が失敗したあと、藩は再び家老森岡主膳、側用人大谷津七郎・山口彦兵衛
通史編2(近世1) (安永期の蔵米化)

「藤田権左衛門家記」によると同年七月二十八日、お目見え以上の藩士の登城命令が下り、家老・御用人が列座する
通史編3(近世2) (生地による統制と着用規定)

衣服・帯地・裏地・風呂敷などに用いる)などの着用は役高一〇〇〇石および側用人(そばようにん)(奥向の内政
通史編2(近世1) (「津軽一統志」の編纂)

用人桜庭正盈(まさみつ)と藩士相坂則武・伊東祐則らが実際の編纂と校正の実務に当たった。  
通史編2(近世1) (藩士対象の司法制度)

家老・用人・大目付・勘定奉行など上級藩士に対する取り調べの詳細は不明であるが、「国日記」によれば、預り
通史編2(近世1) (金木屋日記にみる対外危機)

浦賀警備のため津軽家では用人本多東作と者頭(ものがしら)土岐渡人(わたんど)が大将となって、川崎弁天の
通史編2(近世1) (町方支配)

町奉行は、御用人の支配のもとにあり、定員は藩政前期を除いて二人、石高は二〇〇~三〇〇石であった。
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