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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編2(近世1)
(一 九戸一揆と動員大名)
かさい)・大崎(おおさき)一揆、和賀(わが)・稗貫(ひえぬき)一揆が起こり、出羽国では仙北(せんぼく)・
由利
,検地奉行として津軽の検地を終え帰国の途次にあった前田利家(まえだとしいえ)は、この起こったばかりの仙北・
由利
通史編1(古代・中世)
(津軽独立に向けて)
津軽独立に向けて 天正十一年(一五八三)、安藤愛季は
由利
郡に侵攻してきた庄内の大宝寺氏を出羽郡
由利
郡,為信は、大宝寺氏の
由利
郡侵攻に際して秋田への出陣を求められていたようで(史料一〇四一)、さらには、浅利勝頼
通史編2(近世1)
(北奥羽の領知確定)
翌天正十九年一月十七日に仙北の北浦郡において四万四三五〇石の知行を認める朱印状を改めて受け取り、秋田氏や仙北・
由利
,
由利
五人衆の石沢氏・祢々井(ねのい)氏・下村(しもむら)氏らはわずか一ヵ村のみを知行する小名であるが、,豊臣政権はこれら
由利
の小名や仙北衆・秋田氏、そして津軽氏を「隣郡之衆」に編成することにより、太閤蔵入地,しかし、天正十八年末から翌十九年にかけて、出羽国では庄内藤島一揆、
由利
・仙北一揆、陸奥国では大崎・葛西一揆
通史編2(近世1)
(人質徴収)
、上洛を命じられた北出羽の大小名は、天正十八年(一五九〇)九月中ころから十月末にかけて起きた、仙北・
由利
,出羽
由利
郡の小名衆は十二月末までに上洛し、このときに領知宛行(あてがい)の朱印状が発給され、北出羽の秋田実季
通史編1(古代・中世)
(大河兼任の乱)
兼任軍の勢力は強く、男鹿で御家人
由利
維平(ゆりこれひら)や橘公業(きんなり)を破り、翌文治六年(一一九
通史編2(近世1)
(太閤蔵入地の設定)
また、慶長元年(一五九六)三月、秀吉は仁賀保(にかほ)兵庫ら
由利
五人衆に、秋田実季より「伏見向嶋橋板」,また、七月には秋田実季をはじめとして、津軽氏は
由利
五人衆らとともに「隣郡之衆(りんぐんのしゅう)」として,これら「隣郡之衆」にも、三月に
由利
五人衆が指示されたように、やはり、秋田実季の領内の蔵入地からの蔵米を
通史編2(近世1)
(伏見作事板の運上と太閤蔵入地)
津軽氏のほか秋田・仙北・
由利
郡の大名・小名は「隣郡之衆(りんぐんのしゅう)」として編成され、その新たに, 20 津軽右京亮 90 145 140 なお、太閤蔵入地は、この秋田氏のほか、
由利
郡,南部領には太閤蔵入地は設定されておらず、秀吉政権は太閤蔵入地を領内に設定した秋田・仙北・
由利
・津軽の大名
通史編2(近世1)
(城破(わ)り)
さて、仕置が一応の終了をみたころ、陸奥国では和賀・稗貫、そして、葛西・大崎旧領、出羽国では仙北・
由利
・,さらに、出羽国の最上領でも、元和八年(一六二二)に改易により最上義俊が接収された
由利
郡を除いた地域でも
通史編2(近世1)
(豊臣再仕置軍の奥州下向)
また、最上義光(もがみよしあき)は
由利
郡の小名である
由利
五人衆に対して、自身に従い参陣するよう催促している,しかし、政宗のほか上杉氏・佐竹氏・宇都宮氏など北国・北関東の大名衆、そして秋田氏・小野寺氏・最上氏・
由利
衆
通史編2(近世1)
(中世の比内浅利氏)
実季は檜山城に逃れ、
由利
地方の小名や夷島の蠣崎(かきざき)氏、津軽の大浦為信の支援を得て、檜山城に籠城
通史編3(近世2)
(弘前藩の出兵)
そして八月四日、矢島藩奪回を目指すべく、弘前藩兵へも秋田藩応援として
由利
郡吉沢村への進攻を通知される。
通史編3(近世2)
(捕虜となった庶民)
たとえば、鳶(とび)の今之助(いまのすけ)は旗持ちとして成田求馬隊に付属して、元年八月、秋田
