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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編5(近・現代2) (石川町の存在)

石川町の存在 合併問題のなかで石川町は各方面から合併推進の対象候補に挙げられていた。,県は大鰐・蔵館両町の合併に石川町と碇ヶ関村を取り上げていたし、弘前市も弘前電鉄の開通から石川町との合併,しかし碇ヶ関村が自立に固執し、石川町が弘前市との合併交渉に取り込まれている間に、大鰐・蔵館両町は単独合併,けれども町の幹部や町会・町民のなかに合併反対論が根強くあり、石川町は合併交渉から圏外的立場に立だされたのである,国側も同年二月七日「町村合併の完遂に関する件」を閣議決定し、未合併の市町村に対する合併を促進するよう通達 / 石川町の存在
通史編4(近・現代1) (在府町の偉人たち)

在府町の偉人たち 弘前城下最南端の士族の町在府町(ざいふちょう)は丘陵地で、東南に南溜池(鏡ヶ池)が,後、対岸の南側の丘陵に新寺町ができ、両町を結ぶ橋を極楽橋(唐金橋)という。,隣接する相良町(さがらちょう)には槍や弓の指南役がおり、早朝から気合いのこもった掛(か)け声が響き渡っていた,維新の後、八〇戸の在府町から、明治キリスト教の指導者本多庸一、『南島探験』の笹森儀助、大倉喜八郎と組んで / 在府町の偉人たち
通史編5(近・現代2) (在府町に生まれる)

在府町に生まれる 羯南は安政四年(一八五七)に現在の弘前市在府町に生まれた。,奇しき縁ではあるが、この在府町には、後に親交を結ぶことになる探検家・笹森儀助(ささもりぎすけ)と、東奥義塾時代,明治四年(一八七一)、五十石町の古川他山塾に入り漢学を学ぶ。 / 在府町に生まれる
通史編1(古代・中世) (種里城と町)

種里城と町 明応元年(一四九二)、現在の鰺ヶ沢町種里町に西海岸の掌握と西浜の南方にある安東氏に備えて,鯵ヶ沢町種里周辺には、板碑や五輪塔などが散在しており、そのようなことから光信が種里に入る以前の段階には,種里城跡は現在でも中世城館跡の面影を色濃く残している。,その「伝侍屋敷」の東側には種里の町が隣接した形で存在している。,現在確認できるものだけでも方形に区切った区画が三区画あり、これらの遺構は寺院が建てられていた可能性が極 / 種里城と町
資料編3(近世編2) (二 町人の住居)

その外の町人住居となれば、『城下町弘前の町屋と町並-弘前市町屋・町並調査報告書-』(平成二年、弘前市教育委員会,現在は多少改造されているが、復原平面図に示したように、建物前面に三尺幅の「こみせ」が付き、入口は正面向,二階は、現在は背後に増築されて部屋ができているが、本来は「にわ」上の表から二間分だけで、ここに桶職人の, 現在、平入主屋の向かって左手に座敷部分を増築しているが、復原平面図に示したように当初は間口三間の一間分,この住宅は大分改造はされているが、当初からの場所に在って、そのままの生活を包んできたものである。   / 二 町人の住居
通史編4(近・現代1) (行在所金木屋)

行在所金木屋 弘前における行在所たる光栄に浴した本町の武田家は、屋号を金木屋と称し、藩政時代の豪商で,まず、行在所を新築するに当たり、本町の通りに面した空地は十分な面積がなかったので、考慮の末、結局本宅の,この行在所の新築や、諸調度の設備に要した費用はしめて六八〇〇円という巨額に上った。,の建物は、中津軽郡岩木町大字植田の愛宕山橋雲寺に寄進され、そこの護摩堂として現存している。,写真34 行在所に充てられた金木屋 / 行在所金木屋
通史編2(近世1) (町役)

町役 城下に屋敷を持つ町人には、地子銀(じしぎん)・出人足(だしにんそく)(人足役)・時鐘撞茂合(ときかねつきもやい,城下建設の時期に、町割りや城普請に人夫が大量に動員されたことが知られるが、成立期の城下での町役は、人足役,人足役は、城下に屋敷を所持した町人のほか、町方と認定された地域に居住した武家にも賦課された。,なお、地謡や小鼓打・能役者は、藩主が国元に滞在する時は御用として町役を免除されたが、参勤交代で藩主が江戸,また、町端の北・南横町や、紙漉町・楮町などは、元禄十四年(一七〇一)の時点とはかかわりなく地子銀を上納 / 町役
通史編4(近・現代1) (行在所の奉迎ぶり)

