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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編3(近世2)
(二等銃隊の創出)
〃 35俵2人扶持 御
留守居
組 御目見得以下支配 9 梨田裕作 〃 40俵2人扶持,〃 〃 御
留守居
組栄作(50俵) 〃 12 阿保忠助 〃 〃 御
留守居
組唯八(25俵2人扶持),〃 13 八戸宗太郎 〃 〃 御
留守居
組寿吉(35俵5人扶持) 〃 14 井上勇作 〃 〃 御
留守居
組勇之助,(6人扶持) 〃 15 寺井金吉郎 〃 〃 御
留守居
組御目見得以下支配雄平(3両3人扶持) 〃 16,成田初太郎 〃 〃 御
留守居
組御目見得以下支配栄作(1両3歩3人扶持) 〃 17 藤井健蔵 〃 〃
通史編2(近世1)
(近世初期海運)
北国船絵馬 寛永七年(一六三〇)に、同姓の茂左衛門とともに重臣の乾と服部の両名に宛てた「敦賀蔵屋敷
留守居
就任誓詞書状,」(同前No.四九三)によれば、太郎左衛門は茂右衛門とともに敦賀にある弘前藩の御蔵屋敷の
留守居
を勤めていた,この書状には、弘前藩から移出する御蔵米の荷物、あるいは京都からの下り荷物について、太郎左衛門らが京都
留守居
衆
通史編3(近世2)
(勤務の状況)
、寺社へ参詣の場合、当番の用人が勤め、一日中他出の場合、午後二時ころまで城代が、午後二時以降帰城まで
留守居
組頭,さらに遠方へ一泊以上の留守の場合、午後二時より翌朝八時まで城代が、午前八時より午後二時までは
留守居
組頭,これらの場合に、城代・
留守居
組頭は梅ノ間御次ノ間西側で、用人は御用座敷で勤務する。,在国中御番免除の役は、
留守居
組頭・城付足軽頭(しろつきあしがるがしら)・手弓頭(てゆみがしら)・手筒頭
通史編2(近世1)
(堀越城の限界性)
城の
留守居
(るすい)であった田村・土岐(とき)・浪岡は、この時、為信が関ヶ原で使用する武器・矢・弾薬等,を検査するため城内の櫓(やぐら)にいたところ、尾崎ら三人が本丸へ押し入り、
留守居
の田村ら三人を討ち取った
通史編2(近世1)
(「分領」体制下の警衛と政策の実態)
その際、幕府側から「御尋」などがあった場合は、箱館奉行所との折衝に当たる箱館詰の
留守居
役から病気を理由
通史編2(近世1)
(元禄の大飢饉と家臣召し放ち)
元禄九年四月十三日・十七日・五月九日には馬廻組・手廻組などの与力七一人(同前No.八六四)、八月二十三日には
留守居
組四一人,番方で召し放ちの影響が最もよく表われた
留守居
組の場合、四一人が暇を出されているが、これはそれまでの
留守居
組士,さらに、手廻組、馬廻組、
留守居
組の中には、組頭のいない組もあった。
通史編3(近世2)
(大政奉還時の状況)
慶応期(一八六三~一八六八)に京都で活躍した人物といえば、京都
留守居
役の側用人西舘平馬(にしだてへいま,「丁卯(ていう)戊辰在職経歴」(資料近世2No.四七二)と題された赤石礼次郎の日記によると、彼が京都
留守居
役
通史編3(近世2)
(投身自殺等と南溜池)
このなかで、武家の身分もしくはそれに連なるものは三件で、そのうち享保十二年(一七二七)七月の
留守居
支配
通史編3(近世2)
(礼服)
○正月四日(御用始め、掃除始め) 享保二年――熨斗目長袴(年男(としおとこ)・
留守居
組頭(るすいくみがしら,)……
留守居
組頭とは番方の役職の一つ。
通史編3(近世2)
(御軍政局の発足と組織)
にこだわっていられず、すべての兵員に西洋銃器による武装を命じ、明治元年二月五日にはゲベール銃一〇〇〇挺の購入を箱館
留守居
,された軍政局の軍事取調御用懸(かかり)(統括責任者)は御手廻組頭(おてまわりくみかしら)津軽平八郎・
