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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編2(近世1) (異国船の領内来航)

図195.国日記の異国船出現記事 目録を見る 精細画像で見る  異国船出没の報が青森に伝わったのは,図196.異国船の図 目録を見る 精細画像で見る 図197.沖合に停泊する異国船  ,さて、異国船の様子をうかがうために、二十五日の朝、一艘の小舟に三人の者が乗り、異国船に漕ぎ寄せた。,すると異国船から招き上げられ、双方手真似(てまね)で意志疎通を試みた。,異国船の乗組員からは風向きが良くないため止まっているとの返答があった。 / 異国船の領内来航
通史編2(近世1) (異国船打払令の発令と津軽弘前藩)

異国船打払令の発令と津軽弘前藩 水野忠成を中心とする文政期の幕閣は、海防をゆるめ、その任に当たっていた,捕鯨船が日本周辺に現れ出したことで、幕府は対外政策の再検討を迫られ、文政八年(一八二五)二月十八日、異国船打払令,これは、全国いずれの浦方においても、異国船が接近した場合には、有無に及ばず打ち払い、異国人が上陸した場合,この異国船打払令発令と同時に、異国人との接触を禁じ、異国船渡来、または海上にて出会った場合の通報も併せて,この異国船打払令に津軽弘前藩がどのように対応したのかをみてみよう。 / 異国船打払令の発令と津軽弘前藩
通史編2(近世1) (津軽人のみた開港場箱館)

津軽人のみた開港場箱館 これまでみてきたように、津軽弘前藩は対岸の蝦夷地へ渡来する異国船の動きにも敏感,に反応せざるをえない立場にあり、また自領沿岸にも異国船がたびたび来航し、それに対する備えを固める必要もあるという,状況となって、津軽領の人々が、海防の任に当たる機会のある武士はもちろんのこと、一般の庶民に至るまで、異国船,に述べた津軽弘前藩の情勢を背景として、開港や異国文化に対して強烈な関心を持った魯僊が、箱館に来航した異国船,と、高く評価し、具体的には、政務が穏当で、課役を省き、米価を引き下げ、御救米を支給して貧民を援助し、異国船
通史編2(近世1) (幕末期の海防体制)

嘉永二年閏四月十二日付)によれば、平舘に置かれる陣屋は「仮陣屋」で、毎年三月中から九月中まで人数を備え、異国船,七月十日に再び牧野へ差し出された藩主順承名の届書(六月二十二日付)では、平舘陣屋には年々一〇〇人を派遣し、異国船渡来,さらにこの年には、異国船の沿岸接近を憂慮し、「沿海近傍之村落」へ藩士を数百戸移転させ屯田(とんでん)させるという,幕府老中水野忠邦(みずのただくに)が中心となって実施された天保の改革では、このころ中国で勃発したアヘン戦争や異国船
通史編2(近世1) (金木屋日記にみる対外危機)

また、翌二十三日条では、家中の者は皆ペリー来航の話でもちきりで、浦賀には七~八年前にも異国船が来航しており,さらに嘉永六年の大晦日では、江戸表の異国船騒動に関しての戯(ざ)れ唄が記載されているが、「一、阿部(老中阿部正弘,異国船の接近は藩の沿岸警備に直結するのであり、出兵には米がなくては多大な支障が出る。,列強の東洋侵略に対しても、清国の天子は敗北して北京から故地の満州に逃げ込んだが、我が国では神武をもって異国船
通史編2(近世1) (対外交易の実態)

同年二月には、又三郎は箱館の図を入手しており、弘前藩の千代ヶ岱(ちよがたい)陣屋や湾内の異国船も描いている,異国船はアメリカ・イギリス・ロシア・フランス各国のもので、ほかに広東(カントン)人も箱館に来航していると,廻船問屋滝屋(たきや)善五郎や藤林源右衛門などがその筆頭であり、彼らは万延元年(一八六〇)二月に、箱館の異国船
通史編3(近世2) (武芸奨励)

異国船が浦賀に渡来して緊迫した状況にもかかわらず、怠慢の者がいるが、剣術・槍術とも流儀にかかわらず面試合稽古
通史編2(近世1) (海防報告書にみる天保期の海防体制)

海防報告書にみる天保期の海防体制 天保十三年(一八四二)七月二十六日、幕府はそれまでとっていた異国船打払令,沿岸防備強化を命じ、さらに海防に動員した人数・兵器と今回の増加させた数を報告するよう、また、これまで領地沿岸に異国船,一方で、異国船が領内沿岸に姿をみせた場合には、城下からその場所へ早速一番手人数を派遣し、様子をみて二番手,さらに、異国船の監視に当たる遠見番所が、月屋村(つきやむら)(現西津軽郡深浦町)・長浜(ながはま)(現西津軽郡木造町
通史編2(近世1) (幕末期の借財)

しかし、藩はこの年上野寛永寺山門普請の上納金や、「異国船渡来海防」の経費がかさみ、とても支払える状態でなかった
通史編2(近世1) (民兵の登場)

民兵の登場 幕末、異国船が頻繁に日本沿岸に現れるようになると、各藩はこれまでの兵力や動員体制の改善を
通史編2(近世1) (旅行者のみた領内海防)

各一隊ありとしているのは、「松前非常」隊が三厩駐留の「松前御固人数」のこと、「海岸非常」隊が津軽領沿岸に異国船,さらに北上した松陰は竜飛崎で津軽海峡を異国船が自由に往来することを嘆いたのち、三月六日に平舘に到着した
通史編2(近世1) (南溜池の掘削と藩兵の訓練)

翌安政六年六月には南溜池において小屋掛けのうえ、家臣に水練の稽古をさせ、異国船を模した「ハッテーラ」という
通史編3(近世2) (改革開始以前の状況)

一八五〇)、弘前藩が海岸警備に関して幕府に提出した報告書には、「三月四日より七月四日迄御国元海岸䑺通候異国船之数凡三拾七
通史編2(近世1) (「松前復領期」における蝦夷地派兵準備体制)

松前復領期にも、異国船は蝦夷地にたびたび接近し、異国人が上陸した事例も存在する。
通史編2(近世1) (領内海防と台場の構築)

寛政七年(一七九五)五月九日、津軽弘前藩は、幕府に対して、異国船が領内沿岸に姿をみせた場合に、城下から
通史編3(近世2) (一一代順承の治世)

やロシアなどの西欧列強のアジア侵略に対しても、清国の天子は故地の満州に敗走したが、日本は神威をもって異国船
通史編3(近世2) (藩政後期)

このころ、津軽のみならず日本沿岸に異国船が出没し、社会不安が起こってきた。
通史編5(近・現代2) (伊東梅軒)

異国船がたびたび沿岸に現れ、上陸などするため、伊東は眼疾にかかわらず重用され、休養がならなかった。
通史編2(近世1) ((二)蝦夷地出兵の諸段階)

その内容は、異国船の万一の来航に備えるために番頭一組を箱館に派遣し、松前藩に加勢するというものであった
通史編2(近世1) (警備引き揚げとその背景)

また、文化四年(一八〇七)十二月、蝦夷地への異国船渡来により、領内街道の往来が激しくなり、出費が増大したことを
通史編2(近世1) (開国と箱館警備)

箱館支配に関する細目を定めた幕府老中下知状(げちじょう)(同前、下知状の日付は閏七月十五日付)によれば、異国船
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