行在所の奉迎ぶり 明治天皇が弘前行在所に宿泊された九月九日は旧暦七月十六日に当たり、月明らかで爽気天,夜は七時から行在所裏の土蔵の廊下に簾をめぐらして燈火を明るくともし、奏楽の場をしつらえた。,は行在所に伺候して、前年の大火に際して金五百円の御下賜金があったことに対する御礼を奏上申し上げた。,翌十日の午後二時、行在所を出発されるに当たって、前夜津軽雅楽を奏した楽人たちは、本町の通りに出て再び雅楽,この日の経路は前日と逆に本町から親方町、土手町を経て松森町、富田町から枡形に抜け、そこから松原通り、千年村 / 行在所の奉迎ぶり
通史編1(古代・中世) (有間浜の所在)

有間浜の所在 比羅夫は齶田平定後、さらに進んで、津軽蝦夷の拠点の一つである有間浜(ありまのはま)にまで,現在の北海道の「渡嶋」は「おしま」と訓(よ)まれているが、『日本書紀』の「渡嶋」は、『釈日本紀』(鎌倉時代末期,鯵ヶ沢(あじがさわ)町あたりの津軽半島西海岸のうちに比定するのが自然であろう。,写真32 深浦町・日和山 写真33 鯵ヶ沢町・日和山 写真34 深浦町・吾妻浜,有力ではあるが、「津軽(郡)中名字」が伝えるところの、江流末郡・奥法郡・馬郡といった中世の諸郡名の実在性 / 有間浜の所在
通史編4(近・現代1) (町並みの推移)

中でも在府町や相良町あたりでは、士官の居宅になった家が二十七、八軒もあって、馬屋からは軍馬のいななきが,新たに弘前の玄関となった停車場と、莫大な人員を抱えた軍隊の存在が、市の中心部を置き換えることになったのも,商業の中心地域が従来の本町から、土手町・元寺町・百石町にその繁華を移したのもこのころであったが、三十七年,鍛冶町、銅屋町、桶屋町など藩政時代からの職人町も、新たに軍用品の注文を受けて活況を取り戻した。,写真123 市中の風俗 (明治38年「弘前風俗画報」)  また、和徳町、松森町、駒越町、浜ノ町 / 町並みの推移
通史編1(古代・中世) (堀越城と城下町)

そのようなことから現在残されている遺構のほとんどすべては、廃城前の近世初頭段階のものと見てまちがいない,堀越城下町の特徴は、堀越城の南側と西側を守るようにその両側に町屋が並ぶという「街村状」の町であったということがまず,町屋2を北上していくと緩く右折する部分から、町曲輪1に出る。,寺院が存在していた可能性が考えられ、現在もここは墓地である。  ,このように、堀越城と城下町は「町曲輪」「町場」「宿城」と呼ばれるように、町をはじめから城館の一部として / 堀越城と城下町
通史編1(古代・中世) (渡嶋の所在)

渡嶋の所在 さてもう一つの地名「渡嶋」については、津軽よりさらに北の奥地であることは確実であるが、渡嶋,が厳密に現在のどの地域にあたるのかを示すのは史料的に難しい。,しかしその前提には、当時の「津軽」を現在の津軽半島一帯にまで広げて考える理解があり、この点についてはさらに,津軽半島南部から、その南方の岩木川左岸地域)・津軽平賀郡(岩木川上流地域)・津軽田舎郡(黒石市・南津軽郡尾上町・,田舎館村付近)、およびそれらよりは遅れて史料に登場する津軽山辺郡(黒石市・南津軽郡浪岡町付近)だけであって / 渡嶋の所在
通史編4(近・現代1) (帝国在郷軍人会の設立)

それ以前からも在郷軍人団体は市町村ごとにあったが、陸軍当局は軍隊と国民を結合する必要性を痛感し、これらの,その結果、各連隊区に支部を設置し、分会を各市町村に設けることになった。  ,在郷軍人会は任意団体だったが、現役軍人よりも年輩の軍人たちの集合体だった。,年功序列が厳しい軍部組織のなかで、在郷軍人会が一定の圧力団体として存在したことは記憶されてよいだろう。,弘前分会は帝国在郷軍人会の設立時に創立された。 / 帝国在郷軍人会の設立
通史編4(近・現代1) (町村合併と弘前市制施行)