由利
郡吉沢村
通史編2(近世1)
(伏見滞在と派閥抗争)
奥羽の大名、つまり津軽氏をはじめ、南部氏、秋田氏、仙北・
由利
の小名らにとって文禄・慶長期における軍役とは,秋田山からの杉板廻漕は、秋田実季を中心とし仙北・
由利
の小名衆や津軽氏をも含む「隣郡之衆」であったが、この,天正十八年の仕置当初から出羽や津軽の杉・金・鷹に目をつけていたが、その安定した供給のためには、秋田氏や仙北・
由利
通史編2(近世1)
(関ヶ原の戦いと奥羽の情勢)
(ろくごうまさのり)・戸沢政盛(とざわまさもり)・本堂茂親を最上口に置いて米沢の押さえとし、また出羽
由利
郡,領するところであった庄内地方を上杉氏から奪回する好機とみて、庄内攻略に乗りだし、北出羽の秋田・戸沢・
由利
郡内
通史編2(近世1)
(湊合戦と惣無事令違反)
この戦いは、本庄繁長(ほんじょうしげなが)勢の支援を得た赤宇曾治部少輔(あこうづじぶのしょう)らの
由利
勢
通史編2(近世1)
(伏見木幡山城の築城)
)のほか、仙北の大名である小野寺孫十郎・戸沢九郎五郎・本堂(ほんどう)伊勢守・六郷(ろくごう)兵庫、
由利
通史編4(近・現代1)
(弘前県から青森県へ)
野田は熊本藩士だが、上京して横井小楠(よこいしょうなん)を師として勉学、さらに
由利
公正(ゆりきみまさ)
通史編2(近世1)
(九戸一揆の背景)
しかし、この奥羽仕置軍が去った直後の天正十八年十月、すでに述べたように出羽国では仙北・
由利
・庄内藤島一揆
通史編2(近世1)
(知行安堵と検地)
また、戸沢九郎、秋田実季(あきたさねすえ)・小野寺孫十郎のほか、
由利
十二頭などの北出羽の諸大小名は、天正十八年
通史編2(近世1)
(関ヶ原の戦いと津軽氏)
秋田実季、前田利家に属する一手として南部信直と本堂忠親、蒲生氏郷に属して大崎義隆、大谷吉隆の一手として
由利
五人衆
資料編1(古代・中世編)
([十六世紀])
●天正十年(一五八二)四月三日、
由利
侵攻中の大宝寺義氏、大曲城主前田薩摩守に、津軽勢八森進出のうわさの,●天正十年(一五八二)七月五日、大宝寺義氏、
由利
郡の領主戸蒔中務少輔にあてて、津軽勢(大浦為信)と呼応
通史編2(近世1)
(奥羽大名の名護屋参陣)
蒲生氏郷の配下には最上義光・大崎義隆(おおさきよしたか)、大谷吉継(おおたによしつぐ)の配下には上杉景勝・
由利
五人衆
資料編3(近世編2)
(【解説】)
軍事情勢は一挙に緊迫化し、その中で八月五日には成田求馬隊が羽州
由利
郡吉沢村で庄内藩兵と交戦し、成田以下死傷二一名
資料編1(古代・中世編)
([八世紀])
●宝亀十一年(七八〇)八月二十三日、秋田城・
由利
柵の防御を命ずる。
通史編1(古代・中世)
(四 執権時頼の東国廻国をめぐって)
の廻国をとおして幕府の「禅密主義」なる仏教政策が宗教的祭祀権の行使という形で現実化した例として出羽国
由利
郡象潟蚶満寺
資料編2(近世編1)
(編年史料 (天正十七年~明暦二年))
●寛永六年(一六二九)四月五日、津軽信枚に仕官を望む
由利
の内越左吉とその家族の、秋田領内出判を依頼する,●寛永八年(一六三一)七月晦日、家臣青木兵左衛門子供の、
由利
の旗本打越左近へ遣わすための出判を秋田藩へ
資料編1(古代・中世編)
(第一章 綱文・史料一覧)
……………………………… 続日本紀 38 ●宝亀十一年(七八〇)八月二十三日、秋田城・
由利
柵の防御を命,… 秋田藩採集文書「大腰五兵衛家蔵文書」 329 ●天正十年(一五八二)四月三日、
由利
侵攻中の大宝寺義氏,… 秋田藩採集文書「奥村立甫家蔵文書」 330 ●天正十年(一五八二)七月五日、大宝寺義氏、
由利
郡の領主戸蒔中務少輔
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