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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) ((一)勤務)

(一)勤務 全国的にみると、日常の勤務は藩主在国の時と江戸在府の場合とでは違いがあり、また番方(ばんかた,)(武官として編成された諸隊)と役方(やくかた)(番方に対し行政・経済関係の役職)によっても異なっていたことはいうまでもない
通史編3(近世2) (二等銃隊の補充と特質)

そしてこれは何も二等銃隊以外の戦力が生み出されたわけではなく、また、御手廻・御馬廻組等、従来からある番方本役,こうした情勢を考慮して図55の第1期をみると、まず、人数的に多いのは番方次、三男層の一三八人、役方長男,特に番方次、三男層の数が多いのは、やはり平時の武芸奨励においてもその浸透度は番方に顕著(けんちょ)であり,次に組織化が容易だったのは、番方長男が広く動員されている一方で、月に玄米二斗を支給する必要がなく、いまだに
通史編3(近世2) (礼服)

)(藩主在国)――熨斗目長袴(のしめながばかま)(長柄(ながえ)奉行以上……長柄奉行とは長柄隊の頭で番方,(ばんかた)の役職の一つ)、熨斗目半袴(寺社奉行~馬廻番頭……馬廻番頭(うままわりばんがしら)は番方の,一八二八)(藩主在国)――熨斗目長袴(長柄奉行以上)、 熨斗目麻裃(番頭(ばんがしら)以上……番頭とは番方,)  享保二年――熨斗目長袴(年男(としおとこ)・留守居組頭(るすいくみがしら)……留守居組頭とは番方
通史編3(近世2) (日常勤務の服装)

長柄奉行とは番方の役職の一つ)が肩衣(継肩衣と思われる)を着用していたが、今後は大寄合格(おおよりあいかく,)(番方の役職の一つ)以上の者が肩衣を着用し、それ以下の者は肩衣着用を強制せず自由となった(「国日記」
通史編3(近世2) (御軍政局の発足と組織)

彼らはいずれも修武堂において藩兵訓練に携わってきた番方上士であり、軍制改革といっても西南雄藩のように、,弘前藩の番方組織は大番頭→組頭→番頭(ばんかしら)→平士という階層制であり、ここからすると、山田・木村,の任命は番方最高位からの選出といえる。,つまり、表11のNo.3の秋元蔵主以下No.29の近藤栄三郎までの二七人の藩内役職はいずれも番方上士・,このように、軍政局上層部は番方上士らで固められていた。  
通史編2(近世1) (「出頭人」の台頭)

しかし、三人の持つ番方の地位は取り上げられず、また、渡辺は翌年正月十一日には城代に新任されている。,三家老がよって立つ政治的基盤であり、これまで藩権力の中枢を担ってきた新興譜代勢力の反発を抑えるために、番方,また、三家老が番方専任となったことで、役方と番方の組織の完全な分離が実現したという見方もできよう。
通史編2(近世1) (支配機構の整備)

していく時代であり、その藩主権力を行政・軍事両面から支えていく「役方(やくかた)」(藩の行政執行機関)、「番方,まず番方の機構では、寛文六年(一六六六)二月十六日、騎馬侍の組が四組作られ、頭に選ばれた津軽政朝(まさとも,寛文九年に発生した寛文蝦夷蜂起は、津軽弘前藩の番方組織にも大きな影響を与えた。,このことは、藩政の役方と番方の組織分離がまだ不十分であることを示している。  
通史編3(近世2) (勤務の状況)

玄関を入って左側の奧の御広間・上ノ間には、御手廻(おてまわり)・御馬廻組頭(おうままわりくみがしら)(番方,御持鑓(おんもちやり)奉行・大組足軽頭(おおくみあしがるがしら)・御持筒(おんもちつつ)足軽頭(いずれも番方,さらに遠方へ一泊以上の留守の場合、午後二時より翌朝八時まで城代が、午前八時より午後二時までは留守居組頭(番方
通史編3(近世2) (軍事情勢の膠着)

これに対し、反対の声は秋田方面に先行出動していた番方指揮官から上がった。,白取数馬(しらとりかずま)に託して急遽(きゅうきょ)帰城し、藩主承昭(つぐあきら)をはじめ、西館・山中や番方同役
通史編3(近世2) (二等銃隊の創出)

隊頭の石郷岡廉之助(いしごうおかれんのすけ)は二〇〇石取りの御使番で、藩内では番方上級に位置する。,よって、二等銃隊の指揮系統はおおむね番方上士が銃隊頭に据えられ、その下に番方中堅の副役、さらに同格の伝令士
通史編2(近世1) (元禄の大飢饉と家臣召し放ち)

組士(くみし)が多く暇を出された番方(ばんかた)では、元禄九年九月朔日に組の再編が行われた。,番方で召し放ちの影響が最もよく表われた留守居組の場合、四一人が暇を出されているが、これはそれまでの留守居組士
通史編2(近世1) (請作)

また、代官のみならず、一年作奉行が設置され、奉行には番方上士(本参、または手廻組)が多く選ばれている。
通史編3(近世2) (藩兵の整理)

彼らは番方の中核である旧御手廻組を一等銃隊とし、同格が一等銃隊次席、旧小姓組が一等銃隊隊外という具合に
通史編3(近世2) (信政の教養)

素行一門の人材登用の背景には、素行の助言のもと、これまでの番方の支配体制に対して行政官僚を優先する支配機構
通史編3(近世2) (改革開始以前の状況)

修武堂では総裁として家老西館宇膳(うぜん)が武芸引担方に任命され、以下番方(ばんかた)(軍事部門)の上士
通史編3(近世2) (戦局の展開と兵員の不足化)

たとえば、番方当主はわずかに一人であり、小普請・足軽層が一二四人とこれをカバーしてはいるものの、彼らの
通史編3(近世2) (政争の激化と第三次改革)

明治二年十月十日時「その他」、および明治三年十二月時「正権大属」の欄からわかるように、先に落選した津軽済の他にも、番方
通史編3(近世2) (第一次藩政改革と特色)

扶持給による町人・農民・雇いの者などを除けば、実に四四一に上る役職が存在し、役方(やくかた)(行政)・番方,そこで藩は銃隊員として広範に動員された番方以外の者を元の役職に復帰させ、少々の役職の整理統合と、緩やかな
通史編2(近世1) (正徳から天明にかけての大名課役)

門番の務めは、江戸城本丸・西丸などの内郭の諸門には幕府の番方、大手門・内桜田門・西丸大手門の大門三門や
通史編3(近世2) (軍制への戸惑いと浸透)

藩首脳部が奥羽列藩同盟参加に傾くのに対して、山崎所左衛門や副官白取数馬(しらとりかずま)ら番方上層部が
通史編2(近世1) (綱吉政権下における大名課役)

寛永年間から享保年間(一七一六~三六)にかけて徐々に整備されていったが、整備途上の段階においては、幕府の番方
通史編3(近世2) (農兵の組織)

同年七月から八月にかけて、農民に対する軍事訓練は軍政局から教授方や番方藩士が在地に派遣されて活発に行われ
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