町村合併と弘前市制施行 青森県は、明治二十二年二月二十日県令第一四号をもって各町村の分合改称を行い、,中津軽郡一六村のうち、現在弘前市になっている旧村と南津軽郡石川村を構成した村(大字)を挙げる。,明治二十一年六月十三日の「町村制施行ニ関スル内務大臣訓令」で、旧町村の名称は大字として残し、合併新町村,千年村-歴史上の名勝地千年山(ちとせやま)の存在に由来。,石川村-大村石川村と歴史上有名な石川城の所在地である。 裾野村-岩木山麓の村である。 / 町村合併と弘前市制施行
通史編4(近・現代1) (町の様子)

、これにより町の様子を見ておきたい。,明治八年後は全く主として下町に加へて中町の方面の人々であった。,我が弘前の衰微したのは、第一に旧藩主の東京に移住したときに始まり、夫は士族の在宅に次ぎ、士族の安逸に耽,弘前の士族町人百姓も尽く新町の松原まで御迎へ申上げた。然昔日の如く土下座して平伏御迎へした。,旧藩公は本町の金木屋へ御宿泊した。 / 町の様子
通史編2(近世1) (在宅制度廃止以前の廃田・新田開発)

在宅制度廃止以前の廃田・新田開発 天明の飢饉で荒廃した田畑の面積はどの程度だったのだろうか。,五町余、畑方耕地面積一万二四〇〇町余のうち七六一〇町余という数字を挙げている。,廃田の復興は飢饉の直後から進められ、天明五年二月二十八日に藩は「当仕込世話役」として、在方七六名、城下五五名,次の復興の画期は寛政二年(一七九〇)から始まる藩士在宅制度である。,このうち五三五〇人役が在宅した藩士や、他国から帰住した百姓たちによって開発された土地であったという(『 / 在宅制度廃止以前の廃田・新田開発
通史編2(近世1) (土着対象地と在宅分布)

土着対象地と在宅分布 次に、土着対象地、在宅分布をみていくことにする。,表38は先の「御家中在宅之族村寄」を組ごとに在宅者数と在宅村数を示したものであり、表39はそのうち広田組,表38 在宅者数と在宅村数 庄名 組 名 在宅者数 在宅村数 文化10年 村 数 図155 の番号,   28   ⑳ 金 木 11   3   25   ㉑ 横 内 6   6   45   ㉒ 浦 町,10  広田 10  10  浪岡 10  10  浦町 / 土着対象地と在宅分布
通史編4(近・現代1) (地主制の確立と在村地主の役割)

地主制の確立と在村地主の役割 明治期後半に入ると、土地所有による小作料収入に依存する、いわゆる寄生地主,また、所有する土地の所在地に居住しない不在地主も増加するようになり、次第に農業・農村問題の重要課題となった,在り方が問われるようになった(同前)。,明治四十一年(一九〇八)七月、県当局はこの時期の農村不況に際し、在村地主に農業振興の指導的役割を期待し,弘前市-玉田惣次郎(茂森町)・山内勘三郎(富田新町)・石崎金蔵(和徳町)・菊池定次郎(東長町)、清水村 / 地主制の確立と在村地主の役割
通史編3(近世2) (町方の軍事負担)

町方の軍事負担 市域の新町(あらまち)名主であった今泉万右衛門は「御用留」(弘図岩)という史料を残している,それには明治元年から二年までの町方の様子が書かれているが、戊辰戦争にかかわる実に多くの負担が町民に課せられていた,表16はその一覧であるが、三町全員では一五人の名がみられ、新町から七人、駒越町から四人、平岡町から三人,この町兵の組織は翌二年正月にさらに本格化され、町々の火消しの者を一統報恩隊に取り入れたうえで、これまでの,まず、大きなところでは明治元年十月に軍費二万両が九浦(くうら)・在方に賦課され、弘前ではそのうち一二・ / 町方の軍事負担
資料編3(近世編2) (●誓願寺 山門 新町--重要文化財)

