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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編2(近世1) (捜索・召捕)

捜索・召捕 幕府では刑事事件発生後の犯人(または容疑者)の捜索や召捕(めしとり)には、町奉行(まちぶぎょう,めあかし)(岡っ引き(おかっぴき)・口間(くちとい)・御用聞(ごようきき)・手先(てさき)などともいう)は町奉行配下,津軽弘前藩では町奉行(弘前城下の町方の行政・司法を担当)の付属吏である町同心・町目付・目明が担当した(,町奉行が逆に彼らを利用して犯罪捜査・召捕に効果を上げようとしたもので、いわゆる「毒をもって毒を制する」
通史編2(近世1) (藩士対象の司法制度)

御徒目付 取上御仕置場 ⑥ 御徒目付 牢前 ⑦ 御徒目付 揚屋 ⑧ 御徒目付 村端または町端 ⑨ 町奉行,町奉行宅 ⑩ 御馬廻 深浦 ⑪ 鯵ヶ沢町奉行 鰺ヶ沢町奉行所 ⑫ 青森町奉行 青森町奉行所 ⑬ 代官,浪岡庄屋宅 ⑭ 今別町奉行 今別町奉行所 ⑮ 町年寄 町年寄宅  ①は上級藩士に対するものである。,⑨~⑮までは、弘前城下で起った事件は町奉行宅や町年寄宅での申し渡しもみられるが、弘前から距離的に遠い地域
通史編3(近世2) (歌舞伎)

延宝九年(一六八一)の「町人作法之事」(『御用格』)では、勧進・操(あやつり)・相撲は町奉行の取り扱いになると,興行としては、藤八太夫が元禄四年(一六九一)、町奉行に対して、役者不足で小芝居になり見物人もないところから,一八二九)二月に居宅と芝居小屋とみられる家業場の修復費用が不足しているとして、富籤(とみくじ)の許可願いを町奉行
通史編2(近世1) (青森騒動の経過)

この騒動は当初町役人など町上層部の参加を得ないで開始されたが、名主会所を巻き込み町名主から町奉行に訴願,図127.青森町奉行所  騒動勢は町奉行が訴願を受け入れない場合は弘前城下へ強訴に出るつもりだったが,このようにして、騒動勢は商人一〇四軒が蓄積していた米穀約五二〇〇俵、大豆約六〇〇〇俵の存在を明らかにし、町奉行,これに対し、町奉行所はなすすべもなく、かえって自ら鎮圧に当たろうとした奉行が罵声を浴びせられ、負傷する,町奉行所は緊急に公定価格の堅持などを約束する高札を立てたので、騒動は夕刻にはようやく沈静化した。
通史編2(近世1) (取り調べと牢屋)

その後容疑者が町奉行所に送られて与力(よりき)が取り調べ、その結果、奉行より「入牢証文(じゅろうしょうもん,津軽弘前藩の取り調べについては、町奉行の職務に刑律方(けいりつかた)というのがある。,町奉行ではその下に人別調役(にんべつしらべやく)が属し、四民の戸籍を調査して整理するのが職務であったが,図175.牢屋敷平面図  牢屋の役人は町奉行の支配下にあって、牢奉行・牢守・牢屋番人がいる。
通史編2(近世1) (町方支配)

町方の支配機構は、町奉行のほかに、町年寄・町名主・月行事の町役人によって構成された。,町奉行は、御用人の支配のもとにあり、定員は藩政前期を除いて二人、石高は二〇〇~三〇〇石であった。,寛文五年(一六六五)十月六日付で、町奉行福士甚左衛門に宛てた「覚」(『御定書』四六)は、   ①伝馬人足,魚屋)支配のこと   ⑪紺屋役布役のこと ⑫籠奉行支配のこと  という内容を持つ一二ヵ条からなり、町奉行,そして、これら町奉行の職掌は、明治維新に至るまで、基本的にはほとんど変化しなかった。  
通史編2(近世1) (穀物の流通統制)