留守居
組頭格加藤善太夫,御付御近習小姓 明治1.6 緒錠口役 12 楠美泰太郎 〃 御使番 13人扶持 御武具奉行・御備方・京都
留守居
,間山広吉 〃 無役 2人扶持勤料 43 野沢得弥 〃 無役 2人扶持勤料 砲術調方 明治2.12 御
留守居
組御目見以上支配
通史編2(近世1)
(福島正則の改易)
慶長十九年(一六一四)の大坂冬の陣では、江戸の
留守居
を務めたが、これは家康が正則を警戒したためといわれている
通史編3(近世2)
(博奕の判決例)
棟方善八は博奕をやってはいないが場所を提供した罪を問われ、俸禄を半減され、役職は御目見(おめみえ)以下の御
留守居
支配
通史編3(近世2)
(武士に不相応な行為と食料奪取)
武士に不相応な行為と食料奪取 御
留守居
組(おるすいぐみ)の三橋牛之介は「其方儀、平生不覚悟、侍の仕方
通史編3(近世2)
(幕府・朝廷の攻防)
津軽弘前藩に対しては、十一日に京都において
留守居
役が呼び出され、朝廷から上京を促す達書(『弘前藩記事』
通史編3(近世2)
(藩政改革がもたらしたもの)
明治三年、樋口の役職は予備銃隊で、ここから推測すると彼の役職は御
留守居
組御目見(おるすいぐみおめみえ)
通史編3(近世2)
(第二次藩政改革)
森岡金吾(御馬廻組頭用人兼・600石) 楠美太素(御馬廻組頭格・200石外100石) 山崎主計(御
留守居
組頭,・140石外160石) 加藤武彦(御
留守居
組頭格・200石外100石) 役 方 要 職 西館孤清,反首脳部の急先鋒であったのは元用人で長い間無役の冷遇を受けていた山田登で、彼は旧御馬廻組頭津軽平八郎や旧御
留守居
組頭山崎清良
資料編3(近世編2)
(【解説】)
「江戸御
留守居
役勤方覚」によって、江戸で
留守居
役が、幕府と公務の連絡や他藩の
留守居
との交際・連絡に当たっていた
通史編2(近世1)
(公家との関係)
さて「近衛家雑事日記」の記事から、津軽家では、京都屋敷に
留守居
役が駐在して近衛家との連絡に当たり、同家,しては他の史料にもあまりみえないところであり、むしろ第一、第二、第四の各々の機能が京都屋敷並びに京都
留守居
,その意味で京都屋敷の役務は極めて重要で、京都
留守居
は重責を担う役務であった(長谷川前掲「陽明文庫蔵『近衛家雑事日記
通史編2(近世1)
(支配機構の整備)
延宝七年(一六七九)正月十一日、それまでの御本参・新参を改組し、手廻組五組・馬廻組七組を置き、また
留守居
組二組,ただし、手廻・馬廻・
留守居
三組の頭が「組頭」と呼ばれるのに対して、足軽組はたとえば「大組足軽頭」というように
通史編3(近世2)
(藩兵の整理)
また、旧
留守居
組御目見得以下支配の者は、藩士とはいえ元来家禄も低く、小普請(こぶしん)組(無役)であり
通史編3(近世2)
(軍事情勢の膠着)
たとえば御
留守居
組頭山崎所左衛門(ところざえもん)は西館らのいう勤皇は画餅(がべい)であり、薩長兵と彼
通史編3(近世2)
(藩論の統一)
京都でも弘前藩が朝敵側についたとみる疑いが強く、事態を憂慮した京都
留守居
役の西舘平馬(にしだてへいま)
通史編2(近世1)
(対外交易の実態)
材木を輸出するというものであったが、品質に難を示した外国商人により一方的に契約が破棄され、弘前藩箱館
留守居
野呂謙吾
通史編3(近世2)
(二等銃隊の補充と特質)
をみると、まず、人数的に多いのは番方次、三男層の一三八人、役方長男の一一九人、小普請(こぶしん)(御
留守居
組御目見得以下支配
通史編3(近世2)
(悪戸村における製陶)
「国日記」文政十年(一八二七)十二月二十四日条には、御
留守居
支配長尾惣兵衛が国産方(藩内の殖産興業や国産専売
通史編3(近世2)
(神道)
ところが、山村伊勢はこれに納得せず、和泉を吉田家へ派遣して越訴(おっそ)に及び、吉田家と藩の京都
