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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編3(近世2)
(南溜池の成立)
浄土宗五、法華宗三、門徒寺六、天台寺一が焼亡し、翌三年に寺町の寺院を新たに南溜池の南側に移転させ、この
町割
,
り
を新寺町と称したという(資料近世1No.七一三~七一六)。,同三年には新寺町の
町割り
とともに新たに南溜池に橋が架けられ、万治二年「弘前古絵図」(弘図津)には、在府,の変化は乏しく、わずかに大円坊(だいえんぼう)の南側放水路を隔てた地域に銅屋(どうや)町と銅屋派町が
町割
,
り
されており、大円坊の北側、土手の東は依然として田地であった。
通史編3(近世2)
((一)治安機構と共同体規制)
むと同時に、従来の町人町が武家町に変わり、城下の東側に新たに下級藩士を中心とする武家町ができるなど、
町割
,
り
の変更と促進によって、近世都市弘前の基本的形態ができあがった。
通史編2(近世1)
(城下弘前の変化)
この絵図では寺町の寺院街が空白になっており、新寺町の
町割り
がなされていないので慶安二年(一六四九)成立,第二は元寺町に新たな
町割り
がされ、本寺(もとてら)町一丁目(現一番町)・白銀(しろがね)町(現鉄砲町),駒越町や西大工町・平岡町などの城西地区の
町割り
が拡大した。
通史編1(自然・原始)
(刊行によせて)
わがまち「弘前」は、藩祖津軽為信公が高岡の地に
町割り
を計画したことに始まり、以来先人たちの営々とした努力
資料編3(近世編2)
(1 弘前城の歴史)
そこで新たに「高岡」の地へ新城築城を計画し、幕府にその許可を求めるとともに、
町割り
に着手したのが慶長八年
通史編2(近世1)
(城下高岡の形成)
図68.正保2年津軽弘前城之絵図 基本的には、両絵図は弘前城を中心に、城下の
町割り
の様子、台地,寛永末年の絵図には
町割り
の中に、侍屋敷数並びに町屋敷数が記入されており、侍屋敷数は五二八軒、町屋敷数が,一方、
町割り
の中に町名が記されているところもある。
通史編2(近世1)
(慶安二年の「弘前古御絵図」)
4 図121.弘前古御絵図にみえる屋号のある商家(網かけ部分) 図122.慶安期の
町割
,
り
と町名 屋号と商人の出身地とが密接な関係にあることは、広く認められるところであり、これによれば,鉄砲屋頭を務めた国友氏は、御扶持人と記され、この時点では城下に鉄砲町は
町割り
されていない。
通史編3(近世2)
(他領から技術を導入)
その後の城郭を中心にした城下の
町割り
を描いた慶安二年(一六四九)ころの「弘前古御絵図」(弘図津)には、
通史編2(近世1)
(町役)
城下建設の時期に、
町割り
や城普請に人夫が大量に動員されたことが知られるが、成立期の城下での町役は、人足役
通史編1(古代・中世)
(大浦城と大浦城下町)
また平行街路が見られない単純な
町割り
から、戦国城下町としては極めて素朴なものであったということがいえる
通史編2(近世1)
(家中屋敷の郭外移転)
郭内から移転する家臣はこれらの侍町へ移され、新たに侍町の
町割り
が行われた。
通史編2(近世1)
(二代信枚の動向)
信枚時代の最大の事業は、慶長十五年(一六一〇)に幕府検使の検分を得て高岡に築城をし、翌十六年に城下の
町割
,
り
を定め、堀越から寺社・商工民・家臣団を移転させたことである(資料近世1No.二八三)。
資料編2(近世編1)
(編年史料 (天正十七年~明暦二年))
翌年、城下の
町割り
を定め、堀越より寺社、商工民、家臣団移転する。
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