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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) (百沢寺)

百沢寺 百沢寺(ひゃくたくじ)は、岩木山三所大権現の下居宮(おりいのみや)(現岩木山(いわきやま)神社 / 百沢寺
通史編3(近世2) (真言宗)

図194.真言宗本末関係図  藩では、最勝院・百沢寺・国上寺・橋雲寺・久渡寺を津軽における真言宗,これは三奉行の取り扱いとなり、翌年、容疑が晴れて歓果は百沢寺塔頭西福坊の住職になった。
通史編3(近世2) (出開帳)

百沢寺は、天明元年(一七八一)七月一日から九月二日まで、岩木山三所大権現の開帳を江戸回向院で行った(「,前年、百沢寺は塔頭(たっちゅう)の僧侶を江戸へ派遣し、幕府へ開帳を願い出た。,この時、藩庁から辻札に記す地名は「奥州合浦外浜百沢寺」とするよう指示があった。,奥州津軽 岩木山権現別当     新義真言宗 百沢寺 諸堂舎修復為助成、本地仏弥陀薬師観音之三像、,支払いを残したままでは回向院を引き払うことができず、百沢寺は藩邸へ三〇〇両の借財を申し入れたが、一度は
資料編3(近世編2) (●岩木山神社 岩木町大字百沢字寺沢)

岩木山神社 岩木町大字百沢字寺沢 (一)楼門--重要文化財  下居宮の別当寺であった真言宗寺院の百澤寺,転載) (二)拝殿--重要文化財  天正十七年(一五八九)正月の岩木山噴火による火災によって、百澤寺全山,が焼失した後、慶長八年(一六〇三)に津軽初代為信が百澤寺大堂(本堂)として起工し、三代信義の代にようやく,来迎壁、それに須弥壇や厨子が撤去されて開放的に使用されているが、これは、明治初期の「神仏分離令」によって百澤寺,(八)社務所--県重宝  百澤寺の本坊あるいは客殿とされていたもので、寛永六年(一六二九)に楼門とともに
通史編3(近世2) (下居宮)

寛治五年(一〇九一)、神託により北麓から一〇〇の沢を越えて南麓に移り百沢寺(ひゃくたくじ)と称した。,、本地垂迹(ほんじすいじゃく)説により中央の国常立命(くにとこたちのみこと)を阿弥陀如来とし、岩木山百沢寺光明院,神仏分離で百沢寺は廃寺となり、本尊と厨子、棟札は長勝寺、山頂の聖観音は専称院(現南津軽郡大鰐町)へ移された
通史編3(近世2) (大石明神)

「津軽一統志」は、本地垂迹説により十一面観音を祀り、別当を百沢寺、神職を長見筑後、正徳五年(一七一五)
通史編3(近世2) (藩政前期為信)

慶長六年(一六〇一)には、領民の信仰を集める岩木山三所大権現の別当百沢寺下居宮(ひゃくたくじおりいのみや,)(現岩木山(いわきやま)神社)を再建して寺領四〇〇石を寄進し、同九年には百沢寺大堂を再建した(資料近世,統一に当たって寺院勢力を利用して敵を攻略し、古くからこの地方の信仰を集めていた旧勢力でもある深沙宮・百沢寺
通史編3(近世2) (十一面観音堂)

「津軽一統志」は、別当を百沢寺、神職を長見勘ノ太夫、元禄四年(一六九一)の再興とする。
通史編3(近世2) (江戸時代前期の建築)

岩木山神社の楼門は、もともと百沢寺の山門として建てられたものであり、五間三戸の大規模な建築であり、量感豊,図235.岩木山神社楼門  長勝寺の三門は、先に挙げた百沢寺の山門ができたすぐ後の寛永六年(一六二九,岩木山神社の拝殿は、先にも述べたように、百沢寺大堂(本堂)として慶長八年(一六〇二)に為信が建てたものを,長勝寺の華御堂は、寛永十七年(一六四〇)百沢寺大堂と一緒に完成した。
通史編3(近世2) (大社の神仏分離)

図78.愛宕山橋雲寺お札  岩木三所大権現(現中津軽郡岩木町)は、百沢寺(ひゃくたくじ)が別当を,免じられ、岩木山山頂御室(おむろ)に安置されていた仏像と、麓の下居宮(おりいのみや)の仏像は百沢寺に預,また、下居宮神社安倍貞世が岩木山神社神主に任命され、広大な境内の林は岩木山神社・百沢寺・救聞持堂(ぐもんじどう
通史編3(近世2) (三代信義)

三代信義 信義は、寛永十五年(一六三八)の浪岡八幡宮に続いて、百沢寺大堂、外浜善知鳥宮(現善知鳥神社
通史編3(近世2) (二代信枚)

百沢寺に対しては山門の建立、本尊の開眼供養を行うほか、一二坊の屋敷への年貢免除を図らせた。,また、「百沢寺掟状」(資料近世1No.四七一)を出しているが、これは創建した虚空蔵(こくうぞう)菩薩を,五山は真言宗最勝院、百沢寺(ひゃくたくじ)、国上寺(こくじょうじ)(現南津軽郡碇ヶ関村)、橋雲寺(きょううんじ
通史編3(近世2) (江戸時代初期の建築)

しゃぞう)の寛永十七年(一六四〇)の棟札は新規建立に当たるのではなく、修理に相当するもので、『岩木山百沢寺光明縁起,元来は百沢寺の大堂としてあったものという。,この大堂は、天正十七年(一五九〇)正月の岩木山噴火による火災で百沢寺全山が焼失した後に、為信が建立した
通史編2(近世1) (由緒書から)