●誓願寺 山門 新町--重要文化財 誓願寺は大光寺村に創立され、弘前城築城の際に現在地へ移されたものと,この門の建立年代は、その構造形式からすると江戸時代中期のものと推定されるが、下層の蟇股などの形式は室町期,奇抜な意匠をもった特異な門であり、現在の姿は、あるいは江戸時代中期に大きな改造を受けた結果であるかもしれない / ●誓願寺 山門 新町--重要文化財
資料編3(近世編2) (●袋宮寺 本堂 新寺町--県重宝)

●袋宮寺 本堂 新寺町--県重宝 本堂とされているが、三間四方に裳階のついた観音堂であり、境内仏堂とも,呼ばれるこの種の建築では、県内において、年代的には延宝四年(一六七六)建立の七戸町の見町観音堂に続くものであり,の寺院であり、弘前の樋の口にある熊野宮(本殿は県重宝)の別当寺であったが、明治に廃止されたために、現在地 / ●袋宮寺 本堂 新寺町--県重宝
通史編2(近世1) (伏見滞在と派閥抗争)

図39は、慶長元年の大地震後に築城された伏見木幡(こはた)山城とその城下町絵図である。,には「津軽越中守(えっちゅうのかみ)」、図40Cの部分には「津軽右京亮」の文字がみえ、津軽氏が伏見城下町に,図39.伏見城および城下町図 図40A.津軽右京亮の屋敷 図40B.津軽越中守の屋敷,南部中務少輔」は南部氏のだれか不明であるが、「南部大膳大夫」は南部信直のことであり、南部氏も伏見城下町に,特に図40Bの地区では、為信と南部氏は街路を挟んでほぼ同じ町内にある。   / 伏見滞在と派閥抗争
通史編2(近世1) (上層農民・在方商人の伸長と藩政の動向)

上層農民・在方商人の伸長と藩政の動向 十八世紀半ば以降は、上層農民・在方商人が発展した時期であった。,・浅虫(あさむし)(現青森市浅虫)とともに大場(町)に指定されている。,さらに、宿場でもあり、これらの要素があいまって、在町として発展していった。,これは、町場としての発達を背景に、商品経済が地域社会に浸透していったことにより、上層農民や在郷商人らが,これは弘前・青森・鰺ヶ沢などの町人のほか、在郷の人々にも賦課された(「国日記」延享元年七月五日条)。 / 上層農民・在方商人の伸長と藩政の動向
通史編2(近世1) (青森町の成立と青森開港)

なお「そとがはま」は、現在では「外ヶ浜」の記述が一般的だが、中世から藩政成立期の史料には「外浜」で記述,最も北の浜側には上浜町・仲浜町・下浜町、蜆貝(しじみかい)町、次の街路には、上町、中町、下町、塩町(しおまち,いずれにせよ当時の青森にあっては、町人・百姓の入り交じりの状態であって、藩としてはいまだ在町(ざいまち,前述のように、青森に隣接する中世以来の有力な湊であった大浜=油川の存在が大きく、青森への商船集中を藩が,このような背景には、戦国期以来、外浜地帯と北陸地方との活発な交易活動が存在したことが明らかであり、彼我 / 青森町の成立と青森開港
資料編3(近世編2) (●円明寺 本堂 新寺町--県重宝)

●円明寺 本堂 新寺町--県重宝 明応八年(一四九九)に現在の青森市油川に創立されて、その後弘前へ移,ってきたものであり、新寺町で一度焼失し、仮本堂として明和元年(一七六四)に再建されたものが現本堂であると / ●円明寺 本堂 新寺町--県重宝
通史編5(近・現代2) (市域の整備と町村合併)

市域の整備と町村合併 相次ぐ大火で、遊郭移転問題など、市街地の整備が焦点となった。,だが昭和期になって弘前市や他の町村全体を襲ったのは、市域全体の構造枠を決める町村合併問題であろう。,もちろん深刻な町村財政の緩和、税制改正、行政事務の簡素化、地租委譲問題など、行政機構の進展上で生じる諸問題,とはいえ内務省が各地方長官に通牒を発し、町村組合を作らせて合併機運を促進させるなど、今回の合併には政府,現在は弘前市域となっている旧町村も、その思惑は複雑であり、決してスムーズに合併がなされたわけではなかった / 市域の整備と町村合併
通史編1(古代・中世) (大浦氏の城下町建設の流れ)

