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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) (城門番所の警備)

城門番所の警備 弘前城中は城下の中核であり、藩主の住居でもあるから、城中の諸門の警備には特に注意が払,寛文十年(一六七〇)五月二日に出された城門番所に対する訓令の大要を左に示すと、警備の厳重さが知られよう,○町々に火事や地震などがあった時、藩士が登城する場合には武者屯(むしゃたむろ)に留めておき、番所で登城者 / 城門番所の警備
通史編2(近世1) (海防報告書にみる天保期の海防体制)

異国船が到来した際の書付、さらに海岸絵図を作成し、海岸の浅深、船着き場、それらと城下との距離、台場・遠見番所,入手や手入れが実施されることになり、翌天保十四年三月八日には、三奉行からの申し出によって大筒台場・遠見番所,2 脇元村遠見番所 2 小泊浦番所,それぞれの番所には番人が置かれるとともに、鉄炮などを常備する番所も存在していた。  ,5 5 田沢村遠見番所 3 小湊村代官所 10 10 10 狩場沢村浦番所 10 10 合 
通史編2(近世1) (騒動の背景)

統制を外れた不正な売買や流通を防ぐため、湊町や在方に米留(こめどめ)番所を設置し、津留(つどめ)・穀留,また、各町へ「通手形」(米留番所を通過できる手形)を発行して、移入できる総量を一ヵ月当たり二〇〇〇俵に,町方で調査したところ、正月から七月まで、青森米留番所が許可する月二〇〇〇俵、計一万四〇〇〇俵という総量
通史編3(近世2) (瓦の利用)

西側二ヵ所および御殿に接して南側一ヵ所の各土蔵および現天守閣の北側近く、こしかけ(腰掛、番士の詰所)や番所三,城外の場合、①報恩寺(現市内新寺町)玄関・本堂・客殿・護摩堂・位牌堂および中門と両側の塀、番所などには,②百沢寺では、元禄十一年(一六九八)八月二十三日条によると、神蔵および黒門・番所・腰懸(掛)・外繋(そとつなぎ,瓦はその後も時々焼いており、嘉永二年(一八四九)には林兵衛焼き出しの瓦で城郭廻り諸番所、塀廻り屋根、蔵等
通史編2(近世1) (東蝦夷地直轄下の勤番体制)

については津軽弘前藩はサワラ(現北海道茅部郡砂原町)からウラカワまでを担当して、サワラ・エトロフに勤番所,を設け、盛岡藩はウラカワ以東を担当して、ネモロ(現北海道根室市)・クナシリ・エトロフに勤番所を設けて警衛,東蝦夷地の直轄を契機として、これまで手薄だったところに勤番所や道路を建設し、直轄化政策を進めようとしたのである
通史編2(近世1) (騒動の要求と結果)

、(一)来年三月まで公定価格での米の販売、(二)廻米の停止と来秋までの藩による蔵米の備蓄、(三)米留番所,これが天明の飢饉の被害を一層大きくしていったのは後にみるとおりだが、(三)にみられる米留番所の廃止は認
通史編3(近世2) ((三)住居)

このほかの建物としては、本丸の入口に門と番所、御玄関の東側の石垣ぎわに供待所(ともまちしょ)(来客の供人,(げなん)・草履取(ぞうりとり)・奴(やっこ)などと呼ばれた下級従者の部屋)があり、北の出入り口には番所
通史編3(近世2) ((一)博奕の禁止)

③湊や番所では荷物が入ってくる際に、カルタ・賽・双六などを厳重に取り締まること。  
通史編2(近世1) (騒動の意義)

には初めて打ちこわしの運動が全国的に展開したが、当騒動は惣町訴願と打ちこわしを中心に、廻米停止・米留番所廃止
通史編3(近世2) (箱館戦争をみた農民)

堤村に着くと村の入口には「穀物出入御改所」との札が立てられ、道の両側には番所があり、幕が張り巡らされていて,、通行人は番所の前を通る時には頭のかぶり物を取らねばならなかった。  
通史編3(近世2) (山林の火災)

それが山火事に拡大することがあり、元禄十四年(一七〇一)三月には番所を設置して火打道具改めを行い(国日記
通史編2(近世1) (青森以外の町の騒動)

青森と並ぶ津軽領の主要港である鰺ヶ沢でも、七月二十二日に廻米の停止、米留番所の廃止、小売り米の値下げ(
通史編2(近世1) (青森騒動の経過)

へおよそ七~八〇〇人が押し寄せ、来年春までの公定値段(一匁につき米一升四合)での販売、廻米の停止、米留番所,一方、湊番所では別の一隊が、「廻米を強行するなら廻船を破壊し、米俵は海に捨てる」との威嚇を行い、上方相場
資料編1(考古編) (10.弘前城内遺跡)