には御蔵米の値段を安値に放出して米価を下げようとしたり、翌二十九日には青森町で下層民の動揺を恐れて、町奉行,それでも藩は預手形の流通にこだわり、町奉行が米穀の実勢相場にかんがみて、正金銭と手形を併せて通用させ、,の政策にかかわらず、正金銭でなければ購入できないため、町方の者が難渋に及んでしまうということで、今別町奉行,しかし、藩庁はこの願い出を財政難を理由に却下し、材木や海草を他領に売ることで、米の手配をするよう、いわば町奉行所,城下町の弘前でも小売米が減少し、町奉行が御蔵米四〇〇俵の払い下げを求めた際も、町の有力者が自分自身で他国
通史編2(近世1) (裁判と判決)

)から堀を隔てて三之丸東側の評定所(ひょうじょうしょ)のほかに、庄屋(しょうや)(名主(なぬし))・町奉行,または目付が担当し、武士とともに斬(ざん)罪や追放が申し渡され、四奉行(寺社奉行・郡(こおり)奉行・町奉行,彼らに対する申し渡しは、延享二年(一七四五)ころから町奉行・町年寄・代官(だいかん)・庄屋宅などで行なわれる
通史編2(近世1) (騒動の要求と結果)

騒動の要求と結果 訴願の内容は、翌二十一日にまとめられ、「惣町中」の名前で町奉行に提出された。  ,さらに、町奉行は町人を慰撫(いぶ)するために極貧の者に三五〇俵の補助米を差し出し、また青森町一九六〇軒,さらに、公定価格での販売も確約されたが、無制限なものでなく、一人一日当たり四合(米三合、大豆一合)で、町奉行
通史編2(近世1) (青森以外の町の騒動)

、小売り米の値下げ(鰺ヶ沢の場合、一匁につき一升五合)を求めて、町人が徒党を組み名主方へ押しかけて、町奉行,深浦町奉行は八月になり、首謀者とされる町人八人を逮捕する一方、能代から米を買い付けて一軒につき米一俵を
通史編3(近世2) (浄土真宗)

そこで、本藩の町奉行から津軽黒石藩に対して、本藩と支藩との藩主処罰権は異なるものの、本末関係において感随寺
通史編2(近世1) (異国船打払令の発令と津軽弘前藩)

打払令の発令を受けて同藩では、三奉行(郡奉行・町奉行・勘定奉行)が今後の処置について検討し、藩庁へ申し,また、触書の趣旨の周知徹底については、三厩派遣の兵員・浦々の町奉行・湊目付にその心得方を申し渡すよう、,沢・小泊・平舘・油川に立てることとし、作事奉行に命じて立て札を作らせ、設置については八浦がそれぞれの町奉行
通史編3(近世2) (盆踊り)

(2)徒(いたづら)する者が踊り場へ入って喧嘩(けんか)する時は、藩士・又者であっても町奉行へ連行し、,元禄五年(一六九二)には、目付・町同心・町目付が上町・下町を巡回したり、同九年の盆前には町奉行が無頼の,安政元年(一八五四)には、町奉行と勘定奉行の間で、宵宮・ねぷた・盆踊りの問題点が出され、その中で、盆踊,寛政元年(一七八九)には、最勝院から町奉行に、門前と禰宜(ねぎ)町で四、五年前より十八日から二十日まで
通史編2(近世1) (大問屋制の導入)

大問屋は日々の出入りの状況を確認し、月ごとに町奉行に目録を整えて報告した。,御用達は「上方仕切表」を作らせて注文主に送るとともに、大問屋が取りまとめて、町奉行に報告した。
通史編3(近世2) (辻番・自身番・木戸番)

辻番・自身番・木戸番 城中の警備とともに城下の治安対策も慎重に考慮され、町奉行支配下の役人である町同心,これが、「国日記」元禄十年四月二十三日条(資料近世2No.二六五)によると、町奉行から町中へ申し渡された,があるからであろう、そのため手木(てぎ)番の者たちは町の小路(こうじ)までもくまなく回るようにせよ、という町奉行宛
通史編3(近世2) (猿賀神社より盗み)

