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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) (御軍政局の発足と組織)

22 葛西太郎兵衛 〃 御使番 15両4人扶持 御馬廻番頭格武芸締方取扱 23 伊藤宇太郎 〃,御使番 70俵5人扶持 御手廻番頭格武芸締方取扱 24 喜多村弥平治 〃 御手廻番頭格 100石 御馬廻組,55俵4人扶持 御手廻組・御台所頭兼 27 薄田又三郎 〃 御馬廻番頭格 5人扶持勤料 御手廻組(,無足) 28 館山敏三郎 〃 御馬廻番頭格 100石 御小姓組 29 近藤栄三郎 〃 御馬廻番頭格,弘前藩の番方組織は大番頭→組頭→番頭(ばんかしら)→平士という階層制であり、ここからすると、山田・木村
通史編3(近世2) (礼服)

ながえ)奉行以上……長柄奉行とは長柄隊の頭で番方(ばんかた)の役職の一つ)、熨斗目半袴(寺社奉行~馬廻番頭,……馬廻番頭(うままわりばんがしら)は番方の役職の一つ)  享保二年(一七一七)(藩主在府)――熨斗目半袴,御目見以上)  文政十一年(一八二八)(藩主在国)――熨斗目長袴(長柄奉行以上)、 熨斗目麻裃(番頭,(ばんがしら)以上……番頭とは番方の役職の一つ)、木綿服麻袴(右以下)  右によれば、上級藩士に限られるが,元禄十年(一六九七)――熨斗目半袴(番頭(ばんがしら)以上) 享保二年――常服袴羽織(城中の諸番人)
通史編2(近世1) ((二)蝦夷地出兵の諸段階)

その内容は、異国船の万一の来航に備えるために番頭一組を箱館に派遣し、松前藩に加勢するというものであった,津軽弘前藩では、当初、「番頭一組」を寛政元年の先例にならって、番頭一騎以下総勢五〇〇人と見積もり、幕府,幕府の番頭に相当する士大将に山田剛太郎を任命し、そのもとに旗本隊・鉄炮隊・長柄隊などが組織され、藩の職制
通史編4(近・現代1) (和服と呉服商)

市内の呉服店にはまだ呉服の陳列所などはなく、店の構えは錦絵に見る「江戸駿河町の越後屋」という様式で、番頭,客の注文に応じて番頭が丁稚(でっち)に言いつけて、奧の蔵から反物を運び出させて見せたものであった。,番頭が丁稚を呼び、品物を触れたりすると、その呼び声にはみな特徴があり、価段はその店独自の片仮名符牒でつけてあった
通史編4(近・現代1) (遊郭の移転)

ここへは土場の町からの移転のほかに、番頭格の独立開店したものも多かった。
通史編3(近世2) (学官の職掌)

二八五を参照)、兵学学頭五人、紀伝学頭二人、天文暦学頭一人、法律学頭一人、数学頭一人、書学頭一人、馬廻番頭一人
通史編2(近世1) (弘前藩の副藩主)

が黒石四代寿世(ひさよ)となっており、また宗家一門の津軽直記(信英の弟信隆(のぶたか)の家系、書院大番頭兼参政
通史編3(近世2) (勤務の状況)

そのほかの武官として、同二ノ間へ御中小姓頭(おんちゅうこしょうがしら)・御歩行頭(おんかちがしら)・御手廻番頭,(ばんがしら)・御手廻三人が、続く三ノ間には御馬廻番頭・御馬廻三人が、この三ノ間東側の縁側に御歩行小頭
通史編3(近世2) (焼成について)

また火煙が立ちのぼることについてあらかじめ火消番頭や物頭へも連絡をとっているのは、火災との誤解を避け、
通史編3(近世2) (学風の変化)

また藩主寧親への集団直訴に踏み切った、享和の変の首謀者の一人御馬廻番頭森内左兵衛繁富の著述「復政談」も
通史編2(近世1) (異国船の領内来航)

物頭一手が六条之間村の浜先を、さらにその後詰めを勤める物頭一手が藤島村の浜先、弘前から派遣された一番手番頭一備,引き続き派遣された二番手番頭一備は平舘に赴き、その方面を固める手はずとなった。  
通史編3(近世2) (青森商社の設立)

新築の本局には藩からの役人が一人、青森の米金仲買一二人のうち二人が五日交替で詰め、通い番頭一人・手代二人
通史編3(近世2) (キリシタン改め)

藩士の場合は、御目見以上は寺社奉行へ直接提出し、組支配の者は番頭に判鑑を置き、組頭より寺社奉行へ提出した
通史編3(近世2) (二等銃隊の創出)

36 阿保勝之助 〃 〃 早道之者竜之助(40俵3人扶持) 弟 37 高藤六弥太 〃 〃 御手廻番頭富太郎,二等銃隊頭は四三人任命されており、その藩内役職の内訳は足軽頭六、御使番八、同格一、徒士頭格一、中小姓頭格三、番頭四
通史編2(近世1) (東蝦夷地直轄下の勤番体制)

同年十一月、江戸に帰った調査隊の報告を受けた幕府は、ロシアの蝦夷地進出に一層の危機感を持ち、翌十一年、書院番頭
通史編2(近世1) (「松前復領期」における蝦夷地派兵準備体制)

領内三厩に一〇〇人、さらに弘前城下に後詰人数を備え、三厩詰人数が渡海の際は、まず後詰のうち三〇騎一備(御番頭一手
通史編3(近世2) (戦局の展開と兵員の不足化)

これに対して弘前藩では、箱館異変の報に触れて渡海直前の大番頭木村繁四郎(杢之助(もくのすけ))の部隊を
通史編2(近世1) (領内海防と台場の構築)

島事件を契機に、津軽弘前藩は蝦夷地に兵を増派するとともに、五月二十四日には、青森へ馬廻組頭(表書院大番頭
通史編2(近世1) (貞享検地への影響)

もう一つ、たとえば検地奉行の太田茂左衛門が任じられた馬廻番頭の支配機構上の序列は、竿奉行の田村・対馬の
通史編2(近世1) (津軽人のみた開港場箱館)

魯僊は異国人と接触する機会の多い箱館の豪商山田屋の番頭忠七から異人についての知識を得たり、また、市中の
通史編3(近世2) (軍制への戸惑いと浸透)

出陣する際には、戦士一人につき私的従者が付き従って、いろいろな面倒をみるのが慣(なら)わしであり、大番頭
通史編2(近世1) (支配機構の整備)

手廻組五組・馬廻組七組を置き、また留守居組二組を創設し、それぞれにその組を支配する組頭とそのもとに置かれる番頭
通史編3(近世2) (二 藩主の日常生活)

今日番頭(ばんがしら)以上の藩士が登城し、多膳よりこのたびの参府の時節決定の祝儀が報告される。
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