一方の公園緑地課前遺跡は前述のテニスコート設置と、藩政時代の番所移転及び水洗便所設置に伴う排水管工事のための
通史編2(近世1) (東西蝦夷地直轄下の勤番体制)

この年の各勤番所の越年者を加えると、総人数は一〇〇二人にのぼった。
通史編4(近・現代1) (シベリア出兵と反戦デモ)

同主義者青森市大沢喜代一外一名は約一丈の黒旗を押立て、大鰐村瀬尾某は新調の赤旗をたて和徳町を通行の折は革命の歌を高唱し、巡査交番所前
通史編2(近世1) (糧米確保)

、八月十五日に「町中囲米改役人」を三人一組として五組編成し、袋井・上十川・馬場尻・浜松の四ヵ所に米留番所,四ヵ所の米留番所のうち、浜松を除く三ヵ所が黒石へのルートに当たり、七月の津留政策とのかかわりでいうと、
通史編3(近世2) (施行小屋の設置と犯罪防止)

・十三(とさ)・青森・蟹田・今別(いまべつ)の六湊と碇ヶ関・大間越(おおまごし)・野内(のない)の各番所
通史編2(近世1) (取り調べと牢屋)

牢屋敷の中に、取り調べ・申し渡しなどを行う番所があり、大牢・中牢(それぞれ三〇人程度収容)・女牢(収容人員不明
通史編3(近世2) (悪戸村における製陶)

秋田領(場所不明)で製瓦技術を習得してきていた鋳物師冨川屋圓次郎(とがわやえんじろう)が、城中の塀と番所
通史編3(近世2) (辻番・自身番・木戸番)

辻番は主として武家地の道路の交差点や屈折点などいわゆる辻々に、警備のために設けられた番所であるが、津軽弘前藩
通史編2(近世1) (貞享検地への影響)

御検地之時分御竿延縮無之様随分念を入御竿取にも可下知事 附あり 4 屋舗四壁引之事 5 御仮屋屋舗御番所屋舗之事
通史編2(近世1) (十三小廻しの成立と町の盛衰)

つまり、十三湊は湊口が浅いために、積み荷は日本海上で降ろして空船状態にしてから入湊し、沖番所などのある
通史編2(近世1) (家中屋敷の郭外移転)

家中屋敷跡には、二の郭に御屋敷・土蔵・宝蔵など、三の郭には御館・評定所・山方払方・籾蔵・板蔵・紙蔵・与力番所
通史編3(近世2) (勤務の状況)

年頭・節句・御礼日には組頭(くみがしら)より歩行(かち)まで城門番所へ詰め、御礼が終わったならば、目付
通史編2(近世1) ((二)蝦夷地出兵の諸段階)

そのつど、警備地や派遣人数に変化がみられ、特に文化四年以降は、総人数を毎年交代するという方式をとらず、各勤番所
通史編2(近世1) (負担の増大による民衆の困窮)

蝦夷地直轄化を契機に、勤番所や道路を普請し、幕府による蝦夷地支配体制の整備を図ろうとしたからであり、文化元年
通史編3(近世2) (出発)

碇ヶ関番所では、碇ヶ関町奉行および諸役人が出迎え、それから矢立峠へ向かったのである。
通史編3(近世2) (出開帳)

藩庁では辻札を立てさせ、足軽番所二ヵ所をつくり、昼の内だけ足軽六人に張番をさせた。
通史編2(近世1) (警備引き揚げとその背景)

蝦夷地経営および幕府・東北諸藩による警衛でもたらされた会所や運上屋を通したアイヌ支配と、各所に置かれた勤番所
通史編2(近世1) (安政期の蝦夷地警備と交通問題)

湊役人には適材を得ず、彼らは朝夕だけ浜前に出かけて一回りし、繋留(けいりゅう)する船がいなければすぐに番所
通史編4(近・現代1) (運輸事業)

其遺留品ナキヤニ注意シ若シ之アルトキハ直ニ返付スベシ其主分明ナラザルトキハ速ニ最寄警察署、分署又ハ巡査交番所
通史編2(近世1) (幕府の蝦夷地政策)

番所の設置場所や開発可能地などの調査を任務としたものであるが、このとき択捉島に渡った近藤重蔵(こんどうじゅうぞう
通史編2(近世1) (青森町の成立と青森開港)

なお上浜町には沖口番所と遠見矢倉(とおみやぐら)が設置され、湊への船の出入りを監視していた。
資料編2(近世編1) (【解説】)

第三項の弘化三年(一八四六)の「牢屋敷平面図」からは、取り調べ・申し渡しなどの番所、大牢・中牢・女牢・
資料編2(近世編1) (編年史料 (天正十七年~明暦二年))

帰途、八森にて飛脚切られ、津軽番所へ逃避する。,●寛永八年(一六三一)閏十月十九日、津軽信吉の女房衆、京都へ登るため、秋田領川口番所通過を望む。
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