大浦氏の城下町建設の流れ 大浦氏が津軽地域を掌握するきっかけは、西海岸の掌握と西浜の南方にある安東氏,えて、大浦為信(ためのぶ)の祖父に当たる久慈南部氏の信濃守光信(みつのぶ)を明応元年(一四九二)に現在の,鰺ヶ沢町種里(たねさと)町に種里城を築いて入部させたことにはじまる。  ,そしてここは近世の弘前城と弘前城下町が建設されていく慶長十六年(一六一一)まで使われていた。  ,これらのことを念頭に入れながら各時期の大浦氏の城と城下町をみていくことにする。 / 大浦氏の城下町建設の流れ
通史編1(古代・中世) (大浦城と大浦城下町)

次に大浦城の城下町であるが、旧百沢街道が一町田(いっちょうだ)・高屋(たかや)(旧坪貝(つぼかい)村),を経て百沢へ至る道であるが、さらに枯木平(かれきたい)(岩木町)から松代(まつだい)(鯵ヶ沢町)へも続,そのようなことからも、この街道が中世段階まで遡(さかのぼ)って存在していた可能性が高いことを物語っている,写真205 旧門前地区(岩木町五代)  以上のように、大浦城下町は大浦城を東西に走る百沢街道に沿,また平行街路が見られない単純な町割りから、戦国城下町としては極めて素朴なものであったということがいえる / 大浦城と大浦城下町
通史編1(古代・中世) (戦国時代の都市(城下町)発生)

戦国時代の都市(城下町)発生 都市とは「ある限定された地域に、数多くの人々が居住して、お互いに密接な,そのひとつの政策が在地の国人や土豪層を給人(きゅうにん)として家臣団に編成し、商工業者を誘致して、彼らを,このように戦国時代の都市(城下町)は、領主の居城である「城」を中心として発展したものが多くみられる。,しかしなかには寺院を中心に寺内町が形成されたものや、大阪の堺や大湊など高度な自治組織をもつ港町が、畿内地方,大浦(津軽)氏が津軽領域の掌握に向け、拠点として居城した城跡を中心として、城と町、城と城下町ということについてみていくことにする / 戦国時代の都市(城下町)発生
通史編3(近世2) (町役負担と御用金)

土手町・横町・亀甲町・紺屋町・新町・重盛町支配分のみ。  ,東長町(笹森町へ入口東角より和徳町坂の下まで) 亀甲町,紺屋町,新町,茂森町,塩分町 下 役 本銅冶町,・東銅冶町,本寺町(二丁目・五丁目) 鞘師町(三丁目・四丁目),黒石町坂下,五十石町後袋町 山伏覚勝院罷在候町,(当時角仙町),川原町 西大工町・本大工町・東大工町,東桶屋町・西桶屋町,鍛冶町 土手鍛冶町より猫右衛門町,笹森町,駒越新町,茂森新町,東長町北南横町,新寺町 備 考 「要記秘鑑 廿三上」の町被仰出之部より。 / 町役負担と御用金
通史編1(古代・中世) (三 中世寺社の存在形態)

三 中世寺社の存在形態 津軽地域における寺社の存在形態を最も基本的に規定したのは、何といっても、「蝦夷管領,(前略)為院王両寺之間、種ゝ御祈禱无懈怠可令勤行、為別賞職寺領之間之僧房 在家一同云公云私、倶御祈禱忠節可致,乳井郷における僧栄秀と長秀の別当職をめぐる世襲には、ひとつの郷内における中世堂社の存在の在り方を伺い知,雖然燈油料田等令不作河成悉以隠没、而可令御祈禱退転之間、光貞去年奉為朝敵退治、今上無為国宰安寧、奉寄進拝領之地参町、,□(奉)寄進福王□(寺)四大天王田在家事   合六段半者 参段半柳田、参段柴崎南方、 右、件田在家者 / 三 中世寺社の存在形態
通史編4(近・現代1) (弘前カトリック教会(百石町小路))

弘前カトリック教会(百石町小路) 終戦前は弘前天主公教会と称した。,しかし、間もなく函館へ去り、次いでアリベ師、ベティ師らがこの地に来て伝道、明治十一年本町、次いで蔵主町,で民家を借りて会堂としたが、十五年フォーリー神父の時代に百石町小路の現在地に弘前天主堂を建築した。 / 弘前カトリック教会(百石町小路)
通史編2(近世1) (十三小廻しの成立と町の盛衰)