すなわち庄五郎は「国日記」文化八年十一月七日条にみえる四奉行(寺社奉行・町奉行・勘定奉行・郡奉行)の命令
通史編3(近世2) (拡大する風儀・治安の乱れ)

嘉永五年(一八五二)閏二月の国日記に次のような町奉行の演説書がある。,嘉永六年(一八五三)十二月、藩は郡奉行・町奉行・九浦町奉行へ庶民の詳細な服装・生活規制を渡し、全領への
通史編3(近世2) (入学式)

えて、当世、何事も「唐流」になり、家老を「唐風」に「国相」と、勘定奉行を「司会」、郡奉行を「郡正」、町奉行
通史編3(近世2) (切支丹類族)

津軽領では、元禄五年(一六九二)三月二十九日に町奉行宅へ、類族として油布宇太夫・矢野道説・蒔苗清三郎・,死体は、町名主・五人組・子供が付き添って月峰院まで運び、目付が見届けたうえで町奉行の手で塩詰めにした。
通史編3(近世2) (養老礼)

弘前町奉行の調べで、九十歳以上はなく、八十歳以上が八人該当者として挙げられている。
通史編2(近世1) (一 青森開港と初期海運)

これら津軽領内の物資交易のため、従来の十三湊のほか近世初期に青森・鰺ヶ沢・深浦等の湊も成立させ、各々に町奉行
通史編3(近世2) (勧進能)

藩士の見物も自由とし、町奉行からは留守宅の火の用心の注意が出された。
通史編3(近世2) (出発)

した高札(こうさつ)を設置する場所)に、御目見医者・町年寄・御用達(ごようたし)町人(豪商)・牢奉行・町奉行,松森町(まつもりまち)から富田町(とみたまち)に入ると、橋のそばに町奉行や町目付が出ており、ここまで先払,碇ヶ関番所では、碇ヶ関町奉行および諸役人が出迎え、それから矢立峠へ向かったのである。
通史編3(近世2) (新楮町の取り立て)

、去年秋から漉き出した二〇締め(四万枚)ばかりの半紙の中から一万枚を、各組代官、楮仕立て方世話役、各町奉行
通史編2(近世1) (農村部での騒動)

図129.木造新田の者たちが町奉行と対峙した石渡川原  「貯米」は元来、飢饉対策として安永期から
通史編2(近世1) (西廻海運と領内の整備)

そして、これが緒(ちょ)についたのは、鰺ヶ沢に町奉行が設置された元和期であると思われる(渡辺前掲書)。
通史編3(近世2) (子供を池に投げ殺害)

そのため三奉行(寺社奉行・町奉行・勘定奉行)が、三〇〇日の牢居の期間が終わってから一〇里四方追放・大場
通史編5(近・現代2) (伊東梅軒)

東奔西走、米沢藩、秋田藩への外交交渉に当たり、さらに藩内では軍政調方副役として活躍、八月十二日に今別町奉行,に任命されながら、翌日は秋田藩と盛岡藩の戦端が開かれたので藩境碇ヶ関町奉行助(すけ)として赴任、盛岡藩降伏後
通史編3(近世2) (帰国の旅)

到着後、宇都宮町奉行早川市郎左衛門方より本陣(ほんじん)・脇本陣(わきほんじん)などの宿々へ使者を派遣,そのあと矢野平右衛門・町奉行黒沢末右衛門が接待する。
通史編3(近世2) (藩政後期)

同年、藩庁は寺社門前をそれまでの寺社奉行より町奉行の支配下に置き、町役の負担はこれまでどおり寺社奉行の,屋敷改めで調査が実施されていること、城下町の拡大に伴い寺社門前の人口も増加し、そこでの犯罪人の出入りは町奉行
通史編2(近世1) (二代信枚の動向)

幕府側の担当者は町奉行の島田利正(としまさ)であるが、彼は単に町奉行というより、はるかに大きな政治力をもった,九月二十五日に、町奉行島田利正のあっせんにより、秋田領と津軽領との境界について、津軽弘前藩家老服部康成
通史編2(近世1) (漆の集荷・販売体制)