留守居
役
通史編2(近世1)
(領内海防と台場の構築)
にしだてうぜん)を士大将とする一手五五人を派遣し、また三厩・鰺ヶ沢・深浦・十三にも物(者)頭一手(物頭と中小姓・
留守居
組
通史編2(近世1)
(寺社政策)
同四年閏二月二十七日の寺社奉行から諸寺院に出された「御廻状」によれば、本寺への修行等のため
留守居
を置いている
通史編3(近世2)
(醍醐忠敬の弘前転陣)
その他、御中小姓や与力組・御
留守居
組などの当主や子弟も、幅広く戦力として前線に送り込まれたのである。
通史編3(近世2)
(下川原における製陶)
」万延二年(一八六一)二月二十七日条によると、国産瀬戸(この場合磁器)の生産を高める目的で御目見以下
留守居
支配唐牛吉蔵
通史編2(近世1)
(正徳から天明にかけての大名課役)
⑤ 市谷 旗本 3000~万石 ⑥ 四谷 旗本 3000~万石 ⑦ 喰違 二丸
留守居
通史編3(近世2)
(軍制への戸惑いと浸透)
弘前藩軍事力動員としては第一級規模のものであったが、閏四月上旬に出撃予定とされたこの派兵は、実行段階で御
留守居
組頭山崎所左衛門
通史編3(近世2)
(新政府からの借財と藩札の発行)
これに先だって京都
留守居
西舘孤清(にしだてこせい)が朝廷に国高並の一〇万両の拝借を願い出ているが、これに
通史編2(近世1)
(対蝦夷地政策と青森商人の商業活動)
の品質を問題にした外国商人から一方的に破棄されたため、仙台・秋田両藩からの抗議を受け、津軽弘前藩箱館
留守居
役
資料編3(近世編2)
(【解説】)
慶応三年(一八六七)十二月、徳川慶喜の大政奉還によって政治情勢は混迷の極に達するが、この前後に京都
留守居
役,そうした混乱の中、七月十一日に京都
留守居
西館平馬が弘前藩が宗家と仰ぐ近衛忠熈(ただひろ)・忠房(ただふさ
通史編3(近世2)
(出発)
方に大目付(おおめつけ)が、白砂塀重門の前に手廻組頭(てまわりぐみがしら)・馬廻(うままわり)組頭・
留守居
通史編2(近世1)
(「分領」と津軽弘前藩)
津軽家では、達しが出された翌日、津軽家の「御用頼」である幕府奥右筆(おくゆうひつ)早川庄次郎のもとに江戸
留守居
役比良野助太郎
通史編3(近世2)
(幕末の政情と近衛警備)
この警備兵は七月十六日に京都に到着し、即座に藩の京都
留守居
役から近衛家と朝廷に報告が届けられた。
通史編2(近世1)
(開国と箱館警備)
一方、四月十四日、江戸詰の箱館奉行から、津軽弘前藩江戸
留守居
役に対して、箱館表並びに江差在乙部(おとべ
通史編2(近世1)
(安政期の蝦夷地警備と交通問題)
やがて安政五年(一八五八)五月には日米修好通商条約の内容が仙台藩
留守居
を通して報知され、国元へも回覧された
通史編2(近世1)
(伏見滞在と派閥抗争)
為信は、文禄二年ころ、京都・駿府(すんぷ)・大坂・敦賀に屋敷を設け
留守居
(るすい)を置いたが、これは上方
資料編2(近世編1)
(【解説】)
掲載史料の多くはこの点に関するものであり、京都屋敷に駐在させていた
留守居
を通して、近衛家との関係をいかに
通史編2(近世1)
(越後高田領検地の実施)
越後高田領検地の実施 天和二年(一六八二)三月十九日、津軽弘前藩江戸
留守居
役は老中阿部正武より越後高田領
通史編3(近世2)
(二 藩主の日常生活)
午前十一時すぎ山吹ノ間へ出座し、多膳と会い藩政について用談・決裁――
留守居
組杉山田万之助病身につき隠居申
資料編2(近世編1)
(編年史料 (天正十七年~明暦二年))
●寛永七年(一六三〇)七月四日、敦賀の津軽家蔵屋敷の
留守居
に、庄司太郎左衛門と同茂右衛門を任命する。
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