天和三年(一六八三)二月初め、十三町の町年寄の理左衛門が、十三町の衰退によって自身も命が危うくなるような,しかも、十三町で酒を造れば、弘前城下から運ぶよりも販売コストを下げることになり、十三町の近在の者にも販売,さらに、さきの庄屋助左衛門を町年寄に任命し、理左衛門との二名体制とし、彼らに扶持を与えて十三町の再興に,一七〇六)三月には、十三町の酒屋たちが酒の値段を弘前並みに値上げして欲しいと、十三町奉行に要望し、許可,これは、十三町と津軽半島の北側との交通・運輸の活性化を目指したものであり、十三の町・湊の双方を振興させようとしたものであろう / 十三小廻しの成立と町の盛衰
通史編5(近・現代2) ((三)北の文学連峰の現在)

(三)北の文学連峰の現在 戦時中に、津軽で疎開生活を送っていた秋田雨雀、石坂洋次郎、太宰治らが優れた,写真259 津川武一  同じ旧浪岡町出身の作家の平井信作(ひらいしんさく)(大正二-平成元 一九一三,さらに、児童文学で郷土色豊かな作品を発表している藤田博保(ふじたひろやす)(大正一三- 一九二四- 鶴田町),、全国的に高い評価を得た俳人の増田手古奈(ますだてこな)(明治三〇-平成五 一八九七-一九九三 大鰐町) / (三)北の文学連峰の現在
資料編3(近世編2) (●高照神社 岩木町大字百沢字神馬野)

●高照神社 岩木町大字百沢字神馬野 (一)本殿--県重宝  津軽四代信政が神式で埋葬されたところであり,(四)拝殿および幣殿--県重宝  現在はつながって一体となっている建築であるが、その残されている棟札 / ●高照神社 岩木町大字百沢字神馬野
資料編3(近世編2) (●岩木山神社 岩木町大字百沢字寺沢)

●岩木山神社 岩木町大字百沢字寺沢 (一)楼門--重要文化財  下居宮の別当寺であった真言宗寺院の,現在、長勝寺に保管されている慶長八年の棟札には、大工職や鍛冶職に越前や丹波の工人が名前を連ねているが、,現在の拝殿は、内外陣境の結界、内陣の来迎壁、それに須弥壇や厨子が撤去されて開放的に使用されているが、これは,いたるところに龍や松の彫刻を彫り、漆を塗り、金箔を押し、極彩色の文様を描いており、現在では「華御堂」と,あるいは客殿とされていたもので、寛永六年(一六二九)に楼門とともに造られたが、その後火災などがあり、現在のものはより / ●岩木山神社 岩木町大字百沢字寺沢
資料編1(考古編) (「新編 弘前市史」編纂事業関係者名簿(平成6年4月1日現在辞令交付分))

「新編 弘前市史」編纂事業関係者名簿(平成6年4月1日現在辞令交付分) 【編纂委員会】 ○編纂委員長,  弘前大学人文学部助教授  三浦圭介  県埋蔵文化財調査センター調査第二課長  工藤清泰  浪岡町町史編纂室主査,○執筆・調査協力員  二部濱男  元青森気象台調査官  佐藤仁   浪岡町町史編纂室長  鎌田耕太郎, 弘前大学教育学部助教授  小山彦逸  七戸町教育委員会主査  古川克彦  開成技術(株)代表取締役, 菊池正司  岩木町立津軽中学校教諭 〔Ⅱ 近世専門部会〕 ○部会長  長谷川成一 弘前大学人文学部教授 / 「新編 弘前市史」編纂事業関係者名簿(平成6年4月1日現在辞令交付分)
資料編3(近世編2) (「新編 弘前市史」編纂事業 関係者名簿(平成十一年四月一日現在辞令交付分))