貫目の漆の余裕分が出たことから、上方・会津方面に持参のうえ諸国および三都の市場を調査し、それを受けて町奉行
通史編3(近世2) (恩を仇で返し殺害・盗み)

大釘一本と科人(とがにん)が背負う木札(きふだ)一枚、木舞(こまい)一本、大板付釘三本が必要であると町奉行
通史編2(近世1) (民兵の登場)

の各代官、および九浦のうち碇ヶ関を除く八浦(野内・青森・蟹田・今別・十三・鰺ヶ沢・深浦・大間越)の各町奉行
通史編3(近世2) (城下の隠売女)

町人が妾などを召し抱えて風紀を乱し、また隠売女などが横行しているようで取り締まるように、という藩から町奉行
通史編3(近世2) (伊勢参り)

ところが、正徳二年(一七一二)、大津屋清十郎からの母親の伊勢参りの願い出については、町奉行が許可を与えた
通史編2(近世1) (津軽信枚の越後転封)

段階で、福島正則が無断で城郭修理をしたためとがめられていることを知っており、翌二十四日には、島田利正(町奉行,幕府でも、津軽国替の検使役にこの後八月に大坂町奉行となる島田直時(しまだなおとき)(町奉行島田利正の兄
通史編3(近世2) (諸役と仲間)

ところが、寛文五年(一六六五)十月六日付けで町奉行福士甚左衛門宛てに出された「覚」(前掲『津軽家御定書,』)には、町奉行の町方に関する職務が規定されており、その中には粒油・水油の支配の事、職人支配の事、酒・,これらのことから、従来は役銭をそれぞれの管轄する奉行に納めていたものが、町奉行へ納入するように代わったものといえよう
通史編3(近世2) (居開帳)

〇)に堂社が焼失したため、再建のための開帳が青森・鰺ヶ沢町で認められ、修験触頭大行院・寺社奉行・青森町奉行,・鰺ヶ沢町奉行の取り扱いで行われた。  
通史編3(近世2) ((三)住居)

用人・大目付…用人は家老の補佐役、大目付は監察を任務とし法規典礼を掌る)・三ノ間(三奉行…寺社奉行・町奉行
通史編3(近世2) (商業の農村進出)

さらにその後元治元年(一八六四)には、三奉行(町奉行・寺社奉行・郡奉行)から次のような申し出があった。
通史編2(近世1) (騒動の背景)

らかになった七月になると、青森町の町人は廻米船の出航差し止めと廻米の町中への払い下げをたびたび訴願したが、町奉行
通史編2(近世1) (鉱山の開発)

が草刈り、伐採などで野山に入った折に鉱山を見いだした場合、在々の者の場合は現地の肝煎、町の者の場合は町奉行
通史編2(近世1) (弘前藩庁日記の開始)

は、初期のころを除いて、まずその月初めには、その月の月番である家老・用人・大目付・寺社奉行・郡奉行・町奉行
通史編3(近世2) (御軍政局の発足と組織)

俵勤料 御徒頭格御備方御用 10 大道寺源之進 御軍政局調方 御長柄奉行格 100石 御徒頭格鯵ヶ沢町奉行,御徒頭格御使番 200石 御徒頭格御付御近習番 20 浅利万之助 〃 御徒頭格 100俵外3人扶持勤料 青森町奉行格武芸締方取扱
通史編3(近世2) (生活の困窮)

そのため彼らの支配頭(がしら)と三奉行(町奉行・寺社奉行・勘定奉行)の相談により、質入れした品物は本人
通史編2(近世1) (寺社政策)

また、寺社門前町方の町奉行への移管替えも行われ、町方支配の合理化が図られた。
通史編3(近世2) ((二)富籤興行)

広居富吉の申請により、町奉行が寺社と同じ取り扱いをした。
通史編2(近世1) (津軽領内のアイヌ民族)

積み出される米および酒については、青森城代ないし青森町奉行の差紙が搬出の必要条件であった。
通史編2(近世1) (十三小廻しの成立と町の盛衰)

もあったか)、宝永三年(一七〇六)三月には、十三町の酒屋たちが酒の値段を弘前並みに値上げして欲しいと、十三町奉行
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