この嘉右衛門は、越前三国(みくに)の瀧谷寺(たきだんじ)の高僧を津軽に招き、橋雲寺(きょううんじ)・百沢寺
通史編2(近世1) (初代為信の動向)

為信はこれに先立ち、領内安定を願うため神社の建立を進めており、百沢寺下居宮(おりいのみや)(現岩木町百沢,百沢寺大堂(現岩木町百沢の岩木山神社)の完成を期して慶長八年(一六〇三)八月に為信が奉納した棟札も現存,百沢寺大堂は「二年にてなる」(同前No.一七二)とあるので、逆算すると慶長六年の工事開始となり、下居宮,図58.百沢寺大堂棟札  この後、為信は慶長八年十月九日に上洛をしているが、慶長七年九月から同八年八月
通史編1(古代・中世) (一 古代における北奥の宗教世界)

〉   寺社名 創建年次・創建者 別当(宗派名) 備考 (1) 岩木山三所大権現 延暦十五年 真言宗百沢寺,表2〈『津軽一統志』「神社 仏閣」に見る寺院〉   寺院名 宗教名 本寺 創立年次 備考 (1) 百沢寺,一方、百沢寺、最勝院、大円寺、そして高伯寺はいずれも移転を繰り返した寺院である。,具体的にいえば、百沢寺は『津軽一統志』が「往日有二山東腰内村一」(写真139)と伝えるように、もともとは,具体例を挙げると、「神社」の項でみた岩木山三所大権現の別当寺院である百沢寺は 別当寺院ハ者往日有二山
資料編3(近世編2) (はじめに)

また、寛永十五年(一六三八)ごろには、岩木町百澤寺の工事がなされており、この辺りまで、あちこちの寺社の
通史編3(近世2) (江戸時代末期の建築)

岩木山神社の社務所(しゃむしょ)は、百沢寺の本坊あるいは客殿とされていたもので、寛永六年(一六二九)に
通史編3(近世2) (瓦の利用)

跡地は現中津軽郡岩木町五代早稲田)・百沢寺(ひゃくたくじ)(現岩木山神社、中津軽郡岩木町)の宝蔵その他,②百沢寺では、元禄十一年(一六九八)八月二十三日条によると、神蔵および黒門・番所・腰懸(掛)・外繋(そとつなぎ
通史編1(古代・中世) (青森県内の田村麻呂伝説)

にゅうない)観音(現青森市)・海満寺(かいまんじ)観音(現小泊村)・春日内(はるひない)観音(現市浦村)・百沢寺
通史編3(近世2) (居開帳)

一七七九)、創建一〇〇〇年になることから、七代藩主津軽信寧の社参をどのように行うかが、家老代・目付と別当百沢寺,図25.岩木山百澤寺お札  貞享元年(一六八四)、藩主家の人々が古懸(こがけ)の不動尊(国上寺)
通史編3(近世2) (弘前市内寺院所蔵の彫刻・絵画)

またもとは寛永五年(一六二八)建立の百沢寺(ひゃくたくじ)山門に安置されていた五百羅漢像が、長勝寺蒼龍窟
通史編1(古代・中世) (二 北奥宗教界を彩る中世的寺社)

開山 開山年次 宗派 備考 岩木山神社 岩木町 坂上田村麻呂 延暦年中(七八二~八〇六) 別当寺院は百沢寺,百沢寺 岩木町 施暁 延暦十年(七九一) 真言宗 開基は坂上田村麻呂。
通史編2(近世1) (飢饉に至るまでの経緯)

藩は七月・八月と長勝寺や百沢寺(ひゃくたくじ)下居宮・高照(たかてる)神社・猿賀(さるか)神社で五穀豊穣
通史編3(近世2) (能楽)

された朱印状頂戴に対して、祝儀のための能を催し(『御用格』寛政本)、元禄十四年(一七〇一)五月六日には、百沢寺
資料編2(近世編1) (編年史料 (天正十七年~明暦二年))

●慶長八年(一六〇三)八月、津軽為信、百沢寺大堂へ棟札を奉納する。,●寛永五年(一六二八)七月、百沢寺山門建立。,●寛永六年(一六二九)四月二十七日、津軽信枚、百沢寺へ掟書を下す。,●寛永六年(一六二九)五月十八日、百沢寺の修理を命じ、虚空蔵堂を建立。,●寛永六年(一六二九)九月二十一日、津軽信枚、百沢寺へ願文を奉呈する。
通史編3(近世2) (宗教と交通統制の低下)

藩は寺社奉行を頂点として、仏教は薬王院(やくおういん)・百沢寺(ひゃくたくじ)・神宮寺(じんぐうじ)・
通史編2(近世1) (信義の襲封)

同十七年(一六四〇)六月には百沢寺大堂の再建をし(同前No.六一四)、翌十八年(一六四一)正月には古懸
通史編3(近世2) (江戸時代中期の建築)

中門は、その位置が変わっていて、百沢寺大堂(本堂 現拝殿)の前に建ち、文化財指定に遅れた経緯を持っている
通史編3(近世2) (金木屋の生活)

が午前十一時すぎ訪宅、百沢(ひゃくざわ)へ参詣後(高岡霊社(たかおかれいしゃ)・求聞寺(ぐもんじ)・百沢寺
通史編1(古代・中世) (二 津軽の修験道と神社)

岩木山神社が延暦年間(七八二~八〇六)、坂上田村麻呂を開基にして造立され、その別当寺院は百沢寺である。
通史編2(近世1) (津軽信枚の越後転封)

七、最勝院・長勝寺・百沢寺・貞昌寺に国替の通知を行い、末寺までも一緒に越後まで上るという寺は召し連れること
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