「新編 弘前市史」編纂事業 関係者名簿(平成十一年四月一日現在辞令交付分) 【編纂委員会】 編纂委員長,法政大学第一教養部教授   〃    三浦圭介  青森県教育庁文化課副参事   〃    工藤清泰  浪岡町町史編,さん室主幹 執筆協力員  二部濱男  元青森気象台調査官   〃    佐藤仁   元浪岡町町史編,さん室長   〃    鎌田耕太郎 弘前大学教育学部教授   〃    小山彦逸  七戸町生涯学習課主幹,代表取締役   〃    佐々木馨  北海道教育大学函館分校教授 調査協力員  菊池正司  尾上町立尾上中学校教諭 / 「新編 弘前市史」編纂事業 関係者名簿(平成十一年四月一日現在辞令交付分)
通史編1(自然・原始) (「新編 弘前市史」編纂事業関係者名簿(平成十三年一月一日現在辞令交付分))

「新編 弘前市史」編纂事業関係者名簿(平成十三年一月一日現在辞令交付分) 【編纂委員会】 編纂委員長,執筆協力員  二部濱男 元青森気象台調査官   〃    佐藤仁 元浪岡町史編さん室長   〃,    鎌田耕太郎 弘前大学教育学部教授   〃    小山彦逸 七戸町教育委員会生涯学習課主幹,開成技術(株)代表取締役   〃    佐々木馨 北海道教育大学教授   〃    高杉博章 浪岡町大釈迦工業団地調査会主任調査員,八戸工業大学工学部教授   〃    須藤弘敏 弘前大学人文学部教授   〃    花田要一 元岩木町立津軽中学校長 / 「新編 弘前市史」編纂事業関係者名簿(平成十三年一月一日現在辞令交付分)
通史編1(古代・中世) (二 北奥宗教界を彩る中世的寺社)

慶長十一年に城下寺町を経て、現在地。,城下寺町を経て、正保年間に現在地へ。,→城下寺町を経て、一六五一年現在地へ。,~五二)に城下寺町に移り、のち現在地へ。,現在、上皇宮という。 羽黒神社 坂上田村麻呂 大同三年(八〇八) 倉稲魂命 岩木町に所在。
通史編3(近世2) (寛政期の城下)

それは藩士土着政策(「在宅」政策)により、武家地に多量の空き屋敷が生じたことである。,・堀越組など城下近郊の村々に移住した藩士が多く、在宅者数は七九六人、在宅村数は二五七村に上っている。,なお、同五年の「御家中潰(つぶれ)町之事」(前掲『弘前城下史料』上)によれば、城南では在府町後通りと同新割町,その受け入れ先になったのは、元寺町・蔵主町・在府町・相良町・馬屋町・百石町・笹森町・長坂町・森町・若党町,現在の市立観光館・市立図書館のある場所一帯である。
通史編2(近世1) (土着策と弘前城下)

在府町の後ろ通り・在府町新割町・馬屋(まや)町坤の櫓の下・馬屋町橋東の方の行角・馬屋町の中町・荒町(あらまち,そしてこれと並行して屋敷替えも行われ、在府町・相良町・百石町・蔵主(くらぬし)町・笹森町については、これまで,藩士が農村部に在宅せざるをえない状況を作り出す潰町政策によって、城下の景観は大きく変容したのであり、城下町,したがって、城下の職人は使えないから、それらが済むまで他の一般の普請は差し止めとし、在宅の者は「在大工,元寺町 三〇〇石以上  蔵主町 二〇〇石以上  元長町 二〇〇石以上  在府町 三〇〇石より一〇〇石まで
通史編4(近・現代1) (明治十四年の巡幸)

七月三十日車駕は東京を出発、沿道の各県を御巡幸の上、青森に到着したのは八月二十七日、行在所に蓮心寺が充,翌日軍艦で小樽港へ直航、北海道各地を巡幸の後、九月七日青森へ到着、往路と同じく蓮心寺を行在所とされた。,弘前町に入った一行は、和徳町、東長町、元寺町を町民垣をなして奉迎するなかを午後四時、弘前本町の行在所に,行在所には本町の豪商金木屋の邸宅が充てられた。,千年村、石川を経、夕刻蔵館の行在所(菊池宇之助の旅宿)に到着された。  
通史編5(近・現代2) (見直したい弘前市の記録)

青森銀行は当初第五十九銀行だったが、その建物は現在青森銀行記念館として残っている。,青森銀行の旧津軽支店も、現在は弘前市立百石町展示館として改築され保存されている。,昭和五十三年に史跡指定されているが、在府町にあった武家屋敷の旧梅田家、元寺町にあった藩医の旧伊東家も移築,さらに明治期に建てられ、現在も旅館業を営む石場旅館も見落とせない。,弘前市が城下町であることは、町名が弘前藩時代の伝統を残し、現在も市民に親しまれていることでわかる。
通史編4(近・現代1) (殖産興業の展開)

そのうち六つが弘前に所在し、富田村、和徳町に各一が所在する。,他の二つは青森米町と東津軽郡大野村に所在する。,これから見ると、弘前は県内の製造所が集中して所在する地域であったといえる(表9参照)。,東津軽郡 大野村 仝郡 青森米町 中津軽郡 富田村 仝郡 弘前本町 仝郡 仝町 仝郡 弘前本町,仝郡 弘前 和徳町 仝郡 弘前 百石町 仝郡 弘前本町 仝郡 仝町 … 創業年月 明治
資料編1(古代・中世編) (二 懸仏)

二 懸仏 市内にある懸仏のうち、鎌倉時代から室町時代にかけて鋳造されたものは九体ある。,番号 所在地・所有者 時代 高   幅   奥 (cm) 尊像 備考 1 弘前市西茂森二丁目/照源寺,」を基礎に作表 ・所在地等に変更のあるものは修正した 2 弘前市西茂森二丁目/陽光院 8.5 5.5,5 5.8 3.4 1.7 三宝荒神 6 弘前市茂森新町一丁目/玉田久造氏 5.0 2.6 1.4,聖観音 7 弘前市新町/龍泉寺 3.9 4.1 - 聖観音 8 弘前市下白銀町一/弘前市立博物館 径
資料編1(古代・中世編) (七 板碑の発見と保護の状況)

青森県立郷土館が、昭和五十七年度から五十九年度にかけて県内の板碑を調査した際、津軽地方には二七四基余の板碑が存在することを,西津軽郡深浦町風合瀬(晴山) 二基  西津軽郡深浦町関    一基  西津軽郡鯵ヶ沢町舞戸町 一基,  一基  南津軽郡平賀町岩館   一基  南津軽郡大鰐町宿川原  一基  南津軽郡大鰐町三ッ目内,ただし、所在地の変更、地名の誤り以外は省略した。,現在行方不明になっている大鰐町蔵館の板碑(『陸奥古碑集』所載)  現在津軽地方の板碑の多くは文化財
通史編1(自然・原始) (掘さくの深度)

使用)  深度分布は、平野東部では弘前市街地で浅く、平賀町付近から常盤村・浪岡町付近、田舎館村付近,したがって、このような盆状構造の存在は、二〇〇メートル以上の層厚で分布する平川扇状地堆積物および三五〇,五〇〇メートルより浅い温泉は弘前市街地に多く、北方の藤崎町・板柳町付近では点在し、津軽平野南部の中央部,これらの地域には七〇〇メートルより深い温泉が多数存在しており、巨視的にこれらの温泉群が南北に帯状配列することから,なお、弘前市街地から高杉地区にかけては、掘さく深度が徐々に増加することから、断層の存在は考えにくく、弘前市街地
通史編3(近世2) (南溜池の成立)

図36.正保2年「津軽弘前城之絵図」南溜池部分  慶安二年(一六四九)五月の寺町大火によって、現在,の南側に移転させ、この町割りを新寺町と称したという(資料近世1No.七一三~七一六)。,同三年には新寺町の町割りとともに新たに南溜池に橋が架けられ、万治二年「弘前古絵図」(弘図津)には、在府,(ざいふ)町と新寺町を結ぶ通路として西側在府町寄りに橋が描かれている。,の町方と南側の新寺町が連絡され、東側の部分を一部除いて南溜池は城下の町並みの中に取り込まれたのであった
資料編1(古代・中世編) (二 青森県の板碑分布)

くから存在したものではない。,宮田念心寺の板碑は、碑面の構成から西海岸の色彩が強いが、正応四年(一二九一)の板碑の存在を記す記録もあり,多数の板碑が存在する地点は大鰐町三ッ目内、弘前市乳井、弘前市国吉、弘前市中別所、深浦町関、深浦町北金ヶ,これらの板碑群の多くは一か所にまとめられているが、往時は付近一帯に散在していたのである。  ,現在は、板碑分布の空白地帯になっているが、浅瀬石城の周辺には板碑があったと考えられる。
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